声に出して語られるせりふは「 」で,
心の中のつぶやきは〔 〕で示しています。
Pixiv,「小説家になろう」にも投稿しています
4月に開業したヒカルの「隠れ家的なクリニック」は,木曜日,金曜日,土曜日,日曜日の週4日,午後1時から7時まで診療している。受診者は,クリニック・アンジュから紹介された患者から始まって,ちょうど1階のバーと同じように,患者の友達,友達の友達・・・・というふうに少しずつ増えている。平日は仕事で受診できないので土曜日・日曜日診療している婦人科や精神科を探して来院する人もいる。そんな人たちの多くが1回限りで終わらず,リピーターになっている。〔やっぱり,ヒカルは医者として優秀なんだ〕とボクは勝手によろこんでいる。
7月には中古のポータブルエコー装置を買った。白黒画像が見えるだけの一番シンプルなタイプ。
「カラードップラーとか三次元画像なんてものが必要になれば,専門の医療機関に紹介すればいいんだからね」
とヒカルは屈託なく語る。
会計事務もヒカルがやっている。こんな極小規模のクリニックなら,発生する医療費は初診料か再診料,精神科なら通院精神療法,それに処方料と薬代くらい。エコー検査すればその料金,たまに血液検査もすればその料金が発生するくらい。診療のあと2~3分もあれば計算できるらしい。月初めのレセプト作成はボクも手伝う。このところ毎月50枚を越えるようになった。
「順調と言うべきでしょうね。こんな,何の宣伝もしていない開業したてのクリニックにしては。わたしの生活費くらいは稼げてるはずよ。だから,カヨコさん流の経営戦略によれば,ぜったいつぶれない。安心して」
もちろん,ボクは何も心配していない。
穏やかな毎日。仕事場ではそれぞれに心悩ませる小さな出来事はあるのだけど,ヒカルとボクの二人の暮らしは平穏そのもの。
木曜日と金曜日。ボクは池袋で仕事を終えて,途中で二人分の軽い夕食を買って1階に入り,すぐにコーヒーを淹れられるようお湯を沸かす。ポットが加熱から保温に切り替わってしばらくすると,ヒカルが降りてくる。ヒカルのためにコーヒー,ボクのためにカフェオレを作り,ボクはヒカルの隣に座る。二人,カウンターに並んで座って軽い夕食を済ませ,しばらく時を過ごしてから,歩いて3分くらいの部屋に戻る。
土曜日は,ボクたちが夕食を終えてくつろいでいる頃にお客さんがやって来る。ヒカルは,そのままバーに残っていることもあるし,先に部屋に戻ることもある。日曜日は,お客さんのいるバーにヒカルが入ってくる。夕食を摂り,そのまま残ることもあるし,先に帰ることもある。
エコー装置を買ってから,ときどきヒカルはボクにエコー検査のやり方を教えてくれる。だから,日曜日,1階のバーを開けるまでの間,2階の待合室で本を読みながら待機するようになった。たまに,血管の見えにくい患者さんを採血する時に呼ばれることもある。採血はまだボクの方がうまい。
「ロミーは池袋で練習する機会に恵まれているから,この差は永遠に縮まらないかもね」
月曜日,火曜日,水曜日は二人共通の休日。時には健診の仕事を引き受ける。その時は二人が同じ日になるよう調整する。健診の仕事がなければ,子供の頃のように,部屋で思い思いに本を読んだり,音楽を聴いたり,たまに空想にふけったり。時には,前の週に経験した症例について語り合うこともある。これは,子供の頃になかったこと。語り合うときの雰囲気は,子供時代に比べて真剣になった? いや,子供の頃だって,いろんなことを語り合う時,子供なりに真剣だったはず。
夕方,日が沈む頃に散歩に出かける。細い路地を抜けて本郷通りに出る。駒込駅前,小さな谷の底を走る山手線の線路の上に架かる橋。そこに立って夕焼けを眺める。目の下を走る電車。その向こうに池袋のいくつかの高層ビルのシルエット。空が日没直後の明るいオレンジ色から紅そして暗赤色に移るのを眺めている。時には三日月,そして宵の明星も。空の下の景色は違っているけど,まるで10年か20年タイムスリップしたような気になる。それから,近くの小公園まで歩くこともある。あるいは,夏至の頃,日の入りが遅い時季には,日が落ちる頃に近くの小公園を散歩し,それから本郷通りに戻って橋の上から夕焼け空を眺めることもある。そして,1階のバーに戻って夕食を摂る。それがいつの間にか習慣になった。
時にはヒカルがボクを化粧し,ドレスを着せて外に連れ出す。そんな時,ヒカルは決まってドレスシャツにネクタイを締めた凜々しいパンツスーツ姿。そうやって歩いていると,時おりすれ違う人が振り返る。
「ロミーを見てるのよ」
「ヒカルを見てるんだよ」
と言って笑いあう。
あれは,5月の末か6月の始め頃。近くの公園を歩いてから本郷通りの橋に立ち,夕焼け空を眺めていた。駒込駅と巣鴨駅の間に,桜並木と言うほどではないけど,桜の木が何本か並んで植えられている。ヒカルがやって来た頃に咲いた花が散り,薄黄緑の若葉が萌えだし,やがて濃い緑の葉群になった。その上の暮れかかる空に細い月が出ている。三日月よりも細い,二日月あるいは新月。ぼんやり眺めていると見落とすかもしれないくらい細い月。それでも,夕空が暗くなるにつれて,白い糸の切れ端のように見えていた月が輝きを増していく。ヒカルが,
「緑濃き 桜並木に 暮れる空」
とつぶやき,ボクの方を向いた。まるで「続けてごらん」と言うように。ちょっと考えて,ボクが
「輝きぞ増せ 蛾眉の新月」
と言い終わる間もなく,ヒカルはボクを抱き寄せ,髪の毛をクシャクシャかき回す。
「ロミー,ぴったり息があってるね・・・・まあ,たいした連歌じゃないけど」
そんなヒカルにボクは笑いかけ,
「ヒカル,この下の句に付ける別の上の句を考えて」
ヒカルはちょっと考えて
「無理」
と答えた。ボクたちは笑いあって夕食を買い,1階のバーに入った。
こんな幸せな日々がまた戻ってくるとは・・・・神を信じないボクも神に感謝したくなる。そして,〔いつまでも続きますように〕と祈りたくなる。
バーを始めて1年あまりが過ぎ,ボクなりのやり方ができてきた。
ボクはカウンターの中に座ってお客たちの会話を聞いている。カヨコさんみたいに自分から話しかけて会話を盛り上げるような芸当はできないし,できないことをやろうとも思わない。たまにボクに話が振られたら答えるけど,たいていは,はたで聞いてるだけ。でも,無視しているんじゃない。ちゃんと聞いている。会話に積極的に参加はしないけど,その場に加わってはいる,そんな立ち位置。
そうやって人の会話をはたで聞いていて思うのは,かなりの会話はかみ合っていないということ。お互いに,相手の言っていることとは無関係に,自分の言いたいことを話しているだけの会話とか,相手が自分の言ったことを誤解して返してきているのに,それに気づかずさっきの自分の話の続きを語っている会話とか。要するに,コミュニケーションが成立していない会話。それでも,お互いに楽しそうに語り合っている。
初めのうちは,そんなコミュニケーションのずれが気になったけど,だんだん慣れてきた。コミュニケーションが成り立っていなくても,それでお互いに会話を楽しめているのなら,それでいいじゃないと思うようになった。このことをヒカルに話したのは,木曜日か金曜日,仕事の後で二人でバーでくつろいでいる時のこと。
「実は,そうなのよ。人がほかの人と語り合うのは,何かの目的のため,例えば,医者どうしの話し合いなら診断を確定するとか,治療法を決めるとか,そういう目的のためのこともあるけど,実は,そんな目的はなくて,ただ語り合うこと,語り合って楽しい時間を過ごすことそのものが目的のことも多いのよね。そっちの方が多いんじゃないかしら。診断や治療法を決めるための話し合いなら,コミュニケーショがずれていては困るけど,ただ語り合うことが目的なら,コミュニケーショがちょっとばかりずれていても,問題にならないことが多いのよね」
「そうなんだよねえ」
ヒカルはふっと笑った。
「どうしたの?」
「ロミーも大人になったね」
「大人に?」
「うん,そういうことをいちいち気にせず,目くじら立てず,さらりと流せるのは,大人よ」
ボクはちょっと気恥ずかしい。
「まあ,コミュニケーショのずれのためにけんかになってしまいそうな時には間に入ってあげる方がいいけど,そんなこと,めったにないのよね。とりわけ,気心知れた友達どうしの間柄なら。多少のコミュニケーショギャップなんか関係なしに,お互いに楽しい時間を過ごせている。そして,楽しい時間を共有した体験そのものが,お互いの信頼関係を高めていく。余計な介入はしない方がいい」
「そうだね」
それから,ちょっと間をおいてヒカルが話を続ける。
「それにしても,お客どうしの会話を邪魔せず,自分では何も話さないけど,ちゃんと会話の場に参加しているという雰囲気をお客さんたちにも感じさせているって,すごいことよ」
「でも,意識的にそうしているわけじゃないんだよ。むしろ,ボクはじょうずに会話に入り込めないから,カヨコさんのような接客の才能はないから,聞き役に回ってるだけなんだ。それをお客さんも分かってくれているということだよ」
「だとしたら,けがの功名・・・・いや,そうじゃない。ロミーの持って生まれた素質,才能なのよ。人が楽しく話をしたくなる雰囲気を作る,自分は何も話さなくても,一緒にいる人たちの会話を弾ませる,それはすごい才能なのよ。あるいは人徳かな」
ボクは笑った。
「ヒカルはいつもそうだね。いつもそうだった。子供の頃から,いつもボクを褒めてくれた。『ガイジン』って馬鹿にされるボクの頭を撫でながら『ロミーはすごい美人なのよ』って言ってくれた,あの頃からずっと」
「だって,ほんとうだもん。わたしの言うとおりになったでしょう。ロミーが外を歩けば誰もが振り返るじゃない。ロミーの知性は医学部の誰もが認めたじゃない。わたしが言ったとおりでしょう?」
ヒカルが大まじめに語るのがなおさらおかしくて,ボクはまた笑った。そして「姉バカ」という言葉が思い浮かんだ。
「ロミー,今何を考えてるの? なんだかふだんと違う顔してる。お姉さんには正直に話しなさい」
「話しても,怒らない?」
「ロミーが何を話しても,わたしが怒るはずないじゃない」
「あのね,ふと『姉バカ』って言葉を思いついたんだ」
ヒカルは明るい声を出して笑う。
「それじゃあ,姉バカついでにもう1つ予言するよ。ロミーは名医になる」
「名医?」
「そうよ」
ヒカルは真面目な表情になっている。
「だって,患者が何でも遠慮なく話せる雰囲気を作り,話すべきことを話させ,それにきちんと耳を傾けるって,名医の条件よ」
8月の上旬,立秋の前後,まだ暑さの盛りだけど日が落ちるのは少しずつ早くなっている頃,ヒカルがボクに話しかけた。
「うちのすぐ近くにダンス教室があるの,知ってる?」
「ダンス教室?」
ボクは知らなかった。
「木造の一軒家じゃなくて,ビルの中だけどね」
ヒカルはずいぶん以前に知ってたらしい。ただ,日が暮れるのが早くなる今の時期まで待っていた。
「レッスンがない時間に二人でダンスするのにフロアを貸してほしいって頼んだら,最初は怪訝そうな顔されたけど,事情を説明したら納得してくれた。ただ,夕方以降はほとんどレッスンが入っていて,空き時間はほとんど昼間なのね。でも,日の高い時間帯に,いくら2~3分でも外を歩くのは危ないでしょう。一番遅い空き時間が火曜日の4時なの。今の時季になれば4時には日も傾いているから」
ともあれ,こんなわけで,ボクたちは翌週の火曜日にそのダンス教室に出かけた。教室で着替えるのは面倒だから,ダンス衣装を身につけて。実際に歩いてみると,両側に家が立ち並ぶ路地は,ほとんど日が当たらないから,ヒカルの心配は無用だったかもしれない。
通りに面したビルの5階。ドアホンを鳴らしてドアを開けると,40~50代くらいの女性が迎えてくれた。ボクは一瞬,高校時代にタイムスリップした気分になった。そんなボクの気持ちを分かっているのかいないのか,彼女はボクをじっと見つめ,
「ひょっとして,以前,ワンショルダードレスを着てこの辺を歩いていませんでした?」
問われたボクがドキマギしている間にヒカルが答えた。
「そうなんです。たまにあのドレスを着てこの辺を散歩してます。どこかで見られてたんですね」
彼女は今度はヒカルを見て
「ああ,あなたはエスコートしている男装の麗人でらっしゃいますね。今気がつきました」
こんな会話を交わしてから,ボクたちは1時間くらい踊った。講師らしい女性は次のレッスンの準備なのか事務作業なのか,いろいろ仕事をしているけど,たまにボクたちのダンスを見ている。やがて,5時からレッスンを予約しているらしい女の人が入ってきた。ヒカルと踊っていると,1時間なんてあっという間に過ぎてしまう。
「今日はありがとうございました。楽しかったです」
「わたしも,お二人のダンスを見ていて楽しかったですよ。またいらしてください」
という言葉に送られて教室を出る。エレベーターの中では,たった今過ぎた時の余韻に浸るように二人とも黙っていた。ビルを出て部屋に戻る途中,
「10年くらいかしら」
ヒカルがふとつぶやいた。
「?」
「初めてあのダンス教室で一緒に踊ってから,10年くらいよね」
「そうだね。ボクが高校1年生の秋,15歳の時だから,11年だね」
「11年たっても,ロミーはきれいだね。今の方があの頃よりもっときれいよ。『今咲き誇る』という感じかな,『望月の欠けたることもなし』という感じかな」
ボクは,そんなこと改めて言われて,ちょっと照れた。
「ヒカルだって・・・・」
ヒカルは笑った。
「ありがとう・・・・でも・・・・望月はいつか欠け始めるのよね」
ボクは驚いてヒカルを見る。ヒカルは苦笑いする。
「ダメダメ,そんな取り越し苦労しないで,今の幸せを満喫しなさい。わたしがしょっちゅう患者に話してることよ。人に説教しておいて,自分が同じことしてちゃ,世話ないわなね」
それからちょっと間を置いて,ふとつぶやいた。
「ロミーは26ね。この年頃で2歳の違いは微妙に大きいね」