8月の終わり頃,笠原さんがドア越しに声を掛けた。
「藤原先生,中尾院長からお電話です。保留にしてありますから,そちらの受話器を取ってください」
ボクはあわてて受話器を取った。
「はい,藤原です」
「ああ,藤原先生,申し訳ありません。仕事の用事ではなくて,私用なんです。先生への連絡方法をほかに思いつかなかったもので,そちらに電話いたしました。今,ちょっと時間よろしいですか?」
「ええ,かまいません」
「笠原さんから聞いたんですけど,先生,土曜日と日曜日,バーをやってらっしゃるんですね?」
「まあ,バーというほどのものではないのですが」
「日曜日は午後4時から開店?」
「はい」
「わたしが出向いてもいいのでしょうか? お客として」
「えっ?」
1階のバーは,その後も,お客が少しずつ増えている。全員が風俗嬢というわけではないけど,その人たちも含め,仕事のことを隠さずに気楽に語り合える雰囲気は作り上げたと思っている。中尾先生を拒む理由はないのだけど・・・・。
「それは,かまいませんが,1つ,ぜったい守ってほしいことがあります。風俗の仕事をしている人たちを不愉快にさせるような言動は慎んでください」
「それはもちろん,よく分かっています」
この日の電話はこれで終わった。
次の日曜日,いつものように3時過ぎに1階に入り,エアコンをつける。開店準備はごく簡単に10分くらいで終わる。部屋が冷えていくのを待つ間,ボクはカウンターの中の椅子に座って,のんびり本を読む。カウンター席に座ってもいいのだけど,いつの間にかここがボクの定位置になった。
4時きっかりにドアがノックされた。
「どうぞ,お入りください」
と声をかけたけど,ドアが開かないから,ボクはカウンターを回り込んでドアを開けた。中尾先生が立っていた。
「ああ,中尾先生」
「もう,よろしいですか?」
「はい。開店の時間ですから」
彼女はそっと遠慮がちに中に入る。
「バーですから,ノックなんかしないで入ってきていいんですよ」
「まあ,そうだとは思うんですが・・・・」
と話ながら,カウンターの一番手前の席に座った。
「初めてのところなので。それに藤原先生がオーナーだと聞いていたので」
「余計な遠慮は無用ですよ。それと,ここではわたしを・・・・」
「ロミーさんとお呼びするんですよね。笠原さんから聞いてます・・・・それなら,わたしも院長とか中尾先生じゃなくて,ヒロコとかヒロコさんとかヒロちゃんとか,名字で呼ぶなら中尾さんとか呼んでくれる方が,気楽でいいですね」
「かしこまりました。では,ヒロコさんとお呼びしましょう。ここではたいていファーストネームで呼び合ってますから・・・・それで,何をお飲みになりますか?」
「まず,ビールを」
ボクは,彼女の前にグラスを置き,ビールを注ぎ,瓶を置いた。
「あとは,ご自由に手酌でやってください」
「分かってます・・・・それにしても昼間から酒が飲めるというのは,いいですね。いや,ファミレスとかなら飲めるんですが,ああいう場所は・・・・こんな本格的なカウンターバーで昼間から酒が飲めるというのは,いいですね」
そう言って,彼女はグラス1杯のビールを一気に飲み干し,自分で注いでいる。
「酒がお好きなんですね」
「好きと言うか・・・・」
彼女の顔に微妙な笑いが浮かんだ。
「飲まずにいられないと言う方が正しいかも」
「なんだか,依存症みたいですね」
「立派なアルコール依存ですよ・・・・」
彼女はまた,あいまいな笑いを浮かべる。自嘲の笑い?
「ああ,でも,ここでベロベロに酔っ払って,ロミーさんに迷惑かけるようなことはしませんから,ご心配なく」
「まあ,そんなことは心配してませんが・・・・」
彼女は,自分で注いだ2杯目のビールをゆっくり飲んでいる。やがて,1本目が空になった。
「2本目を出しますか?」
「いや,ビールは1本でいい。あとは,ウィスキーをゆっくり飲んでます」
「水割り?」
「ストレート・・・・ご心配なく,ストレートでがぶ飲みはしないから」
ボクは笑いながら,ウィスキーのボトルと水と氷,ストレート用のグラスとチェスター用のグラスを置いた。彼女は言葉どおり,ゆっくり味わうように飲んでいる。それから,ポツリとボクに語りかけた。
「最初の日,『畑違いのクリニックに転職する理由は聞かないで』と言ったけど,その理由を話してもいいですか?」
「いいですよ」
「酔っ払って,病院で暴力沙汰を起こしてクビになったんです」
「えっ?」
「まあ,そう驚かないでください,と言うのは無理かな。驚きますよね,誰だって・・・・でも,仕事中じゃないんです。ちゃんと勤務時間は終わってました。言い訳にもならないけどね・・・・あの頃は,あの病院に勤めていた頃は,仕事が終わるとすぐに酒を飲まないではいられなかった。医局に酒を持ち込んで,仕事が終わると同時に飲んで,酔って帰っていた。それをある日,事務員さんに注意されたんです。いや,注意したんじゃない,心配して声をかけてくれたんです。でも,ついカッとなって殴りかかってしまった・・・・パワハラしまくってるボスを殴ったんなら勲章ですねけどね,何の関係もない,一番弱い立場の事務員さんに殴りかかるなんて,最低ですよ・・・・」
ボクは,うなだれた彼女を黙って見ている。こんな時,余計な言葉をかけない方がいいことくらいは,学習している。
「昔はここまでひどくなかった。あの病院に勤め始める前までは,酒は好きだけど,医局に持ち込むほどじゃなかった。わたしだけじゃないんですよ。あの病院で,うつ病とか心を壊して辞めていった医者もいます。だからと言って,酔って人を殴っていいわけじゃないけど・・・・今は大丈夫ですよ。診察室に酒を持ち込んだりしていないから。クリニック・アンジュはあの病院に比べれば天国みたいなものです。だから,ちゃんと診察室を出て飲み屋に入るまでは我慢できます。安心してください」
ここでまた,彼女は自嘲的な笑いを浮かべた。
「お耳汚しでしたね・・・・聞いてほしかったんだな,誰かに。それこそ,サラリーマンがバーのママにグチをこぼすように」
「ここはバーですから」
「ありがとう」
彼女は笑った。自嘲の影は薄れている。
「ヒロコさん,その話,面接の時に笠原さんになさったんですね?」
「はい。こういう重大な情報はきちんと話すべきでしょう」
「でも,まじめで誠実だと思いますよ。自分のマイナスの情報をきちんと話すのは。とりわけ面接の場で」
「ありがとうございます」
と言って,ちょっと間を置いて,
「ふじわ・・・・ロミーさん,この仕事に向いてるね・・・・あっ,いや,決して医者の仕事が向いてないというわけではないんです」
ボクは思わず笑った。
「そんな,ひねくれて受け取ったりしませんよ。素直に褒められたと思って喜びます。実際,うれしいんです。この仕事に向いてると言われるのは」
「ああ,それはよかった」
こんな話をしているうちに,顔なじみになっている3人連れのお客が入ってきた。彼女たちはヒロコさんをちらっと見て,奥の3つの椅子を占めた。そして,ふだんどおり楽しいおしゃべりを始めている。
そんな3人連れから1つ椅子を隔てて,ヒロコさんは静かにウィスキーを飲んでいる。初めのうちはきちんと背筋(せすじ)を伸ばしていた。やがて頬杖をつくようになった。そして,ふと思い出したように彼女が口を開いた。
「こういうカウンターバーはいいですね。ふだんは居酒屋みたいなところで飲んでるから」
「ああ,そうなんですか」
「カウンターバーで女が一人で飲んでると,男客から口説かれることがあって,それが面倒なんです」
「確かに」
ボクは千葉の“Romy”での出来事を思い出した。
やがて彼女は,前腕をカウンターに倒し,うつ伏すのではないけど,頬を手の甲の上に置き,グラスやボトルをぼんやり眺めながら,時おり頭を持ち上げてウィスキーを飲む。目が潤んでいるのは,酔ってきたからかな・・・・。目が合うと,言い訳するように,
「まだ,大丈夫ですよ。それなりに酔っているけど,ベロベロにはなってませんから」
「はい,心配してませんよ」
とボクが答えると,はにかむように笑った。
それからまたしばらく時間が過ぎて,3人連れが帰って行った。彼女たちを見送りながらヒロコさんは,
「ああ,もう3時間も居座ってるんですね。居心地がいいから・・・・そろそろおいとましないといけないけど,もうちょっといいですか?」
それを聞いてボクは彼女に話しかけた。
「なか・・・・ヒロコさん,申し訳ないのですが,席を移ってくれませんか。その一番端の席を空けてほしいんです」
「いいですよ」
と彼女は気安く席を移ってくれた。
それから間もなく,ドアが開いてヒカルが入ってきた。
「お疲れさま」
とボクは声をかける。びっくりしたように頭を上げたヒロコさんとヒカルが目を合わせる。
「ひょっとして,藤原先生のお姉様?」
「はい,そうです。ヒカルともうします」
ヒロコさんはきちんと上体を起こした。
「クリニック・アンジュの,一応院長をやってます,中尾ともうします。ここではヒロコです。笠原さんから聞いていましたが,ほんとうに噂どおりに美しい」
「ありがとうございます」
ヒカルは笑いながら,いつのまにか「指定席」になっている一番端の椅子に腰かける。
「美貌の姉弟ですね・・・・ただ,美しさの質は違っている。ふじわ,ロミーさんは・・・・」
「花のかんばせ,でしょう」
「そうです。花のように優雅で美しい。お姉様は,うまいたとえが思いつきませんが,凜々しい美しさです・・・・決して,酔っぱらいの戯れ言ではありません」
ヒロコさんの上体がゆらいでいる。そんな彼女にヒカルが声をかける。
「無理なさらないでください。カウンターに頬をついても何も悪いことはありません。ここはバーなんですから」
「ありがとうございます。では,お言葉に甘えて・・・・初対面でこんな酔態をさらして申し訳ありませんが」
と言って,ヒロコさんはもとの姿勢に戻った。ヒカルは笑みを漏らす。ボクはヒカルにコーヒーを淹れ,買っておいたサンドイッチを出す。ヒカルは静かに食べ始めた。ボクと目くばせするけど,声は出さない。ヒカルが食べ終わる頃,ヒロコさんが
「すみません。お二人の水入らずの時間を邪魔しているようです。帰ります」
と言って立ち上がった。心なしか足下が怪しい。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ちゃんと駅まで歩けます。駅に着けば,ちゃんと電車に乗れます。電車に乗れば,ちゃんと寝過ごさずに最寄りの駅で降りれます。大丈夫ですよ」
こう言いながら彼女はドアを開けて出て行った。ボクはカフェオレを作ってヒカルの隣に座る。
「院長は酒がお好きなようね」
ヒカルは笑いながら語る。ボクはヒカルに,彼女から今日聞いた話を聞かせる。聞いているうちにヒカルの笑顔が消えた。
「人間を破壊する病院・・・・あるのよね」
日曜日は,7時にはたいていほかのお客がいて,それなりに賑やか。そしてたいていのお客は,ヒロコさんと違って,ヒカルに遠慮することなく自分たちで楽しんでいる。だから,日曜日のこの時間帯にこんなに静かなのは珍しい。
「これから,もう1組くらい来るかな」
「かもね」
それから,中尾先生,ヒロコさんは毎週日曜日,判で押したように4時きっかりに現れた。話を聞くと,5分か10分くらい早めにやって来て,駒込駅のホームで時間を潰して来ているらしい。
「5分,10分くらい早くいらしてもいいんですよ」
「いえ,4時開店なんだから4時前に来るのはご迷惑です」
と譲らない。几帳面というか律儀な人らしい。
たいてい,最初にビールを1本飲み,それからウィスキーをストレートでゆっくり飲んでいく。初めのうちはきちんと背筋を伸ばしているけど,酔うにつれて頬杖をつき,やがて腕をカウンターに付け,その上に頬を乗せるようになる。それでも,だらしない感じはしない。あまりおしゃべりはしない。たまに,ボクに話しかけることがある。たとえば,壁に掛けてあるカヨコさんの写真のこととか。
あるいは,こんなことも;
「医者は恵まれているよね。こんなアル中でも仕事がある。もし医師免許持っていなかったら,今頃酒のボトルを抱えて道ばたで寝込んで凍死したか,車にひき殺されたかしているよ」
ボクは,《道ばたで寝込んで凍死》という言葉からピーターのことを思い出して,悲しくなった。
「ロミーさん,わたしのせりふ,お気に障りましたか? そんな顔なさって」
「・・・・あっ,いえ,そんなことはありません。ただ・・・・」
ボクは,ピーターの凍死から思考をそらせた。
「恵まれていると言うなら,ボクこそ幸運に恵まれた,恵まれすぎたくらいです」
「アルビノ症を背負っていても? それでも,自分の境遇を恵まれすぎたくらいだと思っているの?」
とヒロコさんは問いかけた。
「それはボクにとって不幸にならないんです。むしろそれさえ幸運だと思います。アルビノ症でなかったら,『男の子は元気に外で運動してなさい』と言われたかもしれないから」
こう答えたボクをヒロコさんはまじまじと見つめる。
「自分の不幸を嘆く人は掃いて捨てるほどいるけど,自分の幸せを認めることのできる人はめったにいません。意地を張って『わたしは幸せよ』と言い張る人はいるけど,本心から素直に『わたしは幸せ』と言う人はめったにいない。傍目には幸せそうな人たちでも,自分に足りないものを数え上げる。他人の不幸を見て『どうして,わたしでなくてあなたが?』と問う代りに,自分の不幸を数え上げて『なんでわたしだけが?』と不満をならすのが人の世のならいです。ロミーさんはほんとうに希有の人ですね」
まれに,ボクの方から話しかけることもある。たとえば,腱反射用のハンマーのこととか。
「クリニック・アンジュの診察室の腱反射用ハンマーはヒロコさんの持ち物ですよね?」
「ああ,あれは・・・・」
彼女は苦笑いした。
「まあ,神経内科医だった昔の形見のようなものです。あんなもの,必要ないんだけど,あると落ち着くというか,安心するというか・・・・」
「腱反射は得意なんですか?」
「得意だった・・・・」
彼女は過去形にして返事した。
「学生の頃から,うまかったんですよ・・・・膝蓋腱反射は,まあ素人でも出せます。上腕三頭筋反射も練習すれば誰でも出せるようになるでしょう。上腕二頭筋反射はちょっと難しい。腕撓骨筋反射とか手指屈筋反射とか下顎反射になると,これは玄人芸というか名人芸というか・・・・学生の頃,はまったんですよ。だって,最新の画像診断も血液検査もなしに,たんねんに病歴を聞き出し,身体診察し,腱反射を見れば,病変部位をほぼ正確に当てられるんですよ」
彼女は明るい笑顔を見せている。
「ボクも,学生の頃,はまりかけました」
それを聞いて彼女のはますます表情を明るくした。
「そうですよね。はまりますよね・・・・」
それから,彼女はふと真顔に戻った。
「バーで仕事の話をするのは野暮なことですが,今となっては,腱反射は仕事とは無縁だから,ここで話題にしてもいいでしょう」
そして,グラスに口をつける。ボクは,ふと尋ねた。
「もう,しないんですか,神経内科の仕事?」
「したくても,医局で酒飲んで暴れるようなアル中を雇ってくれる病院なんかありませんよ・・・・面接のたびにお断りの返事が来ました」
「・・・・ボクは,自分にとってマイナスのことを正直に話す誠実さを評価するけど・・・・」
「ロミーさんだけですよ,そんなふうに評価してくれるのは」
彼女は寂しげに笑い,グラスを口に付けた。
「話さないという選択肢はないんですか,ヒロコさんの中に? 『ボスのパワハラが辛くて辞めた』と説明しても納得してくれると思いますが」
「そんなウソをついてまで・・・・」
「ウソとは言い切れないと思いますよ」
「・・・・いいんです。今さら・・・・」
彼女は手に持ったグラスをぼんやり眺めながら語る。ボクは,それ以上彼女の心の中に踏み込むのを控えた。