暑くもない,寒くもない,秋の月曜日の朝,ボクは目が覚めたけどそのままベッドの中にいる。下段のヒカルが,ボクが目を覚ましたのに気づいて声をかける。
「ロミー,お腹が空いてる? それとも,しばらくこのままでもいい?」
「しばらく,こうしていたい」
「そうね,せっかくの休日の朝だもんね」
30分くらい,そうしていた。何も語ることなく,静かに,でも満ち足りた時間。ヒカルと静かな時を過ごすことの幸せ・・・・。
ヒカルの方が先に起き出した。
「ロミーも一緒にカフェオレを飲むなら作るよ」
「うん,ありがとう」
「どういたしまして。毎晩,わたしがコーヒーを淹れてもらってるんだから,休みの日くらい,わたしが・・・・」
そんなことを言いながら,ヒカルがキッチンに立っている。コーヒーとカフェオレができあがる頃,ボクも起きて椅子に座る。その前にヒカルが2つのカップを置いて,自分も座った。キッチンとユニットバス・トイレ,作り付けのクローゼット,二段ベッド,ベッドの下に収納された衣装ケース,そして4人掛けのテーブルに椅子が2つ。テーブルは読書机にもパソコン机にもなる。学生の頃と変わらない簡素な部屋。
「シンプルライフそのものね」
「うん。でも,ヒカルがいれば,それでいいんだ」
ヒカルはおかしそうに笑う。
「それって,ふつうに聞くとすごい愛の言葉よね。『キミがいるならそれだけでいい』・・・・」
ボクもつられて笑う。
「でも,本心だから」
「うん。もちろん,わたしもロミーがいればそれだけでいい」
それからゆっくり自分の飲み物を飲み終える頃,ヒカルがポツリとつぶやいた。
「人間関係もシンプルな方がいいね」
そしてふっと苦笑いした。
「ごめんね。仕事がらみの話よ」
「別にかまわないよ。ボクだって仕事の話をすることはあるし。遠慮なんかしないで」
「ありがとう」
そう言って,ヒカルは話し始めた。
「たいしたことじゃないの。人間関係もシンプルなら,好きなら好き,嫌いなら嫌い,どうでもいいならどうでもいい,損得勘定での付き合いならそれなりに,こんなふうに単純に割り切れるなら,人は幸せなのにね。世の中の悩みの半分は消えてしまうのにね」
ボクは,あいまいに笑う。
「ロミーにはピンとこないかな。ロミーは,まさにそんなふうに割り切って生きてるよね」
「うーん・・・・意識的にそう振る舞ってるわけじゃなくて,ボクは人の心の機微を探ったり,言葉の裏表を読んだりするのが苦手だから,そう割り切って振る舞うしかできないんだ。それに,ボクがこんなふうに生きて来れたのは,ヒカルがいるからだよ。ヒカルがボクを守ってくれているからだよ」
ヒカルは明るい笑みを浮かべる。
「ロミーの話はたいていそこに行き着くね。でも,わたしの力だけじゃないの。ロミー自身の力もあるのよ。力というか才能というか,もって生まれた気質というか・・・・」
それからまたちょっと間を置いて,ヒカルが話を続ける。
「恋愛だって,恋愛こそ,シンプルに割り切ればいいのよね。好きになったらさっさと告白すればいいの。告白できないままうじうじ悩み続けるなんて人生の時間の無駄遣いだし,それで心を病むなんて,心の無駄遣いよ。とまあ,こんなふうに語りかけることもあるよ,恋わずらいの患者たちに」
「でも,告白して拒否されて打ちのめされることもあるでしょう」
「それは,確かにその時は大打撃だけど,長い目で見れば,長い人生を通して見れば,一時のこと。むしろ,相手の気持ちをあれかこれか勝手に思い悩んで立ち止まっている方が人生の時間の損失よ。もっと根本的なことを言えば,失恋は,ずっとあとを引きずるような出来事じゃないの。『恋は女の命』みたいな価値観に洗脳されていなければ,失恋の痛手なんて,すぐに回復するよ。人生にはいろんな出来事がある。恋はそのうちの1つ。“One of them”なの。“One of them”程度の重要性はあるけど,“One of them”程度の重要性しかないの。まあ,世の女たちがみんなそういうふうに割り切れるようになれば,わたしのクリニックの受診者も半分以下に減ってしまうんだけど」
最後は冗談めかしたけど,ヒカルは本気で話している。ボクも自分が思っていることを本気で話した。
「ボクも恋に悩んだことはないけど,女の人を相手にするには,それはまずいんじゃないかな。女の人の悩みの半分が恋にからんでいるのだとしたら」
「わたしもそれに悩んだことはある」
ヒカルは話を引き取る。
「でも,割り切ることにしたの。悩んでいないのに悩んでいる振りをするのは不誠実だしね。今では開き直っているよ。恋に悩んでいる人に,恋に悩まない生き方を実例をもって示すのも意義があるだろうって」
「なるほど・・・・」
ボクは,いかにもヒカルらしい割り切り方に納得した。
この頃,ヒカルが開業して半年くらい経った頃,ボクたちは愛や恋そして性について何度か語り合うことがあった。ヒカルの仕事,婦人科と精神科が入り交じるような領域での仕事にとってそれは重要なテーマのようだった。半年ほどの臨床経験でも,ヒカルはそれを痛感していたのだろう・・・・ヒカルは,ボクと違って,世間とも交わり,世間の常識にもそれなりに付き合っていたから,もっと前から分かっていたかもしれない。それでも,実際に女性相手の精神科の仕事を専門にするようになって,もっと痛切に感じているのだろう。
ボクも,恋愛について以前から思っていた疑問をヒカルに話したことがある。
「以前,カヨコさんが歌うのを聞きながら思っていたんだけど,どうして,歌って,日本語の歌にしても,外国語の歌にしても,ほとんど恋の歌なんだろうね? 人生は恋だけじゃないのに」
ヒカルは吹き出した。
「いきなり究極の質問を投げつけるね。それは,わたしが訊きたいくらいだわ」
「ヒカルも答えを思いつかない?」
「うーん・・・・」
ヒカルは考え込む。
「結局,恋愛は性,生殖行為に結びついていて,それは動物としてのヒトの本能に根ざしているから,という説明になるのかなあ・・・・よく分からない。現実の人生において恋愛が占める比重よりも遥かに大きな比重を,文学や芸術において恋愛が占めている理由,何なんだろうね?・・・・」
こんな話の流れの中で,ボクはカヨコさんの歌を聞きながら思い浮かんだ疑問を思い出した。
「そういえば,カヨコさんが歌ってくれた歌の中に『愛はこんなに辛いものなら,わたし一人で生きていけない』という歌詞があったんだ。これ,おかしくない?」
「何が?」
「だって,愛が辛いものだと切実に実感したら,『もう愛なんか要らない,恋なんかしない,わたしはこれから一人で生きていく』って決心するものじゃない? 愛のつらさを実感しながら,一人じゃ生きていけないって,論理的に筋が通らないよ」
ヒカルはまた笑った。
「まあ,歌の文句に論理を要求してもねえ・・・・」
それから真顔に戻って,
「世の中には,誰かがそばにいてくれないとだめな人,一人では生きてられない人もたくさんいるの。そんな人は,恋も愛もたくさん経験して,辛い思いもいっぱいして,それでも誰かを愛さないと,誰かから愛されないと,だめなの。だから,ロミーが絡んだ歌詞を論理的に整理するなら,前後を入れ替えて『わたしは一人で生きていけないから,愛で辛いこともたくさん経験する』ということになるかな・・・・」
と話して,ちょっと間を置いて,静かな口調でつぶやいた。
「わたしも,そんな人に,そんな人にこそ,『でも,一人で生きていく覚悟を決める方が,人生は幸せになる可能性が高いし,恋愛だって,そういう覚悟を持っている方が,ほんとうにいい人と出会えるよ』と語ってあげたいけどね・・・・もちろん,ほんとうにすばらしい人,ロミーみたいな人と一緒にいるのは最高の幸せだけど,つまらない人間,ダメ男と一緒にいて苦労するくらいなら,一人で生きる方が幸せよ。マイナスよりはゼロの方が大きいんだから」
性に係わることも,もちろん話題になった。
「ロミーは今の仕事をしていると,セックスについていろいろ考えることがあるでしょう? そういう話はよく耳にするでしょう?」
「うーん・・・・」
ボクは返事に困った。
「彼女たちの相談は即物的だからねえ・・・・まあ,お仕事じゃなくてプライベートの関係で悩むことはあるみたいだけど,その種の相談はボクにはしないんだ」
こんなボクの返事が意外にヒカルに響いた。
「そうなのよ。即物的でシンプルならいいの。生殖の欲望を満たすためだけに交わるのなら,悩みなんかないのよね。それも,ほかの動物たちと同じように,年1回で済むならなおさら。ヒトって生き物は,なんで性欲や性交に余計な意味を盛り込んで,年から年中,性に振り回されているんだろうね・・・・精神科の仕事やってると,その手の悩みが多いの。セックス,性欲,性愛にからんだ悩み。より正確に言えば,性が絡んだ人間関係の悩み。女は特にそうかもしれない。まあ,男の精神科ってほとんど経験がないから正確な比較はできないけど・・・・」
「その種の悩みの相手をするのは嫌い?」
「嫌いじゃないけどね。まあ,そういう時は『セックスも性愛も性愛のパートナーも,人生の必需品じゃないからね』と語りかけることにしている。現代の常識に逆らうせりふだから,どこまで相手の心に響くか分からないけど,折に触れて語りかければ,少しは分かってくれるかも」
「それって,現代の常識に逆らうせりふなの?」
ボクは素朴な疑問を述べた。
「うん。現代では,セックスは幸せの源,セックスの喜びを知らない人は人生の最高の喜びを知らない,愛はセックスによって完成される,そんな物語が常識としてはびこっているから。『セックスなんか,どうでもいい』なんてことを公言すると・・・・」
「変わり者,変な人と思われる?」
「変な人,くらいで済めばいいけどね・・・・」
ヒカルはここで一息入れて話を続ける。
「へたしたら,精神的に成熟できていないとか,子供の頃のトラウマが原因で正常なセックスを受入れられないとか疑われて,精神科受診を勧められる」
「まさか」
ボクは驚いた。そんなボクを見てヒカルは笑う。
「まあ,そこまでいくのは極端な例だけど,ゼロじゃないの。実際,わたしのところにも,本人はセックスと無縁でいて何の不都合も感じていないのに,周りが『それはおかしい』と言い立てて『わたし,どこか病気なんでしょうか?』と言って受診してくる人はいるから」
「何だか,現代って,セックスに取り憑かれた社会みたいだね」
「そうかもしれない」
「そんな社会で仲間はずれにされずに生きていくには,『わたしはセックスが好きです』って触れて回らないといけないね」
「ああ,それが,そうとも言えないの・・・・男はかまわない。男はそう言ってもかまわない。自分の性欲をあからさまに語っても許される,時には称揚されることさえある。でも,女が同じことをすると,白い目で見られるね。地雷を踏むと言うか」
「じゃあ,どうすればいいの?」
「きわどい狭間を歩くのね。セックスに無関心ではないことを示しつつ,あからさまな関心は示さない。あるいは,露骨な話は心を許せる仲間内だけでする」
「それって,ダブルバインド,Yesと言ってもNoと言っても罰せられる状況じゃない? 実験心理学で神経症を作り出すのによく使われる状況じゃない?」
ヒカルはうなずく。
「それもあるから,『セックスも性愛も性愛のパートナーも,人生の必需品じゃないからね』と語るのよ。セックスなんて重大な問題じゃない,神経症になるほど悩む価値のあるものじゃないって・・・・なんとなく『荒野に呼ばわる』って気もするけどね」
「でも,ほんとうに悩み傷ついた人の心には響くかも」
「うん。たまに手ごたえを感じることはある。・・・・性に限ったことではないかもしれないけど,何かに深く傷ついている人がいるとして,その『何か』をその人と一緒に深く丹念に検討するのもその人を助ける1つの方法だと思うけど,その『何か』について,『それはほんとうは深く悩むほどのことではないの』と語りかけるのも,もう1つの方法じゃないかなあ」
こんなことを語り合ううちに,秋は深まっていく。
11月になって,ダンス教室の火曜日の4時からの時間帯にもレッスンが入ることになり,ボクたちはフロアを使えなくなった。その代わり月曜日の3時からの時間帯が空いたので,その時間に出かけることになった。秋分から1ヶ月半ほど過ぎ,この時間でもかなり日は傾いている。教室の人たちに言われて,時おりボクはワンショルダードレスを着て出向いた。ヒカルはもちろん「男装の麗人」のいでたちで。美しい衣装をまとってヒカルと踊るのは,ボクにとって至福の時。きっと,ヒカルにとっても。
この頃から,ギャラリーができ始めた。前の時間帯にレッスンを受けた人たちが居残ってボクたちのダンスを眺めたり,次の時間帯のレッスンを予約している人たちが早めにやって来たり。講師たちも何人かギャラリーに交じっていたり。
ボクたちはアドリブで踊る。前もってステップを決めておかなくても,二人の動きが食い違うことはない。一緒に踊っていると,ボクはごく自然にヒカルの意図が分かる。「分かる」と意識さえしないまま,ヒカルの意図にあわせてボクも動く。ヒカルがターンする。ボクも一緒にターンすべきなのか,ターンしない方がいいのか,考えることもなく,その場にふさわしいようにボクは動く。ヒカルがボクに向かって手を伸ばす。その手をボクの手で受け止めるべきなのか,そのまま宙に伸ばさせておくべきなのか,ボクは自然に無意識に選択できる。ヒカルがボクに近づく。ボクも近づくべきなのか,そして,二人の体が触れあったところで歩を止めるべきなのか,そのまま交差するよう進み続けるべきなのか,あるいは,ヒカルが近づくのに合わせて距離を保つようにボクはバックすべきなのか,一言も指示されなくても,ボクの体が自然に動く。もちろん,ヒカルがパートナーだからこそ,できること。ほかの人が相手ではできるはずもない。
ヒカルも同じように感じているみたい。ギャラリーに問われて「この子がパートナーだからできるんです。ほかの人と一緒にアドリブでこんなにきれいに踊れません」と答えていた。だから,時おりギャラリーから出される「ご一緒にいかが?」という申し出はすべて断っている。
ボクたちは踊る。ギャラリーの注目,賞賛,羨望,そして嫉妬さえ受け止めながら。ボクへの嫉妬ではない。ヒカルへの嫉妬。ボクは尋ねたことがある。
「ヒカル,嫉妬されているの,分かってる?」
「もちろん,分かってるわ・・・・気にしないでいいのよ。わたしにとっては『今さら』のことだから。もう10年以上も前からずっと嫉妬されてるんだから,慣れてるわ。当然でしょう。こんな類い希な麗人を,『花のかんばせ』を,独り占めしてるんだもの。嫉妬されない方が不思議よ」