母から手紙が届いたのは2月半ばだった。くだくだしいことは書いてなく,「わたしが会いに行きたい」と書かれていた。その返事に,日曜日はヒカルが仕事なので,祝日にぶつかる月曜日か火曜日に来てほしいと書き,
- お母さんのこと,怨んだりしていない。むしろ,仕事への情熱を抑えてわたしたちの世話をしてくれたことを感謝している -
と書き添えた。ボクたちの本心だから。
祝日にぶつかる3月下旬の月曜日のお昼頃,母はやって来た。駅に迎えに行くと書き送ったら,「ロミーは昼間に外に出ちゃ危険でしょう。わたしは住所と地図でちゃんと行き着けるから,大丈夫」と返事してきた。その返事のとおり,約束の日のお昼ごろ,ドアのチャイムが鳴った。ドアを開けると,母が立っている。3人,しばらく,といっても実際にはほんの数秒,黙って見つめあった。それから,母が部屋の中に入り,
「お昼,まだなんでしょう。買ってきたわ」
とパン屋さんの袋をヒカルに渡した。そして,
「15年ぶりね。一緒に暮らした歳月より,別れていた歳月の方が長いのね」
と言って,母はもう一度,ボクたちをまじまじと見つめた。ボクの方から声をかけた。
「お母さん,コーヒーかカフェオレ,どっちがいい?」
「じゃあ,コーヒーをお願い」
ボクがコーヒーを作っている間,母とヒカルが椅子に腰かけていた。コーヒーが出来上がると,母を座らせたまま,テーブルに母のコーヒーを置き,ボクたちはカップを手に持ち,ベッドに並んで座った。
「今でも,ほんとうに仲がいいのね」
「この世でただ一人の最愛の弟よ」
ヒカルの言葉に母は微笑んだ。でも,その微笑みに,なぜか寂しさが混じっているように思える。母はちょっと間を置いて切り出した。
「手紙にあんな風に書いてくれたけど,わたしはやっぱりヒカルとヒロミに済まないと思っている。一言だけ謝らせてね。
ごめんなさい」
母は頭を下げた。ヒカルもボクも,そんな母に何と返事していいか戸惑っている。
「お母さんも,お昼まだなら,おなかすいてるでしょう。一緒に食べましょう」
と言いながらヒカルは自分が最初にパン屋さんの袋から自分の食べたいものを手に取った。つられて,ボクも母も,それぞれ食べたいパンを取り出す。3人,沈黙しがちな昼食。15年ぶりの再会だけど,何を話していいか分からない。食べ終わり,
「後片付けはわたしがやる」
と言って,ヒカルが立ち上がった。
カップを洗いながら,ヒカルは母に問いかける。
「ダンスのこと,お父さんから聞いてる?」
「聞いてるわ。ヒカルとヒロミ,わたしのダンス衣装を着てダンスしてるんだってね」
「うん・・・・」
ヒカルは洗い物を終えて,ボクの隣に座る。
「わたしはドレスを着ることもあるし,パンツスーツのこともある。ロミーはいつもドレス姿よ」
「えっ?」
母は驚いた。ボクも驚いた。なぜ,この場でその話をするんだろう。父には伏せていることなのに。
「驚いた?」
「・・・・ええ,そりゃあ,もちろん・・・・」
「きれいよ。ロミーはドレスがとても似合う。わたしよりもずっと。だから,ダンスの時はいつもドレスを着せてるの。美しいよ,ロミーがドレスを着て踊る姿。誰もが目を見張るほど」
母は何と返事してよいか戸惑っている。ヒカルは構わず話し続ける。
「お母さんは,分かってくれると思うから,話すんだ。ロミーは,性別を超越した存在なの。男とか女とか,そんなことを突き抜けた存在なの」
ボクは,ヒカルを見つめる。母もヒカルを見つめている。それから,ボクの方に視線を移す。
「ヒロミは,自覚してるの?」
「ボク?」
突然話を振られて戸惑ったけど,この場で何も取り繕うことはない。
「超越というほどかどうか分からないけど,男らしさとか女らしさとか,そんなことを気にしたことはないよ。ボクはボクとして自然に振る舞ってるだけ。今のこの姿が,ボクの一番自然なありのままの姿だし,ドレスを着ても不自然だとは思わないよ」
母はボクの話をかみしめるようにうつむいている。そんな母にヒカルが話しかける。
「お母さんだって,若い頃,そんな指向を持ってたんじゃない? 男らしさとか女らしさとか,そんな枠組みを突き抜けたいと思っていたんじゃない?」
ヒカルはここでちょっと言葉を区切って,また話し始める。
「お母さん,ダンスでリード役が好きだったんだよね・・・・それと,わたしたちの名前。ヒカルとヒロミ。どっちも,男女両用,男でも女でも通用する名前よね。それなりの意図があって付けたんでしょう?」
母は微笑む。苦笑いも混じっているかも。
「鋭いね。あなたは子供の頃からそうだった・・・・そうね,若い頃はそう思っていた。『女だから』とか『女のくせに』と言われると,突っかかっていったくらいよ。人を励ます時,『男じゃないか!』みたいな言い方はぜったいしなかった。今もその気持ちはあるのよ。ただ・・・・あなたたち二人を産んで,自分の子供を心から愛するようになって,子供を産める体を持ち合わせたことを幸せと思った。女であることを感謝した・・・・母親であることと医者であることを両立できない自分が不甲斐なかったけど」
「お母さんは,十分頑張ったよ。過労で寝込むほど。お母さんはわたしたちにとっていい母親だったよ。十分にいい母親だったよ」
母は涙ぐんでいる。ちょっとしんみりした空気になったのを振り払うように,ヒカルが明るい声で沈黙を破る。
「実は,毎週月曜日の午後3時から,近くのダンス教室のフロアで踊っているの。お母さん,一緒に見に来ない?」
突然こんな話を振られて母は戸惑いながら
「行ってもいいの?」
と尋ねる。
「かまわないよ。けっこう,ギャラリーもいるんだ」
「おや・・・・そんなに上手なの?」
母の口調に快活さが戻ってくる。
「上手かどうかは何とも言えないけど,美しいことは保証できる。だって,わたしとロミーが踊るんだもの」
「相変わらず自信家ね,ヒカル」
これがきっかけで,場の雰囲気がほぐれた。そして,15年を隔てた親子の会話が始まった。ヒカルが母にいろんなことを尋ねる。母はボクたちのことを父から伝えられているけど,ボクたちは母のその後のことをあまり知らない。
そんな話をしているうちに3時近くになった。
「ロミー,着替えよう。今日はぜひ,あのワンショルダードレスにしなさい」
何の屈託もなく下着姿になってダンス衣装に着替え始めたボクたち。母は一瞬目をそらしたけど,何か吹っ切ったような表情になって,ボクたちを眺めている。ヒカルは当然「男装の麗人」スタイル。
「お母さん,すばらしいでしょう,ロミーのドレス」
母は深くうなずく。
「このドレスの来歴については,いつか話すね。それより,お母さんも着替えない? パンツスーツがもう1揃いあるから」
「入るかしら,今のわたしに」
そう言いながら,母はドレスシャツに袖を通し,パンツのウエストを締める。
「入った。感激だわ,20代の衣装が入るなんて」
ボクたちと一緒に教室のフロアに入った母はギャラリーの注目を集めたけど,母はそんな視線を気にもせず,ギャラリーに交じってボクたちのダンスを見ている。何曲目だろう,ルンバを踊る曲からジルバ風のアップテンポの曲に切り替わった時,母はつかつかとフロアの中心に歩み出て,
「ヒロミ,わたしと踊りましょう」
と腕を差し伸べた。ヒカルは一瞬びっくりしたけど,フッと笑って,ギャラリーの方に引っ込んだ。
母と踊るのは初めてなのに,なぜかヒカルと一緒の時のようにぴったり息が合う。彼女のリードでクルクル回転したり,彼女の腕の下をくぐり抜けたり,腕を組み肩を寄せ合って体を揺らしたり・・・・。1曲終わると,彼女は軽く会釈した。
「ジルバなんて,何十年ぶりだろう。ちゃんと体が覚えているのね」
と言いながら,ボクの腕を取って,ギャラリーに交じっているヒカルのところに歩く。
「はい,最愛の弟を戻すわよ。また二人で踊りなさい」
ヒカルはニコッと笑ってボクの腕を取る。サンバのリズムにあわせてステップを踏みながら,ボクたちはフロアの中心に進む。背後で,
「おとうと?」
「ロミーさん,男なの?」
「まさか。どう見ても女でしょう」
「そもそも,日本人だったの? 外人だと思ってた」
というささやきが広がっているけど,踊っているうちにそんな雑音は耳に入らなくなる。
やがて4時になった。いつものように,ボクたちは教室の出口に向かう。その時,誰かが
「あのー,ロミーさんは弟さんなの?」
と問いかけた。ヒカルは振り返って
「はい。2歳違い,正確には1歳半違いの弟です」
と答えた。そのキッパリした口調と表情は〔これ以上の質問は受け付けません〕と相手に,そしてほかのギャラリーにも,伝えているようだった。
エレベーターを出て,ボクはヒカルと母に話しかけた。
「二人とも似てるね。どっちも気が強い」
二人はボクを「こいつめ!」というような目つきで,でも笑みを浮かべて見つめる。ヒカルはボクの髪をクシャクシャした。
「まあ,親子だから似てるよね。むしろ,お母さんからどうしてロミーみたいな気立ての優しい子が生まれたんだろう」
今度は母がヒカルをにらむ。それから真顔に戻った。
「気が強くなったのよ。医者の世界で生きていくために・・・・」
「それを言うなら,わたしは,ロミーを守るために強くなったのよ」
こんなことを語り合いながら部屋に戻り,普段着に着替えた。それから,ヒカルの発案で母をバーに案内することになった。
ボクが先に入り,照明をつけ,母を招き入れた。母は部屋の中を見て,
「ほんとうに,小さなバーなのね」
と言って,すぐに目ざとくカヨコさんの写真を見つけた。
「ヒロミが着てたドレス・・・・」
ボクは,とりあえず二人にコーヒー,ボク用にカフェオレを作ってから,カヨコさんのことやこの建物のこと,そしてもちろんドレスのことを母に話した。話を聞き終えて母は
「何だか,『わらしべ長者』みたいな話ね。末期ガンのケアをしたお返しに建物を遺贈されたなんて」
「お母さん,その言い方はちょっと・・・・」
ヒカルが不服そうに言い返す。
「何より,ロミーが心を込めて献身的に優しくケアしてあげたからこそなのよ」
「もちろん,それは分かっている。ヒロミの優しさは誰も否定しないわ。ただ,世の中には末期ガンの知人・友人を献身的に優しく看取ってあげる人はヒロミだけじゃない。でもその人たちがみな家を遺贈してもらえるわけではないの。ヒロミの献身と優しさだけじゃなくて,幸運もあったの。それはちゃんと分かっておかないと」
ヒカルはなおも不服そうな顔をしているけど,ボクは母の言い分がもっともだと思った。
こんなちょっとした言い合いはあったけど,3人楽しく語り合い,母は6時頃に帰って行った。
「また,月曜日が祝日にぶつかったら来るわ。その前に,あなたたちが来てくれてもいいのよ」
「でも,日曜日は診療があるの」
「月曜日か火曜日の夕方,わたしの仕事が終わる頃,がんセンターの医局に来てくれればいいの。それからでもゆっくり夕食を摂りながらお話ができるでしょう。最終の新幹線に乗って帰れば大丈夫でしょう?」
母の仕事場を訪れたのはそれから1ヶ月ほど後のこと。母は「医局」と言ってたけど,実際は「血液内科長室」だった。ドアをノックすると,
「とうぞ」
という母の声がした。ドアを開くと,机に向かって仕事していた顔を上げ,
「ああ,来てくれたのね。15分くらい待ってて。仕事を片付けるから」
そう言って,母は事務的な仕事をテキパキと片付けている。ちょうど15分経った頃,仕事を終え,机の上を整理して,
「お待たせ」
と言って立ち上がった。そして,部屋を出て駐車場まで連れて行く。
「お母さん,運転できるんだ」
母はおかしそうに笑った。
「そりゃあ,車の運転くらいできるわ。田舎だと,車がないと暮らしていけないから・・・・あなたたちは,できないの?」
ボクたちはそろって首を振る。
「二人とも,『街の子』ね」
母はまた笑いながら,ボクたちを後部座席に乗せて発進した。
「ここで一番高級なレストランを予約してる。まあ,一番高級と言ってもたかがしれてるけどね」
と言って連れて行ってくれたレストランは思っていたよりずっと高級だった。
「お母さん,大丈夫? こんな高級そうなレストラン・・・・」
「たまに奮発するくらいの給料はもらっているから,安心して」
母は笑顔を見せ,それからまじめな表情になった。
「ヒカルやヒロミの中学・高校時代,何もしてあげられなかったから,せめて今になって精一杯かわいがって埋め合わせしたいの。わたしの気まぐれ,わがままよ。付き合ってちょうだい」
こうやって,母との関係が復活し,2~3ヶ月に1回くらい,お互いを尋ねあうようになった。母が駒込に来た日は,ダンスをするのも恒例になった。
歳が明けて,元日,父のもとに帰省すると,母もいた。
「関東に3人,九州に1人なら,来年からわたしが関東に出向くことにしようか」
という父の提案は3人が反対した。
「年1回,ここに戻ってきたいの」
というヒカルの言葉が,3人の気持ちを代弁している。楽しい思い出ばかりではないけど,それでもやっぱり懐かしい土地。