ロミーVer.1:第3部-回帰   作:松村順

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第6話

 「それから5年ほどの歳月が穏やかに過ぎた」と語っていいのだろうか。もちろん,この間,ささやかな出来事,アクシデント,トラブルはあった。でもそれらは,〔いつまでも続きますように〕と祈りたくなった幸せを邪魔するものではない。そして幸せは,日常のささやかな出来事に宿っている。コーヒーを飲みながら交わす微笑み,肩を寄せた時にただようヒカルの髪の匂い,並んで眺める夕焼け空・・・・。あるいは,時おりの母の訪問,母のもとへの訪問,年1回お正月の九州での一家4人の集まり・・・・わざわざ書き留めるほどのことではない。幸せは,平凡なものなのだ。おとぎ話が「それから二人は末永く幸せに暮らしました」で終わり,幸せな暮らしの中身をくだくだしく書かないように。

 

 ヒカルの35歳の誕生日が過ぎた。「望月はいつか欠け始める」という自分自身の言葉を裏切って,その凜々しい美貌は衰えない。ダンスは続けている。教室の都合で曜日が変わることはあるけど,週1回,1時間。ギャラリーも増えることはあっても減ることはない。

 こうして夏が過ぎ,秋が深まる頃,最初の異変が生じた・・・・「最初の異変」,今から振り返ればそれと分かる。その時はただの突発的なアクシデントだった。

 ボクたちは教室のフロアで踊っていた。突然,ヒカルの動きが止まった。

「どうしたの?」

「脚が動かない」

ヒカルはそう言って,上体を折り,右脚の膝からふくらはぎあたりをさすっている。教室全体の空気が固まった。どれくらいそうしていただろう。長く感じたけど,実際には10秒か20秒くらい。ヒカルは上体を起こし,右脚を振り,

「大丈夫よ」

と言って,何事もなかったようにまた踊り始めた。もちろん,ボクも一緒に。

 それから1ヶ月ほどして,クリスマスの近い木曜日の夜。ボクは仕事を終えてバーに入り,コーヒーの準備をして待っている。やがてヒカルが仕事を終えて降りてくる。

「お疲れさま」

と言ってコーヒーとカフェオレを飲み終える頃,ヒカルがカップをカウンターに落とした。カップは割れなかったし,コーヒーもほとんど残っていなかったから,ヒカルとボクの服が汚れることもなかった。ボクは手早くカウンターを拭いて,

「どうしたの?」

と尋ねた。ヒカルは唇をかみしめて自分の左手を見ている。それからしばらく間を置いて

「急に手から力が抜けて動かなくなった。もう大丈夫よ」

そう言って,カップを持っていた左手の掌を開いたり閉じたりして見せた。

 3回目の異変はもう少し深刻だった。歳が明けて2月の休日の朝。その日はボクが先にベッドから出て,コーヒーを淹れていた。すると,起き出したヒカルが突然ボクを呼んだ。ボクが近づくと,ボクの肩をつかんで引き寄せ,それから両手でボクの頬を包むようにして顔を近づけ,じっとボクを見ている。そして,

「霞んでいるの。ロミーの美しい顔が霞んでいるの。ほかのものもみな霞んで見えるの」

ふだんのヒカルに似ず,泣き出しそうな声。ボクたちはあわてて近くの眼科を探し,受診した。

 いくつか検査してもらった結果

「角膜から網膜までの眼球には異常がありません。視神経の問題でしょう。あるいは,視覚中枢の問題かも。いずれにしても一般の眼科の範囲を超えています。神経眼科という領域があるのですが,その専門医はごくわずかです。むしろ,神経内科か脳外科を受診なさる方がいいと思います」

ということだった。

 夜になってもヒカルの視界は霞んだままだったけど,翌朝には,仕事に差し支えない程度には晴れた。そして3日もするうちにすっかり回復した。そうは言っても,今回のエピソードは深刻だった。なるべく早く神経内科か脳外科を受診しようと思っているうちに日曜日になった。

 いつものように4時きっかりにヒロコさんがやって来た。

「ヒロコさん,ちょっとの間だけ,中尾先生としてご相談したいことがあります」

「それじゃあ,酔っぱらう前に聞きましょう」

そう言って彼女は,口にもって行きかけたグラスを置いた。ボクはヒカルの視力障害のエピソードを語った。

「・・・・一過性の視神経障害,それだけでは何とも・・・・とりあえず,脳外科か神経内科でCTかMRI,さらに必要であれば誘発電位などの電気生理学検査・・・・いや,その前に」

彼女は真剣な表情になった。

「病歴,これまでの症状ですね。その目の症状が出現する前に何かほかの症状がなかったですか? 神経がらみかもしれないような症状」

 そう言われて,ボクはコーヒーカップを落としたエピソードとダンスの時に脚が動かなくなったエピソードを思い出した。それを彼女に説明しながら,ボクの頭の中に1つの病名が思い浮かんだ。そんなボクの表情の変化を,彼女は見逃さない。

「ロミーさん,自分で診断を見つけたね」

「・・・・ひょっとして,多発性硬化症?」

「うん。時間的にバラバラに出現した脚のマヒ,手のマヒ,視覚障害,これらを1つの病気で説明しようと思うなら,それが真っ先に思い浮かぶね。時間的多発性と空間的多発性。30代の女性というのも,疫学データに合致している。まあともかく,それなりの検査のできる病院を受診して,診断を確定することです。未確定なまま不安でいるより,確定させる方がいいでしょう。たとえそれが悪いニュースであるにしても」

そう言って,彼女はグラスを口に付け,一気にビールを飲み干した。

「それに,すごく悪いニュースというわけでもないですよ。MS(Multiple Sclerosis=多発性硬化症)は,ガンではありませんから。症状が現われた時にステロイドパルスなどでしのいでいれば,五体満足とは言わないけど,それなりの不自由は抱えながらだけど,それなりのパフォーマンスを保ちながら,健常者と同じくらいの寿命も期待できますから」

「・・・・でも,10人か20人に1人くらいは急速進行型ですよね」

こんなことをつぶやくボクに,ヒロコさんは首を振った。

「タイプはある程度経過を追ってからでないと確定できません。確定できないことを心配するのは,心の無駄遣いですよ」

 

 翌々日,ヒカルは神経内科を受診し,MRI所見と病歴から多発性硬化症と診断された。帰り道,ヒカルはつぶやいた。

「やっぱりね・・・・そうじゃないかと思っていた。ヒロコさん,中尾先生に相談する前から」

「えっ?」

ボクは,そう語るヒカルの横顔を見つめる。

「去年の秋,ダンスの最中に足が動かなくなったけど,その前から,去年の初め頃から,何となく変だったの。手足が動かないわけじゃないけど,何となく動かしにくい感じとか,感覚がしびれるような感じがたまにあったから。その時は深く考えなかったけど,ダンスしてて足が止まった時,そしてコーヒーカップを落とした時,『ひょっとしたら』と思った」

 ここでヒカルはちょっと話を区切り,それから冗談めかした口調で付け加えた。

「ステロイドパルスか・・・・望月なんてこと言ってたら,ほんとうにムーンフェイスになるかもね」

「パルス療法なら,その副作用は出ないことも多いみたいだよ。仮にそうなったとしても,ボクは・・・・」

 言葉に詰まったボクの話は聞かないかのように,ヒカルは自分の話を続ける。

「仕事,どうしようか・・・・目がかすんでは仕事にならないし,手が動かなくても仕事にならないよね。前もって,来週の月曜日から目がかすむとか分かっているなら,予約を入れないとか休診のお知らせをすることもできるけど,そんな都合良く症状が予測できるわけはないからね。朝起きて,突然目がかすんでいて,その日の診療を取りやめるというのは,患者にとって迷惑よね」

「それは・・・・」

ボクも対応策を思いつかない。

 結局,ヒカルは自分で解決策を見つけ出した。ヒカルは自分の状況を患者一人一人に説明した。これから,当日になって突然休診するかもしれないこと。それでは困るという人はぜひ転医してほしいと。結局,3分の1くらいの患者が転医した。逆に言えば,3分の2はヒカルのもとに残った。それを聞いて,ボクはうれしかった。ただ,この解決策もあまり長くは続けられなかった。ヒカルは急速進行型だった。発作の間隔はしだいに短くなり,急性発作をステロイドパルスでしのいで寛解させても,完全に無症状には戻らず,手足の軽いマヒが残るようになった。さらに,それが「軽い」マヒでは済まなくなった。

 ダンスは夏の初めに諦めた。去年の秋の最初のエピソードから,何度か同じようなエピソードがあった。そのたびにギャラリーがざわつくけど,ヒカルに問いただす人はいなかった。その日,ダンスを終えたヒカルはギャラリーの人たちに告げた。

「わたしは今日でダンスをやめます。体のマヒが進んでいるので」

ギャラリーはどよめいた。その中の一人が,

「ロミーさんは?」

と問うたので,ボクは

「わたしもやめます」

と答えた。ギャラリーのざわめきが大きくなる。誰かが意を決するように

「わたしと踊っていただけませんか?」

と声を挙げた。ボクは穏やかに笑みを浮かべて首を振った。

 それから,時おりボクは部屋で踊るようになった。テーブルを部屋の隅に寄せて,椅子に座っているヒカルの前で,まるでもう一人の仮想のヒカルをパートナーとして一緒に踊っているかのように,踊ってみせる。ただ一人の観客は1曲終わるごとに拍手する。ボクは,仮想のパートナーの手を取ってお辞儀をする。

 

 診療は,ダンスと違って,多少は手足が不自由でも続けられる。それでも,年が明けて間もない1月半ば,ヒカルはボクに切り出した。

「ロミー,わたしの診療の仕事を引き継いでちょうだい」

「・・・・できるかな・・・・」

「できるよ。ロミーは名医になるよ。ロミーは『ボクには人の心が分からない』って言うけど,それが分かっているのは立派よ。人の心が分かるとうぬぼれて,人の心に土足で踏み込むような医者より,ずっと立派よ。それに,心を癒やすのに,必ずしも心が分かる必要はない・・・・ロミーは天使の話,覚えてる?」

「天使の話?」

「ピーターのことが話題になった時,そんなことを話したでしょう『天使は不幸を知らなくても不幸な人間を救うことができる』って」

「ああ・・・・」

ボクは思い出した。

「それと同じよ。むしろ,心に振り回されている人,心の暴走に振り回されている人を助けるには,『心のことは分からない』と言って心から一歩身を引く方がいいくらいよ。そして,心のことで悩まない生き方の実例を見せてあげる方がいい」

そう言われても,ボクは自信がない。

「ヒカル,しばらくは一緒に診察して。具合のいい日だけでも。具合が悪い日は部屋で休んでいていいから。それと,池袋の仕事と重なるから,診療日をずらさないといけない」

 結局,3月から診療日を日曜日と月曜日に変更することになり,2月のうちにヒカルが患者に事情を説明することになった。半分くらいの患者はほかのクリニックに転医した。

「転医した人はきっと後悔するよ。だって,ロミーは名医だもん」

こんなことをまじめな顔で語るヒカルは,その日は左手がマヒしていたので,右手でカップを持ってコーヒーを飲んでいる。

「ロミーがバーから身を引くのも残念だね。『ロミーのバー』だったのにね」

とヒカルが語るとおり,ボクはバーから身を引いた。日曜日,月曜日にヒロミの代わりに診療をするようになって,クリニック・アンジュの仕事はそれまでどおり週3日やっていて,さらにバーの仕事を引き受けるのは負担が重かった。ヒカルのケアのための時間もほしかった。幸いなことに,なじみのお客の中から,「わたしが引き継いでもいい」と言ってくれる人が何人かいたので,その人たちが曜日ごとにママ役を分担して週4日バーを開けてくれることになった。ヒカルも,体調が良い日は,杖をついてボクと一緒に出かけることもある。バーに顔を出せば,みんな歓迎してくれた。

 3月の間は,体の状態が許す限りヒカルも診察室に出向いてくれた。4月になると,完全に診療から身を引いた。開業してから8年目。

 そして,5月の上旬,あのエピソードが起きた。

 

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