ベランダから見上げる空の藍色は深く、銀の星が揺れている。日付が変わらんとするこの時間、ネオンも静まった東京の空は少しだけ、故郷の空と似ている。手摺に腕をついておれは耳を澄ませた。冷えて張りつめた空気のぱりぱりと鳴るなかを、蹄の音が近づいてくる。日が暮れてオレンジに青に黒にと色を変えていく日本の空を駈けつづけた蹄だ。サンタクロースの少女イヴとその相棒のトナカイ・ブリッツェンは、低い空に星のような光点と現れ、吐いた息の白さが消えるより先に目の前へ馳せてきた。
「おかえり、イヴ、ブリッツェン」
「ただいまです、プロデューサーさん」
ここはおれの家で、イヴは寮暮らし。でもまあ、迎える言葉は“おかえり”がいいのだろう。大きい袋一つだけのソリから飛び降りるイヴを抱きとめる。疲労困憊の身体はやけに重く、おれはよろけかけて踏みとどまった。ブリッツェンから外したソリをベランダに置いて、暖房のきいた部屋におれは二人を上がらせた。
「無事に配れたみたいだね」
「はい~。みんなぐっすり眠ってて、かわいかったですよぉ」
「ブリッツェンもおつかれ。いま取り分けるから待っててな」
ずんぐり丸いトナカイは右の前脚と鼻水とで元気に返事をする。イヴの嬉しそうな声にも背中を押されておれはとろ火にかけていた鍋をおろした。中身はホワイトシチュウだ。サンタクロースへのお礼やねぎらいとして、子供たちはミルクとクッキーだとかウイスキーだとかを枕元に用意しておくらしい。おれもひとつかわいい担当アイドルの本業に報いようと、本人からリクエストを訊いてみた。なるべく本格的なレシピを検索して、バターやら生クリームやら牛乳やら、せっかくだから肉はラムを買ってきて、鍋いっぱいになったのがこれだ。
テーブルについた二人に深めの平皿でたっぷりとよそい、シャンメリーのグラスは三つ。蛍光灯を少し弱めて、小さいこたつの端で三人寄って座る。手にしたグラスのふちを触れ合わせると、くぐもった、高い音がした。
「メリークリスマス、イヴ、ブリッツェン」
「メリークリスマス、プロデューサーさん、ブリッツェンも~」
ブリッツェンはさすがに人語は発さないが、短く一つ鳴いてグラスを高く挙げた。……まだ一二月二四日なのにメリークリスマス? そもそもイブに来るサンタクロースの挨拶がなぜ“メリークリスマス”? クリスマスは一二月二五日では? ……そんな疑問があるかもしれないのでかんたんに説明しておく。いまはもうクリスマスだ。キリスト教会が宗教行事を定めて使う暦・教会暦は、じつはグレゴリオ暦と少しだけずれている。本当に少しだ。教会暦の日付は日没で切り替わるのだ。グレゴリオ暦一二月二四日の日没で、教会暦一二月二四日は終わる。だからいまは教会暦一二月二五日、クリスマス。そしてサンタクロースが活躍するクリスマスイブとはクリスマスの夜、つまり日が沈んで教会暦一二月二五日になってから深夜〇時になるまでのこと。それがグレゴリオ暦一二月二四日の日暮れからメリークリスマスの挨拶が使える理由である。
「お味はどうですかサンタさん」
問う前からイヴは、大きい木の匙を白い皿と桜色の唇とに何往復もさせている。ややあってからイヴは深く息をつくと、満面の笑みで答えた。
「とってもおいしいです~。お肉も玉ねぎも甘くって、毎日でも食べられますよ~、ねえ、ブリッツェン」
荒い鼻息とともにブリッツェンは空になった皿を差し出してきた。こっちもだいぶお気に召したらしい。まだ半分以上を残す鍋から、またなみなみと注いだ。
「毎日は勘弁してもらうけど、そりゃあよかった。コショウは大丈夫? からくない?」
ちょっといれすぎた気がして訊ねると、シャンメリーの炭酸で目の端に浮かんだ涙をイヴは指ではじく。
「ぽかぽかします~」
「ありがとう」
撫でた頭は六時間近く休まずプレゼントを届けつづけた、その汗で少し蒸れている。
「ほんと、よく働いたね。おつかれさま。……おかわりは」
「うふふ、お願いします~」
イヴの二杯めのついでに、おれもお椀に少し取った。コショウの風味が、気にしていたとおりやっぱり少し強い気がする。二杯めをゆっくり味わうイヴの横顔に我慢や遠慮の翳は見えない。ブリッツェンは両の前脚でもって皿を持ち上げて飲んでいる。皿まで食べそうな勢いだ。
「ありがとう、二人とも」
つぶやくと揃って首を傾げる。イヴは頬をゆるめてまたひとすくい色づいた唇に運び、ブリッツェンは空の皿をずいと進めてくる。皿を取ると、空のグラスが倒れた。シチュウをすくう手を止めて、見ればブリッツェンがこたつに突っ伏している。
「あら~、ブリッツェン、寝ちゃった~?」
鼻提灯をよけて角の周りの毛を撫でるイヴも眠そうな声だ。
「シャワー浴びて、お家に帰るんでしょ~?」
会社の女子寮は共同生活の場。食堂も浴場も使える時間が決まっている。……だから二人は直接帰らずにおれの部屋に来たのである。着替えも昼間のうちにちゃんと預かってある。とはいえ、本来の予定どおりに運ぶかはイヴの体力しだいだ。もちろん、だれか大人のアイドルにこうした対応を頼んでおけば無理して帰ることもなかっただろうが……。
「うーん、ブリッツェン寝いっちゃいましたぁ」
「起こすのもかわいそうだし、ブリッツェンはあしたの朝おれが送るよ」
「いいんですかぁ? 夜中まで待ってていただいた上にブリッツェンのお世話まで……」
「いいのいいの、そんな大変なことでもないよ。送るったってソリを繋いであげるだけだし」
毛皮のブリッツェンはこたつで寝ても風邪を引きはしないだろうが、敷いた膝掛けの上に向きを変えさせ、上からもう一枚膝掛けを乗せた。
「それに、きみに頼りにされるのが嬉しくてやってるんだから」
「いままでもたくさんご迷惑おかけした気がしますけど……」
「まあ肝が冷えたり潰れたりはたしかにあったけど」
それで嫌な思いをしたことはただのいちどもなかった。手のかかる子ほどかわいい、とはいうが、イヴの邪気のなさのなしたことだろう。帽子を脱いで乱れたままの髪を、そういって梳いてあげるとイヴは照れたように笑った。
「さいきんはしっかりしてきちゃってさ、世話が焼けなくてちょっと寂しかった」
「うふふ、ことしはちゃんとプレゼント配りきれました」
どうだとばかり胸を張る。もう少しいうつもりだったウラミブシは薄くなって、どこかへ飛んでいった。
「うん、よかった」
「これでおじいちゃんたちも安心してくれますね~」
「男の家に上がりこんでるの見たらまた心配するかもよ」
シチュウの具を噛みながら、イヴは小首をかしげる。金色の瞳が不思議そうに、おちついた光を揺らした。
「え~。プロデューサーさんは男とか女とかじゃないじゃないですよぉ」
「じゃあなに?」
「愛のかたまり?」
「思いっきり男とか女とかのような……なんでもない」
木の匙をくわえてイヴはきょとんとする。雪色の長い髪が揺れる。からかって顔色をうかがっているわけではない。まぶたがなかば落ちかかっている。かろうじて匙をテーブルに置き、相棒同様にこたつに突っ伏すのをこらえたのが、どうやらイヴの最後の力だった。おれはこたつを飛び出し、うしろに倒れるイヴを受け止める。九割がた眠った顔が胸許で、弱い明かりにぼうと照らされている。
「まだ手がかかるみたいで安心したよ」
「はい~……。うふふ、甘えていい、らしい、ので……」
かわいい言葉の最後は、ほとんど寝息になっていた。
(了)