「ヘイそこのむつみちゃん。お姉さんとイイコトしない?」
「ずっと遠出自粛で大丈夫かなって思ってましたけど、かなりヤバそうですね」
七月なかばのある日、並木芽衣子は事務所内のカフェで氏家むつみをつかまえた。新型コロナウィルスCOVID-19の感染対策として四ヶ月におよばんとする長距離移動の自粛は、旅行好きの芽衣子につよく影を落としている。まだ一三歳の少女に心配されるほどに。
「返事ははいかいいえー!」
「はい、はい、いいですよ。……でも、わざわざやらなくてもよくないですか、コロナ禍ネタ」
「こういう時代があったって形にして残すのは文化の仕事だもん」
「ぶんか」
三音以上の追及はこらえて、むつみは芽衣子の用のオモムキを訊ねた。片手に小荷物を携えていて、それがなにがしかかかわるのだろうと想像しながら。
「ちょっとした冒険だよ」
「なるほど……。それは冒険ですね」
意味ありげにニヤリとする芽衣子に、むつみは両眼をようやく輝かせた。九歳の差を感じさせないこの人生の先輩は、むつみをワクワクさせるのが上手かった。予想どおりに小荷物を持ち上げて揺らして、あくまで中身は伏せたまま。パスタの残りを急ぐむつみの横で芽衣子はホットコーヒーを一杯飲んで焦らしもして、事務所内の空き部屋に場所を移した。
「あーっ、すごい! VRですね!」
「これがあればどんな場所の景色も見放題だよ」
どこへでも行き放題、とはいわない芽衣子である。VRで得られるのは視覚と聴覚までで、味覚は論に及ばず、街や草木のにおいもしなければ風が髪に触れることも、地面の感触を足の裏で楽しむことも、陽射しを肌に感じることもない。つけたすなら現地のひとたちとの交流も得られないければ、旅の一割の値打ちもなかった。……それをあえて持ってきた、その目的は。
「はいはい、むつみちゃん着けて」
「私がやっていいんですか?」
「いいのいいの、モニタとヘッドホンはもう一セットあるから、これ同期させればむつみちゃんと一緒に冒険できるわけ」
「一緒っていうか、取り憑いてる感じですね」
芽衣子に手伝われてむつみはゴーグル型のモニタを着け、左右の手にコントローラを握る。ソフトのメニューを見上げ、黄色い声をあげる。
「ウィンチェスター・ミステリー・ハウス!」
「そう! 屋敷の探検ならすごく向いてると思ったんだよね、VR」
「芽衣子さんすごいの見つけましたね!」
鼻息荒くソフトを起動し、ひととおりの操作説明を気もそぞろに聞き終える。右手のコントローラのスティックで進む向きを決め、腕を振って前進する。そのあいだ頭は自由に動かして見る向きを変えることができる。
「あー、つまり余所見しながら歩けるんですね」
「あはは、傍から見てると面白い」
むつみがついその場で脚も動かしてしまうのを芽衣子がからかう。意識して足を止めれば腰から上が右に左に振られるので、芽衣子は“かわいい”と手をたたいて笑う。
「め、芽衣子さんもちゃんとゴーグルかぶっててください!」
「はいはーい、じゃあむつみちゃんに取り憑きまーす」
……二人はイギリス式の庭園に立っていた。ウィンチェスター・ミステリー・ハウスの前庭を再現した3Dモデルである。紹介記事に貼られたスクリーンショットを見たときには気になった植物の薄っぺらさや円柱の角ばりかたも、あたり一面に広がられてみると意外なほど気にならない。
「広ーい……。わー、すごい、歩きながら左右見れますよ」
「臨場感ある~」
赤い屋根とベージュの壁、濃い色の木枠でなるこの屋敷は、外から眺めているぶんにはおしゃれでレトロな洋館だ。三八年間つねに増築をつづけてきた巨大な迷路屋敷という正体をまるで窺わせない。
晴天のもとで庭の散策もほどほどに、二人は屋敷のなかへ踏みいる。まだ奇妙さはない。壁にかけられた屋敷の鳥瞰図を見て、あらためて広大さに嘆息する。どこか頼りなく見える昼光色のライトが、よく磨かれた暗い色のフローリングに反射している。見めぐらした壁や天井は前近代的な……芽衣子の言葉でいえば“昭和っぽい”。カビくさいにおいを思い出しつつ、むつみは屋敷の奥へ足を向けた。
「あれっ、ドアが開かない」
「むつみちゃん、これ手前に引くやつ」
「VRだと階段上っても疲れないの、いいですねっ」
「私は腕も振らないからいたれりつくせり~」
「窓の模様、網? ステンドグラスですか?」
「蜘蛛の巣のデザインが好きだったらしいよ」
「クローゼットに隠し通路があるって聞いたことあるんです、けど、うーん……」
「ノーヒントで見つけるの無理じゃない?」
部屋の一つ、廊下の角ごとに騒いで二人は屋敷のなかを進む。奥へ向かっているのか、外周を回っているのか、いま何階にいるのか、まったくわからないまま。だがそれは問題はではない。二人とも目的地など持ってなく、ただこの無限に思える奇妙な景色のすべてを見尽くしたいのである。
「このドアはどこ……ん?」
開けたドアの裏は壁だった。現代では“超芸術トマソン”などと通称される、無意味な建築パーツ。およそ一〇〇年前に建てられたこの屋敷では、まじないのような意味があったのかもしれない。数かぎりなく迫りくる霊たちから身を守るための、複雑怪奇な迷路屋敷。ウィンチェスター・ミステリー・ハウスの来歴をあらためて思い、二人は背中に鳥肌を立てた。
「階段が天井にぶつかって……」
「これもトマソンだね。じつはドアになってたり……しないか」
むつみが試しにと階段を上る。それにつづいてパタパタと、軽い足音がした。足を止めればやみ、上れば遅れてパタパタ。ヘッドホンから聞こえるのか、事務所の部屋にしている音か、どちらともつかずむつみは震えた声を出した。
「な、なにかギミックとかがある階段なんですか?」
「なんにもないと思うけど、強いていうと……」
「いうと……?」
「つられて脚が動いちゃうよね」
「芽衣子さん!!」
「あはは、ごめんごめん」
気をとりなおして進めば廊下にはまった馬車、屋敷の外に出るドア“Door to nowhere”……ただし、あるのは屋敷の二階。傾斜のゆるい階段をぐるぐると上ったり、小さすぎる窓をのぞいてみたり。
「天井に手摺ついてますよ!!」
「うーん、ミステリーが目白押し」
「インディだったら……敵から逃げるときにあれを鞭で引っ張って落っことしたり」
「ここで追っかけてくる敵って悪霊くらいじゃない……?」
「それで天井が抜けちゃって屋敷全体の崩壊がはじまるんですよ!!」
「ラストは“Door to nowhere”から飛び出すのかな」
「そうですそうです! 崩れてく壁をこえて走っていった先でポーンと!」
冒険の元気がもどってきたむつみだが、ふたたびその脚がにぶった。廊下の左右の壁に一枚ずつ、鏡が掛けられているのを見つけたからだ。たがいに向かいあう、合わせ鏡になっているのはむつみの位置からでもわかる。わずかにのぞく鏡像のなかに、鏡の端を三重にして写しているからだ。
「こ、怖くないですか?」
「平気平気、VRだからむつみちゃんは映んないよ」
「それ、無限につづくのを見ちゃうってことですよね……」
「じっと見てたら悪魔が出てくるとか、VRならしこんでそうだよね」
「じっと見ますよ!? 芽衣子さんも道連れですからね!!」
けっきょく悪魔は出てこなかったが、リアルタイムレンダリングの負荷を無限にかけられた機械が加熱して、鏡の前に立っていられなくなった。
「新しい拷問道具ですか!」
「私のもすっごいヒートアップしてる……」
「冷めるまで待たないと……」
「このまま進んでもいいんじゃない? ホラー屋敷にデジタルの恐怖をブレンド~」
「冒険とホラーはちがうんですー!」
合わせ鏡を離れ、壁の仕掛けを動かし、二人の屋敷探索はつづいていく。ティファニー製の絢爛たるステンドグラスは3DCGの作りこみの甘さで芽衣子の旅行欲を煽る。一三段の階段、一三基のフック、一三枚の窓の不気味な規則正しさがむつみの想像力をかきたてる。あともどりなどという言葉とは無縁のまま、バーチャル世界のミステリーハウスの、つねに新鮮な景色へ二人はわけいる。
「芽衣子さん! このドア開かなくなりました!!」
「はいると出られない部屋ってこれか~……」
ツアーであればガイドが開けてくれるだろうが、いまは二人だけしかここにはいない。左手のコントローラのボタンを押せば、中断したり屋敷の外にもどったりできると芽衣子はいうが、むつみは抜け道を探すといった。
「住んでたひとが閉じこめられたときのこと、きっと考えてるはずです」
「なるほどなー。インディの教えだね」
「はいっ」
むつみは親指を立てた。取り憑いた状態の芽衣子には見えようもないが、おなじく親指を立てて返す。むつみは部屋のあちこちに触れ、芽衣子が怪しげな場所を見極めて、ようやく壁の裏に隠されたドアを開くことが出来た。……じつのところ、左右のコントローラのボタンを同時に押すことで操作可能な仕掛けを光らせることができるのだが、二人とも説明のすべてを頭にいれきったわけではなかったのである。
「おっ、この洗面台大きい」
「一人じゃ持て余しそうですねこんなの」
隠し通路が通じていたバスルームを出ると、そこには常識的なことに洗面台が設えてあった。鏡をのぞいて芽衣子がひとりごちる。
「さすがにちょっと歩きすぎたね~。頭ボサボサ……」
「わー、私もだいぶ乱れちゃって……る……?」
むつみは首を傾げた。鏡のなかでつややかな黒髪の少女が、丸い頭をおなじだけ斜めに倒す。隣でソバージュの女性が不思議そうにむつみを見つめる。
「なんで映ってるんですか!?」
「えっ、だって鏡だし」
「これVRですよ!」
「……いわれてみれば」
あらためて鏡に視線をもどす。そこには背後のバスルームの暗がりが映るのみだ。背すじの鳥肌の勢いも借りてむつみは左手に握ったコントローラのボタンを押した。芽衣子の見開いたままの目に、ヴィクトリア様式の庭とよく晴れたアメリカ西海岸の空が飛びこんでくる。それすらよく見ることもなく、二人はVRのヘッドセットを外していた。
「反射で逃げちゃいましたけど、なんだったんでしょうアレ」
「バグじゃない?」
「バグですか」
機械やソフトにさして知識のあるわけでないむつみでも、ゲーム内に自分たちの姿が出てくるバグがあるはずのないことはわかる。さりとてそこを追及していいことのないこともわかる。
「ゲームしすぎて頭がバグっちゃったんですよね」
「うんうん、きっとそう」
調子よく笑って芽衣子が窓を開けた。西海岸におよぶべくもないが、雲の切れ間にのぞく青空は二人の疲れ目によくしみた。
(了)