「おっ、あかりちゃん一人?」
重たい雨模様だった空に薄日が差しはじめた正午すぎ、レッスンを終えた大西由里子は事務所の居室を訪ねた。手のひら大の赤い塊、実家のマスコットの群れにサインを書きつづけていた辻野あかりが顔を上げる。
「あーっ、由里子さん。一人です」
「お昼行かない? って思ったんだけど、それ中断して平気?」
「行きます行きます! こいつらはほっといたって平気ですよ~!」
答えるより早くあかりの手はハンドバッグをつかんで、脚は立ち上がっていた。ちぎれんばかりに振られる尻尾が腰のあたりに見えた気がして、由里子は歯で笑う。かわいげのある後輩はオゴリだといわれると、完熟りんごの色をした目を丸くして驚き、また尻尾を振り回して喜んだ。
「まー一杯だけね」
どんぶりから麺をすするジェスチャー。あかりは冷たいのにするか、あえてあたたかいのにするかと、もう店に意識を飛ばしている。
「でも替え玉はタダだからけっこう食べられるんだじぇ」
「うおー、早く行きましょう!!」
……浮足立って訪れた店には数人が列を作っていた。あかりの顔から笑みが消える。
「ここ美味しいから、ちょっと待つくらいはね」
「えっ、いえ、由里子さん。あの、え?」
あかりの戸惑いかたは“思ったより待たされる”ことへのものではないらしい。それは由里子にもすぐにわかった。だがそれならば、なにに当惑しているのか?
「あのー……“ん”と“ン”は、おなじですよ」
「は?」
「“う”と“ラ”も……ああ“ら”も似てますけど」
「……」
「“ーメ”と“ど”はぜったいちがうと思うんですよ」
「あかりちゃんてときどき人間が出せない音出すよね」
「うどんはラーメンじゃないですよ!」
「あたし最初からうどんのつもりだったよ!?」
雷に打たれたような顔であかりは半歩下がる。すっかり大好物のラーメンになっていた気分にうどんが突きつけられ、体が逃げようとしたのだ。それを押し留めたのは一瞬遅れて働いた、先輩への義理だとか世間体だとかである。常識の到着はもう半瞬遅かった。
「うどんに……替え玉が、ある……?」
「あるよ! けっこうふつうにあるよ!」
力強く答えておいて、由里子も東京ではなかなか替え玉のあるうどん屋を見つけられなかったことを思い出し、“香川では”と小さくつけたした。
「冷たいのもあったかいのもある……?」
「それはどこでもあるよね!? 待ってむしろラーメン? 冷たいラーメン?」
「夏は冷やしラーメンですよーっ!」
あかりの出身、山形県の夏は暑い。夏のあいだは風向きが主に東からとなるのだが、奥羽山脈を越えることで乾いた高温になって吹き下ろしてくるためである。そんな夏に快適にラーメンを食べたいという欲求から考案されたのが冷しラーメンだといわれている。
「お酢のきいたスープで作る?」
「スープは醤油ですね」
「ハムとか錦糸卵とか」
「それじゃ冷やし中華ですよ~」
じっさい、冷やし中華を指して“冷やしラーメン”と呼ぶ場合もある。由里子はそれを知っていたわけでもなく、冷えた中華麺からのしぜんな発想で抱いた疑問だ。あるいはつけ麺のことかと自分の既知の領域に答えを求めたが、とうぜんそれにも首を横に振るあかりであった。
「ちょっと待ってググる」
由里子に冷やしラーメンを尋ねられたAIはその諸説ある発祥を情報の海から水揚げし、近隣の数件のラーメン屋をピックアップしてみせた。表示された写真はどう見ても、湯気の立っていそうなごくふつうのラーメンである。肩越しに覗きこむあかりがよだれを手の甲で拭った。うどん屋の列は進む。ジャケットを小脇に抱えた二人組のサラリーマンと、タオルを首にかけた三人の鳶職が由里子とあかりの前にまだ残っている。
「行ったことないお店がいっぱい出てるんご……」
「都心のラーメン屋すっごい数あるからねえ。あかりちゃんは毎回ちがうお店行くタイプ?」
「うーん、何度か行ってるお店もありますけど、けっこうバラバラです。あきらちゃんとか色々調べてくれて、“あのお店行こう”って誘ってくれるし」
「推しに一途になりすぎないのだいじよね。自分で調べて気になってるお店とかあるの?」
「ありますあります! いつも下調べしてもらってばっかりじゃ悪いですから、こんど誘おうと思ってるのが」
あかりもスマートフォンを取り出して、ブラウザのメモを開いた。ストラップのりんごろうが素知らぬ顔で揺れる。
「えっと、縺ゅ§縺輔>」
「いきなりバグるのやめて?」
「でもこういう名前だって……」
「うわ、ほんとだ。あかりちゃんのスマホ怖い」
ほかにも奇怪な店名が画面のなかに見られ、由里子は無言であかりのスマートフォンをスリープさせた。あかりが調べ物に極端に長けていないことも、それを自覚していないことも知ってはいた由里子だが、さすがに面食らって言葉を継げない。
二人組のサラリーマンが店員に案内されて、列がひとグループぶん短くなる。不服そうなあかりをスマートフォンの向こうに透かしながら、由里子は画面をスワイプする。氷の浮かんだラーメン、レモンを添えて涼感の主張激しいラーメン……。午前の垂れこめた暗灰色の雲はどこへか、じりじりと真上からの太陽が熱い。学生のグループが五、六人連れ立って店を出ると、大人三人を隔ててうどんのツユと天ぷらが香る。ざるは捨てがたいが、しかし、由里子の興味はおおいにこのラーメンに傾いていた。
「あかりちゃん」
「はい?」
「あかりちゃんの推し……“何度か行ってるお店”ってこっから近い?」
「ここからですか? 一〇分も歩けば……たぶん」
ストラップのりんごろうとおなじ虚空に視線を投げ出してあかりは答えた。道案内くらい、何度も行っている店ならばできるだろう。だいいちかわいい後輩に、勘違いとはいえ好物を取り上げ我慢させて食べるうどんの味は想像にかたくない。自分自身、食べてみたくなってもいる。次に店員が顔を出したら鳶職とまとめて自分たちも呼ばれるだろう。だから由里子は、少し早口になっていう。
「行ってみよ?」
「いいんですか!?」
見えない尻尾をちぎれんばかり振り回すあかりに、由里子は日陰を探し探しついて行った。
(了)