「むぎゃぶんじゃっじゃー、むぎゃぶんじゃっじゃー、むぎゃぶんじゃっじゃーらぶんじゃっじゃー」
一ノ瀬志希の一〇の指が白鍵を上機嫌に跳ねまわる。ほとんどの指はでたらめに鍵盤を叩いているが、二本ばかりが陽気に楽譜のメロディーを奏でている。鼻歌とずれたまま歌って弾きつづけられるのは器用なものである。
「あら……志希さん」
志希はピタリと演奏を止めた。音楽スタジオの入口から一人、長身の女性が覗いている。見憶えは怪しいが、嗅ぎ憶えはある志希である。梅木音葉。明るい金髪を跳ねさせた長身の女性だ。表情のおだやかさこそふだんと変わらないが、志希の鼻にはずいぶんと楽しそうに思えた。
「ピアノの順番ならまだだよ」
「かまいませんよ」
音葉はスタジオにはいると、ノブを下げて静かにドアを閉めた。
「元気な猫が見えたので、興味にかられて来たんです」
「透視?」
志希の意識からすっぽり抜け落ちていることが二つある。一つは自分がピアノをかき鳴らすあいだ、ドアを開けっ放しにしていたこと。もう一つは音葉の共感覚である。まさか、と声には出さず、手首と苦笑いで音葉は答える。
「旋律に色彩を感じることはよくありましたが……」
いいながら、ピアノの傍らへ椅子を運び、音葉は腰掛ける。木に合皮張りのそれが軋む音も立てないのは、音感に秀でた彼女の、不協和音を聴かぬための技術だったろう。志希にしてみれば、小ぶりの椅子に長身をおさめる姿もあいまって、窮屈そうな印象を受けた。
「具体的なものを感じたのははじめてでした」
「きょうは脳みそが調子いいってこと」
「志希さんの演奏が良かったんでしょう」
その気のないものを褒められた照れ隠しにか、志希はピアノの前からするりと離れ、オーディオプレーヤーを操作した。中身をたしかめることなく再生ボタンを押すと、軽快なピアノがウーファーを振動させる。ショパンの“猫のワルツ”である。猫つながりの偶然に音葉は笑ったが、志希にはよくわからない。
「いつもとちがう原因はぁー」
右脚を軸に半回転して、志希はオーディオプレーヤーの脇に仁王立ちする。
「あたしの演奏だからか? 音葉サンが進化したのか? これでなにか見えたかどーかで決まるう」
志希が本領とする
「なんだかふかふかした、やわらかそうなオレンジの……」
自分の前言を遠慮なくひるがえし、音葉はCDの旋律に感じるものも色ばかりでないことを告げる。それを途中で切ったのは、視えた猫の姿と、この殺風景な音楽スタジオとの不協和音のためだった。
「せっかくですから、明るい外で聴きませんか?」
「ふーむ? たしかに猫以外も視えるのか気になるにゃー」
CDプレーヤーと数枚のクラシックCDを携えて、二人は社内のカフェのテラスで四人がけの席を占めた。
「ミルクレープにホットの紅茶のセットをお願いします」
「あたしもりもりフルーツ山盛りセット」
カフェにあるメニューだろうか? 音葉は脳裡をよぎった疑問をすぐに追い出し、目を閉じる。色を濃くした木々と風の歌に混ざる、プラスチックと金属の音を待つ。シュルシュルと擦れる音に二秒遅れて、スピーカーからピアノが伸びやかに鳴る。ショパンの“雨だれ”だ。夏の気配のする陽光の下で聴くそれはどこか可笑しい。
「ああ……安直ですけど、
「曲名に引っ張られてるみたいだにゃー」
共感覚も脳の働きの範囲を出ない。音と結びついた色のイメージに、言葉と映像のイメージが連鎖することに不思議はない。そうなると、新たな興味が涌く志希であった。
「だから……これとか」
CDケースの背面を見ながら志希はスキップボタンを連打する。“華麗なる変奏曲 変ロ長調”。なんの物質的なイメージも持たないはずの曲である。志希の期待したとおり、音葉に具体的なビジョンは浮かばないようだった。ピアノの音色に淡い紫色を感じるという。
スケルツォ、ワルツにボレロ、ポロネーズ。音葉のつぎつぎ例える旋律の色に志希は鼻をひくつかせた。樹皮と土と青葉の匂い、朽ちはじめた薔薇、枇杷の果実の熟す香り、さわやかな果実やクリームの甘さと紅茶の芳香。……そういえばここはカフェだったと志希は目を開ける。よく晴れた秋空の色をしたその目は、ちょうど、頼んだメニューがテーブルに届くのを映した。
「ふふ、さっきのタランテラとおなじ色をしてますね、そのメロン」
「そうなんだ? あげないけど?」
「変な意味はありませんよ。ですが……」
このリンゴはボレロ ハ長調、オレンジはロンド・ア・ラ・マズール、マスカットは……。話を聞きながら口にして、憶えていたりいなかったりする旋律を脳裏に描く。納得のいく味、“ふーんそうか”という味、もろもろ味わっていくうち志希の頭に、また新たな興味がふつふつ涌いてきた。
「楽器の聴き分けってできる?」
首肯する音葉を見て志希は追加のフルーツを注文すると、さっとその場から駆け去った。音葉はいっしょに取り残された髪の香を吸ってみて、色のイメージの見えぬことに苦笑する。彼女の飽きっぽさと失踪癖は音葉の聞き及ぶところにあったが、追うことはしなかった。もどってくる確信を、走る志希の足音に聴いたからである。
……フルーツのおかわりに遅れてもどってきた志希はピアノ協奏曲を選び、一〇回は触れた再生ボタンをいまいちど押しこむ。フルートは桃に、トランペットは苺に、ティンパニはグリーンキウイに、ヴァイオリンはカシスに……。音葉の耳を媒介に、楽器が果物に置き換わっていく。そしてそのたび、呼ばれたフルーツはガラスの容器に放りこまれていく。志希がどこからか持ってきた、ミキサーのなかに。
しばしモーターの唸りが風の音を塗りつぶし、摩擦する金属のにおいが木々の香りを圧倒した。できあがったパステルカラーの液体は甘酸っぱい芳香を放って、二人の表情をほころばしめる。
「にゃっはっは、フルオケジュース」
協奏曲の楽器ではフルオーケストラには足りない。が、そんなことを指摘はしない音葉である。小気味のいいガラスの音をさせて、二人はミックスジュースに口をつけた。
「おいしい」
「おいしいですね」
「……」
「私は音から色が出てくるだけですよ」
「知ってるにゃん」
ミックスジュースの味に不満はないが、それと協奏曲の音色とが、志希の頭のなかで直結することはなかった。知識にはなっても新しい感覚の、期待したような目覚めを得られず、志希は唇を尖らせる。
「共感覚も端的にいってしまえばイメージとイメージの結びつきです。ある音色と青色のイメージの関連した体験があれば、いつでもその音から青が浮かんでくるように……」
音葉はコップから広がる果実の香りを吸いこむ。
「ショパンのピアノ協奏曲二番を聞きながらこれを飲んでいたら、いずれ音楽から味が蘇るかもしれません」
たしかに科学的な話ではある。志希は鼻を鳴らしてミックスジュースをぐっと飲み、そしてニヤリと笑った。
「そうだ、音葉サン、あたしの声って何色?」
後日、志希は社内の居室でミキサーを回転させていた。上機嫌なその背中を見つけ、彼女の担当プロデューサーが背後から覗きに来る。
「ミックスジュース、ミックスジュース、ミックスジュ~うス~」
「志希にゃんちゃんや、それ以上はちょっと」
歌を止められても機嫌は損なわず、むしろひときわ笑みを深くして、志希は振り向いた。できたばかりのピンクがかったジュースを、プロデューサーの湯呑に遠慮なく注ぐ。差し出されて容器とのミスマッチも気にせず、彼は一杯を飲み干した。
「感想は?」
「おいしい」
「ほーん」
(了)