猫、巫女、サンタ、あいのうた   作:久聖

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柑奈・フレデリカ  花の都の裏表

「ボンジュール、ムッシュ」

 

 パリの一角、マルシェの入り口に花で溢れた屋台がある。そのとりどりの色を瞳にきらめかせて、有浦柑奈は店主に声をかけた。使うフランス語こそカタカナ発音でたどたどしくとも、いつもとおなじ自然体の笑顔で。髪も口ひげも体格もかっちりと四角い中年の店主は、細い目を針のようにして柑奈を見た。

 

 裸のアコースティックギターを背負ったその日本人らしい少女は明るいベージュのコートの下に、エスニックな縁取りの入った白いワンピース。編んだ紐のヘアバンドを額にかけて、黄色のデイジー飾りを大きく咲かせている。その斜め下には花柄のチュニックにゆったりしたコートを羽織った、レモン色の髪の少女。二人の顔立ちを見較べ、歳の近い友人同士で買い物だろうと、日焼けした肌と近い色の唇を巻く。

 

「うちはちゃんとした花屋だ、違法なもんは置いちゃないよ」

 

 店主の返事は早口で、カタコトの柑奈はもちろん、レモン色の髪の宮本フレデリカにも聞き取れなかった。きょとんと目を丸くして、しかし口調に店主のを感じて聞き返せない柑奈の横でフレデリカはすっと立ち上がり、“ワンモア!”と人差し指を立ててにかっと笑う。意外そうに四角い眉を持ち上げて、店主は先の言葉をいいなおした。こんどは二人のノン・フランコフォン(フランス語を話せない子たち)にもわかるよう、なるべくゆっくりと、かんたんな単語で。いまどき翻訳アプリも使わない無軌道さが、店主の疑義をさらに深しめる。

 

 返事を理解して、こんどは二人で目を丸くする。そんな返事をされるいわれはないはずである。

 

「どうしたんですかいきなり」

「あんたみたいなのが欲しがりそうなのはないよ」

 

 ゆっくり、はっきりとしただけに声に迫力がこもる。打たれ強い二人はそれでも視線を逸らすことがなく、ゆえに気がついた。店主の険しい視線は二人の……主に柑奈の服に注がれている。店主の懸念を察したのは同時、口が動いたのはフレデリカのほうがずっと早かった。正確には手と口である。スマートフォンの翻訳アプリを起動したのだ。使わずにいたのは肉声で話してこそわかりあえるとの若さの発露ゆえで、店主の洞察の唯一の正解である。

 

「もー、おじさん、男の子の服着たって男の子にはならないでしょ~? 服のデザインはどんなものからだって自由なんだよ」

「フレちゃん、誤解されるようなことしてる私が悪いんですよ。それより、ムッシュ、ジュ・ヴドレ(売ってください)・トロワ・カーネーション! ……あ、ルージュ! ルージュ……え、どれ? って」

 

 カーネーションは英語であり、フランス語ではŒillet(ウィエ)と呼ぶ。もちろんそれのわからぬ店主ではないが、彼の胸にわだかまる猜疑は、柑奈のいう“カーネーション”の実体を求めた。

 

「んー……(これ)、シルヴプレ?」

 

 血色の良い指が爪弾くように示した赤い大輪のカーネーションを、自分を納得させるように頷きながら、店主はようやく三本取ると紙に包んで代金と引換えた。

 

「この服はちょっと失敗でしたね」

 

 この日は冬としては珍しく朝から気温が高く、街ゆくパリ市民も薄手の服を選んでいた。それで柑奈もセーターをキャリーバッグに置き去って、出番があるかなと思いながらに持ってきた、トレードマークともいえるダボダボの、豊かな自然に融けこむようなワンピースをひっぱりだしたのだ。一般にヒッピースタイルを象徴するそれは、花屋の店主のみならず、多かれ少なかれ柑奈の内面をひとに訝らせる。

 

「気にいって買った服に失敗なんてないよカンナちゃん」

 

 かがんで柑奈の顔をのぞいたフレデリカの声は、顔ほど笑ってはいなかった。この故郷パリにファッションショーという形で凱旋に来た彼女の目には、ふだん見せぬ服飾への情熱の火がチラチラと洩れている。

 

「変なふうに思われるのはフレちゃんのがトクイだかんね!」

「あはは、わかってますよ。東京でもたまにありましたからね。さいきんは知ってるひと増えたから、忘れてて……周りの目って」

「アタシはいまでもよくあるからアタシの勝ちだね~」

「敵いませんよフレちゃんには~」

 

 肘でこづきあいながら二人はマルシェを進む。日本では見かけない野菜、魚、チーズ。まちがいさがしか神経衰弱ゲームのようなワインの屋台。地つづきの各国の名物を並べたデリカテッセン。甘い芳香で満ちたフルーツの屋台で足を止め、種々のベリーの盛り合わせを買った。“お上品に”一粒ずつ、交互につまみ上げては口に運ぶ。フレデリカが柑奈の二指に食いついたり、柑奈が仕返しにねだったり、肩も髪も絡ませて歩く。

 

「あら」

 

 柑奈がじゃれあう足を止めたのは、じっと注がれる視線のためだった。四歳くらいだろうか、もこもこに着膨れた少年が、指をくわえて二人を注視していた。頷きあって、柑奈がベリーの容れ物を差し出す。だいじに食べていたおかげでまだ容器の半分は残っている。戸惑いがちに“メルシ”といって、少年もベリーをつまむ。爽やかな酸味と甘味に幼い顔がほころぶと、うら若い二人のみならず行き交うひとも屋台の主たちもふっと微笑みをこぼす。三人ですっかりたいらげたころ、両手に買い物袋を抱えた恰幅のいい女性が屋台の奥から出て来、二人にお礼とまだあたたかいバタールを渡して、少年の手を引いて帰っていった。

 

 うしろむきに歩きながら空いたほうの手を振りつづける少年も彼の大柄な母親も、雑踏の奥にすぐ見えなくなる。手首のヒラヒラ動くのを止めて、柑奈とフレデリカはバタールをちぎりちぎり、ふたたび食べ歩きをはじめる。

 

「あの子くらいのころ、じっちゃんがよく映画を見せてくれました」

 

 ふと柑奈がつぶやく。

 

「こういうワンピースとか、もっとルーズなシャツとか、ラッパみたいなジーンズとか、そんなファッションのひとばっかりで」

 

 ぼかしたいいかたに、フレデリカが半生の返事をする。柑奈はその返事をほとんど聞かず、苦笑いを奥歯で噛んだ。親指ほどのバタールを指先でこねながら、うつむいて声のトーンを、彼女のふだんの一割ほどまで落とす。

 

「そのひとたちがなにか、葉っぱを刻んだり粉を炙ったりして吸ってるんですよ。それが楽しそうに見えて、じっちゃんに訊いたら、“楽しかろうな”っていうんです。“あれはあがんごたせんと楽しか思いもできん、そらあ、惨めなひとたちばい”って。“いちど吸うごとに将来を一〇年、いまよりずっと苦しくする毒薬やけん”」

 

 日本語のわかるものはおそらくいないだろう。いたとして、断片的にしか聞こえぬ話である。フレデリカはそれでも、ライム色の瞳でそっと、周りを見めぐらした。いくつか注ぐ視線はあるが、どれもおよそ、二人の美少女への好奇の目と思える。

 

「でも、その秋だったな、つらいことがあって、真似をしたことがありました。道端に生えてる細長い雑草をちぎって、マッチで」

 

 愚かで小さいころのおのれを憐れむような光を、フレデリカは柑奈の両眼に見た。

 

「じっちゃんが飛んできて、泣くほど叱られました。……じっちゃんのほうがたくさん泣いてました」

「……うん」

「それきりじっちゃんは映画を見せてくれなくなったけど、かわりに歌とギターをくれたんです」

 

 うた、の二音を口にしたとたん、柑奈の表情から翳りが消えた。丸まりつつあった背中がすっと伸びる。もともとの身長の差とことなるヒールの高さが作った一〇センチ以上の高低差を越え、二人の視線がぴったりと合う。

 

「歌はすごいですよ。どんな悲しいことだってみんな歌に乗せたら風になって飛んでって、島の野原や空みたいに、おだやかにしてくれます」

「映画のひとたちは心から歌うってこと、知らなかったんだねー」

「私もそう思ったし、じっちゃんもそうだっていってくれました」

 

 歯を見せて重ねた∨サインの指先はバタールの油でつるりと滑り、指を絡ませた二人は声を上げて笑った。長崎では見たことのない魚を買い、とにかく変な形の野菜を買い、厨房服姿の青年が買ったのとおなじパスタを求め、夕飯の食材が四本の腕にずしりとぶらさがる。はじめに買ったカーネーションは三本仲良く、野菜の袋からにょっきりと生えている。

 

 古びた教会の前で聖女の石像に手を合わせていると、老紳士がフレデリカの肩をつかまえた。明るい茶色のひげを頬にも顎にも豊かに茂らせたその男は、青い目を円く見開いてフランス語を早口でまくしたてる。繰り返し発されるのはどうやら女性の名前のように柑奈には思えた。“フレデリカ”ではない名前だ。

 

「えーと、ムッシュ、ひとちがい……えっ、なんていうのこれフランス語だと?」

 

 苦笑いを作って胸の前で両手を交差させて振ってみる。重い買い物袋がガサガサと音を立てた。当惑した顔の紳士が手の力をゆるめると、フレデリカはさっと飛び退る。

 

「あいどんのー、ゆーどんのー、ごきげんよー!」

「大丈夫ですかフレちゃん!?」

「うん! 回れ右、前進!」

 

 “逃げろ”ってそういう日本語もあるんだと、混乱ぎみの柑奈の意識は感心するほうへ注力した。紳士は困り果てた顔で……二人はそれを見ていなかったが、手を伸ばし、一〇歩を踏み出す前に追跡を諦めた。聖女像の前で十字を切ると、しばらくこうべを垂れていた。

 

 ……新たな道へ驀進をつづけた柑奈とフレデリカは、あたりの人波の途切れたことに気づいて歩みを止めた。細長い空を見上げれば、一五時を回って東京ならば夕陽がさしだすころだが、パリの空はまだ青みが強い。白い息を二つ空へ昇らせて、路地の壁にもたれた。

 

「ビックリしたね~」

「あのひともフレちゃん見て驚いてましたね」

「なにもしてないのにビックリされるなんてハナハダイカンですな」

 

 肘を張って怒ったポーズをしてみても、ふざける言葉がつづかない。

 

「だれかちがう名前叫んでましたけど、似てるひとがいるんですかね」

「世界には双子が三人いるっていうし」

「ボケが鈍ってますね……」

 

 自分のダメージを晒したりごまかしたりするのは苦手なのかな。おなじ歳の、おなじくにぎやかなのが好きな少女とのあいだにもう一つ近いものを見つけて、柑奈は顔の力を抜いた。

 

「ま、帰りましょう。キッチン借りるところからしないと、夕飯食べられないですから」

 

 柑奈を見上げるライム色の目が弱々しく笑った。

 

「あれねー……。あのひとね、おじいちゃんかもしんない」

「へっ!?」

 

 いいながら立ち上がるフレデリカと、驚いて近づけた柑奈の額とがぶつかる。

 

「冗談? じゃないみたい、ですね?」

「ママの名前叫んでたし」

「あっ、あれそうなんだ。えっ、でも“かもしれない”?」

「ママはパパと駆け落ちして、アタシが五歳のときにパリから東京に移ったんだ」

 

 悠長だなあと腕を組もうとして柑奈は、買い物袋に邪魔されて諦めた。駆け落ちの時点でたとえばフレデリカがお腹にいたとしたら、落ち着くまで待とうという選択もあったのかもしれない。あるいはささやかでも安定した家庭を築いて、立派に生きていけていることを見せようとしたのかもしれない。……ギターと駆け落ちした自分の境遇を重ねすぎだと、柑奈は肩をすくめた。

 

「ママの家って()()()()らしいんだよね、どこまでホントかわかんないけどさ」

「そういうお家なら、娘がいなくなっちゃったら必死に捜しますね」

「小金持ちとはいえず、モモカちゃんとこほど大金持ちでもなく……。中金持ちっていうのかな」

「田舎の銘菓みたい」

「都会の名家だって一回だけいってたから、マルシェで買えるかも」

 

 柑奈の頭のなかでいくつかの同音異義語が輪になって踊る。フレデリカはしとやかなまま、声を努めて明るくさせた。

 

「でもパパもすごいんだよ、宮本ブゾーの子孫だから」

「ぶ……むさし?」

「それそれ、さっしーの隠し子なんだって!」

 

 フレデリカの性格は父親の影響だろうか? 母親は情熱的なひとという印象で止まっている柑奈は、フレデリカからの又聞きを鵜呑みにした。

 

「そういう事情なら、実家のかたには捕まれないですね。でも」

「うん、でも、ファッションショーは見せつけたいよね~」

「そうそう。故郷に錦、飾りましょうね」

「なーんか、カンナちゃんには真面目な話しちゃうね」

 

 真冬の午後の陽射しがうっすら注ぐ路地を、ゆっくりと歩きだす。

 

「ママに似てるのかな」

「まさか。あのおじいさんが見まちがえたのフレちゃんですよ。……境遇は、シンパシー感じますけど」

「カンナちゃんとこも中金持ち?」

「離れ小島の家族でやってる零細企業は小金持ちにも……」

 

 いいさして、それでも自分が働きもせず歌うばかりでいても負担にはならない規模ではあったのだと、溜息をこぼす。老いて死ぬまでそれでいられたかもしれない。跡継ぎである弟を支える、秘書か経理くらいの働きはさせられたろうか?

 

「いれば安泰な実家ではありましたけど」

「私の人生は家の人生じゃない」

「あれ、いおうとしたことを」

「ふっふっふっ、いまのはママの名言。ママは家の娘じゃなくてママだから、ママの生きかたをするんだって」

「呼びかたのせいでわかりにくいですね……」

「愛は止められないんだって」

「やっぱりフレちゃんママとは気が合いそうです」

「カンナちゃんはフレちゃんのママだった?」

「フレちゃんのがちょっとだけお姉ちゃんですよ、誕生日的に。私、妹」

 

 満杯のビニール袋をガサガサと、調子のいいおしゃべりを路地に撒いて進む。すっかり道に迷ったことをともに自覚しつつ、さしてオオゴトには考えていなかった。細長い空がすすき色に変わり、二人の足が歩調を速めた。曲がった角の先はもはや薄暗い。ツンと、甘ったるい、胸の底の灼けるような臭いがした。

 

 襤褸を着た男が立っている。うつろに濁った目と黄色い歯の、どちらからもその異臭を放って思えた。東京で見かける路上生活者とはちがう。非言語の領域でそう感じ、脚を動かすのを二人とも忘れた。重い荷物を両手に抱えた若い娘を見てその男に涌いた衝動は、ただこの瞬間においてのみは、二人にとって幸運なものだった。

 

「Vendez!」

 

 へつらいの表情で姿勢を低くして、男は柑奈のほうへ寄ってきた。発された言葉はカンナが憶えてきた単語のなかにもじつはあったのだが、呂律も歯並びもひどい男のそれを頭の辞書と照合することはできなかった。

 

「Vendez, s'il vous plaît」

 

 薄ら寒い恍惚が黄色に濁った白目の奥に光った。言葉はわからなくても、その風体が、異常な顔が、彼の意図を直感させる。麻薬を売ってくれといっているのだ。

 

「ち、ちがう! ちがいます!!」

 

 趣味の悪い作り物のような手を、身を捻ってよける。柑奈の脚は震えて動かない。

 

「だめですよ、だめですよそんなの、買っちゃいけない! お金があるならもっと、目が覚めてから眠るまでずっとやさしい気持ちでいられることに遣ってください! みんなのためになることに遣ってください!!」

 

 日本語の涙声で叫んでも通じるはずはない。ただ一点、彼女の、薬など売らぬという意志を除いては。そしてそれは浮浪者に、失意よりも怒りを喚んだ。指の曲がりきった、捧げ持つような手つきはひっくり返り、土色に伸びた爪を柑奈の腕に突き立てようとする。フレデリカが荷物を捨てて柑奈の胴体をさらわなければ、コートの肩口からのぞく肌が毟り取られていただろう。怒気に満ちた目で追う浮浪者の手がフレデリカのコートの裾を掴み、二つ悲鳴が上がる。

 

「Ne bougez pas!!」

 

 太い声が悲鳴を気圧して路地にひびいた。硬い靴音と金属の音が二つずつ、曲がり角から現れる。瞬間、フレデリカの顔に血色がもどり、浮浪者は青ざめた。色を正確に表現するのなら、灰がかった薄い茶色になった。

 

「Levez les mains!! LEVEZ!!」

「vous allez bien?」

 

 太い声はなお力強く、石畳を踏みしめて浮浪者に迫る。それと反対の壁側から起こった静かな声を、柑奈は白い顔のまま振り向いた。ほとんど黒に近い紺色のジャケットでキャップをかぶった青年が路地の奥へ拳銃を構えている。ぽかんとする柑奈に笑みをかけ、すぐさま犯罪者と対峙する精悍な表情にもどる。

 

「おまわりさんだ」

 

 フレデリカの小声に柑奈が頷く。迫力のある声のほうへ顔を動かすと、城塞のような体躯をした白髪交じりの警官の背中に大きく“POLICE”と染め抜かれている。もう浮浪者を拘束して、持ち物を検めているところだった。

 

「無事でよかった。二つ謝らないといけないけれど……」

 

 若いほうの警官は二人を路地の外まで案内してくれた。フレデリカの落とした荷物を代わりに持って、脇を応援に来た女性の警官が見張りながら。

 

「すぐ近くにいたのに危険な目に遭わせてすまない」

 

 さすがにスマートフォンの翻訳アプリ越しに、誤解のない会話を心がける柑奈とフレデリカである。それだけに、隣で見張っていた若い女性警官のつぶやいた“また誤解させるようなことをいう”との愚痴まで拾って翻訳されて苦笑いを浮かべた。

 

「そしてすぐ近くにいたのは、これが二つ目の謝るべきことだけど、マドモワゼル・カンナ、きみの出で立ちを怪しんで尾行していたからなんだ」

 

 

 

 柑奈とフレデリカはセーヌ川の岸辺で、食材を抱えたまま夕陽を眺めている。ずいぶんと歩いた気がしていたが、二人は昼過ぎに出かけたマルシェの、幾筋か裏の道をぐるぐると回っていただけだったのだ。見た気がする屋台を過ぎて、花屋で店主になんとなく頭を下げて、やっとそう気がついた。

 

 いちおうの聴取を受けていましがた解放されたばかりである。呼び出されたプロデューサーはまだあれこれと手続きが残っていようが、ひらけた場所にいたくて二人は先に出てきた。刻々と赤くなる西空と川面と藍色になる天頂とを、どちらも沈黙とともに往復しつづけている。

 

「ごめんね」

 

 先に口を開いたのはフレデリカだった。

 

「フレちゃんのせいじゃないですよ」

「服のせいでもカンナちゃんのせいでもないよ。悪いひとたちとおなじデザインが好きだから悪いひとの仲間だなんて、そう決めつけたいひとたちの悪口だよ。……そんなひとがいっぱいいて、ごめんね」

 

 警官にもそうした偏見のあることは、至極当然ではあるのだが、それでもショックなことだった。どんな服をどんなひとが着たっていいはずなのだ。

 

「私、ああいうのをラブアンドピースだって信じてるひとがいっぱいいるって、知ってたはずなのに」

 

 柑奈が膝を抱える。

 

「東京で誤解されたとき、自分の将来をダメにして家族や友達を悲しませるのはラブじゃないし、みんなが理性を持ってなきゃ平和なんてないって、やめさせようとしたけど聞いてもらえなくって」

 

 買い物袋よりも丸く縮こまって、柑奈はうめいた。

 

「私こそ頭がおかしくなりそう……」

 

 小さく震える“ちょっとだけ妹”を、フレデリカは包むように抱きしめる。

 

「歌お」

「フレちゃん」

「あのね、ひとの心を動かせるのはひとの心なんだって」

 

 真面目なことをいおうとしている自分に胸がむずがゆくなり、ライム色の目を細める。

 

「服のデザインもね……凝ったもの作ったり、すごい縫製をしたりしても、“着たい”とか“あの技術なら作りたい服が作れる”って欲望しか刺激できないのね」

 

 欲望。柑奈は肩を震わせた。そのなかでもとりわけどす黒いものを、麻薬は愛や平和だと人々をまやかしている。悔しさが心臓を握った。

 

「けど楽しい気持ちをデザインにしたら、着てて楽しい服ができるよ。恥ずかしいかもしんないけど」

 

 パリに持っていく服をフレデリカと選んだ、一月の末を思い出した。デザイナーの卵だけあって、着ればしぜんと胸が張れるコーデをいくつも試させてもらった。そのなかにけっこうな頻度で、豹柄や宇宙柄を超越した奇天烈な服も混ざっていた。そんな服もフレデリカの部屋のなかで着るぶんには楽しくてしかたがなかった……。外出はもちろん、写真も断ったが。

 

「悲しい気持ちの服はあんまり手に取ってもらえないかもね。でも歌はちがうよ」

 

 うた。そのやさしい二音が、柑奈の垂れたこうべを上げさせる。

 

「こういうのが悲しいって歌えば、みんなそうならないようになっていくよ。きっとね」

「ありがとう、フレちゃん。……フレちゃんこそ、錦飾りに帰ってきた故郷でこんなことになって、つらいでしょうに」

 

 柑奈も知らずについた涙の跡に頬ずりをして、フレデリカはニカッと笑い返す。

 

「おまわりさん、かっこよかったね」

「えっ? は、はい」

「できたてのバタール、おいしかった」

「すっごくあったかかったです」

「花屋のおじさん、“またおいで”だって」

「日本のお土産、またあのマルシェで買いたいですね」

「だから大丈夫。パリはきょうもきれいだよ」

「うん。……歌います、私! 歌いたい曲、いっぱい浮かんできちゃった」

 

 プロデューサーが迎えに来るまで、いや、そのあと料理をしながらも、二人の陽気な歌はつづいた。

 

 

 

(了)

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