猫、巫女、サンタ、あいのうた   作:久聖

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若葉  一歩ずつ歩こう

 小鍋のふつふついう音だけがしている。日下部若葉は鼻から深く息を吸いこんだ。すっとする青っぽい香りが淡いコーヒーの芳香と混ざって、彼女の重たい後頭部から睡魔を追い払う。新緑を写したような両眼を眠そうに、若葉はキッチンタイマーを見た。

 

「あと一〇分……」

 

 赤褐色のアロマ煮立つ小鍋の番をしながら、若葉の意識は一週間の昔に飛んでいった。

 

 

 

「手伝おうか?」

 

 その日、若葉は新品のコーヒーミルのハンドルと苦闘していた。見かねたプロデューサーの申し出をうめきながらに断ったものの、さらに三周回したところで力尽きる。すっかり丸まっていた背中を反らすと耳の奥に鋭い音が聞こえた。

 

「背骨痛めるなよお姉ちゃん」

「へ、平気ですよ。変な音はしてませんから!」

 

 若葉が手首をさするのに、プロデューサーは片眉を持ち上げた。頭の、ミミズクのような癖毛が片方、眉毛と一緒に跳ねた。

 

「まあいいけど。コーヒー党になったのかい」

「まだなってないですよ~。これからなるんです」

「それ党派にはいるための儀式かなにか……?」

 

 話しながらミルの蓋を開くと、まだ砕けきっていない豆が二、三見える。気合がわりに深呼吸して、若葉はふたたびミルのハンドルを取った。

 

「ブラックで飲めるようになるためのぎ~し~き~で~す~!!」

 

 おいしいと評判のスタンドでも格別のアロマを謳う店でも、ブラックコーヒーは苦くて飲めなかった若葉である。しかし大人の女性としてはそれができぬわけにはいかぬ。窮した若葉の脳裏にひらめいたのが、“自分で作った料理は拙劣(へた)でもおいしく食べられる”理論だった。豆から苦労して淹れたコーヒーなら、ブラックで飲むこともできるはずなのだ。

 

「まめだねえ」

「ダジャレですか?」

「失礼なことをいうな。おれはくだらないダジャレ撲滅委員会のアジア顧問だぞ」

「わー、すごいですねえ」

 

 プロデューサーにしてアジア顧問の化けミミズクは生返事に鼻白みもせず、自分のカップを若葉のテーブルに運んできた。

 

「おれもついでに一杯もらおうかな」

「いいですよ~。豆も挽けたし、もうちょっと待ってくださいね~」

 

 小さいケトルの湯を注ぐ手つきのほかは危なげなく、若葉は二杯のコーヒーを淹れた。毒見役の化けミミズクがうまいというのを待ってから口をつける。

 

「に゛っ」

 

 やっぱり苦い。自分で淹れても苦いものは苦い。顔のパーツを中心に寄せて若葉は固まった。化けミミズクがかがんでそれを覗き、顔だけで笑う。

 

「お姉ちゃん、砂糖いれたらいいだろう」

「だめですぅ~!」

「砂糖いれようが水で薄めようが黒けりゃあブラックはブラックなんだぜ」

「ストレートのいいまちがいです!!」

 

 あくまでノンシュガー、ノンミルクにこだわる構えだ。どうにか一口を飲み下した若葉の鼻息で説得の材料を吹き飛ばされた化けミミズクは、いっそのこと、と話を飛ばした。

 

「カルーアはどう? お酒も飲めるだろ、お姉ちゃん」

「だから甘くないやつで!」

 

 他人事な態度のプロデューサーとカップのなかにまだ残るコーヒーの苦さとに、若葉はぼのぼ眉をひそめる。新緑の視線を左右に何往復か、ポットをそっと握ると湯をカップに足した。薄めてもブラックはブラック。妖怪の言葉の半分には、逆らう理由を見出しえなかった。

 

「うーん、これくらいなら……」

「そういうのでいいなら、お姉ちゃんよ、アラビア風はどうだ」

「アラビア?」

「話はつけとくから、手土産持って行きなよ」

 

 

 

 もったいぶったプロデューサーの案内で若葉がそこを訪れたのは四日が経ってから……つまり、キッチンで小鍋と睡魔との三つ巴をしているいまから三日前のことである。ひと二人が暮らすには若干狭そうなアパートの、台所がついたダイニングで若葉は紙袋を差し出した。

 

「きょ、きょうはゴシドウゴベンタツのほどよろしくオネガイシマス」

「おおー、これがハーゲンダッツでございますかー」

 

 固くなる若葉の前で、少女がマイペースに驚きと感動を表現する。ドバイ出身の少女・ライラである。南国の海の色をした瞳を輝かせ、波打ち際の色の手が開封しかかるのをこらえて、隣の女性に手渡した。手渡されたその女性は小さい冷凍庫に大切に箱ごとしまう。この二人、ライラとそのメイドから、アラビア風のコーヒーを教わるように……というのが化けミミズクの話であった。

 

「こんないいものをいただいては気合いもヒトシオでございますですねー」

「えっと……アラビア風のコーヒーって、どんなものなんでしょう?」

「味が薄くて……さっぱりスカッといたしますねー」

「コーヒー?」

「はいです」

 

 想像しかねる若葉の前に、メイドが材料と道具を広げていく。まちまちな三人分のカップとコーヒーミル。さらにすり鉢、小鍋、目の細かい金属製のザル。コーヒー豆のパッケージには浅煎りと書いてある。太ったかぼちゃの種のようなものは、瓶の頭を読むとカルダモンらしい。

 

「ライラさんたちのコーヒーはあんまり炙りませんねー」

「浅煎り……ちょっと珍しいやつですよね」

 

 若葉は豆の焙煎の段階を知ってスーパーに見に行ったときを思い出した。深煎りと中煎りばかりで浅煎りはない。フルシティとかシナモンとかの言葉はまったく見当たらず、専門店でしか通じないのだと実のない気づきを得たのだった。取り出されたコーヒー豆はライラの言葉のとおりほとんど焙煎されておらず、若葉は自分が日焼けしたらこのくらいの色かなと思った。

 

「こちらさまを粗めに挽きますですよー」

「ふんふん、浅煎りを粗めに……」

 

 ライラの説明を聞きながら若葉はメモし、メイドが実行する。カルダモンをコーヒー豆の半分ほど取り出し、すり鉢でこれも粗く砕いた。ともに小鍋にいれ、湯を注いで火にかける。コンロの正面に立つメイドを挟んで、若葉とライラは左右に立った。化けミミズクがいれば“母娘みたいだな”と感想を洩らしたであろうが、それをシミュレートする遊びはいまの若葉の頭にはない。しだいに立ち上ってくるカルダモンの香りはショウガとどこか似て、しかし少し青っぽい。コーヒーそれ自体も、浅煎りとはいえ香ばしいアロマを湯気とともに三人の鼻へ運んでいく。

 

「沸騰させたら弱火でじっくり三〇分でございますよー」

「そんなに!?」

「そのあいだはおしゃべりタイムになりますです」

「本当に!? 本当にそういう文化ですか!?」

 

 じっさいには来客に備えてあらかじめ沸かしておくといい、これはライラのアドリブである。機材の数の都合から“こちらにできあがったものがあります”ともいかず、本当にその場で三〇分、三人で話して過ごした。浅煎りのコーヒーはどこで買うのかだとか、使うのはカルダモンだけでいいのかとか、話題は事務的なことから買い物事情を経て、東京での暮らしぶりに移っていった。

 

「ライラちゃんもメイドさんも、なにか困ったことがあったら私を頼ってくださいねっ! 私だって大人ですから!」

「はいでございます。大人の女のひとにしか頼れないこともきっとおありのはずですねー。それに……」

 

 澄んだ海色の目がちらりと斜め上を見た。

 

「風邪を引いたら休ませてあげられますですよー」

 

 ……やがてカフェオレよりも淡い色のコーヒーが煮出し終わると、ザルで濾しながらカップに注ぐ。本来ならばもっと大量に作って専用のポットに取っておくところだが、いまはお試しの分量である。三人でちゃぶ台を囲み、爽やかな香りの立つアラビア風コーヒーを口にした。

 

「に゛っ……やっ、苦くは……ん゛っ」

 

 ごく浅煎りのコーヒーである。苦味は薄く、酸味はカルダモンの香りが爽快感に変えてくれている。それでも若葉の舌は鋭敏だったようで、コーヒー豆の苦味にすぼまった。

 

「ライラさんのママはお砂糖をいれてましたですね、茶色い……ココナッツのお砂糖です」

「う、うーん。でも、大人の、……大人に、なるためには」

「パパのほうがたくさんいれていましたでしたねー」

「で、でもやっぱりこういう苦味を飲めないと……」

 

 ライラはキョトンとして首を傾げた。プロデューサーにも、“不味いものを好んで食うことがオトナだなんて思わんでくれよお姉ちゃん”などと苦笑いされたものだった。そのときは口を尖らせるしかできなかったが、いまは答えを言葉にして持っている。

 

「大人は……子供よりたくさんのものをおいしく味わえるのが大人なんです。苦いコーヒーも飲めて、その上で甘いほうがおいしいっていいたいんです」

「なるほど……。ライラさんもラムレーズンアイスを食べられるようになったら、一つ大人でございますねー?」

「苦手なんですか?」

「お酒がはいってるからダメと止められてございますよー」

「ああー……」

 

 

 

 若葉はキッチンタイマーの音で我に返った。漂う芳香は少し焦げくさい。短く叫んで、煮すぎたコーヒーを火から下ろす。ザルとポットに中身を空けると、小鍋の真ん中でカルダモンの皮が焦げついていた。こんなサラサラの煮こみで焦がすなんてと変な器用さに遠い目をしつつ、若葉は自分で作ったアラビア風コーヒーを味わう。

 

「に゛っ」

 

 

 

(了)

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