「お疲れさまでした、藍子ちゃん」
「はい、歌鈴ちゃんもお疲れさまです」
床の間でコデマリの白さにガーベラが色彩を添える、障子戸の和室。三人ずつ向かい合えそうな座卓に並んで、道明寺歌鈴と高森藍子はたがいに深く頭を下げた。二人の手許の湯呑には八重桜の花がお湯のなかに淡い色の花弁を揺らしている。
「ほんとうにお疲れさまでした……。すみません、手伝わせちゃって」
「いいんですっ。結婚式のスタッフさんなんてめったにできませんから」
ここは歌鈴の実家、古い神社である。奈良でのロケを終えた二人は二日のオフを取り、一泊の里帰りをはたしていた。……この日はちょうど神前式の執り行われる日だったため当然のように歌鈴が、そして志願して藍子が、日中のほとんどを手伝いにキリキリ舞いで過ごしたのだった。
その折の藍子のはつらつとした顔を思い出し、歌鈴は桜湯を口に含んだ。ほのかな塩味と芳香に、眉間から力が抜ける。
「みなさん、藍子ちゃんが来てくれたの喜んでましたしね」
「歌鈴ちゃんもアイドルですよっ。三々九度でしたっけ? さすがにみなさん色めき立つ場面じゃありませんでしたけど」
「わたしの場合はどの場面で出ても~……。地元なので、アイドルより“巫女見習いのドジな子”だって思われてますよ」
「地元……。いわれてみると私も、“いつもぼやぼやしてる危なっかしい子”なのかな……」
「ずっと近くにいるとどうしても、いまの姿より昔ののほうが強いんですよね」
「それで助けられてること、とっても多いって思いはするんです、けどね」
浮かんだ両親の姿を桜湯に溶かして、藍子も花の香りの息をつく。アイドルという
「そうだ」
藍子が手を一つ叩いて立ち上がった。首だけで仰ぎ見る歌鈴の鼻に、取り残された髪の匂いが届く。じんわり温かい湯呑に手を添え、藍子はそそと座卓の反対側へ回った。着席するまで目で追いきった歌鈴は小首をかしげる。
「私たちもちょっと離れて見てみたら、なにか発見があるかもと思って」
「離れ……物理的すぎません?」
「まあまあ」
藍子はおだやかに微笑んでいる。もし歌鈴がおなじように席を立って隣に座りなおしたとしても、ニコニコしたまま談笑がつづくだろう。言葉未満の確信が歌鈴のなかにはあったが、それを行動にはしなかった。こぶしと膝で体の向きを藍子のほうへなおし、にっこりを笑みを返す。
「えーっと……」
微笑みあって正座の二人はしばらく固まっていた。あらためて向かいあってみると、話題がパッと出てこなかったのだ。どちらともなく困惑が声になると、二人の視線は室内をさまよいはじめる。目新しい話題はないだろうか? 藍子の背負った床の間の花は、部屋に来たときに話題にしきった。歌鈴のがわの壁に寄り添う行灯のステンドグラスは、覆いを外してまで眺めて喋った。壁紙の色。畳の匂い。和室の作法? 手許の桜湯などは、この部屋以前に話に話したものである。障子戸の外、渡り廊下から望む鎮守の森は、きのうお風呂の前に、二人で散策した場所だ。ちがうちがう、相手を見ないと。……おなじような逡巡を経た二人の視線が、座卓のまんなかでちょうどぶつかった。
「な、なんかお見合いみたいですね」
歌鈴がはにかむ。
「あはは、そういえば桜湯って、お見合いでも出すんですよね」
藍子が湯呑を円く揺する。
「お茶だと“お茶を濁す”に通じちゃうから、縁談の席ではおめでたくて濁らない桜湯が……これ、運ぶときしましたね」
「うふふ、そうでした。言霊はたいせつだって」
いよいよなかったことにしづらく、桜の香の湯気に両手を晒して、藍子がはたと動きを止めた。
「じゃあ、そうだ。ご趣味は」
「え? えーと、掃除をっ……少々?」
たがいの顔を斜めに見合って、二人は少し表情をゆるめた。
「お掃除は~ですねっ、だいじなんです。巫女のだいじなお仕事なんです」
「境内がきれいだと、参詣のお客さんたちも気持ちがいいですよね」
「そうそう……。お祓いって……祓い清めってそういうことらしいんです。きれいにすることで“悪いものはいませんよ”“神さまはこちらにおいでください”って。陰陽道みたいにオバケと斗うためじゃなくて、もっとこう……現実寄りな? 清々しい気持ちになってもらう、っていう」
指と眉をもどかしそうにする歌鈴に肩を揺すって、藍子は少し座卓に身を乗り出した。
「ということは、歌鈴ちゃんはふだんから寮のみんなを守ってくれてるんですね」
「どっ、どうでしょう~。お庭くらいですけど、効果があったた……あったら! すごく嬉しいですねっ。……藍子ちゃんは?」
両手を膝に背すじを伸ばして、歌鈴が問い返す。藍子は前にかしいだまま、人差し指で自分の下唇をつついた。
「趣味……は、散歩? いつもおなじ風景だと思っても、ふとしたときに別物に見えたりして。そういう瞬間をカメラで切り取ったり」
「細長いカメラ、いつも持ってますよね」
頷いて、藍子は自分の横の空間を手で探る。
「あ、バッグそっちでした……」
「あーっ、カメラ出しますかっ!? えっと……どうぞ!」
湯呑を倒しかけながらどうにか藍子のバッグは持ち主の手に渡り、ピンクと白のツートンカラーのトイカメラを座卓の上へ出した。両手でそれを、藍子は胸の前に構えてみる。
「うーん」
「わたしを撮ってもこれじゃ証明写真みたいですよ」
「なんだかもっといい瞬間があるような……」
歌鈴の言葉を右から左に、藍子は持ち上げたファインダをのぞいてつぶやく。その極小のぶ厚い窓越しに、二人の目が合った。
「そういえば、藍子ちゃん、こういうのの写真って撮らないですね?」
桜湯を捧げ持つようにして歌鈴が問う。藍子はトイカメラで顎を支えて答えた。
「そうなんですよね、不思議と……。食べ物って口の思い出だから?」
「口の思い出……そういうのもいいですねっ。耳の思い出もあったり」
「アイドルをしてると心当たりがいっぱいありますね」
「きのうはいませんでしたけど、この森にも」
歌鈴の言葉を待っていたように鳥のさえずりが障子紙をとおって畳の部屋にひびいた。よく澄んだ、メリハリのある高い声。オオルリ、宝石のような青と白の小鳥である。二人はお見合いごっこを放り出し、縁側に並んで飛び出した。鎮守の森の深い木々の群れから、青い小鳥の歌声はいっそう明瞭に、二人を包む。へりのぎりぎりに立って枝々を眺め回すうち、その声は聞こえなくなっていた。残念、と労いあってようやく、二人はあたりが濃い黒とオレンジで満たされていることに気づいた。
「夕陽もきれいですね」
金光を受けて空中に影を引く歌鈴の横顔に向け、藍子はシャッターを切った。きょう一枚かぎりの目の思い出である。撮られて歌鈴は驚いたが、不意打ちになにもいわず縁側に腰を下ろした。藍子もそれにならおうとして、ひとつ声を上げると忙しく部屋にもどる。トイカメラはバッグに、二杯の桜湯を持ってあらためて歌鈴の横に座った。ふたたび透明なさえずりが、二人の頭上に注ぐ。
「オオルリ、屋根の上ですかね」
ぼんやり斜め上を見て歌鈴がいう。藍子もおなじほうへ顎を上げた。たしかにオオルリは二人のいる社殿に移っていた。それは一枚きり撮った写真の、きょとんとした歌鈴のうしろにはっきりと捉えられているのだが、いま二人には知る由もない。
「かもしれないですね。二階の窓の、手すりに止まってたり」
「いいなあ~。部屋のなかから、ガラス越しに目があったり」
「窓を開けたらはいってきてくれるかも」
「そしたら、一緒に歌ったり?」
姿の見えぬ小鳥からすべりだした二人の会話はあちこちにそれつつも途切れることがない。やがてオレンジの光が山の端で赤々となり、八重桜が湯呑のなかで乾きはじめて、ふと藍子が言葉を紡ぎかける口を止めて空気を食んだ。赤い光のなかでワントーン、おだやかに声を出す。
「……やっぱり、隣どうしがいいですね」
「はいっ」
(了)