香ばしさと清々しさのほどよく混ざった独特の空気。それをぐっと吸いこんでから、私はお茶の専門店を出る。頬をひやりとなでていく桜の花びらを見上げると、スマートフォンが鳴った。
「はい、和久井です。……どうしたの?」
私は半笑いで電話口、私の担当プロデューサーに訊いた。私の買い物を行儀よく待っていたような、自動ドアの閉まりきるのを待ちきれなかったような、
「CMの仕事が来たよ」
「あら、ありがとう。どこのかしら」
彼は相手かたの社名に“ベンチャーだよ”とつけくわえた。自前の農園を持ってる緑茶の生産会社。飲料メーカーに卸すのをメインにしているけれど、少し前から玉露をリーズナブルな価格で……卸値に少し色をつけた程度で売りに出した。家庭でも気軽に飲めるように、と。
「待って、それって……」
どこかで聞いたような会社名。私はバッグにいれたお茶の袋を、あわてて取り出した。うぐいす色のパッケージの、裏の左下を指でなぞる。
「やっぱり」
「どうしたの」
「いま買ったのよ、そこの玉露。買って、出てきたところだったの」
銘柄を読み上げると、彼も“ああ、おなじだ”と笑った。先方から手土産として、まったくおなじものを一パックもらったみたい。電話越しに笑いあうのを、私ははっとしてやめた。ずっとドアの前で話していたらいけない。お隣のお店とのあいだまで話しながら歩く。
桜の花びらをつれた風とすれちがった。ことしは咲くのが早かったけれど、まだ散りきらずに明るい花叢を残してる。雪が降るほど冷えたせいで姥桜の葉の出るのが遅れて……だとか。自分を重ねて見たような思いがして、私は右頬の感触に意識をもどした。
「たしかに手に取りやすい値段よね。狙いはあってる、というより、一般家庭だけ狙ってるのかしら」
「そのつもりだけど、イマイチ認知度が低いらしくて。スーパーなんか置いとくと、“玉露混ぜてちょっと高いんだったらふつうの買う”だとか、一〇〇%だとは思ってもらえてなかったって」
「スーパー……緑茶売り場にあったら、私もそう誤解しそう」
「そんで専門店だとこんどは最安値だから、味を期待してもらえんってわけだ」
「そうね、おもてなしのツールの意味合いが強いから、高価なものが選ばれがちね」
企業の懐の余裕に、“あなたは上客ですよ”との演出に、人材アピールに……。私が秘書をしていた会社では、役員のお客さまにはたいてい玉露を出していた。淹れるのはもちろん私たち、とくに手の空きがちな新人。はじめて値段を見たときには驚いたっけ。急須にいれたぶんで二千円か、三千円か、なんて。これを美味しく淹れる責任に指が震えたり。練習のために自分でも買って扱ってるうちに慣れてしまったけれど……。
「あのころにも売っててくれたら嬉しい値段だったわ」
「高価いもの使ったぶん
それはそうではあるけれど。凝りすぎたおかけで役員の“だれかお茶頼むよ”が“和久井くん頼むよ”に変わったくらいだから。まあそれがほかの秘書たちとのあいだに亀裂をいれる一因にもなったし、辞めたからいまがあるのも事実だし……。
「それにほら、この前……ってももう半年前かな。留美ちゃん、さしいれに玉露淹れてあげたことあったろ。それがさいきん、先方の社長に聞こえたらしいや」
「ありがたいわね。噂してくれたひとたちにお礼しないと」
過去のややこしさに因果の二文字を貼りつけて、私は吹き散らした。
「じゃあ、諾けるってことで返事していいかな」
「あなたにしては返事を急ぐわね?」
「うん、ほら、ひと月もしたら新茶を摘むだろ。売りに出るのは一週間もかからないから、二〇日の週には仕上げたいって」
二〇日。指を折らなくてもあと二週間を切ってる。
「ほんとうに急ぎね。来週には撮ることになるんじゃない」
「さすが、ベンチャーは身軽だし無茶するよね。……で、おれの把握してるかぎりスケジュールは空いてるけど、留美ちゃんのお気持ち的にはどう」
答えはもうわかってるけど。そんな口調だったから、私は少し悩んでみせた。二人でこらえきれなくて電話口で笑いあう。諒解を告げると、彼は羽根より軽い返事をした。電話口から小さく打鍵音と、“返事も早い”と苦笑いするのが聞こえた。
「それじゃ、さっそくいただいてみる? そこの玉露」
「いいね、お湯沸かしとけばいいかな」
「用意はしなくて大丈夫。水出しにして持って行くわ」
水出しを作る道具は、家にも事務所にも置いてない。もういちどお店にもどって買わないといけないわね。……彼が返事をするまでには、カウンターの脇に茶漉し付きの水筒があったのを、私は思い出せていた。間の空いたその返事、含みのありそうな“諒解”の一言に、私は少し意地悪く応じてみたけれど彼はひょうきんな態度を崩さない。
「いやね、水で抽出するってことは時間かかるでしょ。なかなか帰ってこないのか~と思うと」
「子供みたいなこといわないの。一時間くらいよ、コーヒーとはちがうわ」
「そのくらいなら待てる」
待ち遠しいと言外に露骨で、私は噴き出しそうになるのをこらえた。こらえはしたけれど、唇の隙間からまとまった空気が流れていって、あちらでしたり顔で笑う気配がした。
「私を待つしかすることがないなら、お茶うけを用意していてくれる?」
「諒解、諒解」
「……ほんとうにすることないの?」
「あるにはあるけどオツカイに行く余裕だってあるさ。楽しみにしといて」
サボりの口実を与えちゃったかしら。私の懐疑をあちらも気取ったのか、声音がいくぶんか真面目になった。……とはいえ、油断は禁物。
「信じてよ、おれはいつだって留美ちゃんに会うのがいちばん楽しみなんだから」
「仕事をしなさい」
通話を切ってお店に歩き出す。きょうはちょっと暑いから、氷もいれてじっくり抽出してみましょうか。
(了)