猫、巫女、サンタ、あいのうた   作:久聖

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イヴ  心配性

 年始に向けた書類仕事を一段落させておれは椅子の背にもたれた。ほどほどの反発をもってバネはおれの体重を支えながら深く倒れる……はずだった。両肩をなにかに支えられ、おれは首だけ大きくのけぞった。

「あれ、イヴ、いつのまに」

 淡桜色の顔に金色の目でほほえんで、サンタクロースのイヴがおれのまうしろに立っていた。濃い赤色の長いスカートを穿いて、肌よりうっすら赤い色のニットを着ているので、赤ワインの海から裸の上半身を出しているように見える。

「二、三分くらい前ですー。動きが止まるのを待ってましたあ」

「おれとしたことが気がつかないとは……」

「ミミズクの耳とサンタの忍び足はサンタの勝ちですねぇ~」

 イヴの顔が鼻先で逆さに色づく。足音どころか息や心臓の音でわかるのがおれたちミミズク、フクロウのたぐいである。それができないほど書類に熱中していたわけだ。人間の姿を手にいれてウン年、中身もだいぶ人間らしくなったんだと、感慨なんだか後悔なんだかわからないものが胸に広がる。……いまさらながら、おれはミミズクの妖怪変化で、この芸能事務所でプロデュース業をして人間社会に暮らしている。

「それで、どうしたんだねイヴちゃん。肩揉んでくれるってこと?」

 おれのリクライニングを止めたイヴの両手は、訊くまでもなく五本ずつの指で肩の筋肉を押してつかんでしている。

「そうですよ~」

「ありがとう。ちょうど首も肩も張ってて。人間の姿は人間社会で暮らすにはいいけど、すぐどこか調子悪くなって困るね」

「調子悪いのを喜ぶわけじゃないですけどよかったです~。孝行できてますかね私。うふふー」

 親切のたぐいなら日ごろからしているイヴである。それがそんな言葉を持ち出すのも、あえての行動だというのも、なんとも違和感のある話だ。

「親孝行、したい自分に親はなしと聞きまして」

「時分ね」

 イントネーションが少しちがう。海外出身の子向けに留美たちが持ち回りでやっている日本語教室を聞きかじったか、この年の瀬の季節柄、帰省に悩むアラサーアイドルたちの巻くクダに触れたか……。

「プロデューサーさんもアラサーでは?」

 心を読まれた。

「おれは三〇歳(ジャスサー)だからちょっとちがうの」

 これは人間としての歳で、卵から孵ってからの時間は知らない。イヴは感心したのか聞き流したのかわからない返事をして肩揉みをつづける。上手い下手はそれがわかるほど揉まれたことがないのでさておき、かわいいうちの子がやってくれていることである。たいへん心地がいい。おれは保護者ではあっても親ではないけれど、それもまあ、どうでもいいかといった具合だ。

「親がいないのは本当ですからね~。手ごろな歳上のプロデューサーさんに孝行しようと思ったんです~」

「手ごろときたか」

 思わず出た苦笑いにもイヴは笑って返事をする。その屈託のなさがおれの顔から苦さを抜いていった。親孝行ごっこであったって肩を揉んでくれているのはほんとうなのだから。

「でもほんとうに肩硬いですねえ。震えるやつとか必要でしたかね~?」

「きみは大変かもしれないけど、イヴの手のほうがいいよ」

 答えたときすでに肩から細指の感触は消えている。振り向くとスマートフォンとイヴの顔が鼻先にあった。なにか検索した画面を見せようとしたのと、ちょうど気が合ってしまった。

「こういうの効きますよねぇ」

 イヴの示した“震えるやつ”は、両手でハンドルを持って押し当てるタイプだった。地面に。

「ランマーでしょこれ! むしろ固めるやつ!」

「美容院で見た気がするんですよねぇ」

「美容院は道路工事をしません!」

 ……などと叱ってもしょうがない。美容院とランマーの関係は飲みこんで、おれは肩を回した。鎖骨のあたりで音がする。

「美容院行く余裕はあるみたいでよかったよ」

 このサンタクロースの少女は子供たちに配るプレゼントを自費でまかなっている。アイドル業にアルバイトを掛け持ちしたとて追いつくものでもなく、事務所の寮のおかげで食と住は足れど着るものがおぼつかぬ。きょうの赤ワインコーデだって先日もらったばかりのものだ。きれいな雪色の長い髪をケアする費用、一万円はくだらぬ額が毎月出すのは厳しかろうと思っていた。

「はい、留美さんが教えてくれたんです~。美容院代は経費にできるって」

「なるほど……」

 その白さがゆえに黒髪至上主義の日本ではシャンプーのたぐいの宣伝のオファーこそ来ないが、髪はイヴの人気を支える一つの大きい要素だ。それを維持するのは業務の一環と……。留美はさすが、会社の使いかたが巧い。

「で、肩はもうやりきったと思うので首をお揉みしますね~」

 首のマッサージというと、四本の指で肩を支えに親指で指圧するのが一般的だろうと思う。ちょっと自信がない。マッサージされた経験が少ないというのもあるが、イヴが両手でおれの首をつかむようにして揉むからだ。それもわざわざ手をひっくり返して、四本指で首筋の筋肉をほぐす。胸と鼻息の感触があって、そうとう無理のある体勢なのは見なくてもわかる。一〇秒もせずにイヴの手は離れた。

「イヴ、イヴちゃん、ちょっと待て」

 少し声が上ずった。……離れたと思ったイヴの手はおれの肩をつかんで椅子ごと回した。向かい合う恰好になると、イヴは満足げに笑って手を伸ばしてきたのである。おれの首に。

「大丈夫ですよぉ」

「せめて親指開くのやめて! 閉じて手の横に沿わせて!」

「はぁい」

 変なところで素直だから下手に怒ると胸が痛む。いまはさすがに痒くもないけど。そして中腰で揉むのが疲れたようで、一つ唸ってイヴは腰を下ろした。おれの膝の上に。深いワイン色のスカートのスカートのなかは、暖房の効いた室内よりずっと熱と湿り気を帯びている。

「イヴちゃん? これ絵面がまずくない?」

「大丈夫……あっ」

 照れた顔をしてイヴは立ち上がった。白いふともものあいだで深紅のスカートの尻側の裾をつまみ、引っ張り出して座りなおす。“じかに座っちゃだめですよねえ”ところころ笑うので、おれは“そうだねえ”とだけ答えた。だいぶ複雑な表情をしていたと思うが、当のイヴに気にするそぶりもなく、その金色の目がいくらきれいでも鏡にはならないからわからない。美少女を膝に跨がらせて首を絞められてるこの絵面は、ひとに見られたらどっちが怒られたり心配されたりするのかなあと他人事のような考えが胸に涌いてきた。

「ちょっと無防備がすぎるよと……」

 おれの膝小僧に体重をかけるイヴの尻を、おれは引き寄せようとした。その最初のステップの、持ち上げることができない。

「あれっ?」

「うっふっふ、私はサンタクロースですよプロデューサーさん? そういうことさせないくらいの筋肉はあるんですよ~」

「……お尻触り放題なのはいいの?」

「プロデューサーさんですしまあ」

「うかつにそんな特別感は出さんほうがいいよ」

「ん~、プロデューサーさんだって私が首こんなふうにしててもケロッとしてるでしょう?」

「そりゃあ、きみが首絞めてくるとは思わないからね。……ほとんど」

「それとおなじですよ~。変なことしないって信じてますからぁ。……ほとんど」

 ほとんどね。おれはおれで仰け反りはせねど背筋を伸ばしているし、イヴはイヴでスカートに隠れたふとももが強く張っている。心配しすぎるとかえって相手が疲れると、留美に叱られたりもしたっけな。

「まあ、襲われても私の身体はそういうのお応えできるようにはできてませんから、たぶん大丈夫ですよ~」

「どういうこと?」

 器量よしじゃが小町にござる、なんてフレーズを思い出す。反射的に訊いてしまったが、おれにはいいづらいだろう。性別もそうだが、人間の体のことを相談されても役には立てない。どうしたものか。

「サンタクロースは子供作ったりしませんからねえ」

 イヴはけろっとして答えた。たしかに、そういえば、親がいないというのは死別だとかではなくそもそも存在しないという意味で使っていたわけだ。人間の想像力が産み出した不思議な存在の、不思議な命のつなぎかたである。

「寮のお風呂ではすっごく驚かれちゃいました~。うしろまでなんにもないって」

「まあそりゃあ、ほんとになにもないなんて漫画ならともかく、現実に見たらな……ん? 待って? なにも? うしろまで?」

「はい、なにも」

「この際だから訊くけど、……トイレとかどうしてるの?」

「プロデューサーさん」

 イヴはもともと下がり気味の眉尻をさらに下げて下のまぶたを持ち上げる。いくらあけすけなイヴでもこれはいやだったか。

「私がトイレ行くところ見たことありますか?」

「……」

 ない。そういえばあっちこっちのロケに連れて行ったし泊りがけのこともあったし、おれがトイレに駆けこんで待たせたこともあった。でもイヴがトイレに行ったことは、ただの一度もなかった……はずである。

「天使のみなさんとおなじで、私たちサンタもトイレ行かないんですよ!」

 見事なまでのドヤ顔をイヴはした。Wikipediaの見出しに貼りつけてやろうかというくらいの見事さだ。

「じゃあ食べたものどこ行ってんの……?」

「さあ? 科学で解決できないことなんていっぱいあるじゃないですか~。プロデューサーさんだって化けミミズクなんですしぃ」

「おれは食ったもんは出してるよ!?」

 声を張ったせいでイヴの指が喉に食いこみ、おれはむせた。イヴは顔を近づけて心配はするが、首を揉むのはやめない。

「きみの内臓のことはともかく、人間の男の倒錯ぶりは異常だぞ。油断しないでくれよ。自分がすごくかわいいってこと忘れてないだろうなイヴちゃん」

 えへへとひとしきり照れてから、イヴは表情を改めた。

「じゃあ、こんなことはプロデューサーさんにだけします」

「ねえ、だからね?」

「プロデューサーさんは留美さんにしか興味がありませんし~」

 それはフクロウの習性だと聞いた。相手をこれと決めると、フラれないかぎりよそ見ができない。人間はできるらしい。人間の男どもとは、いまいち信用ならぬやつらだ。

「それに私たち人間じゃない仲間じゃないですか~」

 業界内にはちらほら妖怪変化は紛れているが、大した数ではない。この事務所のアイドルのなかでとなればイヴ一人だけ浮いていて、それなりに心細さを抱えていることは、いまのイヴの心音を聞けばわかる。おれは“うん”と答えてイヴの髪をすくった。絹糸に似た毛の房は粉雪の崩れるような音をさせて指の隙間を流れる。そのうちイヴにも連れ合いが必要なのだろうか。……想像してみると、あまりいい気分はしなかった。いや、サンタなら生涯の相棒はトナカイか。ブリッツェンならずっとこの子を佑けてくれるのだろう。

「ところで、喉は大丈夫ですかぁ? さっき変なむせかたしてましたけど~」

 だいたいきみのせいなんだが。

「平気だよ、たぶんちょっと痛めただけだ」

「風邪じゃないですか? ひきはじめが肝心って聞きますよ~」

 いうやイヴは立ち上がり、居室内の休憩スペースまで椅子ごとおれを押していった。たびたび模様替えのあるこの居室で、ローテーブルを一人がけ、三人がけのソファで囲んだそのスペースはいま、窓から離れた壁際にある。春と秋には窓辺に、夏と冬にはこうして離れて、あわただしくも感じるが、くつろぎのための人間の……主には留美の知恵だ。

「葛湯をお作りしますねぇ」

「風邪ではぜったいないと思うけど、葛湯はいいね」

 黒い化粧箱からイヴは和紙の包みを取り上げる。吉野の本葛粉使用と謳うパッケージを破き、おれのマグカップに粉とポットのお湯を注ぐ。イヴが割り箸でかき混ぜるあいだに、おれは椅子をデスクにもどしてソファに座った。

「買ったのかい、葛湯」

 箸を握りしめてぐるぐる回す横顔に訊ねると、イヴは顔を起こした。もみあげがマグに落ちかかる。おれが手を伸ばして割りこみ、助かったもみあげの主はかわいい舌をのぞかせて照れた。

「これはいただきものです~。のあさんからですよ~」

「意外なところからきたね」

 家族とうまくいっていないようなことを洩れ聞いたが、とりあえず地元愛はあるのだろうか。お歳暮化は知らないが、わざわざ取り寄せて。

「サラサラロングストレート部の繋がりで」

「美しそうな集まりやってんなあ」

「あと親の話ができない仲間でもあるので」

「そういうネガティブな繋がりかたはきみんとこ的にアリなの……?」

「私はぜんぜんいいと思うんですけどね~。家族の話になったときなんか、のあさんも私もずーっと黙って聞いてるだけですから、心配してくれて。“かってに仲間意識を持ってしまった”とかで、お詫びだって持ってきたんです」

 イヴはのあのシンパシーを受け容れ、あちらも納得はしたらしい。とはいえ、やはり解消したい繋がりだともイヴはいう。いつかはのあも親のことを、笑顔でなくとも静かに語れたらいいと。

「イヴはいい子だね」

 白い髪ゆたかな頭を撫でる。サラサラというべきかふわふわというべきか、不思議で心地良い感触がする。イヴもくすぐったげに笑った。

「私にお父さんがいたらプロデューサーさんみたいなんでしょうねぇ」

「化けミミズクにサンタの親ができるかね。……きみに懐いてもらえるならがんばってみようか」

「はい、がんばってください~」

 いうなあ、と細めた目をふと下に向けて一つ思い出したことがある。髪から手を離し、おれはイヴに訊いた。

「ところで、イヴ、葛湯はもうじゅうぶんなんじゃあないか?」

「やめどきがなかなかわからないんですよねぇこれ。大丈夫そうならどうぞ~」

 マグカップの葛湯はだいぶもったりして見える。安物だとサツマイモ澱粉で、とろみすら怪しかったりするものだが、なるほど最高級はこういうものか。なんて思ったら大間違い。イヴが割り箸を取ったとき、おれは目を剥くことになった。

「あら」

 イヴもきょとんとして、おれたちは割り箸を見つめる。正確にいうと割り箸にくっついて持ち上がった、こぶし大の葛湯をだ。粘りすぎだろ。マグカップにはほとんど残っていない。混ぜていた葛湯のすべてが割り箸にある。なんで? 剥いた目に、イヴがすべての問題をお山の向こうに投げ捨てるのが見えた。

「ん~……。どうぞプロデューサーさん、お飲みくださぁい」

 イヴは水飴みたいな葛湯をずいと突きつけてきた。沸騰寸前のお湯で作っただけあってまだ湯気が強烈に立ち上っている。

「む……無茶いうな!」

 拒否されてイヴは葛湯を口に運ぶ。高い鼻の頭を火傷するんじゃあないかとおれを不安にさせつつ一口かじった。視線を宙にさまよわせながら飲みこみ、“美味しいですよぉ”と笑ってまた突きつけてくる。あれもイヴの腹のいったいどこに消えるんだろう。なにがいやなのか自分でよくわからなくなってきた。

「あ、こういうときはアレでしたね。はい、あーん」

「飲み物であーんてのははじめてだよ……」

 飲み物かこれ? 一口応じてみるとたしかに葛湯の味と食感? 飲み口? をしているのが、かえって怪しさをつのらせる。そしてまたイヴが一口。前髪がくっつきそうで危ない。またおれに差し出す。口にいれてしまえば葛湯だ。ショウガ風味。

「うふふ、あったかいですね~」

「……そうだね」

 細かいことさえ気にしなければおだやかな昼下がりの団欒のような気はする。腹におさまりかけた納得は、しかし、次の瞬間に吹き飛んだ。イヴの前髪に葛湯がついたのだ。

「あらら~……」

「ちょっ、イヴ、動かないで。無理にやると髪が持ってかれる」

 葛湯の塊のついた髪をおれが根本で抑え、イヴはそっと割り箸を顔から遠ざける。透明な糸が引き伸ばされてやがて切れ、白い髪は重力に素直になった。

「すみません、プロデューサーさんの飲み物なのに……」

「飲み……? いや、それよりきみのほうがだいじ。熱かったろ、火傷はしてない?」

 イヴは小さく首肯し、ブリッツェンを呼んで部屋を見めぐらす。髪を挟んだままの指に軽いテンションがかかり、おれは手をイヴの首の動きに合わせた。離すとこんどは髪の葛湯がイヴの顔についてしまう。

「あ、ブリッツェンは出張中でした……。じゃあプロデューサーさん」

「トナカイの代わり? だいたいできると思うよ、空飛ぶのも含めて」

「これ舐めちゃってください」

「あのね、できることとできないことがあるんだよ」

 これは“できるけどやりたくない”という意味の日本語である。過去最悪の絵面だ。というか、ブリッツェンにこういうのを舐めさせていたら鼻水でかえって汚れそうなものだが、そこはうまくやってるんだろうか。……ともかく、おれはポットのお湯をつけたハンカチでイヴの前髪を拭いた。

「葛湯はどうしましょう?」

「分けてお湯足したらさすがに飲めるくらいにはやわらかくなるんじゃあないかな?」

「え、分けるんですかぁ?」

 渋るとは珍しい。もうすでに分けあって飲んで……いや食べて……? いるのだし、喉の心配ならイヴにこそしたいものだ。促して割り箸を割らせた。もはや水飴と呼んだほうが早いくらいに、葛湯は割り箸にくっついて二つの塊に別れる。おなじくらいの大きさの二つの塊に。……別れる前とおなじくらいの大きさの二つの塊に。

「分け合うと増えるんですよねえ」

「なんで!?」

「科学じゃわかんないことっていっぱいあるじゃないですか~」

「気軽に奇跡起こさないでよ……。その割り箸ゴミ箱に捨てても大丈夫?」

「これは私じゃなくてプロデューサーさんの愛が起こしちゃった奇跡ですよ~」

「化けミミズクにそんなことできるか」

 分けて増えるならお裾分けをおれにくれた時点でもう増えているはずだ。イヴが混ぜてたあいだじゅう、葛粉が奇跡の大増殖をしてたんじゃあなかろうか。

「その葛湯くれたのあさんって、まさか奈良県民じゃなくて旧約のひと?」

「奈良のひとですよー。旧約のかたがたとはお会いしたことないんですよねぇ」

「それは困ったもんだな」

 ……無理に話をそらそうとしてもイヴの両手に握られた葛湯の塊は湯気を立てて食べろ食べろと……いや、飲め飲めと圧を放っている。観念してスプーンでマグに小分けにして落としてはお湯に溶き、二人苦戦しながら飲みきったのは三〇分後だった。身体はすっかりあたたまって、もはや暑いくらいだ。イヴもニットのハイネックをひっぱっては縮めて服のなかに空気を送りこんでいる。おれは熱を持った手でまぶたを押さえた。うつむく恰好だったので心配したらしい。イヴが隣りに座って声をかけてきた。

「大丈夫だよ、目許をあっためてるだけ。肩の凝り、首の張りって目の疲れからも来るんだってさ。人間って不便だよなあ」

 もう自分でも忘れかけているが、この話の始まりはおれの肩こりだ。イヴは“なんだぁ”と肩を揺する。そして手を一つ打つと、こぶし三つぶんだけおれから離れて座った。

「そういうことでしたら、どうぞどうぞ」

 赤ワイン色のスカートのふとももをイヴは叩いてみせる。

「ありがたいけどワックスつけちゃってるからなあ、どうするか」

「じゃあ先にシャワー浴びてきてください」

「お父さん、そんなふしだらな言葉赦しませんよ!」

「えー。じゃあお湯で拭きますか?」

 イヴの前髪についた葛湯とはちがう。叱りはしたが、じっさいシャワーを浴びないことにはどうにもなるまい。そして叱った手前、それはできない。叱っていなくたって膝枕のために待ちぼうけさせるわけにはいかぬ。

「マフラー敷けばいいや」

 ハンガーラックから取ってきたマフラーをイヴは受け取って、開いて二つにたたみ膝に広げた。厚意に甘えて横になると、強く張りのある弾力がおれの頭を受け止める。嗅ぎ慣れたマフラーは表面的な感触だけを残して、イヴの香りが顔を包む。桜より淡い色のニットの、なだらかな膨らみの奥で金色の目が笑う。

「寝ちゃったら起こしてね」

「がんばります~。寝た子を起こすのはやったことありませんけど~」

 閉じたまぶたにイヴの指の感触がして、じんわりと広がる熱が冷えた眼窩に満ちてくる。深く息を吐くと意識がずっと下へ引っ張られる。世界一ゼイタクな居眠りになるなと、覚悟と期待が膨らみ、すぐにしぼんだ。目玉にすごい圧迫感がある。イヴがまた指先で揉んでいる。細い指先が目玉と骨のあいだに挟まる。

「め、目玉はやめてくれる?」

「揉むと血行がよくなってすぐあったまるらしいですよぉ」

「いや、そうだろうけど、あのね、そのかわいいお手々置いてあっためてくれるだけでじゅうぶん、よくなるから……マジで……」

「はあい。うーん、……じっとしてると私も寝ちゃいそうですし、歌でも歌いましょうか?」

「ああ、それはいいね」

 暇をさせてもかわいそうだし、この状態ではスマホもいじれない。それにイヴが眠ってしまったらおれもだめそうだ。イヴが起きているという緊張感だけが睡魔をおれから遠ざけてくれる。

「リクエストはありますか~?」

「イヴの好きな歌が聞きたいな」

「大丈夫ですか?」

 返した声音がやけにマジメだ。自分の歌声でおれが眠る心配をしてくれているんだろうか。

「遠慮も心配もいらないよ。床にでも落としてくれれば起きられるさね」

「いえ、そうじゃなくって、権利関係とか」

「……この話はここで終わるから、気にせず自由に歌っていいよ」

 

 

 

(了)

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