「ああ、ほら、さっそくいたわ! さ、触りに行くわよ」
春霞に陽の光も眠たげな昼下がり、和久井留美が声をとろかしておれの脇を駆け出した。スキニーなデニムは、かかとの低いパンプスを軽快に踊らせる。留美の目指すのは、狭い道端にけだるく寝そべる、白い猫だ。ところどころに黒いぶち模様があり、一つが左目の周りを円くかたどっていて、眼帯のようになっているのが特徴的である。
ひとに慣れているのか、駆け寄ってかぶさるようにかかむ留美にも、二色の毛の視線を投げかけるのみで、身じろぎもしなかった。……緊張した手つきで背中を撫でられるのには、しかし、顔をしかめてみせるが。
「だ、抱っこしてもいいかしら? にゃ? ……にゃ?」
はやる留美の手首に、ぶち猫はゆっくり前足をかける。そっと持ち上げられ、胸に引き寄せられると、ひとつ鼻を鳴らして目を閉じた。悪い気はしていないようだ。そして留美も、胸でくつろぐ猫に感激しているのだろう、わなわなと小さく震えている。
……ここは谷中銀座。かつて文人が多く住んだ千駄木、ツツジの根津神社で有名な根津と合わせて谷根千と呼ばれる地域の、東の入り口の一つだ。谷中は寺の多さで有名だが、同時に猫の多い地域でもある。我が愛しの和久井留美は、ともすればおれよりも猫が好きであれば、ここが憧れの地だったという。
「ねえ、はやく写真をお願い!」
立ち上がった留美の胸で、ぶち猫は退屈そうにしている。罰当たりなやつめ。ファインダーに留美と猫をおさめてシャッターを切ると、追加の注文が飛んだ。
「私の顔は撮らなくていいの。この子だけ大きく撮ってちょうだい。……私はこんなだもの、写してもしかたないでしょう」
猫アレルギーを抱える留美が、それでもこうして猫と触れ合っているのは、厚手のマスクと大ぶりの眼鏡で、どうにかアレルゲンを遮断しているからだ。ただその姿は過剰な変装にも見えて、待ち合わせ場所でおれも笑ってしまったほどである。写真を友達にも見せたいだろう留美としては、猫の印象が薄れるような絵面はお断り、ということだ。
「はいはい、御意に。それだったら個人的には、Tシャツよりワイシャツとかブラウスを着てきてほしかったな」
「あなたの楽しみのための写真ならべつな機会に撮らせてあげる。この写真は私のためだもの……えらそうでごめんなさいね」
仏頂面を三枚撮ったところで、ぶち猫は留美の腕を飛び出した。行きがけの駄賃に留美の尻を触り、音もなくアスファルトに降りると、路肩の陽だまりに大きく欠伸をした。
「ふふ、フラレちゃった」
別れを惜しむ留美の肩を叩き、撮ったばかりの写真を見せる。最初の一枚は消されたが、つづく写真には満足したようだった。
「あなたに頼んで正解だったわね。さ、つぎの子に会いに行きましょう」
「その前に猫の毛、取ってからね」
差し出した服用のコロコロを、留美は手のひらで制した。
「それもやってもらえない? きょうは一日、あなたに甘えさせて」
アレルギーの発作の介護を前提にした同行を頼む時点でかなり甘えてくれているのだが。そしてどれだけ甘えられても嬉しいのが男の性というものだろう。
「もっと猫っぽく」
「留美にゃんの服、きれいにして欲しいにゃん。……これ、楽しい?」
「かわいいよ、顔が見えないのが残念だ」
胸と両腕についた毛を取り、粘着シートの表面を一枚はがしてごみ袋に包む。
「お尻は? さっき踏まれてた」
「あのくらいはいいわ。触りたいならあとでね」
いいながら、留美の脚はまっすぐに、猫の商品を軒先まではみ出させた店へ向かっていた。靴底が地面から数ミリ浮いていそうな足取りで。アレルギーの症状でふらついているんじゃあないよな……。
「ずいぶん買ったね」
手に提げた紙袋に、留美が吟味に吟味を重ねた猫グッズがずしりと重たい。まだ一袋で済んでいるのがさいわいだ。まだ一軒目の店だが。デートで荷物係、なんてのは経験がないではないが、留美とのデートでこうなるとは……。
「ふふ、欲の皮の突っ張りに土俵際で押し負けちゃったわ」
「……浮かれてるねえ」
ふだん締めてばかりの留美だから、弛めるところもとことん弛くなるのだ。そんなふうに理屈をつけてみないと、置いていかれそうな変わりようである。
「いま笑った?」
「ああいや、まだ留美のこと、知らないところがたくさんあるなと思ってさ」
「こんな私はお嫌い?」
「かわいいよ。それこそ猫みたいだ」
爪を出さない猫の手でおれの胸を引っかいて、留美はするりと道の先へ急ぐ。それを腕でつかまえ、肩を引き寄せた。
「なにするにゃん」
含み笑いでこんどの猫の手は頬に来た。……ストレス溜まってるんだろうか。肩を抱いて、耳許に答えを返す。
「商店街、けっこう混んでるから。迷い猫になっちゃあいけないだろ」
「離れたら見失っちゃう?」
「すぐ見つけるけど、心配でしょうがなくなるね」
長袖のしなやかな腕がおれの腕にからみ、細い指が上腕をつかむ。控えめな胸は当てかたもおとなしく、組んだ腕を引き上げてやらなければならなかった。……これも留美なりの甘えかたなのだろう。
二〇〇メートルに満たない谷中銀座商店街は、国内外の観光客で溢れている。濃厚なメンチカツのにおいを振り切り、ひととひとのあいだを縫って歩いた。猫の姿を見つけることが叶わないのは、入り口の時点でわかっていたことだ。かわりにハンコ屋の図柄を冷やかして、猫の小物を見て回る。
「ありゃあ、また自分で買っちゃった?」
留美はきょとんとして頷き、はっとしてマスク越しの口許に手をやった。
「あなたも買うものがあった? ごめんなさい、夢中になっちゃって」
「おれは欲しいってより、留美に買ってあげたいかな」
「あら、ありがとう。でも自分のお金で買うからいいんじゃない。このために稼いでるようなものよ」
「おれだってそうさ。留美ちゃんの幸せに寄与したいんだよ」
「なら……そこの焼きドーナツをいただこうかしら」
白魚の指の示したドーナツ屋の店頭へ近づけば、並べてあるのはマドレーヌ……のような、棒状のドーナツだった。猫のしっぽをイメージして色と模様をつけたものらしい。なるほど、留美が好きそうだ。
ご所望の味のものを買って渡すと、手は手のひらを向けるだけで、礼をいう口のマスクを下ろさない。
「あなたの部屋にもどってからいただきましょう」
「いまじゃあなくていいのかい。マスク外したって、そうそうバレやしないぜ」
「身バレより、アレルギーの用心よ。あなたがいるから倒れても平気だけど、できたらこの街を楽しみきりたいもの」
観光客向けと地元住人向け、二種類の小粒の店を眺めながら、気ままな猫の旅はつづく。配る土産にフロランタンを買い、猫の細工がついた茶碗を買うか買わぬかたっぷり悩む。……結局、なるべく見ないように棚へもどし、足早に店を辞した。わけは、
「もう茶碗はあるし、普段遣いを考えると壊しそうだから」
とのことである。
さて、丁字路に出くわせば雑踏とも商店街ともおわかれとなる。向かって右、北へ伸びる道に、スレンダーな黒猫は進んでいった。腕を絡めたままのおれを連れて。
路地から路地へ、仲間を求めて黒猫が軽やかにステップを踏む。キジトラ、ハチワレ、銀目の白猫。はじめのぶち猫ほどひと懐っこくないようで、どれも撫でるまでが限度であった。
「怒られちゃうとやっぱり悲しいわね」
「よしよし。あのぶちはとくべつ人間を好きだったんだろうね。行き来の多い道端で寝てられるくらいだし」
「ああいう子に、もう一匹くらい会えたらいいんだけど……」
上腕をにぎる指をわずかに強くして、留美はまた足を踏み出した。おれまで鼓動を早めながら曲がった角の先、ごく小さい藤棚を設けた軒先に、腹這いでくつろぐサバトラが細い瞳をこちらへ向けた。
その視線からなにか伝わったのか、留美がやさしい声音で鳴き真似をする。サバトラは大きい耳を立て、それからゆっくりと身を起こして、小さい身体を左右に揺らしながら歩いてきた。毛並みも綿のようで、まだ幼い猫らしい。
小さい足はしだいに速くなって、留美の爪先を踏んでふとももへ飛びついた。留美がふらついたのはアレルギーショックや、子猫が意外に重いせいではない。黒々と丸い瞳で見上げられ、小さい口で舌っ足らずに鳴かれては、おれだって平衡感覚を喪うに決まっている。
「ねえ、写真……。ああでも抱っこしてあげないと、お手手が疲れちゃうわね」
あわてて切ったシャッターの、お世辞にも上手いといえぬ写真に苦笑いするおれの横で、留美が子猫と言葉をかわしている。名前を訊いているのだろう。おれは猫語には明るくないが、留美のことなら多少はわかるのだ。
ともかく、この瞬間のおれはカメラマンである。胸に前脚を突っ張った姿に、背中を撫でる手の親指を舐めようと身をよじるようす。よじ登ろうとする尻を支えられて胸と前腕の隙間で仰向けになる。お腹をくすぐる指先へ抵抗する、小さい爪を出して開いたピンク色の肉球。人差し指の先を甘噛みする口と牙。……それを愛おしむ留美の瞳も、自分用に撮るかよほど迷ったがやめておいた。
「ちょ、ちょっとだけ……。勇気を出しても……」
子猫がなにか欲しがるように、留美の腕のなかから前足を伸ばした。小さい肉球が向くその“なにか”は、留美の顔である。
「留美、まさか……」
「だめだったときは、お願いね」
震える手で子猫の脇腹と尻を支えて、留美は顔の横へと愛らしいふわふわのかたまりを持ち上げた。
「ちょっ、ちょっと本気か!?」
「見てのとおりよ?」
文字にすれば涼しげにいってのけたふうだが、緊張なのか歓喜なのか、声は完全に上ずっていた。子猫はおれの心配など知りもせず、それは留美にとってまったく望むところであろうが、留美の頬やマスクや眼鏡につやつやの肉球を押しつけ、浅い色の鼻ごと、もこもこの顔を擦り寄せる。
それは猫の魅力のなかでも特筆すべきものではあろう。しかし同時に留美の命の脅威でもあるのだ。猫アレルギーの原因物質の多くは体液由来で、花粉のように猫の体から空気中に放散される。猫の毛そのものはアレルゲンでないが、大量のアレルゲンをまとい人間の服や皮膚にしつこくくっつく、危険物である。
「こんなこと、めったにできないから……」
「ああ、わかってる。あんまりしゃべると毛を吸いこむよ」
留美と子猫をファインダーにおさめ、あるいは子猫だけにして、何枚となく写真を撮った。さすがにくしゃみをこらえきれなくなると、子猫も心配そうな鳴きかたをする。それを待っていたのか足許からニャアと、しっかりした声が上がった。
模様はちがうが親猫だろう、まっすぐに子猫を見上げてふたたび、こんどはひときわやさしく鳴いた。くしゃみの止まらぬ留美に代わって子猫を返すと、鼻息を吹きかけて去っていった。人間にかまいすぎたことを叱るような声音で鳴きあいながら。
「留美もだいぶむちゃしたね」
返事のできないほどむせる留美に、ひとまずエアブロアでアレルゲンを払い、場所を変えてマスクを外させる。顔を拭くと化粧も落ちてしまうが、マスクをしているから、まあ、いいだろう。おれくらいしか見ない。マスクをするのは化粧をサボるため、なんて女性も山ほどいるというし。
おれが子猫に触った手をウェットティッシュで拭いているあいだに、留美は抗アレルギー薬を飲む。
「症状が落ち着くまで、どこかで休もう」
「ええ……。それなら、行きたいお店があるの。少し歩くみたいだけど……」
「歩けるなら行こう。支えるよ。猫探しはもういい?」
「ええ、ふふふ、はしゃぎすぎたわ」
「できたらもう帰って、服も身体も洗ってあげたいんだけど」
「そうしてもらおうかしら……でも、もう一軒だけはぜったい行くから」
……少し根津のほうへ行くと、招き猫の絵付けができる喫茶店があるという。きょう出会えた猫のなかから一匹、似せたものを作りたいそうだ。
「大丈夫かい、ほんとうに。きみになにかあったらたまらんぜ」
「平気よ、このくらい……。猫ちゃんと触れ合えてほんとうに幸せなんだもの。息苦しさなんてのは些細なものよ……。命を削ってでも近づきたいものって、あるでしょう」
「まあね……。猫ってやつは気まぐれだもんなあ。おれだったらそんな負担はかけやしないのにさ」
「ふふふ、ありがとう。でもね、好きでやってるところもあるのよ、私……」
そういって倒れこんできた留美は、脚の力がだいぶ抜けているらしかった。抱えては支えきれず、さっきの子猫ではないが、手を椅子と差し出してやっとふらつく身体が安定する。
「もう少し、もう少しだけつきあってほしいのよ。こんな半端なところでは、終われないから……」
胸にのしかかるきれいな髪に指をくぐらせ、おれはただ、頷くだけである。
(了)