薄い三日月が東の空の低くに浮かぶころ、日下部若葉はベッドに寝そべり、スマートフォンをいじっていた。
「きょうのマナー講習、すごくためになりましたよ!」
「そりゃあよかった。紹介したかいがあったな」
チャットツールで昼間のお礼と雑談をする相手は担当プロデューサーである。桃色の小さい足をゆったりしたパジャマの尻の上で交互に揺らして、得意げに指を滑らせる。
「そうだ、ことしの誕生日はフレンチディナーにつれてってください!」
気軽なOKのスタンプを返されて、若葉は深緑色の目をしばたたかせた。
「そんなすぐOKしていいんですか? レディと二人でディナーなんですよ? 留美さんに諒解とらなくても?」
彼は若葉たちの同僚、和久井留美に首ったけであった。不貞不義を赦さない彼女であるから、彼はこうしたことは慎重に決めるものと若葉は思っていた。
「ちゃんと事前にいいはするさ。このくらいのことまで細かく縛るような段階、もう乗り越えてきたのよおれたち」
「このくらいって、レディですよ私だって。一人前の!」
送信をタップして数秒、むう、と若葉は追加でスタンプを押した。怒った顔のスタンプだ。プロデューサーから、笑うスタンプが返ってきたからである。
「もう、なんで笑うんですか!」
「なあお姉ちゃん、そういうのは自分でいったらだめだぜ」
「むう」
「訊いてないことをだね、出会い頭に“怪しい者ではありません!”とかさ、いうのはたいていうそだろう」
「わかりました、ミミズクさん」
「ミミズクじゃあないっていってるだろ!」
「ほんとかなー。怪しいなー」
こんどはプロデューサーがスタンプで怒る番であった。彼の前髪には二束の癖毛が跳ね上がっていて、まわりからは化けミミズクと呼ばれているのである。
「あ、そうだ。あした、いただいた資料置きに出社しますね」
「オフくらい会社になんか寄りつかんでもよかろうよ」
「つぎはトレーニングウェア持ってくんでかさばるんです」
ほんとうのところは追求逃れの、てきとうな話題転換でしかない若葉である。納得したのかどうかあいまいな返事のプロデューサーに“おやすみなさい”のスタンプを送り、スマートフォンを眠らせた。
……翌日、日ごとに陽気さを増す太陽が天頂を越えたころに、日下部若葉は鼻歌まじりに事務所への道をたどる。桜にかわって桃とツツジが、東京の街をより濃い春色に染めている。辻をまく風にボリューミーなふわ毛を乱されても気にはならなかった。
「おはようございますっ」
元気よく開けた自分たちの居室に返事はなかった。部署のメンバーの出欠を示すマグネットは、どれも不在の赤になっている。
「なんだー、残念」
曇らぬ声のまま、自分のマグネットを在室の白にする。脇にかけられた鏡をのぞくと、風が髪に挿していった花びらの多さに苦笑い。わざと少しだけ残して払い落とす。風にかわいくされたように見える程度に。だがそれは鏡でわかる正面だけのことで、うしろの飾りはあきらかに過剰ないたずらの域に達したままだった。
ピンクの花びらを数多うしろ髪にしょったまま、若葉は持ってきた書類を棚にしまった。彼女の耳が硬質な音をとらえたのは、そのときである。
「だれかいます?」
薄い紙とボールペンで無心に字を書くようなその音の出処を探して、若葉は首を巡らせる。窓辺、プロデューサーのデスクをそれと聞き定めるに至ったが、こんどは背筋を冷たいものが落ちていく。
「だれかいるんですよね?」
爪先から声まで震わせて、若葉は音の止んだデスクとの距離を詰めていく。窓ガラスを叩く風に飛び上がり、後退しつつ、薄目を開けてモニターの脇からデスクをのぞきこんだ。
そこには若葉の顔より一回り大きい、茶色の毛の塊が転がっていた。悲鳴を上げた若葉に、毛の塊の上半分が勢いよく回転し、夕陽のような光を二つ灯す。そしてボールペンのスクラッチ音をデスクに立てながら、尻餅をついたままの若葉を、モニタと本立てのあいだから見下ろしに来たのである。
斜め上から注ぐ二つの夕陽はぐるぐると円を描くと、やがて横に並んで止まった。驚きと恐怖の涙でゆがむ視界のなか、若葉はその夕陽の上に二つの小さい角があることに気がつく。まるでプロデューサーの癖毛のような……。そう思うと、とたんにその毛玉の姿が、正しく像を結ぶのだった。
「み、ミミズク?」
ハート型のフェイスラインに、猫の耳のように跳ねた二つの毛束。大きい目、小さいクチバシ、ふかふかの羽毛の下にのぞく黒く鋭い爪。落ち着いて見ればまごうことなき、ミミズクである。
既知の存在となれば恐怖はひっこみ、むしろ疑問が湧いてくる若葉だった。立ち上がる小柄な身体を、ミミズクが顔全体で見上げる。その視線にすっかり気を大きくして、若葉は人差し指を示す。
「きみはどこから来たのかな~? ここはプロデューサーさんがお仕事をするだいじな机なんだから、散らかさないでね。仏像だって落っことしちゃダメよ、プロデューサーさんの趣味なんだから、壊したら焼き鳥にされちゃう」
ミミズクが人間の言葉を話すはずもなく、しかし聞くことはできるようで、首をひねってみせた。若葉がそれを拒否と受け取ったのは、円い瞳にかかった影のためである。
「テーブルのほうが広いでしょ」
短絡的に実力行使におよぶ若葉だったが、短い鳴き声で食らいつかれそうになると、いちだんと甲高く短く鳴いてあとずさった。息を整えてもういちど、足をつかもうと構えてにじり寄る。
迷惑そうに上下のまぶたで目を四角くするや、ミミズクはそっぽを向いた。そうして顔のほうへ体を合わせて、トチトチと爪音をさせながら机の上を歩く。キーボードの正面へ迂回して、翼とクチバシでたたきはじめた。
「ど、どうしたの!? なにか打ってる……」
椅子のほうへ回ってモニタをのぞくが、ログオン画面のパスワード入力欄に黒丸が増えていくばかりである。エンターキーを足で押しこみ、パスワードがちがうと表示されると首を真横に倒した。
「プロデューサーさんのパソコンなんだからいたずらしちゃだめー」
「くるるる……」
顔だけ若葉に向いて喉を鳴らすと、ミミズクはまたデスクに小気味いい音を立てて歩く。数歩だけ進み、モニタの脇、写真立ての前で動きを止めた。赤とオレンジの中間の瞳は、その写真……黒猫とミミズクのぬいぐるみを胸に抱きほほえむ女性をじっと映しているようだった。
「留美さんが気になるの?」
黙ったまま目を細める横顔はどこか寂しげで、若葉は胸の奥に針の冷たさを覚える。リラックスしたのか、ミミズクは羽角を立てた。そのシルエットは、写真の留美のうしろに控える男の髪型によく似ている。
「……まさかね」
ふとよぎった妄想を払うようにかぶりを振ると、ピンクの花びらが舞い散る。
「見~た~な~」
不意の声に飛び上がった若葉が見たのは、居室の扉に仁王立ちの並木芽衣子、彼女の同僚であった。大判の革手袋をつけた左手で若葉を指さし、恐ろしげな声を作って近寄ってくる。
「見てしまったね若葉ちゃ~ん」
「ええっ、ちょっ、この子なにかまずいことが……!?」
「“子”だってさ、文句いわないの? ピーちゃん?」
一転してニヤニヤと、ミミズクを見下ろす芽衣子である。当の彼はまったく意に介さず、写真を見つめつづけている。
「まさか……」
振り落としたはずの妄想が、デスクの花びらとともに、芽衣子の手によって若葉の頭にもどってくる。顔色をワントーン悪くする若葉に、芽衣子がにっと笑いかける。
「昔ね」
「ひゃいっ」
「どこかの山で、ミミズクのヒナが地面に落っこちて鳴いてたんだって」
芽衣子は一人と一羽に背を向けて、そう遠くない窓の外を眺めながら、話をしはじめた。
「ちょうど山歩きをしてた家族がいてね。お父さんとお母さんと、まだ小さい女の子。その子が見つけて、お父さんが肩車をして、巣に返してもらったって」
若葉は無言で、芽衣子の背中とミミズクの背中を交互に見ながら話を聞く。
「ヒナは助けてくれた女の子に恋をしてしまって、人間になりたいと願った。仏さまにお祈りをして二〇年、ついに人間の姿を得たミミズクは、憧れのあの少女を捜して人里に降りて……」
「あ、あの、まさか……」
「半年前にさ、私、プロデューサーと北海道にフクロウ取材に行ったじゃない。あのときシマフクロウの王さまに会ってさ。こんなこといわれたんだ」
固唾を飲む若葉に、芽衣子はゆっくり振り返った。
「“おまえがひとの姿を得てじき一〇年。つぎの春に想いを遂げられなければ、その身を保つことは叶わぬと思え”……って」
「想い……って、その、留美さんと……?」
「そうね、けっきょく結婚に踏み切らないでいるから」
手を顎にして、芽衣子は深い溜息をついた。
「でも時間の問題みたいな感じじゃないですか! 待っててくれたって」
「若葉ちゃん、シマフクロウってけっこう短気なんだよ」
アイヌの伝承、ユーカラにはこんな話がある。
シマフクロウはアイヌたちを守る存在、コタンコロカムイと呼ばれる。
お使いに選んだ鳥の一羽めは、一晩に聞かせたぶんを憶えきれず、シマフクロウは怒って殺してしまった。二羽めは二晩めの話を覚えきれず、おなじ目に遭った。三羽めでついに七晩の話を身につけた使いが天に飛び、神さまとの交渉がはじまった……。
「覚え直しとかないんだ……」
「フクロウ業界に再チャレンジ制度はないみたいねー」
若葉の落とす肩を、芽衣子はやさしくたたいた。その肩がぐいと持ち上がる。
「そうか、さっきのは私にそれを伝えようとしてたんだ」
「ふふふっ。そうかもね」
「なんか芽衣子さんはミミズクとして扱う気満々だし、私になんとかしてっていってたんですね!」
鷹匠の手袋を指して頬を膨らされ、芽衣子はじつに愉快そうに笑った。
「笑いごとじゃないですよ! こんな姿になってもまだ留美さんのこと愛しているんじゃないですか、ほら! もういちど仏さまにお願いしましょう!」
「効果あるかなあ。仏さまのお願いは一回使っちゃってるし」
「仏の顔は三回まで使えるしこっちには日本の神さまもキリスト教の神さまもいるじゃないですか!!」
「ふっ、くくくっ、そうだね、じゃあ一緒にお祈りしてみよっか」
「もう!」
眉を逆立て、卓上の仏像に柏手を打つ。たまらず噴き出した芽衣子は睨まれ、舌を小さくのぞかせた。たっぷり一分近い沈黙のあと、若葉が力なくつぶやく。
「……なにも起きませんね」
「まあそりゃ、ねえ」
「早く人間にもどしてあげなくちゃ、留美さんだって悲しむでしょうし……。お百度参りがんばりましょう!」
「あはは、若葉ちゃん、もうさあ」
芽衣子が左手であおいだ、本革独特のニオイのする風が若葉の鼻に届いた。つづく言葉が笑った形の口から出ようとした矢先、また扉が開く。
「並木さん、ピースミリオンくんとは仲良くできてますか?」
そういって丁寧に扉を閉めたのは、若葉の見知らぬ女性であった。目を丸くする若葉の前で、芽衣子は“バッチリですよ”とそのボブカットの女性の前に進み出た。
「おいで、ピースミリオン!」
芽衣子の声にミミズクはのそりと身を起こし、モニタと本立てのあいだから机の縁を蹴って飛び立った。広げた翼は若葉の身長におよぶほど長く、力強くゆったりとしなって空気を押しのけ、軽い身体を急速に前へ送り出す。
「ぐえっ」
そしてミミズクは芽衣子の左手ではなく、顔を目がけて突っこんだ。
「……仲良しですね」
「なんでいつも顔に飛びこんでくるかなあ」
口を尖らせる芽衣子に悪びれもせず、ミミズクのピースミリオンは左にしたグローブに留まりなおす。
「あー……。そういえば並木さんは天秤座でしたっけ」
「そうですよ~。えっそれ関係ある話!?」
「訊きたいのは私のほうですよ! どういうことですか芽衣子さん!」
「おっと」
こんどは芽衣子が悪びれもしない顔を見せる番であった。空いている右手で背後の、右に寄せたボブカットの女性を若葉に示す。
「こちら、鷹匠の高寺要さん。んでこっちは借りてるベンガルワシミミズクのピースミリオンくん」
「ご挨拶が遅くなってすみません。はじめまして、日下部さん。多摩のほうで鷹匠をしています、高寺要と申します」
「たかてらかなめ、たか、じ、よう……。ああ……」
いつものやっつけネーミングだ。浮かんだ言葉は口のなかでとどめて、若葉も要に挨拶を返す。それも早々に、ふたたび芽衣子に眉毛を立ててみせた。
「さっきのはなしは」
「ぜんぶうそ」
……若葉の叫びは二人を飛びすさらせ、ミミズクに威嚇の声をあげさせた。そしてそればかりにはとどまらず、みたび扉が、こんどは勢いよく開く。
「どうした、なにがあった!」
「ホーッ!!」
駆けこんできた男の形相と髪型に、ピースミリオンはいっそう威嚇の姿勢を強固にする。なだめる芽衣子と要を押しのけ、若葉は威嚇されたミミズク頭の男、彼女のプロデューサーに飛びつくのだった。
「わああんプロデューサーさあん!!」
「……なるほど、芽衣子の作り話を若葉が信じて泣いた、と」
カップの紅茶をすすり、ミミズク頭のプロデューサーは溜息をついた。
「いや、泣かしてないし。ていうかシマフクロウの王さまあたりでツッコんでほしかったのに、若葉ちゃん信じ切ってるんだもん」
そういって芽衣子は紅茶の湯気を鼻息で飛ばす。
「そもそもなんでそんな作り話をしたんだ」
「その前に、なんで鷹匠の修行をしてるんですか……」
湯気で顎と鼻を蒸している若葉の割りこみに、ミミズク頭は話を促した。
……四月も半ばをすぎ、東京では藤の花が咲く時期である。神社や公園では藤まつりを催して、観光客を集める場所も多い。この藤まつり、運営の悩みの一つに、つぼみを食い荒らしに来るドバトの存在がある。
近年、一部の鷹匠はこれを解消するためのサービスをはじめた。すなわち、ドバトを追い払うための猛禽を貸し出すのである。
それを取り上げる番組のなかで、芽衣子が鷹匠に挑戦するというコーナーが作られることになった。ロケ日までそう時間はないのだが、猛禽を飛ばすこと、帰ってきたのを腕に留まらせることくらいはできるようにと、修行中である。
「で、飛ばして待ってとかやってると間が持たないから、いろいろ喋ろうってことになってね。ライブのMCとはまた勝手がちがうでしょ。ウンチク語りの練習がしたいなーと思ってたら」
「カモがネギ背負ってるところを見つけたと」
「ネギっていうか、桃の花?」
さすがにばつが悪そうに笑って、芽衣子は胸の前で両手を合わせた。若葉が口を尖らせ、カップに砂糖を落とす。
「芽衣子さんより留美さんがやったほうがうまくいくんじゃないですか?」
「なんで留美ちゃん?」
首を倒すプロデューサーに、若葉は小さい手をデスクのほうへ示す。
「あの子、ずっと留美さんの写真見てたんですよ。いまもほら。だから顔面に飛びこむとかしないで、素直にいうこと聞きそうって」
そこでは、若葉のいうとおり、ミミズクのピースミリオンがうっとりとして写真立てをのぞきこんでいた。ミミズク似の人間は皮肉っぽい笑みを浮かべて、自分の椅子のうしろから茶色の羽毛に話しかける。
「なんだなんだお目が高いなミミズクくん。でも、お近づきになりたいんならまずはCDつきの握手券を買っておいで? 安売りはしないぞ」
「おとなげない」
「ていうかその子が見てるの、留美さんじゃなくって抱っこしてるミミズクのぬいぐるみじゃないかな。ほかの写真ガン無視でしょ。余分なのが写ってない写真だっていっぱいあるのに」
「おい、だれが余分なのだって?」
「横と下のミミズクかな」
「いわれてるぞピースミリオン、突撃してやれ」
言葉が通じたのか、ピースミリオンはモニタに駆け上がって飛翔した。その目指す先は芽衣子の顔……ではなく、高く掲げられた若葉の左手のグローブだ。止まった勢いでソファのうしろへひっくり返りそうになるのを、要があわてておさえる。
「ふふん、バッチリでしたね!」
「日下部さんはキャッチが上手いと思ったんですよ」
得意になる若葉と楽しそうな要へ、ミミズク頭が真横にかしいだ。
「……なんで?」
「名前です」
「“若葉”でそれなら遊佐こずえとか真鍋いつきは鳥まみれになりそうだな」
「“木”! 私だって木って!」
「でも芽だしなあ」
「うわー、ミミズクにいわれたら納得するしかないー」
歳上二人の低レベルなやり取りを無視し、若葉は飛ばしかたのレクチャーを受けている。……飛ばし方はいたってシンプルで、腕に留まった猛禽を投げるようにして押し出すのである。ふだん彼らが飛び立つには、地面などを蹴った反動が必要であるが、人間の腕はいくら固定しても押し負けがちになる。ゆえに、むしろ押し出してやることになるのだ。
が、いくら腕を強く動かしても、もともと非力な若葉ではピースミリオンの脚力に腕が負け、ただ脚を伸び切らせたミミズクのユーモラスな姿を見せるにとどまっている。
「……飛ばすのを並木さんがやって、日下部さんがキャッチする、というのはどうでしょうか?」
「さすがカナメさん、もうこの際それでいこう」
二人は冗談のようなアイデアを真面目に検討していて、若葉の胸にふたたび氷の針を触れさせる。
「あの、この際って……?」
「ロケ日はあしたなんだよお姉ちゃん」
「がんばろうね若葉ちゃん!」
呆然とするほか若葉にはなく、あんぐり開いた口のなかをピースミリオンが物珍しそうにのぞいていた。
(了)