「あかりちゃん、ひょっとして高いところ苦手だったかしら?」
五フロアぶんはありそうな高い天井のこの場所は、四方にガラスの壁がある。抜けるような青空がその先には広がり、灰色のビルに埋め尽くされた地表とゆるやかなアーチで接する。首都新宿の街並みを二〇二メートルの高みから見晴るかす、ここは東京都庁第一本庁舎展望台である。
「好きです」
「……無理してない?」
「無理なんてしてません! ほら、下とかのぞいてもぜんぜん平気です」
大窓に貼りついて頼もしげな顔をするあかりの手をガラスから離させて、留美は理解と疑問を半々にして訊ねる。
「じゃあ、なにか怖がってない?」
「うっ」
たじろいであかりが展望デッキの隅へ転がった。身をかがめて周りを警戒している。厄介なファンがついた、という話はとくに聞き及んでいない。あかりの奇妙な動きのわけがまったく留美にはわからなかった。
「どうしたの、あかりちゃん。エレベーターに乗ってからようすが変よ?」
中央にあるカフェスペースで趣味に挙げるほど好きなラーメンを食べていても、まるで心ここにあらず、食べる作業をひたすらこなしているようだったあかりである。留美でなくともその異様な雰囲気は気にかけるところだろう。そんな縮こまったあかりが小さく手招きをする。顔の前で両手でもってやるので、留美にはネコのまねに見えた。それで顔を近づけるので、結果的にはなんらの問題もなかったが。小声の距離でようやく、あかりが口ごもりながら答えた。
「だって、タダなんておかしくないですか?」
タダ? 柳眉をひそめて、ここのことだと留美は小さく頷いた。都庁の展望台はだれでも無料ではいれるのだ。
「まあ、色々あるのよお金の仕組みは」
「しくみ!? や、やっぱり都民じゃないってバレると罰金が取られたり!?」
「外国のひとたちもいっぱいいるのに」
「さ、三万円とかいわれたら払えないんご……!」
「あかりちゃんの金銭感覚って現実的よねえ」
無料で絶景を楽しめるスポットとして海外ではなかなかに有名なこの展望台は、当然ながら新宿にある。熊野神社をいだく公園こそあるが、基本的にはオフィス街だ。本来なら観光客が来ることまれな立地にこの望楼があることで、新宿駅から一〇分ばかりの道中に並ぶ店々に観光客の立ち寄る機会ができる。つまりはインバウンドのきっかけとしての機能が強く期待されている。
「それに都庁がオープンだとか、無料でこれだけ景色が楽しめることも、都にとっていい印象になるわけね。維持費でそれだけの効果が得られるなら安いでしょう」
「でもその維持費は……」
「税金よ」
……と答えるとこんどは“都民に殺される”といいだしそうな気配を感じ、留美は部屋の中央を指差した。さきほど昼食をとったばかりのカフェスペースと物販である。円形のそこにはいまも数組の観光客が食事をし、また、都庁の限定グッズの棚で目移りをしている。
「ああしてちゃんとお店もあるから。タダで楽しむだけじゃ、って買っていくひとはそれなりにいるみたいよ」
あかりの表情からようやく不安の影が消え、りんご農家の顔をする。
「なるほど……無料サービスはだいじなんですね」
「返報性の原理とかいうわよね。……まあ、お金というなら、私たちはそもそもお昼を食べたんだから気にしなくていいわよ。お仕事までもう少し、景色を楽しみましょう」
あかりが立ち上がって眺めたのは西の窓だった。高い建物のほとんどない、しかしコンクリートのグレーばかりの地表の広がりはやがて灰がかったベージュにかすみ、青黒く連なった山脈のくっきりしたシルエットに変わる。そこへのしかかるように一つ突き出した山容は富士山だ。秋晴れの空に際立つ蒼黒と白の二色に、あかりが目と口を丸くして感嘆の声を上げる。
「真っ白! 真っ白ですね富士山って」
「山形の山のほうが白くなるんじゃない?」
「いーえ、木がいっぱい黒く残るんです、こっちの山って。蔵王くらいじゃないかなあ……」
低山であればたいていはあかりの記憶にあるように、雪に埋もれきらぬ木々に岩々が黒く、水墨画が写実的だと信じられるような光景を作る。蔵王の山は峰を連ねて白い壁のようにそそり立てば、三角形一つの山の姿を見せる富士山はとくべつな風景に映るのだ。
視線を時計回りに動かせば、平らかな灰色の地表がうねって隆起するのが見える。青梅街道沿いに立つ高層ビル群である。場所を変え、北へ視線が移るにつれて高いビルが目立ちはじめる。白くそびえる塔をあかりが指差した。
「スカイツリー……? でも小さいですかね?」
「豊島区の清掃工場ね。街なかにあるから煙突を高くしてるの」
「はぇー……あれで煙突。イヴさんとかああいうの大好きなんだろうなあ……」
「ゴミの焼却炉の煙突だから、どうでしょうね」
東へ向かえば新宿の構造ビル群が景色の下半分を占める。コクーンタワーを去って、もはや山脈もなく地平線の広がる視界にようやく、鋭く天を衝くスカイツリーが見えた。“針みたい”とあかりのいう高層建築のまた右に、ビル街の塊が現れる。東京駅である。かすかに見える東京湾の暗色を支えるように東へ東へ、ビル街は連なっている。赤い東京タワーを合図に海とビルは視界を遠ざかっていき、明治神宮の端をちらりと見せて眺望は途切れる。南側はエレベーターが設えてあり、窓がないのだ。二人ははじめに寄りかかった窓にもどってきた。
「で、あの三つ連なってるビルがパークハイアット東京。その横の高いビルがオペラシティよ」
「あれがぜんぶクリスマスイルミになるんですか!?」
「イルミネーションはあれの足許ね。まあ、夜になれば、半分以上の窓が煌々と光るけど」
残業している会社員たちの蛍の光であることをよく実感する留美は、少し苦そうにつけたした。それを拭い去るようにあかりの肩をたたく。
「へえ~。残業終わってやっとデートとかできるひとたちへのご褒美ですかね」
「……」
「留美さん?」
「ああ……なんでもないわ。私たちもしっかり働かないとね」
「はいっ! まずはご飯ですね!」
さっきまでのことは忘れて元気をとりもどしたあかりは、ラーメンを食べたことさえ忘れていた。円形のカフェスペースでメニューの写真を見ても、“こんなにチャーシュー大きいんですか!”と目を点にしたほどに。気がするだけとはいえ空腹で現場いりさせるのもかわいそうに思い、留美は飲み物だけと念を押してもういちどカフェの席につく。腕時計を見ると、まだ二〇分少々の余裕がある。ホットにせよアイスにせよすぐに飲みきれはしないだろうが、多少話しながらでも足りる時間である。見晴るかした都心の景色から、行ってみたい場所を訊いてみようかしら……。そう細めた目を、留美はすぐ見開くことになる。
「メロンソーダにしました!」
あかりが笑顔で持ってきた緑色の炭酸には、上に浮くバニラアイスに支えられてスプーンストローが二本刺さっている。
「えへへ、やっぱりなんかトクベツな感じしますよね、メロンソーダって」
「どうしたの、ストロー?」
「あ、これは時計見たら時間が押してるみたいだったんで、二人がかりで飲めば早いと思って」
「あかりちゃんがそれでいいならいいけど……」
こんどは留美が周りの目を気にする番だ。しかしメロンソーダの代金のことくらいにしか捉えていないあかりはさっさと一口ソーダを吸うと、上目づかいに追加のおねだりをくりだした。
「じゃあ、お仕事終わったあとまたここ来ませんか? おっきいチャーシューのラーメン、ちゃんと食べたいです!」
(了)