無事帰ってきたホールを少し見渡すと、フランケンシュタインの怪物に狼男、給仕とはちがう吸血鬼、男性陣の仮装はそれとわかるギリギリの簡素さだ。アイコンとしてのとんがり帽子に寄りかかりきっているおれがいえた義理でもないかな。
さて、そのなかにまた一人、見知った影を見つけた。赤いカクテルドレス、長いココア色の長い髪、黒いレースの長手袋……。
「前に着た衣裳そのままか、志希」
「服はね」
仮装を投げ捨てた一ノ瀬志希の、とりすまして振り返った顔を見て、おれは額をおさえてうめいた。目と鼻と口とがずれながら三つずつ描かれたその顔は、見るもののめまいを誘う残像メイクだ。
「そのメイクはやめてほしかった!」
「なんで? こういうの嫌い?」
志希は表情をよく変える子なので、喋っていてくれると本物の目鼻が目立ってだいぶましになる。問題はそこばかりではないが。
「いや、文字だけだとそのメイクのインパクトって伝わんないから……」
「そんなのググってもらえばいいじゃん。“残像メイク”で検索!」
「……ところで、なにしてたんだ? おとなしくしてるじゃあないか」
一瞬、六つの目すべてが怪しい青い光を放ったように見えた。眉根を歪めたおれの目に実際に光ったのは、志希が常備しているタバスコの小瓶だ。中身が小さい口からこぼれ、一口サイズのパンプキンタルトをいろどった。
「志希にゃんの赤い液体サービス中~」
「なにやってんだ志希!」
「……志希にゃんの赤い液体サービス中ぅ~」
すねたような顔をしやがる。
「聞いてなかったわけじゃあないってわかるよね?」
「だってだれもお菓子くれないからみんなにイタズラしていいんだよ?」
「ひとが作ったものを台無しにするのはいけません」
「食べたらおいしいかもしれないもん」
「いやまずいに決まってるだろ……」
「わーひどい。ひとの感覚をヒテーするなんてー」
ぼんやり立ち尽くしているように見えた志希だが、かなり絶好調のようだ。まったく心のこもらない口と、楽しくてしかたがない目が、描かれたそれとは別物になっていく。こうなれば残像メイクなにするものぞといったところだが、めまいがしないかと訊かれれば答えはノーである。
「いけると思うなら、自分で処理するか?」
赤く小さいしぶきを乗せたタルトを突きつけると、志希はそれを鼻先で笑う。
「まずいと思うものを食べろっていうの?」
「この際いうわ! ほら、食べ物を粗末にしない!」
ぷむーとかぷぎーとか鼻声で鳴きながら、前歯をむいて抵抗してくる。これが一八歳の娘のすることだろうか。
「こら、志希、ちゃんとあーんしなさい」
「ふにゅーんだ」
一歳八ヶ月のまちがいじゃあなかろうか。どうしたものかと次の手を考えていると、志希はとたんに表情を消した。横からなら立体感でメイクとパーツの区別もつくのだが、真顔で常に正面を向けてくる。
「それはずるいぞ志希」
「にゅっふっふっ、じゃあ目玉当てゲームしよっか」
残像の顔から腹話術師のように、声だけが器用に笑っている。なんだそれは。目で訊けばもう幼児ごっこは飽きたのか、あっさりと口を開いた。
「乳首当てゲームの目玉版」
「ぜったいやらない」
「乳首ならやってくれる?」
「やるけどやらんよ」
「じゃあプロデューサーが目玉役ね。当てるぞ~」
「やめなさい。気合いはいった爪しやがって」
突きつけられてやっとまじまじと見たが、志希の十指の爪すべてがハロウィン仕立てだ。マットな白、黒、オレンジの尖ったネイルに紫を差して、細かくジャック・オー・ランタンやコウモリに蜘蛛の巣まで描いてある。
飽き性の志希にしては……あっちがう。これネイルチップだ。そうだとして、これから起こりうる惨劇は変わりやしないけど。
「キミに見せるためにがんばってタイクツに耐えて睡魔と遊んでたんだよ」
気づいてないと思ってるらしい。べつに鈍い男でかまわないおれは、適当に話を合わせることにした。
「……がんばったな」
「志希にゃんも女の子ですから~」
ところでこちらも、志希がだいじなことを忘れていると思うしだいである。
「それじゃあかわいい志希にゃんちゃん、かわいいお口を開けてくれるかな」
「なんで?」
正直に志希は口を大きく開く。そこへさっと、右手につまんだ一口タルトを押しこんだ。……非常に悔しいことながら、おれはやはり鈍い男だったらしい。待ってましたと志希はタルトに、おれの指ごと食らいついたのだ。
親指と人差し指をがぶりとくわえたままで発した声は、“愚かなり化けミミズク”と聞こえた。
「志希、おい志希!!」
振りほどこうにも口のなかのことでは、ひどい怪我につながりそうで下手に動かせない。残りの指で抵抗するにも爪を立てるわけにもいかない。というか本気で食べようとしてるんじゃあないかと思うくらい舌と歯の動きがすごい。
「痛い、志希、ほんとうに痛いから! 爪が割れる!」
自由なほうの手で顎をつかまえたのがよかったのか、これ以上はよくないとさすがに思ったのか、おれの指はついに解放された。……オレンジ色になって。
「おいしくなーい」
どっちの話だか。
「ああもうわけのわからん歯形がついた……。ほら、志希、見なさい。きみがやったんだぞ」
「にゅーん」
奥歯でさんざん噛まれた指を見せると、鼻を鳴らしてつんとそっぽを向く。多少は悪びれているらしい。“どうしてこういうことするの”とか“なにかいうことあるでしょ”とか、いいきかせているうち胸にこみあげてくるものは情けなさだろうか。それともばかばかしさだろうか……。
なにがどうしてどのように悪かったのか、ひととおり的確に回答し終えると、志希は猫のように伸びていいはなった。
「ちっちゃい子の仮装はあんまり楽しくないことがわかったー」
「……ところで、タバスコまぶしたのはあれだけじゃあないだろ」
噛まれたことはもういい。他人に迷惑がかかる前に、志希のイタズラの跡を回収して回った。いずれも一口大のケーキにプリンにクッキーに、ピザは……べつにいいやそっとしておこう。
「自分のしでかしたことの責任は自分で取る!」
「お仕事のときということがちがうよう」
「責任には社会的なものと個人的なものがあるんだよ」
へえ、とそっけなく応えると、志希は赤い斑点のついたクッキーをつまんだ。そのまま口に運ぶかと思いきやおれの手に押しつけて、さんざんそれを噛んだ口を開いてみせる。
「あーん」
恐る恐る、自動販売機の硬貨のようにして、おれは赤いまだらのクッキーを志希の口のなかへいれた。なにか仕掛けてくるということもなく、クッキーは志希の喉をとおって腹のなかに消える。
「お味はどうだ」
「にゃにゃにゃ」
「にゃにゃにゃ?」
ノーコメントらしい。こうした調子で次々に食べさせていると、量が多いと文句をいいだし、結局おれもカラメルの真っ赤なプリンを食べる羽目になった。見た目を犠牲にしてよく混ぜたので感じるからさはそこまでではないものの、絶対量はごまかしようがなかった。口のなかに鈍痛がする。
食べさせなくてよかった、なんて思えるほどおれは聖人でもない。その次のクッキーを食べさせるとき、まだらのほうを下にして乗せてやった。
「これで終わりかあ」
ノーリアクションで飲みこんで、物足りなそうにつぶやく。
「あとはちゃんとしたものを食べよう」
「ほいっとな」
赤いものがまた志希の手許から飛び散って、小さいロールケーキにドットをえがく。スポンジはたやすくタバスコを吸いこんで、目立たないシミに変えた。
「気にいったのかタバスコ味」
「気にいってるから持ち歩いてるんだよ? それにカプサイシンは糖と脂肪でごまかされるからそんなに刺激ないでしょ」
「あのプリンはすげえ痛かったが」
「ハズレだったんだよ」
しゃあしゃあと答えた青い視線が、ロールケーキとおれの顔へ交互に注ぐ。こんどはアタリだとでもいうのか。つまみ上げると、志希が大きく口を開けた。
「どうした」
「開けてあげないと本物がわかんないでしょ」
助かったと感謝しかけて、おれはかぶりをふった。そもそもこいつが元兇だ。食べたりないのならいくらでも食べさせてあげましょう。おれはちょうどよく運ばれてきたラッシーで口を洗わせてもらう。
「ラッシーにもスパイス~」
「だめぜったい!」
あれやこれやとつまみ食い……いやつまませ食わせをして、ときどき飲み物も奪って、すっかり満足した志希に一匹の魔物が襲いかかった。ひときわ大きく口を開けて、そいつにはたやすく降伏する。
「ねむーい」
時計はまだ二〇時前。健康的なことで……。
「帰れるか?」
「うえでねる」
上とはおれの部署に割り当てられた、個室というには広く事務所というには手狭な部屋のことである。応接スペースのソファに毛布を三枚も使えば布団の代わりくらいにはなる。無理をおしても家に帰りたくてたまらなくなる寝心地だが。
青い目をとろんとさせて首も足もふらつかせて、過剰に眠気をアピールする志希の肩を支えて、居室まで運ぶ。簡易ベッドを用意しているあいだに志希ができたのは、ドレスをゆるめることだけだった。
加湿器と暖房を点けて、椅子で船を漕ぐ志希を立たせる。
「メイクは落とさなくていいのか」
「イレズミシールとおなじやつだからへいき」
演技ではなそうな足取りでベッドに座りこむと、アームドレスを脱いだ手をこちらに伸ばしてきた。
「おやすみのちゅーは?」
「きょうはずいぶん甘えるな」
「ちゃんとくちびるにすんだよ」
目を閉じた志希の、三つ縦に並んだいちばん下の口におれは唇で触れた。
「……そこはずれー」
「薄暗いからわからなかったよ」
「みみずくのくせに……」
さらになにか悪口をつづけていたようだが、唇から外には出てこなかった。
(続)