早いものでもう一一月。山の上で見上げる空は“吸いこまれそうなほど”という比喩を体で感じてしまうほどどこまでも青い。頭上の、夜空にも似た濃く鮮やかな青に向かって、山の稜線や地平線の淡い色が深みを増していくグラデーションを、日本で見ることはできるのだろうか。
「どうしたのプロデューサー、なんか飛んでる?」
スキーウェアで着膨れた並木芽衣子がおれの肩を叩いた。偏光ゴーグルの暗い虹色の奥で、アーモンド色の目は異郷の太陽に負けじと輝いている。
「なんもいないけど、空がいちばん見てて落ち着くなと思ったのさ」
「あー、ゴーグルしててもけっこうキツいよね」
……シルクロードをたどる旅番組の前乗りで、いまおれは芽衣子とともにイランを訪れている。古都イスファハーンだとか、最古のバザールであるタブリーズだとか、ロケが予定されている場所はロケの楽しみにとっておいて(これは芽衣子の言)、レジャーを楽しむことにした。スキーである。砂漠の国という印象が強いイランだが、アジア最大の火山ダマーヴァンド山など高い山々を有し、スキーリゾートが数多く整備されている。
そしてここは首都テヘランの北に連なるアルボルズ山脈のスキー場。どのベースでも標高は二〇〇〇メートルをゆうに超す。東にはダマーヴァンド山の、富士山を一・五倍したような山容が青く霞む。北の稜線の向こうには狭い平野を挟んでカスピ海が控える。テヘランから眺めた印象は、地形的にも長野から望む立山連峰のようだった。
空気の薄さは意外に早く慣れたが、真昼の冷たい日光は苛烈で、純白の雪の鏡から目の奥まで杭となって突撃してくる。それをやわらげてくれるのが偏光ゴーグルだが、それでもまだゲレンデはまぶしい。
「もっと強いのに変えてもらおっか」
「それもそうだなあ」
「ねえ」
「あれば、だけど」
ようやくおれは視界を下へ転じた。原色のスキー板が四枚。エッジの真っ直ぐな、旧型だ。いうまでもなく芽衣子とおれの履いている、レンタル品である。その沿って尖った先端の向こうには急斜面。幾筋かのシュプールがかろうじて見え、それはまばらな木立を抜けてリフトの下をくぐり、ベースにある施設までつづいている……はずである。なにしろそのゴールが豆粒ほどのサイズなので、自ら発光しているかのような雪の上のシュプールをここから目でたどることなどできない。
「滑るっきゃあないか……」
「おやおや? 怖気づいておられる?」
「さっきのが意外にハードだったからなあ、ちょっとチャージ中」
「なーる。中級コースって書いてたけど、日本の上級コースくらいはあったしね」
ウォーミングアップの仕上げだといって
「こっちはもっとハードなんだろ?」
「んっとねー、こっちは二キロくらい」
「短いのにさっきより高難度なの? いやな予感するんだけど」
「最大斜度二七度の急斜面が断続的につづくハラハラドキドキ
「たしかに楽しそうだ。……筋肉さえもてば」
「まだまだすごいのが控えてるんだからがんばってプロデューサー。上級だよ、上級!」
二キロに満たないが一部で斜度三〇度を超す急転直下の
「ここらのオーナーはアルスラーン戦記が好きすぎやしないか」
「それってイランがモデルなんでしょ? ならそんなもんじゃない? それより早く滑ろうよう」
芽衣子は子供のように両手のストックを振る。……子供よりは分別があって、上下に小さく。何度も刺された足許の雪がそふ、そふ、とささやかな悲鳴をあげた。
「まあ、そろそろ行きますかね。下ったらひと休みしたいかな」
「よーし、
あいまいなような具体的なような条件をいいながら、すでに芽衣子は雪の坂へ身を踊らせていた。パウダースノーをストックで押し、板で蹴り、おれが加速しだしたころには、はるか先で楽しそうに大きく動き回る点が、どうにか見えるのみだった。
「勝負ってんならあらかじめいっといてくれんかね」
「抜け駆け先打ちは戦場の花にござるよモグモグ」
オノマトペをわざわざ口でいいやがる。……ベースにあるレストランはそれなりにひとはいるが、地元の若者や近隣からのスキー客ばかり。若者たちは若者どうしはしゃぐのに夢中で、それ以外……つまり中央アジア地域のひとびとはさして関心を向けてこない。日本人はそう珍しい存在でもないらしい。人種や国籍はともかく、スキーウェアのまま、羽飾りをつけたカンカン帽をかぶっているのはなかなか珍しいと思うのだが。
おれが芽衣子におごらされたのはイランの伝統的な煮込み料理、ホレシュだ。ゴロゴロに切ったラムをメインに、セロリ、タマネギ、西洋パセリそしてライムを大量に煮込んで作るシチュウの一種である。といってもクリームシチュウとはまったくことなり、牛乳は使われていない。親子関係のあるものは一緒に調理しないという戒律のためらしい。使っている肉が羊であってもそうなのは、鍋の使い回しの問題だろうか。
「見た目よりぜんぜんサッパリした味だね」
「観光ガイドがシチュウなんて書くから面食らったけど、こりゃあうまい」
「これはラムだから~……えっと? 三時間は煮込んで作る! へえ~」
「そんな煮込んで味が抜けてかないってなすごいなあ」
「お昼に食べそこねてたから二倍おいしいねっ」
テヘランでレストランに寄るつもりが、飛行機の遅れと滑る時間との板挟みで諦めたのだ。代わりに屋台やデリで買ったシシカバブ、ナン、アジル(ピスタチオなどのローストナッツ)やサンドビーチ(コッペパンのサンドイッチ)を、レンタカーを走らせながら食べたのである。
「ん? プロデューサーはかわいくて元気な並木芽衣子さんが食べさせてあげたから、合わせて三倍……?」
「なんだねその“ズルいぞ”みたいな顔は。きみは」
おれの金で買った飯を食ってるだろ、といいさしてやめた。不毛なほうへ舵を切ることもない。飲みこみきらないうちに次の肉やナッツをおれの口にねじこんで笑っていた……のも、文句はもういい飽きたな。
「勝利の美酒も飲んでんだから、それでつごう三倍になるだろ」
「わー、ヘリクツ大魔王だ。べつにいいけど。サンドビーチのなかみ教えてやーんない」
「……どゆこと?」
芽衣子は意味ありげな笑みを口の端に一瞬浮かべ、ぱっと顔の向きを変えた。そして逃げ出した視線がどうやら、客を一人呼びこんだのである。
「うわー、ホレシュだけで食べてるの!?」
目の大きい丸顔にターバンを巻いた、一〇歳くらいの少年だ。両端に果物のかごを三重に吊るした長い棒を肩に渡して、テーブルのあいだをするすると駆け寄ってくるとそういった。叫びはペルシア語だろうが、あとはシンプルな英語である。
「え? だめ?」
芽衣子もかんたんな英語で訊きかえす。少年は得意げな表情になって身を乗り出してきた。ニッカリ笑う口に前歯が一枚なくなっていて一瞬悪い想像をしたが、着ている防寒着は上等なものだ。よく見れば生え変わりの時期らしい。小さく、白い歯の頭がのぞいていた。
「ホレシュはさあ、ポロと一緒に食べるんだよ。一〇倍おいしいよ!」
ポロはイランのピラフだ。長粒種のコメを使い、サフランとターメリックをふんだんに使って黄金色に、ハーブの香りもつけてパラパラに炊き上げる。一緒に炊きこむ具材でバリエーションがまた豊かだが、この少年がいうのはとくにシンプルな、豆のポロのようだ。ゲイメと呼ばれる最もポピュラーな羊肉のホレシュとあわせれば、ビーフシチュウをかけたご飯のような感じだろうか。
「そっかあ~。じゃあ夜試してみようよ」
「そうだな、ホレシュはほかの種類も食べたいしな」
「へへへ」
いたずら小僧の顔で少年は手のひらを上にして出した。小さい手の、指の付け根にはマメが目立つ。芽衣子はそれをのぞいて首を傾げた。少年はもういちど悪そうな笑い声を出した。
「情報料か、しっかりしてんな」
「そりゃー、ぼくのお小遣いだもん」
堂々と胸を張って、見返りを求める手を揺らす。
「持つものは持たざるものに分け与えよってさ。ぼくの話でお姉ちゃんたちはおいしいものが食べられる。ぼくも甘いお菓子が食べられる。ねっ」
「そのひさいでんのは商売道具じゃあないのかい。こんなとこ通っておつかいの帰り?」
「これは売り物。父ちゃんたちが作った果物だよ。家賃になったりするんだ。ぼくの好きには使えない」
英語を話せるのも、ここで主として観光客を相手に果物をバラ売りしているためだという。
「なーるほど、感心感心」
芽衣子もニッカリ笑い、小銭をいくらか小さい手に乗せてやった。しかしここがやはりしっかりしているというか、おれからもせしめるまで少年は手をひっこめなかった。
「で、果物もどう? 日本人なら、キウイとか温州みかんがおすすめかな。採れたてだよ!」
「みかん?」
ウンシュウミカンとはっきり発音されて、みかんどころ和歌山出身の芽衣子が身を乗り出す。
「うん、日本のみかんだよ。マーザンダラーンじゃみんな作ってんだ。まあ、ぼくん家がイチバンだけど」
「マーザンダラーンって?」
「山を北に越えてったとこだよ」
「カスピ海の沿岸だな」
「うん、いいとこだよ、あったかいし」
和歌山より愛媛という印象を受ける土地柄だが、芽衣子は“みかん仲間だ”とすっかり気をよくしているので黙っておいた。
「ぼくもよくみかん食べてるよ。オレンジとちがってさ、かんたんに食べられるし手もベタベタになんないし、すごいよね。日本で
うろ覚えなのはBreed improvement……品種改良のことか。立派なセールストークに芽衣子が二つみかんを買う。少年は屈託なく笑っている。
「お姉ちゃんたち、日本人ならさ、あっちにコルシで休める場所あるよ。日本人は好きなんでしょ、みかんとコルシ」
「こるし?」
「テーブルにヒーターがあってさ、布団をかけてさ」
果物かごを揺らしながらの身振り手振りに芽衣子が小さく手を叩いた。
「こたつ! イランにもこたつあるんだ!」
「へへ、気にいった?」
またも手のひらを上にして出す。まったくしっかり者である。ご両親もそりゃあ、安心して商売に行かせるわけだ。
「いいねえ~。みかんもおいしいし、いいとこだなー」
これは日本語での独り言だったので、少年には“居心地がいい”と翻訳して伝えた。
「お姉ちゃんも住んでみる? マーザンダラーンはいいとこだよ。お米も作ってるし、海も山もあるし」
海はさきほど話にあがったカスピ海である。
「行ってみたいなあ~」
「ぼく、マグリブしたらおっちゃんのトラックで帰るんだ。荷台に乗ってけもらってさ」
「トラック旅いいなぁ~。ちょっと憧れるなあ」
マグリブは毎日五回あるイスラム教の礼拝の一つで、日が沈んでから残照の消えるころまでに行うらしい。帰ったら食事をしてイシャー、つまり夜の礼拝を済ませてすぐに眠る。
「うちのみかん農園はすごいよ! 山の西側をまるごと使ってて、夕方になると金ピカになるんだ!」
「行きたそうだけど、ロケに間に合わなくなるぞ」
芽衣子に釘をさしたのは日本語でである。舌を出して笑うと、少年なりの熱烈なお誘いにこう答えた。
「行きたいけど、きょうはずっと南のほうにお呼ばれしてるんだ。あしたはそこから東のほう」
「あさっては?」
「もっと東。中国の砂漠のほう」
「ぼ……マーザンダラーンには?」
「ぜったい行くよ」
少年が口を尖らせた。言葉以上に素直な丸く大きい目が潤んでいる。
「私は世界中、どんなところにだって行くよ。知らないひとばっかりだけど、それが楽しいし。知ってるひとがいるとすごく嬉しいな」
少年のターバンに、芽衣子は帽子の羽根飾りを挿してやった。
「また会おうね。きみはずっと大きくなってて見ちがえちゃいそうだから」
固い握手を交わして芽衣子が席を立つ。おれはのそっと立って、少年の背を叩いた。
「かわいくて元気だが、自由すぎるお姉ちゃんだぜ。振り回されんようによーく鍛えておきな」
「ぼくだって
「そいつは頼もし……」
いいさして、いにしえの勇者の儀礼ではなく、ここのスキーコースのことだと思いなおした。実際にライオンを倒せる勇者でも、芽衣子の急加速急発進について行けるかはわからない。
「
「余裕だよ!」
……少年はかごを乱暴に揺らし、次の観光客めがけて駆けていった。握手はしてくれなかったが、そう悪い気はしない。外へ出ると、頭の上までスキーウェアに着替えた芽衣子がニヤリと笑う。
「かわいい子だったね」
「意外だな、ああいう子が好きなのか」
「うん。……って、好きってそういうことじゃなくてさー。うーん、でも、両方かもね」
複雑な色の視線をレストランの建屋に送ると、大げさな動きでスキー板を担ぎ、雪を踏みしめて芽衣子はリフト乗り場を目指す。おれも似たような動作でワタワタと、芽衣子の背中を追いかける。
「上級コースでまたオゴリ決めよ!」
「こんどは同時スタートにしてくれよ。 こんどは負けん」
「はいはい、三回戦あるからね、体力尽かしちゃダメだよ~!」
(了)