風がからからと足許を転がっていった。秋の午後、陽射しに色がつきはじめると、空気はとたんに熱を失う。ショートブーツの並木芽衣子がデニムスカートから露出する脛をさすった。まだ夏物とはいえスラックスのおれの脚にも少し冷える気温だ、無理もない。
「冷えこみを甘く見てたな~……」
「朝より冷えるようになったもんなあ」
「家出たときはこれで平気だったんだけどねー」
夕方からのが冷えるなんて、と芽衣子は目を閉じ、しみじみつぶやいた。
「秋だなあ……」
「ロケのあいだに一〇回は“秋だー”っていってなかったかい」
「目で見る秋と肌で感じる秋はちがうんだよ」
谷に織られはじめた錦を日の高いうちにリポートしつくして、山裾に広がる古都を散策するこの一六時前。いかにも得意げにして芽衣子は両手を腰にやる。ポーズをまねて“そうかい”と返すとエコバッグが重く揺れた。中身は芽衣子の、古都をジグザグ歩きに歩き倒して買った土産物だ。下に詰められたお菓子の箱で、重箱包みのようなシルエットになってしまっている。
「ストッキング一枚あればわりとちがうんだけど」
トレードマークのカンカン帽からシナモン色の瞳が見上げてくる。なにか思いつきたときの、いたずらっぽい光をたたえて。
「ここは懐からサッと出して“使いなよ”ってくるところじゃない?」
「懐からストッキング出てくる男は人間としてなにかおかしいんじゃあないかね?」
「じゃあカードでもいい」
なにがじゃあだ。露骨に怒った顔を作ってみせても余裕の表情は崩れない。“あればちがう”といってもこの芽衣子、ストッキングどころかハイソックスのたぐいもはいてるところをなかなか見ない。衣裳でなら何度か……いや、記憶にあるのはどれも衣裳だな。
「脚が動かしにくいとかいってたよーな気がするが」
「厚手のやつはねー。けどほら、プロデューサーが買ってくれるんならはくよ?」
カードが本命だろうか。名女優の芽衣子さんだから、さっき寒そうにしていたのがじつは演技だったのではないかと勘ぐってしまう。それで狙いがストッキング一枚なのはかわいいもんだが。
「ストッキングはいろいろありすぎてわからん、サイズとか、生地とか色とか、デニーロとか」
「ロバートは関係ないでしょ」
「お笑いの話?」
「きさまごまかそうとしてるな」
ブラック芽衣子の声がする。芝居で培った実力のなんともゼイタクな使い途だ。芽衣子の日常でほかにどんな演技力が必要かといわれると、まあ、たぶんないのだが。ともかく、おれは会話の流れを無視して指を差した。水平に張った芽衣子の鎖骨とソバージュの髪の、奥に揺れるオレンジのランタン。古民家カフェである。芽衣子が指先に鼻を近づけて、咬まれるかと思ったが、回れ右をするや軒先に吊るされた暖色の光へ無言で走る。
「ぜんざい、おしるこ、へえー、まだかき氷やってるんだ……。わらび餅、くず餅……うんうん」
茶色がかった厚手の和紙に筆文字だけのメニューを眺めて、芽衣子の気分はすっかり和菓子に向かっている。“これが肌着屋に見えるのか”だとかもう少し絡まれる覚悟をしていたが、そこはよかった肩透かしだ。
「……割り勘でいいよ」
視線はメニューのまま顔をこちらに向けて、口を小さく開閉したあと一瞬の真顔を経ての笑みである。芽衣子にしては珍しいこのフクザツな動きはおそらく、“ストッキングでないにしろ一枚くらい買ってくれたらよかったけどこれはこれで美味しそうだからこれをおごってもらおう。自分でいいだしたんだし。でもストレートにいうとまた渋るかもしれないから見栄に訴えかけてみるね”ということだ。
「おごるよ、おれちょっと座りたいんだよ」
「三十路だもんねえ」
「荷物も重くてねえ」
すました顔で睨みあいながら引き戸を開ける。カラコロと鳴る鈴に合わせて踊るように、芽衣子は指を二本立てて店員に挨拶をする。元気印のアピールではなく、二人の意味である。店内は空いているらしく、好きな席をと勧められた。壁も柱も古民家の風情を残して煤けた色をしていて、しかし、頼りなさは感じさせない。高い天井を見上げれば一抱えほどもありそうな太い丸太の梁が渡され、高い窓からの薄金色の光でぼうと光って見える。おなじようにして見上げた芽衣子が、その窓を指差す。
「二階の席、いいですか?」
返事は諾である。いかにも古い日本の家の、肩幅より少し広いだけの急な階段をおれたちは上った。二階の壁は二メートルばかりの高さから角度がついていて、おそらくそこから屋根がはじまっているわけだ。南向きの窓を挟む四人がけのテーブルを芽衣子は選び、荷物や上着を椅子に預けて、おれたちは並んで座った。もちろん窓側が芽衣子だ。従業員用のエレベーターがあるのか、奥から店員が玄米茶と伝票を持って現れる。
「私“秋のおしるこ”ください。飲み物はほうじ茶で」
「決めるの早くない!? えー……おれもおなじものを。お茶は緑茶……で、うん、お願いします」
“ごゆっくりなさっていってください”と丁寧に店員が下がると、芽衣子はさっと席を立ちビニール袋を開く。
「ふっふっふっ。これぞ天狗の遠眼鏡」
「お行儀よくないねえ芽衣子ちゃん」
木でできた片手持ちのオペラグラスである。天狗には鼻が邪魔して使えまい。友禅菊という、小花の花びらが細く鋭い菊が、野風に揺れる姿が彫られている。芽衣子の誕生日の花であるらしく、そのいかにも秋めく姿に一目惚れしたといって力強くレジに持っていった品だ。使い途あるのか、なんて背中にかけた声への、そのときはなかった返事がいま返ってきた。
「あっ、足湯がある! 次はあそこ行こっ」
「いいけど、タオルあるの?」
「途中で買えばいいよ。ていうか、あるある。足湯の向かいにお店ある」
「ちゃっかりしてますこと」
「ちゃっかりしてるひとがいるから私みたいなひとが助かるんだよ」
「なるほどたしかに。きみに連れられてるおれもおおいに助かることになるな」
すでに湯気の弱まった玄米茶は甘い。飲み干しそうになって、一口だけ残した茶碗を受け皿にもどした。
「ちなみにそのタオル屋さん、本業は靴下みたい」
「ひょっとしてストッキング諦めてない?」
「ふっふっふっ、ここにもちゃっかり屋さんはいるのだよ」
「そのちゃっかりでおれ助かる気がしなーい」
おどけた鼻先に友禅菊のオペラグラスが差し出される。受け取ると、ちゃっかり者は自分の玄米茶を上品に両手で持って一気に飲み干した。
「プロデューサーも行きたいお店探しなよ」
「そうさなあ」
鉄道駅でも見てやろうかと思ったがさすがにやめておいた。横から芽衣子は、自分の見つけた店の位置を指示してくる。靴下とタオルの店に足湯だけでなく、緑茶の専門店、地元の漬物屋、せんべい屋、松の木の立派な屋敷、などなど。一、二分のうちによくもそんなに見つけたものだ。おれが見つける店がなくなってしまう。視線を街から少し上げると、いらかの黒い波の奥に緑と黄色と茜色の、みごとに粧った山並みがレンズを占めた。
「私も見たい~!」
ゆずれば数秒オペラグラスをのぞき、芽衣子はニヤリとした。
「半分こしよう」
「半分で見えるのかなあ」
「見える見える」
半信半疑に右目で左のレンズをのぞけば、錦繍の山容が視界に飛びこんでくる。ときおり芽衣子が頭突きをしてくるのは、両目で見たい意思表示ではなく、ただはしゃいでいるだけだ。夕陽になりつつある金色の太陽へ向かおうとするオペラグラスを止めたところで、注文していた“秋のおしるこ”が届いた。目を丸くした芽衣子は、また店員が下がると、匙で具をひっくり返し、首を傾げた。
「どうしたの」
「これ、ぜんざいじゃない?」
「おしるこだろう?」
「つぶあんはぜんざいだよ~」
「ぜんざいはあんこと白玉のやつじゃん」
「なに……? まさか」
芽衣子はスマートフォンを高速で操った。三秒ほどで“そうだったのか~”と太い息をつく。……芽衣子の調べたところでは、関東と関西とで“おしるこ”“ぜんざい”は実体がちがうらしい。関東ではあんこの汁物はつぶあんでもこしあんでも“おしるこ”。汁気がないのが“ぜんざい”。おれの認識していたとおりである。そして関西、芽衣子の出身ではこしあんの汁物だけが“おしるこ”で、つぶあんは“ぜんざい”。では関東のぜんざい、あんこと白玉などの和え物はなんと呼ぶかというと“亀山”だという。
「べつにどっちの派閥ってわけでもないけど、私はね。こんなところに東西の文化のちがいがあるなんて」
「こういう名前の地域差みたいなの、芽衣子は詳しいと思ってたなあおれは」
「うぬぬ見損なうなよ。ぜんざいの由来を教えてあげようか」
「一休さんだろ?」
「一休宗純が“善哉、善哉”と褒めた……だけだと思う?」
いまはとくだん使いどころでもないと思うのだが、目つきがブラック芽衣子になっている。意識してないだけで意外にこしあん派なんじゃあないのか芽衣子よ。
「ちがうの?」
「出雲のほうの、小豆とお餅を煮た料理“神在餅”が訛ったって説もある」
「カレーの由緒とか、食べ物のいわれがたいてい二種類出てくるな……」
「神在餅はつぶあんなんだよねー。一休さんが食べたのも、小豆を煮たやつって話だからつぶあん」
「なるほど、そうならたしかに、これはぜんざいだな」
芽衣子は力強く頷いた。
“秋のおしるこ”あらため“秋のぜんざい”を、ようやくきちんと見る。小粒の小豆もつややかに、ほくほくに煮崩れて濃い湯気を出している。白玉の代わりに親指の先ほどの丸い小餅が三つ、黄色も鮮やかな栗は丸ごと。赤茶けて宝石のようになっているのは、ためらいなく食べた芽衣子によれば柿である。そして練りきりを使った紅葉が二つ。匙ですくって窓の高さにすれば、山の端から切り取ってきたような鮮やかさだ。
「いい席選んだね芽衣子ちゃん」
「でしょ?」
芽衣子が歯を見せて笑い、おれは笑い返した。というより、失笑した。わざとやってるんじゃあないかといいたくなるくらい、堪えるのは難しい話だった。
「芽衣子ちゃんよ、小豆ついてる」
「えっ、どこ? 取ってよ」
大笑いするおれに芽衣子は少し引いていた。ほかの客には迷惑だったかもしれないが、まあ、過ぎたことだから赦してほしい。
「歯だよ、芽衣子ちゃん、前歯についてるの、小豆」
「なっ……。さ、最初にいってよ~……」
「取ろうか?」
「いい!!」
山々にさきがけて赤く粧った芽衣子は店員を呼び出して、お茶のおかわりを要求する。物見高い風が一つ、窓の外を回ってどこかへ飛んでいった。
(了)