猫、巫女、サンタ、あいのうた   作:久聖

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留美  誰にも言えないヒミツだよ

 目がしぜんに開いた。部屋が明るい。……明るすぎる。高くなった太陽の、強くて白い光が部屋に満ちている。私はタオルケットごと跳ね起きた。きっと色を失った顔で。

 

 スマートフォンのロック画面はいまが九時一三分と告げている。メーラーを起動して上司に遅刻の連絡をする。

 

「和久井です。私用のため本日午前休をいただきたく」

 

 ……私の指はそこで止まった。必要ないのよ、こんなメールは、もう。きのう辞めたんだから。

 

 書きかけのメールを削除する。あの会社に行かなくていい。それはもっと清々しい気分だと思ってた。肺の下のほうに、冷たいものが粘ついているような感覚。溜息をつくとそれがいっそう重たくなった。自分でもどかしくなるほど鈍る腕で、スマートフォンをサイドチェストにもどす。

 

「あら?」

 

 サイドチェストには見慣れない紙片があった。それそのものは見慣れすぎた、でもそこにあるのが似つかわしくない紙片。名刺。

 

「芸能……」

 

 印刷された文字に息を呑んで、私はベランダのカーテンを開け放った。胸ほどの高さの手すりに、二つずつ並んだ大きい引っかき傷。ガラスに手と、鼻先までつけてそれを見る。まばたきをする。まぶたを閉じてぐっと目頭に力をこめて、開く。四つの傷は手すりにしっかりと刻まれている。ベランダには砂色の羽根が散らばっている。白い軸の、茶色まだらの。

 

 ガラスに押しつけた指先が熱い。口から吐き出した息も。冷え冷えとした澱はもうない。ゆうべのことは、夢じゃなかった!

 

 

 

 ……私は公園の噴水にぼんやり座っていた。正時を告げる鐘が遠くに聞こえて、腕時計を見た。二二時。溜息をこぼしたのは、一匹の猫も来ないから。ふだんなら植え込みのところや広場の石畳で描かれた絵の上を走っていくのに。丸い目を光らせて、足音を立てずに、たまにこちらを見たりして。

 

 そんなふうに、この噴水前広場は、夜になるとよく猫たちが横切っていく。近くで集会をやってるんじゃないか、と近所のひとはいう。猫の集会、なんて魅力的なひびき。のぞいてみたいけれど、猫アレルギーの身としては遠慮するしかない。すぐにくしゃみが出て、猫たちを驚かせてしまうから。だからここで参加者を遠目に眺めるだけ。

 

 でも猫の集会は、今夜はないみたい。そろそろ帰らないと。終電まではもちろん余裕がある。でも家に着いてもすぐ眠れるわけではないから。化粧を落として、お風呂にはいって。……。

 

 シャワーだけでも、べつにいいかしら。もう少し待っていたら、ほとんど黒の三毛ちゃんが来るかもしれない。都心とはいえ、夜の公園は星座が見えるくらい明かりに乏しい。油断していると見逃してしまう。

 

 どの子とも会えない日も、いままで何度もあった。そんな日はかってに裏切られた気分になって、ぬいぐるみを抱いて眠ることになる。そんな幼児じみたおこないが、情けないようでもあるし快くもあった。今夜にかぎって諦めきれないのは、これで最後だから。きょうまで勤めてきた会社が本社を置くこの街には、たぶんもう来ない。だから、もう少しだけ……。

 

「あの、大丈夫ですか」

 

 不意に、目の前で男の声がした。驚いて身が跳ねて噴水に落ちかかったし、悲鳴も短くだけれど洩れた。

 

「大丈夫ですか」

 

 自分のせいでこちらが取り乱したのをわかっていないのかしら。つい、ムッとなって言葉を返した。

 

「大丈夫です。……驚かされただけ」

「ああ~……。そっか、ごめん。なんだか表情が沈んで見えたんで」

 

 耳にかかる明るい色の髪をくしゃくしゃとかいたその男の言葉は、本気で反省しているようにも、どこか他人事のようにも聞こえた。……靴は濃い茶色、内羽のストレートチップ。底が薄くなっている反面、アッパーは手入れしてる。ダークネイビーのスラックス。擦れた膝の生地、はっきりした折り目。ベルトは靴とおなじ。カバンのブランドは暗くてわからない。やわらかく膨らんでいるのは、ジャケットをいれてるからかしら。ワイシャツは白、シャドーパターンが見える。夏でも長袖なのは、いかにも営業職。いまどきレギュラーカラーはちょっとめずらしい。生地も腕時計もいいものを使ってて、それなりの立場だとわかる。素面っぽい顔には多少疲れが見てとれた。赤いネクタイをゆるめて第一ボタンも外して、残業帰りなのね。ただ髪が、短く整えてるつもりなのだろうけれど……。

 

 いやね、無職になったくせにひとを値踏みなんかして。もう秘書でもなんでもないのよ。ただでさえ目つきが悪くて、威圧感を与えてるのに。心象を悪くして帰ってしまうかも。……“しまう”って、それはむしろ望むところでしょうに。

 

 自嘲が湧き上がって、眉根がかってに動いた。軟派そうな、私より少し歳上らしい男は“自分は無害です”とでもいいたげな落ち着いた笑顔を浮かべている。それは信じられた。同時に、なにか大きいことを隠していることもわかった。その明け透けさは演出か、素の人柄か。ああ、またよけいなことを考えてる。

 

「お隣、いいですか」

 

 さすがにそれは怖さもあって、私は立ち上がった。

 

「どうぞ。私はもう帰りますから」

「えっ、もうすぐ潮時なのに」

 

 猫の集会の時間を把握してでもいるのかしら。疑問は顔に出ていたみたいで、そのひとは“説明しましょう”とばかり頷くと、公園の木々の上を指差した。

 

「ほら、あの明るい商業ビル、あれが一〇時半で閉店でしょう。そしたらぐっと暗くなって、もっとよく見えるようになる」

「……はい?」

「星が」

 

 骨ばった指はまっすぐ上を向いた。青と黒の中間の空に、明るい星がいくつか見える。ちらちらと明るい部分があるのは、天の川かしら。

 

「天の川がうっすら出てるし、白鳥も尻尾のデネブだけははっきり見えてますよ」

 

 一つ位置が決まるととつぜん、ちらつく帯のふちにベガとアルタイルが光った。牽牛織女。恋愛にかまけて仕事をしなかったから、天帝に引き裂かれた男女。そんな二人のために橋を架けるカササギ。子供のころはいい話だと感じていたのに、いまはつい、天帝こそ正しいと思ってしまう。美しい織姫でも働かないなら罰を与える、公正な……。

 

 天帝の下で宮仕えしてればこんなことにはならなかったのかしら。働きにふさわしい評価があって、評価にふさわしい仕事があって、その公正さをだれもが信じられて。

 

「その仕事、和久井さんでよくないですかぁ?」

「しかし彼女はオーバーワークになってるからねえ」

「ヘーキですよなんだって涼しい顔してハイ終わりーってやるじゃないですかー」

 

 そうゴネていた後輩は、定時に浮かれた足取りで退社した。トイレ経由で、気合のはいった化粧で。

 

「また社長のオトモ? 綺麗なの侍らせとけば印象いいものね」

「はいはい顔じゃない顔じゃない。イヤミ!」

「美人がいれてくれると美味しいからね、お酒も、お茶も。こんどの案件も頼むよ」

 

 私でさえ自分が、成果だけで大きい仕事を任されてきたのか、まるで自信がない。溜息は空に少しだけ昇って、地面に落ちていく。星は見えなくなっていた。重いまぶたのせいで。

 

「上司の悪口じゃあ、よその会社の人間にはいいづらいね」

「上司だけで済めば……」

 

 肩にかかる重力で丸くなりかけていた背中を、私はぎょっとして伸ばした。

 

「どうしてそんなことを」

「独り言がそんな感じだったもので」

 

 どのあたりが声に出ていたの? 訊くわけにもいかず、口をおさえた。男はきまり悪そうに頭をかいてみせる。うしろへ細波のように向かう短い髪の起こり、額の両端だけ、はっきりと真上に毛束が跳ねてる。そういうポリシーなのかしら。視界にはいるたびに気になる。

 

「……忘れて。あなたのいうとおり、初対面ならなおさら」

「まあ、いやなことは忘れるにかぎる。きれいな星空でも眺めながら、愚痴を話せないならおれが面白い話でもしますよ」

「星を見に来たんじゃないんです」

「え、じゃあなにを?」

「……猫」

 

 なぜかしら。つい素直に答えてしまった。

 

「猫かあ」

「あら、猫はお嫌い? それなら私とは合わないわね」

 

 ようやく彼の言葉にネガティブなひびきを聞いた。そこをつついて、嫌な女の冷笑を作って、私は右の爪先を駅のほうへ向ける。けれど体がそれについていくより、彼の言葉は一瞬だけ早かった。

 

「いやね、猫の気まぐれにはおれも手を焼かされてるなあって思っただけですよ。迷惑もするし、“この野郎!”って思ったりもするけど、なんだかんだで、うーん……。やっぱりかわいいよなって」

「……」

「まあ、本物じゃあなくて、面倒見てる化け猫の話ですがね。ともかく、飼い猫が逃げた、とかですか」

 

 毛の束が跳ねた頭をかいて笑うのを、すっとひるがえしてやけに真剣な表情をする。このあたりの猫事情、知らないのかしら。顔から緊張が抜けていくのを、私は感じた。

 

「野良猫です。このあたり、よく見かけるから」

「あぁー、猫ウォッチングみたいな……。猫探しなら力になれたんですがね」

「ひょっとして、探偵さん? そういう依頼、多いとうかがってます」

「おれは……」

 

 口許を困らせて、彼ははじめて私から視線をそらした。頭をかき、うーんとうなって、私の進路妨害をしたまま、カバンから名刺入れを出す。

 

「まあいいか……。こういう者です」

 

 片手で気安く名刺を差し出す。外資のひとなのかしら。癖で両手で受け取ったそれには、大手の芸能事務所の名前があった。……大手だということ以外、なにも知らないけれど。役職はプロデューサー。たしかテレビ局だとかの同名職とはちがって、一般企業の営業課長のような立場。

 

「かなり悩んだけど、スカウトではないです」

「……なんで私に声をかけたんですか?」

「きみが綺麗だったから」

 

 また容姿のこと!? 眉根に力がはいる。目の奥が灼けたようになる。そんなもので評価されたくない。視界が暗くなり、脚が動いている感覚。次に見たのは、あわて顔で正面に立ちふさがるさっきの男。カッとなり、無意識にその場を逃げ去ろうとしていたんだ。向いていたのは、駅とはまるでちがう方向。

 

「ちょっ、最後まで聞いてください。綺麗だから」

 

 こんどは自分の意思で、男を避けて駅のほうへ踏み出す。それきりにすればいいのに、私の理性は私の口をおさえきれなかった。

 

「私の顔にしか興味がないんでしょう。そんなひとは嫌よ」

「顔しか見えなかったんだから、いまは顔のことしかいえないよ。きみのことをもっと知りたいって思うきっかけが顔じゃあだめかな? 名前もまだ聞いてない。好きなものだって知りたい。猫だけじゃあなくてさ、食べ物とか場所とかね。嫌いなものも……いまちょっと知れたけど」

 

 軽そうな膨れたカバンごと腕を振り回して、垂れ気味の目を丸くしてその男はまくしたてた。私はほとんどまともに聞いていなくて、ただ、そのようすがなんだか、ミミズクみたいだと思ってた。機嫌が悪くなかったら、そこで失笑したかもしれない。そうしていたら、このいまはないのだろうけれど……。

 

「そう、いまはなにより、笑ってる顔が見たい」

 

 どんな気分だったのか、表現する言葉は見つからない。ただ顔に冷笑が浮かんだような感覚はあって、それを指で示した。

 

「これで満足?」

「いやいや、もっと、しぜんにあふれるような。そのためには、いま抱えてる嫌な気持ちを吹き飛ばすんだ。おれにできることならなんだってする。気分転換だよ。その手伝いをさせてほしい」

「だったら猫を連れてきて」

 

 ……いいかけて、やめた。この男はほんとうに連れてきそうだったから。それも一匹や二匹じゃない数を。不思議な話だけど、そういう信頼感があった。そして連れてこられたら、よけいな醜態をさらすことになる。見られてもいい相手とは、思ってなかった。

 

「だったら、……だったらきれいな星を見せて」

「星?」

「そうよ。星座にならないような星まで見えるような夜空。ただしすぐによ。猫以外には気長じゃないの」

 

 男を振るために無理難題を押しつける。かぐや姫はこんな気分だったのかしら、なんて思い上がりね。強く睨みつけていたいのに、口許が自嘲で歪みそうになる。ミミズク男は明らかに困ってた。眉根を寄せて悩んでみせても無駄。ハードルは下げてあげない。もう時間切れにしてしまいましょう。二度と会うことも、きっとないわ。

 

「わかった」

「無理で……え?」

 

 私は二度驚いた。力強くいいきったその言葉と、その男の姿が歪んで、一羽の巨大な鳥が現れたことに。こんどは私が目を丸くした。その鳥はほとんど直立したような姿で、明るい色の羽毛が豊かで、丸い顔には小さいクチバシと垂れ気味の目がある。頭には毛の束がぴょこんと、真上を向いて跳ねている。……ミミズク? 

 

「乗って乗って」

 

 硬い音が噴水広場の石畳にひびく。草刈り鎌のような黒く鋭い爪が石材に白い痕を残す音。そのミミズクは私を見つめたまま、体の向きを変えて背中を見せ、促す。あの癖毛の男とおなじ声。羽毛の色は髪とおなじ砂色。目もおなじ、明るいオレンジ。横幅はともかく、頭の高さも。

 

「あ、あなた、なんなの?」

「名刺は渡したでしょ? ……それは本物だよ。ちゃんとプロデューサーやってるんだ、いま六人面倒見てる。電話してみてもいいよ、名刺のじゃなくて公式サイトの代表電話にさ、“こんなやつ本当にいる?”って」

「さ……さっきの、ひと、なの?」

「そうだよ。きみも“ミミズクみたい”って思わなかった? 思わなかったならよっぽど興味がないか、ミミズクを知らないかだ」

 

 思った。ただそれで興味を持ったと思われるのは面白くなかったから、明確な返事はしなかった。

 

「会社でもさ、おれのことはたいてい“化けミミズク”でとおるんだ。頭のとこだけ化けきれてないから、そういうアダ名ね。正体を知ってて呼んでるのは一人もいないけど」

「……なんで私にバラすの」

「ほかのやりようは思いつかなかった」

 

 化けミミズクが茶色っぽい翼を広げては閉じる。垂れ気味の丸い目に、悪びれた色はない。額の片側が疼いて、私はそこへ手を当てた。

 

「順を追って……考えたことを、そう、そうよ、説明して」

「えーと。きみが満天の星を見せてというから地上で見られそうな場所を考えたんだけど、いますぐ行ける範囲だとちょっとないから、おれがきみを連れて上空に飛べばいいなって」

「ひとに見られたらどうするの」

「周りにひとはいないよ。ミミズクだもの、そのくらい音でわかるさ」

「……飛んでるところを、ビルとかから見られたら?」

「いちおう妖怪なんだぜ、人間の目くらいごまかせる」

 

 得意げに喉の毛を膨らますと、白い羽毛が見えた。猫の毛みたいで、ちょっと触ってみたくなる。なに考えてるの。

 

「私が怖がって逃げるとか、他人にいいふらすとか、考えなかったの」

「だって見た目で判断とかしないみたいだったし……」

 

 限度があるでしょ。

 

「こうして逃げないでいてくれてるんだから、いいじゃあないの」

「そうねえ。なんだか怖くはないわね」

 

 間が抜けてるというのかしら。危害を加えてきそうにないことは、私の培ってきたひとを見る目が保証してる。これは人間ではないけれど、中身はそう変わらないみたい。

 

「でも、あなたにつかまって飛ぶのは怖いわよ」

「そこはその~……信じてとしか……。ぜったいに振り落としたりしないから」

「巣に連れて帰ったりも?」

「巣……」

 

 心外というようにクチバシが開いた。意外と大きいのね……ふかふかの毛に覆われててわからなかった。私を丸呑みにするくらいはできそう。相変わらず迫力はないけれど。

 

「家に連れ帰っていいならそうしたいけど」

「お断りよ」

「でしょうね。……ならしない」

 

 上下のまぶたを半分閉ざしてうつむいた。しょげたみたい。人間だったときに較べて顔も目も大きいぶん、感情の表現が大げさでコミカルに見える。

 

「ともかく、きみのことは全力で守る」

 

 広げた翼は片方だけで私より大きい。茶色と黒と砂色のまだら模様の羽根のあいだに、反対側のやわらかそうな白い羽毛がのぞいてる。

 

「紳士的ね」

「信じてくれたならさあどうぞ」

 

 オレンジの目が、裏切りがたい期待感に満ちてる。……困らせたくていったわがままが、そのまま自分に返ってくるなんて思わなかった。

 

「いま乗るわ」

 

 妖怪に化かされて拐われても、騙されて落とされても構わない。仕事は辞めてしまったんだもの。ひとのために尽くして、自分を高めて、成果を出して、ふさわしい報酬をもらう。そうつづくはずだった人生を、自分でなげうったの。……でも、どうせ死ぬなら、猫に囲まれてアレルギー症状で窒息死のほうがよかったかしら。

 

「もっとちゃんとやって」

「はい?」

「しがみつきかた。肩に手をかけるだけじゃ危ない。首にさ、ちゃんと腕を回してしっかりしがみついて」

「あなたの首が絞まるんじゃない?」

「平気平気、羽毛が厚いから。それにおれの首が絞まったってきみが落ちるよりマシさ」

 

 バッグを肩からかけて、大きいミミズクの背中に埋もれる。スラックスでよかったなんて思う余裕があって、少しおかしかった。

 

 ミミズクは何度も私の姿勢や腕に無理がないか確認して、ついに地面を蹴った。公園のタイルが砕けたんじゃないかと気になるくらいの音。けれど確認はできなかった。上へ加速する羽ばたきに、振り落とされないように必死だったから。

 

 私の体感で五分くらい経つと、飛びかたがおだやかになった。砂色の羽毛から顔を上げて、一瞬、平衡感覚がなくなる。上にも下にも星空がある。顔に当たる風が強く、冷たい。

 

「一キロくらいは上がったかな。スカイツリーなんかよりずっと見晴らしいいよ」

「きゃあ!」

 

 悲鳴をあげて、腕を離しそうになって、私はあわててしがみつきなおした。……ミミズクの顔がいきなり目の前に回転してきたから。

 

「ひどいなあ、おれの顔そんな怖い?」

「まうしろを向くから驚いたの!」

「ごめん。でもきみの顔が見たくて」

「私の顔より、前を見てほしいわ。安全のために」

「このへんはよけいなものは飛んでないよ。カラスだってここまでは来ない」

「あら、苦手なの? カラス」

 

 カラスの一語に苦いひびきを感じて、つい問いかけた。ミミズクは目と口を半開きにする。鳥の表情というものが豊かだとは思わないけど、それは嬉しそうな、困ったような、不快そうな、複雑な表情に見えた。

 

「あいつらはちょっとさあ。おれたちにもタカとかにもイヤなやつなんだよ。自分よりでかい鳥が気にいらなくて、見かけると集団で喚くしつつくし巣まで荒らすし。イジメのスペシャリストだ」

「……それはひどいわね。カラスって賢い鳥だと聞いてたけど」

「賢いのは賢いだろうけど、性格が悪くちゃあなあ。それも生まれつきだ。昔の都知事がもっとがんばってりゃあ、いまごろ東京の空は静かで綺麗だったのになあ」

 

 のけぞっていた背中の力を私は抜いて、半回転して白い毛をのぞかせるミミズクの喉に顔をもぐらせた。くるるるる、ふかふかの喉が震える。喜んでるのかしら。

 

「どうしたの」

「え? いやあ、ふふふ。やっと個人的なこと訊いてくれたなって」

「そうね。うまく誘導されたみたい。……いつのまにか敬語もやめちゃってるし」

「悲しそうな音もしなくなってきたし」

「音?」

 

 もういちど顔を上げる。わかってはいても、背中側に顔がある光景は衝撃的。もちろんわかってはいたから、それを顔に出さないことはできた。

 

「心臓の音とかがね。きりきりいってつらそうだった」

「……そう。そうでしょうね。いまは?」

「うーん、やさしい音がする。でも風がうるさくてね。もっと胸を押しつけてくれるとハッキリわかりマス」

「調子に乗らないで」

「ウーッフッフッフ。少しまじめに飛ぶよ」

 

 そういってミミズクは前を向く。うしろから頭だけ見ると、猫に見えないこともない。首すじはバタースコッチみたいな甘いにおいがする。視界の端に砂色のものがはためく。三メートルはありそうな大きい翼。何秒かに一回、深呼吸のように大きくゆっくりと、音もなく羽ばたく。知識として持ってはいたけれど、目の前にすると不思議な感覚。そして心地よくさえある、ゆるやかな上昇のリズム。

 

 ……彼にいわれたから、というのではないけど。私は周りを見回してみた。そうする余裕があるのに気がついただけ。ずっと遠くに地上の明かりがきらめいてる。飛行機の狭い窓から、何度か見た気がする。ほんとうに、何度かだけ。ちらりとだけ。もっとほかに目を向けるべきものがあって、ちゃんと眺めたことはなかった。

 

「こんなに綺麗だったなんて」

「まぶしいくらいだね、地上も」

 

 振り向きたそうに跳ねた毛を動かして、ミミズクが返事をした。

 

「“も”?」

「きみが見たいっていったんだぜ、空の上」

 

 視線を上げた。さっきよりも高く、胸を反らして。思わず洩れた息が白いもやになって、うしろへ流れていった。どんな高さなの、いったい。

 

「富士山より高いくらいまで昇ったかな。これ以上はやめとくね」

「……すごいわね」

 

 呆れ気味につぶやいたのに、ミミズクは嬉しそうだった。少しかわいいと思ってしまって、首を振る。耳の端がピリピリする寒さ。四〇〇〇メートルも上がったとしたら、気温は地表より二四度低い。ほぼ零度じゃないの。鳥の体温と羽毛で凍えはしないけれど……顔以外は。

 

 空を仰いだ。喉が冷たい。西に傾いた大三角を見失いそうなほど星が輝いてる。振る口実のつもりだった満天の星。いざ応えられてみると、不思議と胸のもやが晴れていくよう。はくちょう座、こと座、わし座……。ふと気になることができて、私は方角もわからない空を見回した。

 

「どうかした?」

 

 どうやってかミミズクはそれも察知して声をかけてくる。

 

「そういえば、からす座ってあったわね」

「もー、やなこといわないでよ。あったと思うけど、どれかなんてわかんないぜ」

「私もよ。……探すのはやめておきましょう」

「それがいいそれがいい。触らないのがいちばん」

 

 ……これはあとで調べて知ったことだけれど、からす座は春の星座で、この時期には地球の反対側に行っていた。

 

「それにね、ちょっと冷えてきたわ」

「諒解、そろそろ降りよう。面白い話でもしながら」

「そういえば、それもするっていってたわね」

 

 しがみつく腕に、私は力をいれた。飛行機でもそうだけれど、Gがかかって少し苦しい程度の離陸とちがって、降下するときは内臓が浮くような、空中に取り残されそうな感覚がある。強く抱きつくとミミズクが喉を鳴らした。喜んでるみたい。能天気なんだから……。

 

「この前、ラーメンの粉末スープが余ってさ。使おうと思ったらそうめんしかなくて……」

 

 ずぼらな調理をして大失敗した話。野菜を冷凍庫にいれて溶かした話。正直、呆れるばかり。愛想を尽かすほどでもない。ミミズクがそんなひょうきんな話をやめて、私のほうに首を回した。

 

「どうしたの?」

「きみの顔が見たくて」

「さっきも見てたでしょう」

「うん、フフフ」

 

 細められたオレンジの目がやさしい光を揺らした。顔の羽毛を持ち上げて、クチバシが三日月に開いてる。自分の顔のゆるみにいまやっと気がついた。これも心音でわかるのかしら?

 

「満足できた?」

「いやあ、うーん、すごくよかった。すごくよかったからもっと見たい」

「わがままね」

 

 羽毛に顔を隠すと、首があちこちに動くのがわかる。なんとかして私の顔をのぞこうとしてる。くすぐったくておかしくて、とうとう声に出して笑った。くるるるる、ミミズクが不満そうな、嬉しそうな声で鳴く。

 

「星が見える黒い空もいいけど」

 

 高度がだいぶ下がって(それでもまだスカイツリーよりも高いみたい)、風が心地いい気温になると、またミミズクは首だけを一八〇度回した。落ち着いてきた笑い顔を起こして、私は大きい顔を見つめる。

 

「地上の明かりで色がついた、このくらいの空のほうがいいね」

「あら、そうなの?」

「綺麗な瑠璃色だよ。きみの髪みたいだ」

 

 私の反応を期待してる目。それに応えるつもりではなくて、素直な感想を私は口にした。

 

「あなたにいわれると、なんだか嫌じゃないわ」

「褒められるの、そんなに嫌だったの?」

「さっきは怒りすぎたわね。ごめんなさい」

 

 しがみついたまま、羽毛を撫でる。

 

「見た目のことをいわれるのが嫌だったのは本当よ。嫌というか、悔しいって気持ちね」

 

 首をねじったままかしげてみせる。この鳥の背中に乗ってることがわからなくなりそう。

 

「だって、容姿なんて親からもらっただけのものよ。私が努力して得たものじゃないの」

「うーん、けど、いまきみが綺麗なのは、きみがふだんから手間かけてケアして磨いてるからじゃあないのかい。それは胸張ってよくない?」

「ふふ、そうね。そういういいかたは好きよ。でも、みんな、私はなにもしてないと決めつけてる。私のすることなんて見ようとしないの。成果を上げたって容姿のおかげでいい仕事もらった。失敗しても綺麗だから赦されてる。……ちがうわよ」

 

 語気が荒くなるのが自分でわかる。もう気温は二〇度近くにもどってるのに、また息に色がつきそうなくらい。オレンジの瞳が心配そう。きりきりという音が、自分にもわかる気がする。

 

 でもいいの、いわせて。

 

「上役の覚えがいいのは成果を出したおかげよ! 仕事がうまくいくように努力したからよ! 注意のしかたが軽い!? それでわかるって評価されてるのよ! 新人のころは怒鳴られたことなんて何度もある! お客さまの心象をよくするためにって、お茶の淹れかたも勉強したわ! お酒の知識だって相手を立てるために詰めこんで! 美味しいって評価はそうやって得たの! ……そう、思ってたけど」

 

 くるるるる。あったかい喉が悲しそうに震えた。私の腕も震えてる。小さくて鋭いクチバシに、私は少し身を乗り出した。

 

上司(うえ)のひとたちもおなじだった。顔だけなんだって。やっかみの悪口は正しかった。私の努力はなんの実も結ばなかった。商談を円滑に進めるのも無茶なスケジュールを乗り切るのも、みんなおじさんたちの実力。秘書は料亭の掛け軸だってさ……」

 

 なにが書いてあるのかまるでわからないが、どうせなら立派なのを飾って箔をつけたい。いつか役員がいった。言葉の後半はわからなくもなかった。箔をつけてあげるために努力をした。でもその基準は、書いてある言葉……働きであってほしかった。

 

 ……左頬が冷たい。顔の周りの羽毛が濡れてる。涙をこぼしていたこと、気がつかなかった。

 

「ひどいやつらだなあ。そいつらだれだい。おれが目玉をつついてやる」

 

 ひょうきんな言葉が荒くなってる。涙はまだ止まらないけれど、私は顔を上げた。垂れ目のラインが、心なしか吊り上がって見えた。

 

「だめよ、そんなことしたら」

「きみのよさがわからない目玉なんか、きっとなくなったって気がつかないさ」

「もういいのよ。もういいの。もう辞めてきたんだから」

「ええ! どうするの、あしたから」

「さあ、どうしようかしら。貯えはそこそこあるけど、実家に帰るのかしらね」

「待ってよ、ご飯ならおれが持ってったり奢ったりできるよ。てか家賃だってさ、おれんとこ来ればかからないし」

「頼もしいわね」

「でしょ? でしょ?」

 

 そういえば、求愛給餌なんていって、狩りをする生き物のオスは自分がメスを飢えさせないことを誇示するとか、聞いたことがあった。本気なのかしら。妖怪と人間なのに。

 

「考えてあげる。実家よりは優先度高めで」

 

 羽毛のまだ濡らしていないところへ顔をつっこんで、涙の跡を消した。バタースコッチに化粧品のにおいが混ざる。首に回してる腕をぎゅっとして、ふかふかのダウンをつかんだ。

 

「ホ、ホー! ホーッホホー!」

「な、なに?」

 

 自分で乱暴にしておいて驚くのも変な話ね。……思い返してそう気づく。

 

「あ、ごめん。なんか嬉しくなっちゃって。正体見せても怖がらないし、いろいろ自分のこと話してくれてさ。大好きなひとに認められるのは嬉しい……人間はちがうかな?」

「……おなじよ」

 

 くしゃくしゃにした羽毛をそっと撫でる。彼は気持ちよさそうに喉を鳴らした。

 

「私も大声、出してみようかしら」

 

 

 

 しばらく上空を迷って、ようやく自分の賃貸マンションを見つけた。露骨に別れを惜しむ後頭部に頬を寄せて、私は自室を指差す。体は起こさずに翼を大きく開いて減速して、巨大な鉤爪が硬い音を立てる。

 

「……ねえ、こっちベランダよ」

「へっ、ああ、はい。だめ?」

「マンションのベランダだって、窓に鍵はかけるでしょ」

「鍵なら持って……あーっ、そうだ。ごめん、なんかボケてた」

「もう。反対側までもう一飛び、がんばって」

 

 鳥は翼の力だけでは飛べない。地面を蹴って、その反動で飛び立つ。つまり、私の借家の手すりを、化けミミズクの鉤爪がしたたかにひっかいた。

 

「傷が! 賃貸なのよ!?」

「ごめんー! でもほかに飛びようがないんだよ~! 敷金は出すから赦して!!」

「お金の……」

 

 眉が跳ねたけれど、じっさい、お金だけの問題かもしれない。溜息一つで、その場は赦すことにした。それから玄関のドアの前に降りた。彼は“数年ぶりに飛んだ”から疲れたみたいで、人間の姿になって歩いて帰った。一人で静まりかえった夜の廊下に残されると、あとはいつもとおなじ。鍵を開けて部屋にはいる。バッグを片づけて、化粧を落として、お風呂にはいって……。

 

 

 

 眠って、起きて。ゆうべのことがどこまで現実でどこから夢だったのか、自信がまるでなくなってた。カーテンを開けるまでは。

 

 手すりに残った傷は思ったよりも大きくて、敷金くらいでは済まなそう。あの妖怪は何時に出社するのかしら。名刺に書かれた直通電話の番号を、私はベッドに座って眺めている。

 

 

 

(了)

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