猫、巫女、サンタ、あいのうた   作:久聖

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柑奈  転がるコイン

 残業帰りの電車を降りたホーム、黄色の点字ブロックに女物の定期入れを見つけた。表を返してみると、はっきりとした字でアリウラカンナとある。記憶に新しい名前だ。思い出そうとしたところへ発車ベルが聞こえ、おれはあわてて電車から距離をとった。

 

 ……そうだ、有浦柑奈といえば、きのう知ったばかりの少女の名前だ。

 

「この駅なのか、あの子も」

 

 ホーム上の列、改札に向かうひとの流れに、揺れて遠ざかるギターケースの先端が見えた。その下には赤いヒナギクの大きい髪飾りがちらつく。

 

 あれだ。おれは少し大股に歩きはじめた。

 

 

 

 きのうはめずらしく定時上がりができ、足取りも軽い帰り道だった。会社の最寄り駅の駅前広場では、ミュージシャン志望の学生たちが思い思いに演奏を披露している。陽気なアコースティックギター一つだけたずさえ、手作りの看板に名前を掲げて、有浦柑奈はそこにいた。

 

 春先の肌寒い風のなかにあって、初夏の爽やかな陽射しを感じさせる歌声。名刺よりも先に、おれは小銭を取り出していた。裏面の100を横切るようについた灰色の汚れは爪でこすっても落ちない。しかしおれの小銭入れにはこれ以上の額面もなく、遠慮がちにギターケースへ投げいれた。

 

 先客のコインと当たって短く高い音がすると、彼女は歌いながら頭を下げる。ぎこちないお辞儀だが、笑顔が鮮やかだ。せっかく時間もあったので、おれは柑奈が歌いきるのを待つことにした。

 

 日本語のものもあり、英語のものもあり、どれも素朴でやさしい歌詞だ。看板にはラブアンドピースとも書いているが、カントリーミュージックがほとんどのようだった。……ようだったというのは、明るく陽気なギターアレンジがされていて原曲があるのかないのかもよくわからないからだ。ただ歌詞を聞くかぎり、看板のフレーズから想像されるような、ヒッピー文化の欺瞞的なロックは一つもなかった。

 

 おれはすっかり気にいったのだが、この日のスカウトはうまくいかなかった。フラれたわけではない。

 

 声をかけようとしたおれの脇から、よれた上着の中年男が飛び出した。

 

「ふ……フリーハグ……」

「へっ? ああ~、はい! どうぞどうぞ!」

 

 一瞬固まって、柑奈はすぐに笑顔で応えた。自分よりいくぶん高い肩に顎を乗せ、太い胴に腕を回して背に手を添える。心の目で見たら美しい光景だったかもしれない。……ほんの二秒ほどは。

 

「ちょ、ちょっと、あの……」

 

 柑奈が苦しそうな声を出した。中年が前のめりになっている。それが具合が悪くてのことでないのは、異様な息づかいですぐにわかった。

 

「ほ、ホテル、ホテル行こう」

「わ!? ちょ、ちょっと!?」

 

 肥りすぎて短く見える腕が柑奈の尻のほうへ下りていった。ただの痴漢ではなく、柑奈をかつぎ上げようとしているらしい。ひょこひょことトドのように上半身を揺らしている。

 

「おい!」

 

 上着とシャツの襟をまとめてつかみ、不埒な海獣を引きずり起こす。それだけで息が上がってしまったのは体重がだいぶ負けていたためである。この男の服がTシャツでなければ、ボタンをはじかせて愚行の手伝いをするところだった。太いわりに扁平な腕を振りほどくだけの力が柑奈に残っていたのも幸いだった。これはどうやら、ギターが二人のあいだに挟まって、柑奈に味方していたおかげのようだ。

 

 トドの擬人化が尻餅をついて半秒のうちにはもう巡査が四人で到着しており、奇声をあげてうずくまるのを二人がかりでてきぱきと立たせ、広場の端にある派出所へ連行していった。

 

 あのと二人がわれわれから事情を聞き、柑奈のアフターケアをして、おれは帰された。……つまり、この日は柑奈とのあいだに会話の一つもなかったのだ。

 

 

 

 明けてきょう、おなじ時間帯にデスクワークを抜け出して駅前に行ってみた。期待しておいて意外というのも妙だが、柑奈は翳りのない笑顔で歌っていた。歌っている場所はだいぶ駅前派出所に近くなっていたが、おそらくは警官からそうするよういわれたのだろう。

 

 また小銭入れにかろうじてあった百円玉をギターケースに投げこむ。柑奈もおれの顔を憶えていたのか、少し申し訳なそうに頭を下げた。そしてこの日もおれは柑奈の歌い終わるのを待っていたのだが、日が悪かった。

 

 またもフリーハグを求める若者が現れ、きのうのきょうだというのに柑奈は快く応じた。初老のご婦人は応援のハグを、うら寂しそうな男は涙にむせび、セーラー服の二人は興味本位に、いずれも笑顔で手を振った。

 

 さてようやく落ち着いてスカウトができると思えば、買い物袋をぶらさげたご婦人がたがなだれこみ、にぎやかに談笑をはじめてしまった。変質者騒ぎをはやくも耳にして警邏中なのかもしれないが……。

 

「うにゃっ」

 

 名刺だけ渡して話をする約束を取りつけようかと思った矢先に、視界の端で見慣れた要注意人物が動きを止めて鳴いた。おれの担当するアイドルの一人、一ノ瀬志希である。

 

 長い癖毛と栄養不足の身を翻して志希は逃げ出す。いまはレッスンの時間のはずだ。持病の失踪だ。なにをおいても捕獲し、帰社せねばならなかった。

 

 

 

「きみの落とし物?」

 

 夜を四角く切り取る改札口で、柑奈はハンドバッグの底に穴を空けんほどになっていた。声をかけると、皿のようになったままの目がこちらを向く。

 

「ああっ、ありがとうございます! よかった~」

「やっぱりそうか、よかった」

 

 定期入れをハンドバッグにもどし、すべてのポケットを閉じて長く息をつく。そして遠慮がちな、あえていうと似合わない表情でこちらの顔を伺った。

 

「えーと、きのう助けてくれたひと……ですよね?」

「おっ。憶えててくれたんだ、ありがとう」

「こちらこそお礼もいわんと……。ありがとうございました」

 

 三度目のお辞儀はていねいで、おれもつられて頭を下げた。

 

「元気そうでよかった」

「そいが取り柄ですけん。有浦柑奈、一九歳。長崎県から愛と平和をお届けに来ました! ……えへへ、標準語」

 

 反らした胸はなだらかで、七分丈の袖から日焼けの色を残す手首がのぞいた。まだ慣れない言葉づかいなのだろう、はにかんで顎のラインをかく仕草があどけなく見える。

 

「いいキャッチだね。きのうあんな目に遭ったから、いないんじゃあないかと思ってた」

「あれはえすかった……ああ、“怖かった”さね。ラブアンドピースば歌いはしますけど、フリーなんはハグまでとですよ」

 

 さすがに表情から色が引き、柑奈はわずかにかぶりをふってみせた。

 

「それでもまた応じてたんだからすごいよ」

「ラブとです」

 

 歯を見せて笑うと肌に艶がもどった。

 

「いままでもえす……怖かひとはおったとです」

「“えすか”でもわかるよ」

「標準語に慣れたかとですよ」

 

 視線をこちらへ流して口の端を引く。

 

「薬の安かよ~とか、うちの団体に来んかとか、身の危険は何度もあったとですが、ばってんね、親切なひとたちはそん何倍もおらすとです。ひとば怖がって縮こまっとったら愛も平和も伝えられんとよー!」

「心ばえは美しいが、なんかなおさらただ見てるのが心配になるな」

「あはは、すいません、さっきも来とらしたの見えてはいたとですが。なにかご用のあったとですよね」

「おばちゃんたちに囲まれてるのまでは見てたけど、どんな話してたんだい」

「声の大きかねーとか褒めてもらったとです。私も、だれか追っかけてくのは見とっととですよ」

「目がいいな。あの逃げ回ってたの、だれだかわかったかい」

「一ノ瀬志希ちゃん」

 

 拍手で応じると、いたずらっぽいしたり顔が返ってきた。

 

「おばちゃんの教えてくれたとです。ご近所のふとか芸能事務所に巣食うとる化け猫と化けミミズクやって」

「その説明に疑問はなかった?」

 

 おれの前髪の跳ねた癖毛の束をミミズクの羽角になぞらえ、だれが呼んだか化けミミズク。口の軽い同僚たちのせいで業界内で一方的に知られているのはわかっていたが、近所のおばちゃんたちに顔まで割れているとは思わなかった。けっこうショックだ。……なお志希の化け猫扱いに関しては、自称もしておりニャーとも鳴くのでなんら問題はない。

 

「都会は恐ろしかばってん、懐も深かねーと……すみません」

「秘伝のタレつけて頭から丸呑みにしてやろうか」

 

 小さいハンドバッグに顔だけ隠れて柑奈が笑う。志希のマネかセミロングの髪を翻しかけ、改札に人波のやってくるのを見て踏みとどまった。

 

「まあ、素直に謝ったしきょうのところは勘弁してあげよう」

「心にラブのあるとですね~」

 

 ハンドバッグをどけた視線はミルクチョコレートの色をして、おれの顔へとまっすぐ注がれる。なにやら物欲しそうに見えるが……。

 

「……そうか、おれの正体はもう知ってるんだ」

「はい、大手のプロデューサーさんと」

 

 それが一度ならず、歌を聴いて話すタイミングをうかがっていたのだから、おれの目的は正しく想像できているわけだ。そういう目をしている。

 

「なら、これに前置きはいらないか」

 

 おれの名刺はやっと柑奈の手に渡り、名刺入れの代わりに手帳のスリーブにはさまれた。あらためて名乗りあったところで、駅前のからくり時計が正時を告げる。二三時である。また時間のあるときにと、あしたの朝一〇時に約束をとりつけ、柑奈とおれは改札を出た。

 

「……」

 

 柑奈が怪訝そうに振り向いた。

 

「どうかした?」

「あーいえ、途中で降りて届けてくれたんやと思うとりましたけん……」

「そんな親切だと思ってくれてるのを裏切って悪いけど、おれの家はあそこ。ほら、あの高い、壁みたいなマンション」

 

 駅舎の電灯で白くぼやける街におれの指差した建物を眺め、柑奈は嘆息した。大きい口から洩れたその息は、“ふとかー”と聞こえた。ひとまず、賃貸だということは黙っておこう。

 

「のぞいていくかい」

「いきません」

 

 笑い半分の共通語であった。キケンな誘いはキッパリ断るようにと、警官に指導されでもしたのだろう。

 

「残念。じゃあ送るのもよしとこうか」

「そこは甘えさしてもらいたかですね~。追い剥ぎのほうが恐ろしか」

「そんなのいる?」

 

 とはいえ、きのうの人型ゴミ袋を見たあとでは安易に否定もしづらい。

 

「それに、一五分くらい歩きますけん、いろいろお話ばうかがいたかとです」

 

 

 

 街灯のまばらな住宅街を、おれたちは並んでゆっくり歩く。あのスーパーは野菜が安い、肉はここ、コンビニの品揃えはどこが充実している。そんな、この街の話を経て、しだいに会社のことに話題は移っていった。

 

 志希が顔を見せていたおかげで、社風の説明はすんなり受け容れてもらえた。すなわち、うちにおけるアイドル活動は本人の裁量の占める割合が大きいこと、多少の奇行は赦されること、ただしそれは担当プロデューサーのカバーできる範囲で……。

 

「ラブに満ちとらしますね~」

「そういってもらえると報われるよホント……」

 

 互いに顔を知って一日と少し、言葉をかわすようになって一〇分たらずだが、共犯者のような笑いかたがすっかり板についてきた。

 

「そんな会社だから、作詞作曲もしたければさせるし、ラブアンドピースだけ歌っていくこともできる。ただし商品でもあるからには、品質について妥協はさせない」

「“させない”?」

「いいものができるまで厳しくしごかれるってこと……この点は覚悟していてほしいかな」

「望むとこばいね~。歌で食ってくって飛び出してきましたけん、全力でやるばい!」

「頼もしいね。覚悟ついでに、愛と平和の歌の仕事だけがアイドルじゃあない。つまり、いままで縁がないと思ってたことにも挑んでもらうわけだ」

「お仕事はお仕事、ちゃんと歌いますよ! どがん歌でも、ラブアンドピースは捨てませんけどね」

 

 柑奈は愛も平和も織りこまれていない曲も歌うくらいの認識でいるようだった。ドラマや舞台の芝居の仕事、言動を見られることを意識したバラエティ番組、いわずもがなのグラビアなどなど。単語の挙がるごとに柑奈の表情がころころ変わっていくようすは、少なくともテレビには向いていそうだと思わせる。

 

「お芝居なら、きみは意外と悪役がハマりそうだと思ってる」

「悪役はラブアンドピースとつながらなそうさねえ」

「まあまあ、悪そうに笑ってみて? ……うん、不敵でかわいい。役と役者にギャップがあるの、受けがいいんだよ。ハードな役で本人はほんわかしてたりさ」

「そうと?」

 

 本人は納得したふうでないが、実のところこちらも一〇〇%の自信があっていっているわけではない。

 

「ま、なにごとも挑戦、挫折も芸の……表現力の肥やしにはなるし。やらせるばかりのおれがいってもイマイチだけども」

「グラビアも?」

「好きな子の肌を見たがるのは男のさがで……。それを拒否するのは女の子の気分一つさ。ビキニはいやだけどイヴニングドレスはOKとかね。不安かい?」

「あはは、まあ、はい。悪か芸能プロはグラビア仕事で女の弱みばおさえて、高かレッスン料ふっかけて水商売させるーとか、おまわりさんから聞いとったもんですから……」

「そういう連中がいるのは事実で、警察が釘を刺したがるのもとうぜんだけど、一緒にされたら悲しいねえ。こんなにイケてる悪者がいるわけないだろう?」

「ん~?」

 

 アルバイト帰りで疲れたと弱音を吐いていたわりには軽い足どりで、柑奈はおれの周りを一周する。全身で懐に飛びこんできて、横顔を胸に押し当てた。シンプルなリンスのにおいが頬をゆるませる。

 

「悪かひとやなかみたいですね~」

 

 柑奈が無防備なぶんだけ、その祖父の眼光は鋭い。……柑奈の背負うギター、ケースごと祖父から譲り受けたという“形見”が、おれに頭突きを加え、顔を押し退ける。

 

「……いまのでわかるのかい」

「胸の音は正直さね」

 

 不敵なかわいい顔で、柑奈は隣にもどってくる。おれは前髪をひとかきした。

 

「ちなみにうちではレッスンだってお仕事だから料金はかからない。かわりにサボりは赦さんよ」

「志希ちゃんばけんめいに追っかけとらしたのはひょっとして」

「あの化け猫、ダンスレッスンをサボろうとしてた」

「私はまじめにやるとですよ~」

「きみの愛を信じてるよ」

 

 柑奈の肩を叩けば、ウェービーな髪が揺れておれの肩に絡む。祖父の形見は後頭部をかすめていった。

 

「……まじめな話にもどろう」

 

 柑奈は姿勢を正した。祖父の返す刀は、彼女の顔をのぞくように傾いでいたおかげで避けることができた。

 

「詐欺師みたいなことを訊くけど、蓄えはある? さっき飛び出してきたとかいってたけど」

「たくわえ? んー、ん~……んふふふふ」

 

 ここへきてはじめて、柑奈が視線を逸らした。目を遠泳に出したまま答えるには、ほぼ文無しであるという。路上ライブとアルバイトが収入のすべてだ。それだけならおれも想定はしていたことだが、有浦柑奈という少女は、おれのかつて出会ったことのないほどアグレッシブな娘だった。いま暮らしている安アパートに、家財道具さえ持っていないのだ。

 

「いえね、でもですね、よーやく東京に来て住所のできましたけんね、あしたくらいにはあれこれ届くとですよ。タンスとか、棚とか、化粧台とか……」

「ちょっと待って柑奈ちゃん。順番にいい? やっと住所ができたってなに?」

「家出同然で飛び出して、東京に来るまで一年くらいかかりましたね。しばらくは福岡で歌っとって、親切なおばあちゃんが泊めてくれて。ステップアップばして大阪来たときは、ビジホとか漫喫とか、野宿もしましたねー……あいはいけません。本当に怖かとです」

 

 持っていたのは少しのお金とあしたの着替え、それとギター。スマートフォンどころか携帯電話もなし、身分証明書もなし、頼みの親類もなし。連絡はときおり祖父宛に書いたハガキだけ。この街に落ち着いて、大家が貸してくれた電話でやっと家族と会話ができたのだという。

 

「爺っちゃんはいつでん見守りよんていいましたけん、心細さはなかったばいね~」

「たくましいなあきみは」

 

 どついて叱りたいやら抱きしめて無事を喜びたいやら、複雑な気分でおれは笑った。腕を伸ばしたらこんどは、ギターケースの蓋が開いて挟まれるかもしれない。祖父が見守っているというのが、やけに凄みをもって感じられたのだ。おれのそんな恐れを知らぬだろうまま、柑奈もにやついた。

 

「えへへ、褒められた」

 

ともあれ平和な国で、というには身の危険がやけに多いが、ひとびとの愛に支えられて東京にたどりつき、アルバイトと路上ライブの収入をたよりにボロアパートで暮らしている……それが彼女のいまだ。家具のたぐいがろくにない部屋に興味がわかなくもないが、まあ、もういいだろう。

 

「まあ、拠点ができたばかりなら、うちに所属してからもアルバイトはつづけたほうがいいね。給料は出るけどはじめのうちはそれだけじゃあきびしい」

 

 働いただけ儲かるのがアイドルだが、やる仕事がなければ食っていけないということでもある。柑奈もそのあたりは諒解していて、しばらくは貯金をするという。アイドルになればアルバイトの時間は大幅に減るので、まだフリーのうちに貯められるだけ貯めておけば、気持ちの切り替えもしやすかろう。

 

「契約は貯金に余裕ができてから、それでぜんぜん問題ない。急かして生活を壊すわけにはいかんしね」

「はい、なるべく急ぎますね」

「まあ焦らずにやってくれ。待たせてるとかなんとか負い目に思うこたあない。やっぱりやめますとなっても痛くはない……会社的には」

「会社的には、ですね」

「きみがきみのやりたいことをやれるのは、うちだけだと思うんだよ。会社が方針を決めて逆らえない、なんてところはたくさんある」

「ふむふむ」

 

 おれの言葉の含みを、だいぶ正確に読み取っていたらしい。くすくす笑ってご高説をハイチョウしている。

 

「せっかく知り合えたのにさよならバイバイよ、じゃあ寂しいしね」

「そがんごた考えとったとね~。いやらしか~」

 

 ひらりと駆けだす柑奈を追い、猫パンチを受けて、月だけが見下ろす夜道は柑奈のアパートへ行き着いた。送るだけという約束をまじめくさって果たし、おれは駅を挟んで反対側へ帰る。ふと振り向くと小さくなった柑奈がまだ手を振っていたので、大きく振りかえした。

 

 

 

 一夜明け、柑奈も昨夜の約束どおり、契約の話をしに我が社を訪ねてきた。とはいえあらかたのことはすでに語り尽くしている。せっかくなので、余った時間で社内を案内することにした。レッスン場や休憩スペース、売店、カフェ、もろもろを歩き回って三階にあるガーデンテラスに出る。

 

 紅白のツバキは首から落ちて壁際に青々としているが、薄いピンクのものはいまが盛りのときである。整然と並ぶ花壇は土の上に淡い色をぽつぽつと見せ、春の姿をちらつかせている。

 

「もう少しすれば賑やかになるんだがね」

「チューリップはもうすぐ咲きそうですね」

「ヒナギクもじきに花壇からあふれるくらいになる」

 

 白に近いピンク色をしたヒナギクの髪飾りを、柑奈は撫でて笑った。何色も持っているのは、自分の誕生花で気にいっているからだと教えてくれた。

 

「テラス席も藤棚とかバラのアーチとかがあって……」

 

 指差した先、枯れ色のイバラばかりの植込で、なにかが動いた。

 

「まあ、ミミズクさまと……お客さまですか?」

「あがん礼儀正しそうなひとにまでミミズクばいわれとっと?」

「……うん」

 

 半笑いの柑奈と、花壇で身を起こした影……シスター・クラリスの両方への返事である。クラリスは先日のミサの折に分けてもらった白バラの変わり種を蒔いているところだという。

 

「シスターもアイドルばすると!?」

「うちはルール無用だよ」

 

 呆れたのか感心したのかわからない溜息を柑奈はついた。おそらくは両方だ。

 

 互いの紹介のあと、柑奈は種まきの手伝いをはじめた。一人の作業を二人でやると倍の速さで片づくかというと、答えは否である。

 

 教会は閉ざす門を持たぬというとおりのシスター・クラリスと、人懐っこい柑奈とはおしゃべりに花を咲かせる。三〇男はそのあたたかな空気を壊さないようにギターケースとともに見守っていたが、こんなときは邪魔がはいるのが世の常である。……でないと話が進まないから。

 

「ヒッピーを連れてきたって聞いたんだが」

那蓮(なばす)さん」

 

 ……那蓮さんは我が社の部長の一人である。おれの直属の上司ではないが、世話になったことはある。目の落ち窪んだ芥川龍之介といった風貌の、名前どおり神経質な五〇代だ。

 

「あの子のことですかね」

 

 示した先で、柑奈はクラリスと賛美歌を歌っている。バラの種はどうした。

 

「いくら我が社がアイドルの自主性を重んじるといってもな、反社会的なのは困るよ」

「賛美歌歌うヒッピーはいませんよ」

 

 ヒッピーにとって政府は敵である。大麻を禁止するからだ。キリスト教も敵である。ポルノもフリーセックスも赦さないからだ。ラブアンドピースなら大好きである。彼らの欲望の行き着く果て、理性と知性を投げ棄てて堕落した世界を勝手にそう美化して呼んでいるだけだが……。

 

「柑奈はひとの心に、思いやりとか隣人愛を届ける歌を歌いたい子ですよ」

 

 那蓮部長の暗い目許は、眉をひそめるといっそうくろぐろとなる。こちらに気づいたクラリスの説教(なかば宗教的な意味合いである)のおかげで、鱗の二、三枚は落ちたろうか。腹痛の芥川くらいの顔になって引き揚げていった。

 

「ああいう偏見と戦っていかんとな」

「私の誤解を解こうってこととですね。ケンカを売ったり買ったりはせずに」

「そうさ」

「そのときはわたくしもお力添えいたします、柑奈さん」

「担当の彼によろしく」

 

 ……微笑みとバラの播種の時間は真昼までつづいた。

 

 

 

 それからしばらくはいつもどおりの日々である。ただ一点、日暮れごろには駅前に出かけて柑奈の歌を聴いては、ギターケースに硬貨を投げこんでいた。額面は一〇〇円である。柑奈の許へ通うときはいつも、小銭入れに五百円玉を切らしていた。そしてこれは何度めかに気づいたのだが、その百円玉はいつもおなじものだった。……100を横切って灰色の汚れのついた、昭和三六年製。

 

 柑奈とはときおり食事に行くこともあったが、その硬貨の話はしなかった。なんとなく、柑奈が気づいたとたん、このサイクルが途切れる気がしたからだ。東京の暮らしに慣れること、月々の支出を把握すること、そして無収入で半年やっていけるだけの蓄えを持つこと。柑奈が課題をこなすには、いましばらく時間がかかりそうだった。

 

 なにしろ高校を卒業してすぐにギター一本で家を飛び出し、一年がかりで東京まで旅ガラスをしてきたのだから、生活の安定そのものから始めねばならなかったのだ。

 

「きょうは自分のぶんは払いますよ」

 

 なだらかな胸を張って、柑奈は伝票を取った。……出会ってから三ヶ月ほど経った、ファミリーレストランの席である。遅い夕飯を終え、デザートの皿も空になって、雑談の話題がとぎれたときのことだ。

 

「遠慮することないのに」

「自立の記念とです。こちらを……」

 

 ハンドバッグから四つ折りにした紙を、両手で差し出してきた。契約書だ。書面に不備はない。内容について念を押し、おれは鞄のなかのクリアファイルに柑奈の契約書を挟んだ。

 

「もう支度も覚悟も整っちゃったか」

「は、はい。もうバッチリさね~」

「あしたからよろしく。まずは挨拶回りをして、研修は二、三日後かな」

 

 レジまでの数メートルを歩きながら、おれは会社にメールを打った。宛先は上司と、人事……いまの窓口はだれだろう。部宛にして宛書を“新人担当”にすればいいか。

 

「八八五円、こいでちょうど……あっ、すみません、やっぱり一〇〇〇円札でお願いします」

 

 メールを保留しておれも会計を済ませ、柑奈につづいて店を出る。メールはその数歩のうちに送信することができた。

 

「こいは記念のお守りにします」

 

 帰りの電車のなか、開かない扉にもたれて柑奈は二つのものを取り出した。一つはさっきのレシート。もう一つは……。

 

「百円玉?」

「はい、ミミ……プロデューサーさんのでしょう?」

 

 100を横切る灰色の汚れは、もはや見まちがえようのないものだ。

 

「きみも気づいてたのか」

「はい、いつもあるなーって。まあ、いつも使っちゃうんですが」

「それが毎度巡り巡っておれのところに来てたわけだ。悪い縁ではないんだろうな」

「弾き語りばやめたら、もう巡らなくなりますけんね」

「だいじにするんだよ」

 

 ちなみに、おれのオヒネリだとわかった理由は“なんとなく”だそうだ。

 

 

 

 降りるべき駅にはやけに早く着き、改札までの道のりも短い。

 

「それじゃあ、またあした」

「え?」

 

 柑奈が意外そうな顔をする。

 

「どうかした?」

「あーいえ、か、帰ってよかですか?」

「そりゃあ……」

 

 その表情をついさっきも見た気がして、おれは言葉を切った。契約書を受け取ったあとの軽口へ、なぜか詰まって答えたときだ。

 

「いや、しかし、“覚悟”とは脅かしすぎたかな」

「いえいえ、一大事とですよ。芸能界ばはいるということは、そのう、ねえ。シスターでも容赦せんとは恐ろしか思いましたが、怖気づいてはおれんと……」

「きみの偏見もたいがいだったみたいだね」

 

 面白いやら嬉しいやら、精確に表現しにくい気分がこみ上げてきて、おれは失笑した。柑奈は紅潮した顔で目を丸くしている。

 

「でもせっかくだ。のぞいていくかい」

 

 壁のようなマンションを親指で示す。柑奈の顔から驚きが消え、考えこみ、さらに赤くなる。甘い色の目をうるませ、大きな口で笑いながら、おれの胸に猫パンチを打ってきた。

 

「も、もう。そがんごた早よいわんね~! いやらしかー、もういやらしかー!」

 

 たなびく雲を一筋かけた満月の下、おれたちはしばらく笑いあっていた。

 

 

(了)

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