入谷の交差点は朝から賑やかだ。朝顔祭りの初日のきょう、陸橋から歩道橋から手ぶらで、鬼子母神のほうからアサガオの鉢を提げて、ひとがまばらに行き交っている。
人波の寄らぬ歩道橋の階段の陰、待ち合わせた場所に有浦柑奈はすでにいた。おれが声をかけると、スカイツリーへ向けていた垂れ気味の目だけこちらに向ける。
「一三分」
柑奈の視線は硬質に光る文字盤へ移る。健康的な色の横顔から腱の浮いた手首へ、おれの目はつられた。細い革のベルトから視線を上げたときには、チョコレート色の瞳が傾ぎながらおれの顔を見つめていた。
「ごめん、遅くなった」
時間に間に合わないとわかった時点でメッセージは飛ばしたが、既読がついたかは確認せずに来たのだった。通知を切っていて待ちぼうけをしていたかもしれない。
「時計を見るのはだいじですよプロデューサーさん。……一三分は私が遅れた時間。プロデューサーさんは一五分です」
柑奈は右手で五を、左で一を示してみせた。自分の腕時計を藪睨みにすると、針は七時一六分を指している。おれの顔を下からのぞきこんだ濃い色の目が嬉しそうに笑う。
「私も遅れますーって返したんですけどね。あわてて来てくれたんですね~」
「いやあ、まったく、びっくり下谷の広徳寺、恐れ入谷の鬼子母神だな」
せっかく入谷に来ているので、知識にはあっても口に出すことのなかった言葉を使ってみた。……表情筋が照れ笑いのような、苦笑いのような、妙な形になるのがわかる。
「あはは、まさにまさに。キャシーちゃんがそれいってまして、気になってたんですよ」
「それで来たいっていいだしたのか。朝早くだし、アサガオが目当てかと思ってた」
「アサガオも目当てです」
大きい口でゆるやかなカーブをえがいてみせる。裏表のない笑顔である。ナデシコの花柄の青い浴衣をしっかり着ているから、たしかに祭りがあるとわかっていたらしい。
サイドポニーに上げた髪の元結は、トレードマークのデイジーの髪飾りで留めてある。何色かあるが、きょうのは白だ。夏の陽射しと白い花が、濃い色の髪の艶を深くしている。
「私はともかく、プロデューサーさんの遅刻は珍しいですね?」
「そうかな」
柑奈の遅刻はそうありもせず、おれの遅刻はままあることである。……もちろん、ちゃんとした理由があるけども。
「おれはあっちの三面大黒天を見に寄って、路地を抜けて来ようと思ったらちょっと迷っちゃったんだよ」
“きみは?”と目で訊くと、柑奈はうちわで口許を隠して笑った。
「私も寄り道です。クラリスさんのお手伝いで、近くの教会の早朝礼拝の準備を」
「立派なことしてんなあ」
「プロデューサーさんだってお参りでしょう?」
「おれは仏像見たかっただけよ。三面っていうから源流のマハーカーラみたいな荒々しい像を期待してたんだけど、ふつうの大黒さんのニコニコ顔が三倍になってるだけでね……」
ふつう二俵の足許の米俵の数が四俵になっていたから、富のご利益は強そうであった。
「がっかりした、と」
「罰当たりながら」
頭をかけば、“ならたしかに私は立派ですね”と柑奈は得意がる。前身頃の生地がぴんと張った。
「いい浴衣だね。卸したて?」
「はい。ポリエステルですけどね」
「なんだ、ご立派なお嬢さんのオーラで騙された」
「いひひ、担ぎますね~。柄は気にいってるんですよ」
「おめかししてすっかり美人さんになってるのはじじつ……」
浴衣の肘でつつかれていると、背中に視線を感じた。振り向けば幾人かが立ち止まってこちらを見ている。
「“美人になった”って、ふだんはどうなんです?」
「ふだんはかわいいだろ……まあ、浴衣の柄なんかもあとでゆっくり見させてもらうとして」
胸をつつく肘とは反対の肩をそっと叩いた。
「せっかく早起きしたんだ、アサガオがしぼむ前に見に行こう」
「うーん?」
おれの右の肩越し、つづけて左の肩越しに周りをうかがい、柑奈は得心したように白い歯で笑った。
「オーラが洩れちゃってましたね~」
「困ったもんだな柑奈ちゃん」
鬼子母神の前を横切る歩道には日除けのブルーシートが張られている。薄暗いその下こそ、早朝から大勢を惹きつける朝顔市である。買いに来たひと、見に来たひと、御朱印が欲しいひとにお守り目当て、祭り好き。わけへだてなく、行灯仕立てのアサガオがずらりと並んで出迎える。
「このお祭り限定のお守りも売りよんて聞きましたよ」
「アサガオの飾りがついたやつかな。子育てのお守りらしいよ」
アサガオ売りの熱気も加えてひといきれ渦巻く青暗い道を、柑奈とおれは手をつないで歩く。狭い道であれば横には広がれず、柑奈を先に行かせてうしろから手をとっている。よそ見をしながらちまちまと、何度となく追突してしまう。
……やがてシャツの胸に浴衣の肩を押しつけながら、柑奈がおれの顔をふりあおいだ。太めの髪が肩でじゃりじゃりと鳴く。
「この歩きかた、なんだかいやらしくなかと?」
「あんまり意識させると危ないよ。この界隈はそーいう建物が多いぞ」
「わあ怖い怖い」
肩をつかんだ手は振りほどかずに柑奈が笑う。おれもつられるが、すぐ表情を引き締めねばならなかった。まさにアサガオを買っているひとの、かがんで突き出した尻にぶつかりそうになったからだ。
「わぁ~」
そしてそのそばから柑奈が嘆息して身をかがめた。また追突した控えめな尻の上、山吹色の帯をおれは叩く。
「おっと危ない」
「まだセーフでしょう」
「どうだかわからんよ」
帯の上から脇腹を撫でる手を外すように半身をひねり、柑奈は下を指差した。
「それよりこっちですよ」
「へえー、すごいな。真っ白だな」
きれいに整えた爪の先には、白いアサガオの花がみごとに円く咲いている。茂る緑の葉と純白の花が、日陰にあっても鮮やかだ。
「白いの咲かせたことってありますか?」
「うーん、たぶんないなあ」
記憶をたぐってみたが鮮明な画は浮かんでこない。青い花ばかりだったはずだと思うのは、あとから知識で補ったものかもしれない。
「なにしろずっと昔のことだし」
「どこの小学校でも一年生ですもんね……あれ? プロデューサーさんがアサガオ育てとらしたの、私が生まれるよりずっと前と!?」
「“ずっと”ってのはやめて?」
「私がアサガオ育ててたころは……受験勉強ですか?」
大きい口がころころと笑う。……じつに楽しそうに。悪い顔がかわいらしいと褒めたことは何度もあったが、きょうはいってやらない。
「そうかそうか、おれがうだりながら暗記漬けになってたあの夏に、きみはのほほんと絵日記書いてたのか」
「まあまあ、私のは一つ……一株っていいますかね、白いの咲きましたから。仇討ちばしとったとですよ」
「ほー、江戸の仇を長崎で討ってくれたのか」
「そーですよ~。がんばりましたよ~」
繋いだままの手を柑奈は揉んできた。小さいが、指弾きで鍛えられたしっかりした手だ。反射で開いた指で、おれも二度三度揉み返す。
「そいつはありがとうなあ柑奈ちゃん」
柑奈は身をひねって肩越しにピースサインと白い歯を見せた。開いた襟首から熱い空気が吹き出す。首筋に丸く浮かんだ汗が、肩のほうへ回りながら落ちていった。
「お兄さん、この白いアサガオ一鉢くださいな」
「はいよ!」
「おれが出すよ。遅刻のぶんだ」
「いえいえ、こういうのは自分で買うのがいいんです」
花鞠柄の巾着から柑奈が財布を出し、代金が店の親爺に渡り、朝顔市の札を付けられた鉢が一つ、おれの手許にやってきた。咲いているのは二輪、まだつぼみがいくつかついていて、しばらくは緑と白のコントラストを楽しめるだろう。
指にビニール袋の食いこみを、手首と肩の関節に鉢植えの重みを感じながら、まだ片手は柑奈と繋いだまま、肩の擦れ合う雑踏を進む。アサガオの色を楽しむていどの余裕を持ちながら。
「やっぱり青いのもいいですよね」
「そうだな、アサガオは青だ」
やや無感情に答えると、薄ピンクの花を描いた青い浴衣の肩を揺すって笑う。その何秒かあとにはもう、二鉢めがおれの前に差し出されていた。そちらは柑奈が手にとって、また片手を握ってくる。
「寮の部屋に栽培するスペースあるのかい」
二鉢も買ったので、気になって訊いてみた。柑奈たちが生活する女子寮は一口のIHと流しのついた六畳の1Kである。防犯と安全のために窓には小洒落た面格子がついていて、置けるとしたら多肉植物の小鉢くらいのはずだ。
「庭に置くとですよ。ゆうべ、朝顔祭りの話してたら栽培したいねってなって」
「みんなで世話するわけか。懐かしい感じがするな」
「ふふふ、そういうことです」
ときどき鉢どうしをぶつけてしまいながら、店前にひしめくさまざまの朝顔を見物して歩く。花びらが五角形のもの。一回り小さくて星型の花びらをしたききょう朝顔。琉球朝顔だとか、とりどりの色。中心から花びらの五つの先へ、絵筆で引いたように色の走るもの。ふちを白くして青い星型を浮かべたもの……。
「ほら、ほら、あれ見てください、ききょうよりもっと小さいの」
「薄紫! きれいですねえ」
「きっちり模様が出るものなんですね」
「“団十郎”。これは聞いてきましたよ。ここの名物だそうです」
楽しむ柑奈の口からほとばしる言葉の合間に、おれも嘆息したり唸ったりしているうちに、道の左手がひらけた。恐れ入谷の鬼子母神、それをまつる真源寺の山門だ。
とくに示し合わせもせず、柑奈とおれは境内にはいった。まだ八時にはならないだろうが、晴れた空に太陽は白く高い。
「ここのはゆっくり見てられそうだね」
ここにもアサガオが平積みにされていて、集まりようで見れば沿道をしのぐかもしれない。ひとの数も多いかもしれないが空いて見え、境内だけあって静かである。
空間に余裕ができたのでようやくふつうの形で……つまり横に並んで手を繋ぐ。はぐれそうだからではなく、なんとなく繋ぎたいから繋ぐ。二鉢の片方を柑奈が取ったのも、そのなんとなくのためだろう。この子の言葉でいうならラブ、友愛とかのたぐいか。
さて、おれがアサガオを提げた手で小さく示した先では、一つの鉢に三種か四種か、色も柄もことなるアサガオが寄り集まったものが売られている。この四色大輪が、団十郎……小豆色の花と並んで朝顔市のメイン商品のようだ。
そのうちの一鉢に咲く、花の奥のみ白く残して真っ赤な一輪に柑奈が鼻先を寄せた。
「アサガオの赤って、シロップみたいでおいしそうじゃないですか?」
「いいね。あとで向かいで氷イチゴでも食べよう」
「じゃあ、それはおごりで」
この朝顔祭り、大通りの鬼子母神側の朝顔市ばかり歩いてきたが、祭りというだけあって反対側には食べ物などの出店が並んでいる。念のため。
「けど青はブルーハワイって感じじゃあないな」
「この青い色、ヘブンリーブルーっていうそうですよ。食べ物にするよりロマンチックですね」
「団子より花かい」
「うーん、五分五分さねえ。……」
柑奈は口を閉じきらないままあたりを見めぐらした。どうしたのか訊ねると、さっきからときどき聞こえる音が気になるという。
「あ、ほら、またカチカチって」
「火打ち石かな?」
「昔話ですか」
「いやほんとに。さっきいってた朝顔守りさ、売るときに火打ち石でお清めをしてるらしい」
“時代劇でおかみさんが見送りのときにやるやつですね”と、ひとり納得したようすでサイドポニーが揺れる。そのはしからまたカチカチ、カチカチと火打ち石が鳴る。いちど気にしてしまうと意識するもので、つい視線がお守り売りのテントに運ばれていく。
「プロデューサーさんも買ったらどうですか?」
「子育てのご利益っていったよね? 結婚だって躱されどおしなんだぞ、おれは」
「あはは、手強いですもんねえ留美さん。私も楽しく見て……いえいえ応援はしてるんですけど、そっちじゃなくて、育ち盛りをたくさん抱えてるでしょう?」
柑奈はアサガオの鉢のビニール袋が食いこむ手を頬まで上げ、しっかりした指を自分の鼻に向けて見せる。
「なるほどね、それじゃあいちばん大きいやつを買ってこようかな」
「そいでこそラブのふとかおひとです」
「きみも担ぐねえ」
すっかり見慣れたかわいい白い歯に眉をわざとらしく寄せてから、おれは朝顔守りを買う列に並んだ。このときばかりはさすがに柑奈も手を離し、二鉢のアサガオとともにザクロの木陰で待つ。ギターがなくて手持ち無沙汰なのか、ゆらゆら揺れたり、おれの視線に気づいて手を振ったりしていた。
一〇分ほどかかってもどってみると、アサガオの鉢が四つに増えていた。団十郎いりの四色大輪と、目の醒めるような青紫のききょう朝顔だ。
「買ったもんだね、柑奈ちゃんや」
「すぐそこに宅配の受付があるって聞いたら、せっかくだしと思ってしまって~」
それなりの出費だったろうに、柑奈はからりとしたものである。
「オーソドックスなのと変わり種、ってわけだ」
「そういうわけです」
「しかしこれじゃあ二人して両手が塞がるな」
ビニール袋の跡がついていないほうの手を結んで開いてみせると、柑奈もおなじ動きをして返す。
「宅配はすぐそこですから、ちょっとの辛抱ですよ。私も我慢しますから」
「一〇も歳上の大の男をそんな子供みたいにだね」
「じゅう……いち」
両手の人差し指を立てて、桃色の唇が大きくカーブをえがく。
「細かいこと気にしないの」
「はーい、ふふふ」
鉢を持ち上げたのは二人ほとんど同時だった。小柄な柑奈が軽々とやったのに対し、つい“よっと”と声が洩れたおれは顔を背けた。
気持ち足早に朝顔市のブルーシートをくぐり抜けた先、宅配便の臨時受付に人間の列はなかったが、配送予定だろう鉢植えが店前同様に並べられていた。
柑奈は白とききょうを地面に下ろし、胸の前でピースサインを作る。
「伝票二つください。白いのだけべつで、あとのは一緒でお願いします」
「実家に贈るのかい?」
「もっと近いとこです」
追加の配送伝票を受け取る柑奈の肩越しに訊ねると、うつむいて書きこみながらの答えが返ってきた。どこだろうと考えるより早く柑奈は振り返り、その伝票を差し出す。送り主には柑奈のものが、宛先にはおれの住所が町名まで書かれている。
「はいどうぞ。白いのはプロデューサーさんのですから」
「あれ、そうなの?」
「たまには贈り物させてください」
「しょっちゅう貰ってる気もするが、ありがとう。だいじに育てるよ」
おれがウヤウヤしく両手で受け取ると、柑奈は両手で握手をしてくる。卒業式かなにかだろうか。おれは頬を持ち上げたまま、寮宛ての伝票にとりかかる柑奈の隣で住所のつづきを埋めた。
「住所ちゃんと知っとったらサプライズできたんですけどね」
「番地まで調べられてたらたしかにビックリだ」
「もう覚えましたからね、次からはサプライズできますよ」
「ちょっと見ないで恥ずかしいからあ」
……すっかり身軽になって、おれたちは横断歩道を渡る。ストレッチをしてあらわになった浴衣の二の腕の陰から、柑奈がおれに呼びかけた。
「そうそう、アサガオはですね、長持ちさせるなら水やりをたっぷり、涼しい時間にすることですよ」
「ほー、涼しい時間しか家にいられんからちょうどいいな。助かる」
栽培のうえでの注意点は、柑奈が買うときに教えてもらっていた。……背後にピッタリくっついていたおれにも聞こえてはいたが、それは彼女の知るところではないだろう。
「あと、しおれた花はササッと摘んでおくと、秋になるまでは次の花がどんどん出てくるそうです」
「うーん、なるほど、でも花は摘まずにおくよ」
おれは胸ポケットに差した朝顔守りの造花をはじいた。
「花が咲いてもあとに残るもんがないのは寂しいからね。枯れるのも、まあ、それはそういうものでしょ」
しおれた花を摘むのは種ができるのを防ぐためだ。種ができると葉も蔓も、当代の役目は果たしたとばかり枯れてしまう。
気取って張った肩に、柑奈の頭がごんと音を立てた。サイドポニーの白いデイジーが夏の日光にまぶしい。弓なりにしたチョコレート色の瞳と視線が合った。
「夏がつづけばまだまだ咲きますよ、きっと」
(了)