猫、巫女、サンタ、あいのうた   作:久聖

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芽衣子・由里子・若葉  世に死火山のあるまじき

「よくも私をォ!」

 

 並木芽衣子は憤慨していた。担当プロデューサーの座席、無人の机に向かい、涙声で吼える。

 

「置いて行ったなァ!!」

 

 閑散とした部屋のなかに、叫びに応えるものはない。ブラインドに濾された陽射しと、ツクツクボウシの混ざりはじめた合唱が、残響を呑みこんでいく。

 

「行きたかったー! 私も秘境行きたかったあー!!」

「デスクに話しかけてもプロデューサーさんには届かないじぇー」

 

 背もたれを目一杯倒した椅子に脚を組んだ大西由里子が、タブレット端末のブラウザゲームから視線を外さずに声を投げた。

 

「直接いいたいけどあの化けミミズク、いま飛行機でしょ……」

 

 ……化けミミズクとは、芽衣子たちの担当プロデューサーのあだ名である。毛束が特徴的に跳ねたその髪型から命名されたものだが、一部にはほんとうに妖怪だと思っているアイドルもいるようだ。

 

「メッセージ送っとけば?」

「ぎゃーぎゃーわめいた跡が残るとあとで見たときみじめっぽいでしょ」

「なんて冷静なだだっ子……」

 

 由里子は腐女子である。一〇も二〇も歳上の諸先輩方との会合にも参加する。したがって長幼の序はわきまえており、言葉の後半は声には出さなかった。

 

「芽衣子さん、どうしたんですか?」

 

 悔し涙を流す芽衣子にではなく、落ち着いている由里子に向けて訊ねるのは日下部若葉だ。太めの眉を心配そうにしている。

 

「めーこさんはさっき帰ってきたでしょ」

「四万十川でしたっけ? けっこう長く行ってましたよね」

「今朝、プロデューサーさんがレイジー・レイジー連れて温泉ロケに出かけたでしょ」

「あー、行きましたね~。なんかギリシャの孤島の、さいきん一般人も行けるようになったって火山の温泉」

「ただの温泉ロケだっていわれて、そんな魅力的な場所だなんてずっと内緒にされてた……!」

「あー……」

 

 レイジー・レイジーの口を閉じていても危ないほう、一ノ瀬志希によってロケの詳細を芽衣子が知らされたのは、帰りの機内でのことだった。放心とどうやってもあとからでは追いつけないシミュレーションを繰り返し、事務所にもどってきてついに怒りに目覚めたのだ。

 

「よくも騙したアアアア!!」

「いまハーブティー淹れますから落ち着いてください!」

 

 スリッパをパタパタと若葉はポット台へ小走りに向かった。

 

うん(うえーん)   (悔しいよぉー)   (なんで未成年だけに)   (そんなおいしいロケの)   (オファーが来るんだよー)   (大人にこそ温泉行かせてよー)   (一〇代がそんなに)   (えらいのかよー)   (知ってたら私だって)   (三年くらい前から)   (諾ける気でいたのに)  (あいつらひどいよ)   (鬼だよ悪魔だよ)   (オーストラリアの税関だよぉー……)

「ちょっとはみ出しすぎじゃないめーこさん」

「趣味に旅行って書いた女が特別な旅行に置いてかれたんだからこのくらいはみ出すっちゅーねん……」

 

 机に突っ伏しているうちに充血した目だけを、のんきな由里子へ向けた。

 

「うちらは最初っからお留守番だしい」

「夕方からお仕事だから、ですけどねぇ」

 

 パックのハーブティーを用意していた若葉が苦笑いをする。

 

「いいやちがうね。ワタシたちヒマでも連れてかれることなかたのことよ」

「めーこさんどこのひと?」

「近畿のひと」

「おまけやん」

「しばくぞ」

 

 和歌山の芽衣子が香川の由里子にドスをきかせる。群馬の若葉の心配そうな視線に気づいて、二人は不穏に思える空気を手で払ってみせた。

 

「ま、まあ、手が空いててもオファーが来てないのに同行させる余裕はないですから~……」

「ワタシ自腹で行くよ。レイジー・レイジーなんて一人で面倒見きれるコンビないね。助けてやろういうのにあいつ恩知らず。きっとあいつ温泉で合法未成年とお楽しみたいつもりあるのことよ」

「ほんとどうしてエセ中国人に……。あともうちょっと言葉を……」

「パンダくさい繋がりかな」

 

 首を狙う芽衣子と手四つになりながら、由里子はおいてけぼりの不満に話をもどす。

 

「てか、伏せられてたのってそれが理由でしょ。体力的にもお金的にも無茶するからでしょ」

「そんなことわかってる! わかるから納得いかないんでしょがー!」

 

 叫ぶと唾と一緒に、涙の数滴が飛んだ。

 

「悪いと思ってるから、プロデューサーさん、こんなのを置いてったんですよ」

 

 若葉は小型の冷蔵庫を開けてみせた。その棚の中央に、メロンがでんと鎮座している。芳香が芽衣子の鼻にも届き、“ふむ……”と機嫌の傾きを直さしめた。

 

「ぐぬぬ、しかしモノで懐柔しようとはナメられたもの……!」

「いま切っちゃいますね~」

「ユリユリたちもお相伴にあずからせていただきやす」

 

 若葉はメロンに包丁をいれた。四分の一を芽衣子に、八分の一ずつ由里子と自分に。それをティーポットと三客のカップとともにテーブルに運ぶと、香りに誘われた芽衣子がソファに腰を下ろす。一つ安堵の息をついて、若葉も一人がけのソファに小柄な体をおさめた。

 

「ええい、腹は立つけどプロデューサーに噛みついたって得るものないからしないけど腹は立つからこっちも勝手に旅行に行きたいよね」

「ここではリントの言葉で話せ」

「お茶にしましょう、メロンがぬるくなる前に~」

 

 若葉の小さい手の先で、薄金色のハーブティーが湯気もかすかに、白い天井パネルを映している。

 

 

 

「落ち着きましたか芽衣子さん?」

「芽衣子さんは最初っから冷静だよ若葉ちゃん」

 

 口の周りの果汁を拭きながら、目だけ笑っていない芽衣子である。胸の下を撫でながら“余は満足じゃ~”と抑揚ない声を天井へ投げる。

 

「まー冷静なのはほんとっぽいじぇ。怒りの矛先安定してるし」

「あれわざとおちょくってたんですか……」

 

 呆れ半分感心半分に、若葉は溜息をつく。

 

「……お香焚いてみません? ラベンダーのとか」

「ロキソニン飲ませたほうが早いんじゃないかってユリユリ思うの」

「たぶんそれとはちがいますよ……」

 

 二人はスティックタイプのお香が収まった抽斗を開ける。紫の花の描かれた箱から由里子がえいやと一本を引き抜いた。

 

「ほかとちょっと色がちがいません?」

「んー、どれもまちまちじゃない? 焚いてみよ」

 

 ガスコンロに向かう二人の背中に拗ねた冷笑を投げつけて、芽衣子は気取る。

 

「私の心を動かすのは知らない場所の風景なのさー。森の香りに野の風、潮騒、街角の……くさっ! なにこれ! 芝浦の運河のにおいがする!」

 

 青灰色の煙とともに立ちこめる異臭に慌てたのは芽衣子ばかりではない。すぐさま水道のはげしい音がして、由里子が叫んだ。

 

「すぐにけせ!」

 

 狭くはないはずの室内に、鼻の奥にへばりつくような生臭さが充満したのはあっという間のことだった。蛇口からの水を浴びせても、水から出せばお香はふたたび煙と異臭を発しはじめる。

 

「ぎゃああ! なんなんですかこのお香!」

「いろいろマゼモノをすると水につけても平気な松明が作れるって、落乱で読んだことあるじぇ。たぶんそれ」

「なに平気な顔してるんですか!? ……じゃなくて消しかた!!」

「濡れ雑巾でくるんでぐしゃっとやろ。最後は物理がさいつよ」

 

 そのとおりであった。

 

 ……こうして、雑巾一枚の犠牲で灰色の東京湾の悪臭はその元を断たれたのだが、まだ残党がこの部屋にひしめいている。

 

「若葉ちゃんは換気扇! ユリユリはま……ど、は、開かないか」

 

 苦肉の策でドアをせわしなく開閉させる車式の換気法をしていると、外からマイペースな声がかけられた。

 

「だれだこのくさいときに!」

「ファブリーズ持ってきたよー」

「どうせ志希がやらかしたんでしょう?」

 

 消臭スプレーを雑に吹きちらしながら、速水奏と塩見周子が部屋を訪れた。きょとんとした目が五組、異臭の薄らぎはじめた室内を行き交う。うち三組は意外な訪問者のため、あとの二組は意外な不在者のためである。

 

「一ノ瀬党のおとなしいほうじゃん。どしたの?」

 

 そうしたなかで口火を切ったのは由里子だった。テーブルのティーセットを取り上げて、若葉に引き渡す。

 

 奏と周子はあいまいに頷く。二人とも一ノ瀬志希の仲間ではあるが、彼女を顔にされるのはあまり面白くないようだ。

 

「今夜、私たちが出演した特番があるから見ないかって誘いに来たのよ」

「変なにおいがしてたから、志希ちゃんいると思ったんだけどなー」

 

 異臭のお香が志希の作だったことにいまさら気がつき、由里子は天を仰いだ。思えばときどき、プロデューサーがお香がくさいと怒っていた、と。

 

「あんなフレーバー作ってどうする気なんでしょうね」

 

 追加で二客のハーブティーを注ぎ、若葉は半分残していたメロンをさらに八等分して持ってきた。さすがに小さすぎたのでリンゴも添える。茶菓子はすっかり切らしていたのだ。

 

「叱られたいんだと思うじぇ」

 

 小声の会話を吹き飛ばすように、オーバーな身振りで芽衣子がふてくされた声を張った。

 

「けど残念! うちの化けミミズクがお空の向こうに連れ去ってしまったのでーす。いまごろは人里離れた温泉宿でお楽しみー」

「めーこさん拗ねすぎでしょ。ひと聞き悪さが天元突破してる」

「えーと、旅行ってこと? それとも泊まり仕事かしら」

「はじめて聞いたーん」

 

 感慨も浅く、二人はメロンを口に運ぶ。おなじ動作を乱暴にして、二杯目のハーブティーをすするのは芽衣子である。その身の裡に逆巻く怒りと悲しみと羨望のエネルギーが、金の波濤となってテーブルに砕けた。

 

「そうかそうか、キミたちも友に裏切られしものだったか。よしよし」

「奏ちゃん、周子ちゃん、ごめんなさいね~。いまちょっと芽衣子さんは心がささくれだってるんですよ~」

「ゆーてうちら気にしてないしねえ」

「……おたがいに束縛してないだけよ」

「ぬぅ~、理解者がいない」

 

 芽衣子はテーブルに身を乗り出して肘を打ち下ろした。顎を乗せた手の人差し指を奏へ伸ばす。

 

「たとえば~……奏ちゃん! 奏ちゃんの担当が新作映画の初回をほかの子と観に行ったらどー思う!」

「ネタバレしてこなければなんとも……。自分のペースで楽しみたいもの」

「くそっ、水はだめだ! 塩! ご趣味は!?」

「その略しかたはひどくないかしら……」

「献血をしょーしょー」

「プロデューサーが新しい献血にほかの子連れて行ったらどうだ!?」

「意味わかんなくて笑う」

 

 芽衣子はテーブルに両手をついてうなだれた。仲間を増やすことを諦めたのである。

 

「もう呪うしかない」

「呪わなくてもひどい目に遭ってると思いますよプロデューサーさんは」

「ちがう! 呪いの力で志希ちゃんとこう、場所を……いれかえる!」

「……どこでどうやるの?」

 

 もはや考えて喋っているのかも怪しい。目の焦点のあいまいな年長者に、由里子は頭を使わせてみることにした。

 

「呪うっていったら貴船さんでしょ! 周子ちゃん、定期券!」

「あたし実家がよいじゃないよ」

 

 貴船神社は京都市の北に建つ、水神タカオカミノカミを主祭神とする神社である。創立は反正天皇の御代と伝わり、西暦に換算すると四〇六年から四一一年の間だ。

 

 ご利益は縁結び、縁切り。丑の刻参りはここが発祥の地とされる。余談だが、おみくじに大凶が実在する神社の一つである。

 

「てゆーか、どうせ宇治行けっていわれるんだから宇治直行でよくない?」

 

 嵯峨天皇の御代のこと。恋敵を取り殺すべく鬼神にならんと貴船神社で祈った女がいた。すると、変ずべき姿を装って宇治川に二一日浸るよう神託があり、そのようにしたところ貴船の大明神の力でたしかに鬼女に変じたという。

 

 こうして誕生した鬼女・宇治の橋姫は恋敵も男もその親類も殺し尽くして、二〇〇年ほどののちに一条戻り橋で源綱によって退治された。

 

「あー、それ知ってる。髭切に斬られるやつだ。いいなー」

 

 由里子はタブレットに白い美少年の絵を表示して見せたが、全員それとなく視線を逸らした。

 

「待てよ、温泉はいりそこねて水垢離なんて悲しくて泣いちゃうな……やめよ」

「そ、そうですよ~。そんなことより、奏ちゃん、さっき特番がどうとか!」

 

 どこまでを“そんなこと”にしたのかと睨みつけた芽衣子の眼光は、若葉のふかふかの髪に阻まれて、幼い頬には刺さらなかった。

 

「フクロウばっかり集めた動物バラエティよ」

「フクロウだけって、冒険しましたね……」

「あんがい人気あるんだよねえ。ハリポタとかフクロウカフェとかで一般人気あったし、ポケモンのグッズ展開は速いし、けものはいてものけものはいないアニメもあったし……」

「ばけものとのけものがいる事務所でーっす」

「由里子さんてそういうアニメも見るんですね」

「そりゃー腐ってるけどオタクだもん。男が出てないからって見ないわけじゃないんだじぇ」

 

 ばけものに置いて行かれたのけものは舌打ちをした。

 

「スタジオで触らせてもらったけど、かわいいのよ」

「そういえば我々ってあんまりプロデューサーさんに触ってないね」

「触るとかわいく見えるんですかね?」

「かわいいもなにもないでしょ妖怪に」

「かわいいはなくてもナニはあるでしょ」

「由里子さん」

「芽衣子さんもそっちの担当サンに触ってみたらいーんじゃない?」

「いっそ抱きついてみたら? “寂しかったのよ”なんて」

「逆セクハラっていうのもあるんですよ奏ちゃん」

「ユリユリやってみれば?」

「ユリユリはそーいうあざといの、ちょっとニガテかなあ。メインイボまで出そう」

「出たら見してね」

「出たらね」

「そんなにだめかしら……」

「ちょっとは参考にするよ? 妖怪が帰ってきたら、ダダダダダっといって“寂しかったー!”って……」

「めーこさん包丁下ろして」

「……話、もどそっか」

 

 一服、ハーブティーをすすって五人は五様に深く息をついた。芽衣子に口を開かせてはならぬと来客たちも承知をしたか、キツネ目が少しためらいがちに友の顔から肩を撫でた。

 

「……あんまりかわいくてチューまでしてたもんねー、奏ちゃん」

「へ? ああ、フクロウ? ……その話だったわね」

 

 メロンのわたをスプーンの先でつつきながら、奏は銀食器をつまむ手の甲を見つめる。金の瞳はそこに、番組の“特別ゲスト”だった小さいミミズクの姿を結んだ。

 

「あんまりかわいかったから、ついね。たしか、アフリカオオコノハズクって種類だったかしら」

「ああー、はいはい。この子ね」

 

 由里子はタブレットに指を走らせ、ふかふかの羽毛を灰色と白の二色にしたミミズクを表示させた。赤橙色の大きい目、長い毛に隠れた小さいクチバシ、ぴょこんと起きた長い羽角の、愛嬌あふれる顔立ちだ。

 

 画面を示されて若葉が、控えめにだが芽衣子も、顔をほころばせる。

 

「これはチューしたくなりますね~」

 

 由里子はさらに操作して、いくつかのWebサイトを開く。

 

「アフリカオオコノハズク。二〇から二五センチほど……えー……A4の紙の短いほうとおなじくらい」

「じゃあこんな感じで顔描いて、筒にしたら実物大ですね~。意外とおっきい」

「フクロウの仲間としてはなつきやすいが、非常に臆病で神経質、ストレスで死んでしまうこともあり飼育環境には気を配ること」

「奏ちゃんのちゅーで癒されたかなー?」

「首をひっくり返したりして落ち着きがなくなっちゃったから、どうかしら」

 

 フクロウの首の可動域は広い。しかし、多くは上下左右に揺するか、左右に回転させる程度である。前者は特定のものをよく観察したいとき、後者は広く周囲を見るときの行動だ。

 

 頭が上下逆さになるほど傾けるのは、ごく若い個体に特有のものだという。景色ががらりと変わって見えるのが楽しいのかもしれない。

 

「主にネズミを食べるが、コオロギなど昆虫の比率も高い。飼育下であれば、ネズミは一口大にして与えるのが望ましい」

「出演者にかじりついたりしないように、楽屋で満腹にしといたらしーね」

「……」

 

 楽屋であげられそうな餌とは。刻んだマウスを常備しているとは考えにくく、奏の頭に浮かぶのは、虫籠の……。

 

「まあまあいいじゃん脚がはみ出てたわけじゃないんでしょ? オネーサマがペットの文鳥にチューしたときは黒い脚がひっかかってるのに気づいちゃってアパート揺るがす叫びをあげたって」

 

 オネーサマとは由里子の先輩腐女子であろう。奏は目の金色を黄土色にして、心なしかかさつく唇を結んだ。

 

「ミミズク……餌……。そうだ、そろそろ北海道に鮭が帰ってくる時期……」

 

 それとは好対照に、芽衣子の表情には明るさがもどりはじめていた。機敏に腕をくりだしてリンゴをかじると、頭上に疑問符を浮かべる一同に呼びかけた。

 

「北海道の森にシマフクロウを撮影しに行こう!」

「許可とか出るやつ? レッドデータじゃなかった?」

 

 いいながらタブレットで確認すれば、たしかに環境省のレッドリストに名を連ねていた。

 

 シマフクロウはワシミミズクと並ぶ世界最大のフクロウで、主に魚を食べる。その食性のために一般的なフクロウとことなり、顔のシルエットは丸くなく、翼は羽ばたく音を立てる。

 

 なおシマフクロウは営巣できる場所(主には折れた大木の上)や雛に与える餌の激減によって、世界で二五〇〇羽、日本には北海道の一部に一四〇羽ほどしか生息していない。

 

「ウォッチングツアーもあるし、撮影はできるよ。見つかるかはともかくさ。特番でフクロウが数字とれるってわかれば稟議なんかするっと抜けるよ」

「え、もう具体的な旅プランあり?」

「プロデューサーのパソコンなら企画書のフォーマットはあるし、検印も押し放題だし、ぱぱっと作っちゃおっかねー」

「帰ろっかー、奏ちゃん」

「……そうね、フクロウは一年ぶんは見たわね」

 

 メロンのお礼をいうだけいい、二人はきな臭くなってきた部屋をそそくさと抜け出した。あとにはぎらつく芽衣子と、逃げるタイミングを逸した由里子、年長者の暴走の気配におびえる若葉の、要するにもとの三人が残された。

 

「プロデューサーさんにメールで提案するだけで……」

「内緒で旅行に行かれたんだからこっちも内緒で旅行に行くの!!」

 

 当初の目的は見失われていないのである。

 

「由里子さーん、芽衣子さんが怖い!」

「ついでにパソコンの壁紙、えっちなのにしとこーじぇ」

 

 目の端に涙の小粒を作って、膨れ上がった若葉は由里子の胸ぐらをつかんだ。心配と焦りと怒りとをぐちゃぐちゃに混ぜて塗りたくった幼い顔に、由里子は落ち着き払ってみせる。

 

「まあまあまあ、書類作ってるうちに怒りも冷めるだろーし、出来上がったら判子はヤバいなって気づくだろーし、なによりパスワードがわかんないじぇ」

 

 のらりくらりと、由里子はタブレットのイケメンをつついている。いわれてみればと若葉が落ち着きをとりもどす半瞬前に、芽衣子の乾いた笑いがひびく。

 

「どうせ“rumi0407”でしょ」

「うーん、ハズレてほしいけど、そうだったらちょっとすてきだなぁ」

「えっ、女々しくない? そーいうつもりでいったでしょめーこさん?」

「キモいつもりでいったよ」

 

 翳る若葉をそのまま、芽衣子はエンターキーを叩く。認証失敗の画面が映り、安堵の息が二つ洩れた。

 

「私は彼を見くびっていたようだ」

「見積もりが甘うございましたな」

「でもパスワードのヒントを見れば!」

 

 ログイン画面の中央やや下には、“勝手に起動するな”と表示されている。

 

「あ……あの男には信じる心が足りない!」

「志希ちゃんとかフレちゃん用なんじゃ……」

 

 プロデューサーの意図を口にしかけて、若葉はぐっと飲みこんだ。

 

「諦めようめーこさん。諦めてイケメンつついて遊ぼ? 函館行けるよ函館」

「私の心は釧路や知床の大自然を求めてんのよ!」

「というか、オフを使ってぶらっと出かけるのはだめなんでしょうか?」

「まとまった休みなんてなかなか取れないし、それじゃ仕返しになんないし」

「めーこさんは旅行と仕返しどっちが大事なの?」

「旅行」

 

 ヘイゼルの瞳に迷いはない。しかし、反射的に飛び出した己が言葉にはっとなると、両のまぶたをわずかに伏せた。そして数秒、鋭いまつげのくろぐろと跳ね上がるや、芽衣子の頭のなかには新たな旅の道筋が浮かび上がっていた。

 

「そうだよ、行き先考えるのにプロデューサーの判子なんかいらないじゃん」

「芽衣子さん……!」

「勝手に大事なもの使って困らせてやろう、なんて子供っぽすぎたね」

 

 若葉の新緑の瞳に、芽衣子の両目はどこか清々しく光って見えた。

 

「所詮は最後、お金と時間を出させるためのものなのにさ」

「芽衣子さん?」

「企画は九割プロデューサー発案ってことでやれば二つ返事でしょ。こういうときのための信用だよねえ」

「芽衣子さーん!?」

「ちょっとテレビ局行って企画固めてくる!」

 

 若葉の止める叫びも聞かず、芽衣子は廊下の彼方に消えてしまった。憮然と佇む小さい背中に、タブレット越しの声が飛ぶ。

 

「めーこさんもテレビのスタッフも大人だからムチャな旅程は組まないよお。うちらはせいぜい、プロデューサーさんのイヤそーな顔が見れるように、このこと黙っとけばいいんだじぇ」

「由里子さん、すごい落ち着いてますよね」

 

 あわてふためいていた自分をうらめしげに、若葉はイケメンつつきに興じるおなじ歳、おなじ茶髪、おなじ癖っ毛の顔をのぞいた。するとようやく表情を渋からしめて、椅子の背に伸びをしながら由里子はもそもそと答える。

 

「最初にノーマルカップリングでどつかれたから、イマイチ気分が乗らないの」

「……すみません、わかりません」

 

 

(了)

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