盆踊りの輪を外れて石灯籠のかたわらに立つと、薄金色に燃えていたはずの空のふちはすっかり青ざめていて、ヒグラシの声も鈴虫と変わっていた。草を揺らしてきた風が、砂粒とともに下駄の歯のあいだをとおっていく。
「はぁ~、涼しい……」
道明寺歌鈴が油断しきった声を出した。金魚の泳ぐ流水紋の浴衣は白い襟を上気した首筋から離して、おくれ毛と高く結った毛先を宵の口の風にさらしている。おれも一つ、大きく伸びをした。浴衣の帯がずれる感触に、歌鈴の小さい笑い声が重なった。
「しばらくこのくらい過ごしやすいといいな」
「せっかくのお盆休みですしね」
つい一時間前、街ロケをこの浴衣姿で終えて、歌鈴のアイドル業の夏休みがはじまったばかりである。近くで盆踊りのあることは事前に知っていたので、示し合わせて浴衣での夕涼みだ。
「地獄の釜の蓋も開けたんだから、現世も少しは涼しくってね」
仏教の地獄には罪人を茹でる釜がある。年がら年中茹でていると汚れが溜まるので、定期的に蓋を開けて洗っている。それがお盆と正月だ。とうぜん、このときばかりは地獄の責め苦が休業になる。ゆえに地獄の釜の蓋が開くとは、連勤から解放された休暇の喜びの表現というわけだ。
一方でキリスト教の地獄は年中無休らしいが、そもそも悪魔任せの無法地帯。営業も休業もありはすまい。仏教の地獄に相当するのは一部のカトリックでいう煉獄で、どちらも刑務所か更生施設のような場所である。
「ふい~……」
歌鈴が小さいうちわを小刻みに揺らしている。おれはすぐそばの出店でラムネを二本買った。これを頬や首筋に当ててやるのがありがちな光景だろうが、歌鈴にかぎっては驚いた拍子に転んでせっかくの浴衣を汚してしまいそうなので、ただ目の前へ差し出すのみにとどめる。
「ありがとうございますっ。……と、えーっと、蓋は……」
「開けようか」
手を出すと、歌鈴はラムネを襟許にかばってこれくらい開けられると笑う。それもそうかとやらせれば、やはりというとなんだが、噴き上がった炭酸で手を濡らしていた。かばう動きが仇になったわけで、ラムネの恩知らずである。はりきって袖をまくっていたのは不幸中の幸いだ。ラムネが網を作る手に短い舌を這わせ、歌鈴は憮然とする。
「手ぬぐい、手ぬぐい」
「はわっ! しょっ、そうでした。はしたないですね……」
あまり納得がいかなそうな面持ちで歌鈴は手首までしっかりと拭き上げる。返そうとしてはっとし、おなじく幾筋もラムネの伝う瓶もぬぐった。
おれも手ぬぐいの世話になってびい玉を落とす。ライム風味の砂糖水が喉で泡立ち、二人で声を洩らした。宵の口の風が指にひやりと当たる。
「里帰りはいつ?」
「あしたの朝イチですっ。午後から地元の友達と遊ぶ約束してて。えへへ、一週間めいっぱい遊んできます」
「楽しみでしかたないって顔してるね」
ほかの子らは五週間も休めるところを一週間とは、なんとも申し訳ないかぎりである。しかしながら地獄の休業は一日だけで日帰りのお盆帰省も赦されないと聞くし、極楽のお盆帰省にしても四日程度だから、一週間休める現世の社会人は恵まれているのかもしれない。
……他人と較べてどうこういう不健全な気分を、歌鈴は笑顔で吹き飛ばしてくれた。
「楽しむのはもう、きょうからですよっ!」
そういって歌鈴は空いているほうの腕を振り回す。つられて襦袢がのぞいたのを直してやると、こそばゆそうにした。
「構いすぎかな」
「うーん、えへへ」
ラムネを半分以上残すビンの手で鼻先をかき、歌鈴が身を翻す。袖の金魚が生き生きと夜空を泳いだ。
「一週間離れちゃうわけで、そのぶん甘えたいなって。だ、だめですか?」
にっこり笑ったと思えば照れ、照れたと思えば不安そうに真紅の瞳を揺らす。思わず笑ってしまいながら、おれは答えた。
「それならふだんの七倍、いや八倍構わせてもらおうか」
ソースせんべいの屋台で歌鈴がみごと当てた四〇枚を山分けし、おれたちは提灯の明かりを左右に石畳を歩く。ヨーヨーやら金魚やらの涼しげな水音に、フランクフルトにとうもろこしの焼けるにおい。目移りしながら歩む歌鈴の、アップにしたセミロングがせわしなく揺れる。
「あっ、次はあれが……。射的、一緒にやりませんか?」
白布をかけた会議テーブルのカウンターにはコルクを盛った皿とコルク銃。赤い毛氈の雛壇にはずらりと景品。オレンジの電球が照らす屋台に近づけば、歌鈴の声が聞こえていたのだろう、法被にはちまき姿の親爺が嬉しそうにがに股で出迎える。
「おっ、やってみるかい射的! お嬢ちゃん……と?」
「兄です」
指差す親爺に声を揃えて答えると、豪快に笑ってよこす。仕事中ならばすなおにアイドルとプロデューサーだというところだが(まず訊かれることが稀ではある)、プライベートのときはこうだ。歌鈴のお父上の指示である。
「にしちゃ老けてんな」
「よそで射とうか」
「なんだなんだ気が短けえぜ兄ちゃん。ここいらでつっかえ棒いれてねえのはうちくらいのもんだ、よそでやっちゃ損だぜ」
おれが親爺とやりあっている裏で、歌鈴は目当ての景品を見つけたらしい。“やりますっ!”と鼻息荒く宣言した。千円札を渡すと親爺は悪どくて、釣銭の代わりにコルク銃を二挺よこすのである。
「お嬢ちゃん、射ちかたァわかるかい。教えてやろうか」
「大丈夫です。やったことありますから!」
腕まくりをしながら返された親爺は、“惜しいことしたなア”とこぼしつつ番台にもどる。
「おいおい親爺、いくらかわいいからってちょっかいかけられちゃあ困るぜ」
「一〇年若けりゃフラレなかったんだがなあ」
雑な大笑いの反対側から、歌鈴のうめきが聞こえた。一射めははずしたようだ。
「まだ弾はある、ゆっくり近づけてこう」
……そういえばこの親爺、この歌鈴をアイドルだと気づいてないのだろうか。怪訝な顔で振り向けば、親爺は首をかしげており、不意に得心したようで膝を打った。どうしたと訊けば身を乗り出してくる。
「いやあね、似てねえ兄妹だなあと思ってたんだが」
「他人の空似も似てない親子もある世のなかでしょうよ」
「横から見てたらわかったぜ、ミミズクとチャボって寸法だ」
「ちゃぼ!?」
二射めは店の親爺のひどいたとえに驚いて、天布へ飛んでいった。いまのはまからんのか親爺。歌鈴はかぶりを振って気を取り直し、次弾を装填する。
しかし、短く束ねた髪はたしかに、チャボのしっぽかもしれない……。いや、その二種類じゃあ羽毛の茶色いところしか似ていない。
「いやいや、ミミズクってのはよくいわれることだけどよ、あんなかわいいのつかまえてチャボはねえだろう」
「顔が似てねんだからしょうがねえだろ。嬢ちゃんはそりゃべっぴんさんよ。でもなあ、兄ちゃんはよく見積もったって……」
ミミズクのように跳ねた前髪の毛束をはじくおれの顔をむこうはしげしげと見て、“三……”といいかける。
「うん、いや、兄ちゃんは二・八枚目にまけといてやろ」
「ひとのことがいえた顔かよ親爺!」
「朝に一遍しか見ねえツラなんか知らねえよォ」
ひときわ愉快そうな笑いのなか、コルク銃の小気味いい音が絶え、絞り出すような声がした。
「お兄ちゃん、全部外れました……」
肩を落とす歌鈴からコルク銃を引き取って、はちまきを巻いた三・二枚目が振り返る。
「おっと、兄ちゃん口ばっか動かしてたじゃねえか。ほら、早く射て射て」
急かされて歌鈴に狙いを訊くと、金色のミミズクが写っている箱を指差した。
「お兄さんソックリだ、兄妹仲がいいねい」
江戸訛りの茶化しから気持ちを離し、おれはコルク銃を構え照門をのぞいた。歌鈴も固唾を全身で飲んで見守っている。
「おー怖えぇ怖えぇ、ミミズクは目が利きやがるからな」
ミミズクだって鳥である。夜目は利くほうではない。音で周囲を認識しているのだ。……おれにはまったく関係ない話だが。
ともかく、肩当てのない不安定なコルク銃を握る手に力がはいる。ここは兄として……。
「いいとこ見せなけりゃあな」
一つも当たらなかった。
「親爺、こいつ照準が一〇度くらいずれてるぜ。手入れしてるのかよ?」
「あたぼうよ、お前さん、そいつはね、オスなんだよ。男に握られちゃ気持ち悪りぃってんでへそ曲げやがったのさ。メスを使わねえと」
なんたるヘリクツか。
「はいっ、歌鈴、リベンジしますっ」
どういいかえすか考えあぐねる寸前、歌鈴が眉を立ててみせた。店の親爺は愛想と威勢をよくして返事をし、おれにしわだらけの手のひらを示す。そこへ“一回ぶんな”と念押しして千円札をのせれば、こんどはちゃんと釣銭が返る。
歌鈴は真剣な表情で狙いを定め、二射を外したが三射めでみごとに当てた。快哉と当り鉦のなか、歌鈴の笑顔に額の汗が光っていた。
昂奮の熱気をかき氷で中和しながら、歌鈴とおれは冷やかし歩きをつづける。技倆(うで)を褒められすぎた歌鈴は強引に、手にいれた景品に話題を移した。ミミズクの形をした金色の“なにか”である。そういえば、射っていたときはパッケージが照明で白んで、正体を確認していなかった。
「ティー……ストレーナー?」
ガタついたフォントのパッケージを、歌鈴が自信なく読み上げた。茶こしだ。総金属製のこいつは表面に細かい穴の空いたモナカ構造になっていて、なかに茶葉をいれたらカップにいれて湯を注ぎ、ほどよく煮出したら取り出すという使いかたをする。頭に鎖がついているから熱湯から揚げるのに苦労はしないし、受け皿もあるのでテーブルも汚れないというわけだ。
「なんか釜茹でにするみたいで気が引けますね……」
だれを、という主語を歌鈴は省いたが、苦笑いの視線でなんとなくわかる。
「まあ使ってやれよ、歌鈴がそいつで一杯飲むたびに、おれの悪事が一つずつ帳消しになるってわけだ」
「一日何杯飲んだら追いつきます?」
「……お父上の入れ知恵かな?」
おれが増長しないようにだろう、歌鈴のお父上はこの手の悪タレをいくつか吹きこんでいるらしい。肯定の返事のかわりに、歌鈴は小さく舌を出した。
「緑色になってる」
「ふぇ? あっ、かき氷!」
氷の浮いたシロップと成り果てた氷メロンに、みはった緋色の瞳を近づける。おれはほとんどシロップだけになったスチロール容器を顔の高さにした。
「氷イチゴにしないからだ」
「お兄ちゃんのだって青いでしょ」
歌鈴は胸を軽く反らし、見ずともわかるとばかりにまぶたを下ろす。そこはおれもおなじである。“ばれたか”と出した舌は、ブルーハワイのシロップに染まっていよう。
「こうなってこそのお祭りよ」
笑いながらの石畳、お茶で合成着色料を落として曲がったのは、オモチャを並べた屋台の小路だった。ベーゴマだのポッピンだのと一山いくらのものから、古今混在のお面屋に、人形や携帯ゲーム機が景品のくじ、モデルガンばかりのひもくじ……。
「お兄ちゃん、あれすごいですよ」
歌鈴の桜色の爪の先に目をやると、“吹き戻し”の四文字をかかげた屋台が商品に劣らぬ極彩色の灯りを点していた。シンプルな一本のもの、二股、三股、数えるのが面倒なくらい枝分かれして樹状に広がるもの。鼻眼鏡やらカツラ、肩パットに胸当てと一体化した息切れしそうなジョークグッズまでがずらりと並ぶ店の奥で、店主は頭からも服からも、吹き戻しを不規則に伸縮させている。
話しかけるとまた長くなりそうだが……。
「買ってやろうか?」
「さすがにあれで遊ぶほど子供じゃないですよっ」
安心したのを顔を出してしまったようで、歌鈴がにっこりとして頷いてきた。吹き戻しがピロピロと片耳に聞こえ、やがて何メートルか遠のいたところで、歌鈴がふたたび足を止める。それは祭りの夜店に似つかわしくないほど整然と並んだ、びいどろの前だった。
「お、珍しいな」
歌鈴の瞳が絢爛にきらめく。それは色彩豊かなびいどろの反射ではなく、歌鈴の心の湧き上がりに宿った星にだ。……その波濤は目よりも、口のほうからおもにあふれている。
どれがいいかと訊けばこんどは素直に、花火のがらのものを指さす。
「涼しそうでいいですよね」
「うん?」
不思議そうにしたおれに歌鈴はきょとんとした。どうも風鈴とみまちがえていたらしい。柄の端をつまんで揺らし、首を傾げる。
「びいどろは、ほら、丸いところにガラスの薄膜があるのを、細いところから吹いて鳴らして遊ぶんだよ」
「えっ、こんな薄いガラス……。お、お兄ちゃんちょっと、お手本を」
「え、おれだってこんなの、加減とか自信ないぞ」
自信の過小見積もりとともに繊細なガラス細工は歌鈴とおれとを何往復かし、けっきょくおれの手に落ち着いた。屋台の間隔の空いたところを選び、石畳を外れる。
神妙な面持ちで前のめりの歌鈴に若干のやりづらさを感じつつ、そっと息を吹きこんだ。手許に硬質な音が鋭くはじける。歌鈴が息を呑む。にぶい音をさせて薄膜は無事にもとにもどった。
「……まあ、わりと雑に吹いても大丈夫そうだ」
「そ、そうみたいですね……」
さらっと失礼な返事をして歌鈴は恐る恐る口をつける。硬質な音は控えめに、安堵の溜息のほうが大きく聞こえた。照れ笑いする顔に親指を立てて見せれば白い歯がのぞく。
二吹きめにはもう加減をつかんだか、高く澄んだ音が境内の暗闇にはじけた。伏した目許、赤みざした頬が放つのは、まぎれもなく歳頃の少女の色香である。
「……」
悪い虫が寄ってくるような気がして、おれは鋭く背後の人波を振り返った。杞憂だったことに安心したような、不服なような……。
足の鈍りだしたところに見つけたベンチには、散ったサルスベリの花群れが赤い毛氈を作っていた。そっと手で払い、二人で腰を下ろす。
「ずいぶん歩き回ったな」
「あの、お兄ちゃん、疲れてないですか? ずっとわたしのペースで歩いてて」
気づかわしげに歌鈴が膝の上の籐のバッグに指を丸めた。おれは笑って――気をつかい返したわけではなく、歌鈴の気持ちの嬉しさに――汗ばんだ横髪を撫でる。
「のんびり歩いて疲れるってこともあるまいよ。歌鈴こそ、ふだんからまわりのペースでせっつかれて大変だろう」
「あはは……それは、はい。もっとのんびりがいいです」
「いましばらくの解放だ。帰ればもっとのんびりできるかな」
桜色の爪が鼻の頭をかく。緋色の両目はどこか困ったような揺れかたをした。
「そうでもないんですよ、お祭りとか縁日のときはてんてこ舞いで、あんまり……夜店を見て歩けなくって」
“だからきょうは楽しいです”……なんて照れ笑いをされると、おれもついいい気分になって、白い浴衣の肩など抱き寄せてしまう。
「歌鈴が楽しいならよかった」
「はい、……」
赤い唇がなにかいいたげにして薄く開いて固まり、すぐにきゅっと結ばれる。おれは歌鈴の肩から手を離すと、半身になって座った。除けきれなかった赤い小花を膝が踏む。
「どうした?」
問えば目を泳がせ、おれの膝から花群れをよけ、突き合わせた十指を曲げつ伸ばしつしてから、観念したように言葉を吐き出す。
「実家に帰るのが、ですね、その、なんだか寂しいなって」
「帰省したらご両親にも懐かしい顔にも会えるだろう?」
「そう、それは楽しみなんですよっ。でも」
まつげを下げ、歌鈴は短い舌で言葉を探しているようだ。半開きだった口が数秒ののち、ゆっくり動き出す。
「こっちにも、お兄ちゃんがいて、波長が合う友達もいて、慕ってくれる子も、頼れるお姉さんたちも……。みんな、大好きで……」
口を無音のまま何度か開閉し、歌鈴はだまってうつむいた。顔を隠す前髪を親指で持ち上げると、手のひらが額に滲んでいる汗に滑る。
「歌鈴、ほんの一週間だよ」
親指に重みがかかった。こんなことは歌鈴もわかっているのだ。かける言葉がちがう。
「うらやましいな」
静かに、歌鈴は身を起こした。その顔に意外そうな表情を浮かべて。
「おれは東京の出で実家なんてすぐそこだから、帰省も∪ターンもまるで感慨湧かなくてさ」
「は、はい……」
おずおずと歌鈴は顔を上げる。手を添えなくても、もう前髪は邪魔をしない。
「歌鈴は故郷から遠くこの東京に来て、離れがたいものをたくさん手にいれた。その寂しいって気持ちは、あー……俗だけど、成功の証だよ」
「そういうものですか?」
うるんだままの目に疑問の色が混ざる。おれは気取ってニヤリとして、つまりいつもの調子で、“そうさ”と頷いた。
「ああ、向こうで友達に自慢したっていいけど、そういう顔になるんだから、周りに男がいないときだけにするんだぞ」
「なんでですか」
いつもの保護者気取りがはじまった。歌鈴の頭に浮かんだフレーズはもっとやさしいものだろうが、ともかく、そんな苦笑いが頬に浮かぶ。
「目病み女に風邪引き男っていうだろ、目の潤んでるときはよけい色っぽく見えるもんでさ。甘い言葉で悪党どもが寄ってくる」
「悪党はいいすぎですよお兄ちゃん」
「かわいい妹に手を出そうなんてのは悪いやつと決まってるんだ」
歌鈴は笑った。肩をゆすりながら、おれの肩へもたれて振動を伝えてくる。つられて出る笑いを噛んでいると、白い肩のほうはすっかりおとなしくなって、おだやかな緋色の視線で見上げていた。
「うん、お兄ちゃん」
「どうした、歌鈴」
「すっかり“兄妹”に慣れちゃいました」
「そうだなあ」
歌鈴を連れて東京へ発った日のことが、きのうのことのように思い出される。
新幹線が、浜名湖を越えてしばらく走ったころだ。スマートフォンで友達と別れを惜しみあったり、おれの持ってきた資料で会社の話を聞いたりしていた歌鈴が、眉の端とともに勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさいっ。おと……父が、あの、失礼なことばっかりいって……!」
嫁に出すよりも嫌だとか、子供も持っとらんくせに親の気持ちがわかるのかとか、きさまに親の代わりが務まるのかとか、歌鈴のお父上はイヌワシのように精悍でいかつい顔に苦みと苛立ちをにじませ、歪めた口の端から色々といった。傷つかないといえばまったくただの強がりではあるが、だれの責めに帰するかといえばおれなので、そこは強がるしかなかった。
「それに、ほら、兄代わりってのはいいなと思ったんだ」
「……そうですか?」
「そう、だから気にしないで。きみにはきみのやることがあるさ」
歌鈴は訝しげな目の色のまま頬を叩いた。手入れしたての眉が強く跳ねる。
「はいっ。歌鈴、がんばります! 日本中の、女性宮司さんのためにも!」
……女性が宮司に就くことに対しては、組織的な抵抗が非常に強い。就けないという先入観が蔓延している、いや、“蔓延させられている”といってもいい。宮司の家の一人娘である歌鈴も以前はそれにとらわれていて、家を出ることもできぬままに宮司の資格を持つ男と結婚するしかない運命を思い、打ちひしがれていた時期があったという。“お兄ちゃんがいればよかったのに”と……。
しかし歌鈴はアイドルにスカウトされた。……ひとごとのような表現だが、したのはおれだ。
ちがう生きかたができる。たとえ人生のひとときに過ぎなくても。
女性宮司について広く知ってもらえる。それは自分の逃れえぬ運命への道を平たくするだけでなく、おなじ境遇の女性の希望にもなる。ただし大成すれば、である。お父上が“化けミミズクなら狸ぐらい捕れるだろ”とけしかけるとおり、おれの腕にも多くがかかっている。
「ああ、がんばろう。厄介事はお兄ちゃんに任せて、きみはアイドルに専念してな」
「はい、お兄ちゃん! ……えへへ、あっ、ふ、富士山! 富士山ですよね!?」
車窓にうっすら映る照れた顔に、おれは頷いた……。
「血縁もなにもないのわかってても、しぜんとお兄ちゃんって呼ぶようになっちゃって」
おれは黙って、寄り添う紅茶色の髪を撫でた。
「はじめはお父さんの意地悪に呆れたり、申し訳なかったり、……やっぱりほんとうのお兄ちゃんができたみたいで嬉しくかったりして。でもいまは、ほんとうのじゃなくてよかったって思ってます」
「おや、そうなの?」
「だって、ほんとうにお兄ちゃんがいたらわたし、家のことはなんでもぜんぶお兄ちゃんがやってくれるって、家でごろごろしてるだけの子になってました」
遠くへやった視線は澄んでいて、不思議におれの気持ちまで安らぐ。
「働かせてばっかりのお兄ちゃんでもいいのかい?」
わざと意地悪くした顔を、歌鈴はころころと笑って頷いた。
「だから……この寂しい気持ちはずっと変わらないはずで、でもきっとわたし、慣れていくと思うんです」
「そうか……」
「でもまだいまは寂しいです」
不意に、歌鈴がおれの手に手を重ねた。緋色の両目はいきいきとかがやいて、白い歯を見せて笑う。
「なんだ、まだ構われ足りないか?」
「一週間ぶん構い倒すっていってましたよ!」
あしたの新幹線まで、ずっと歌鈴のペースだな。屋台の灯りへ下駄を鳴らす歌鈴を、おれは締まりのない表情で追いかけた。
(了)