霧雨がビルの森を撫でる静寂のなか、課の居室で、おれは独り、鏡をにらんでいる。身だしなみが決まらないとか、顔にあざを作ったとかではない。
パーティションで区切られたロッカースペースの入り口部分を、鏡が……正確には上半分に鏡をはめこんだ真新しいパーティションが塞いでいるからだ。
見覚えもなければ買った記憶もない。ましてこんな邪魔な場所に置く理由もない。
怪しくはあるが、ひとまず、うちのアイドルたちが来る前にどかしておこう。……そう動かした腕の下から、なにかがのそりと上がってきた。
赤いワンピースの、女だろうか? 不気味にゆらぐ赤い輪郭は腰がぐっと細い。そこから上半身がもげるんじゃあないかと、つい嫌な想像をした。
蛇に絡みつかれてでもいるのか、頭からはうねるものが何本も細く長く伸びている。
思わず視線を足許に向ける。なにもいない。だが鏡のなかにはたしかに、おれよりも手前にそいつは立っている。
目をみはるおれの前で、そいつはだるだるの袖を振り回して鏡に体当たりをはじめた。
「ぐおおー! がー!」
「……」
おれは叫ぶ寸前だった。寸前で飲みこめたのは、鏡の赤い女がうなったおかげだ。
「志希かよ」
「にゃにっ。怖がる気配がまるでない」
かの声はおれの担当するアイドルいちの問題児、一ノ瀬志希の声であった。いっせいに収まる鳥肌が服に引っかかる心地悪さを、安堵や呆れと一緒に溜息に変える。
鏡つきパーティションは砂粒をざりざりいわせてタイル床に半弧をえがき、揺れる怪物の正体・志希の姿をあらわにした。おれの反応が物足りなかったようで、ココア色の長い癖髪をほどいてはヘアゴムをポケットにねじこむ手つきが雑だ。
「なんなんだこれは」
もはや怪しくもなんともないパーティションをおれは拳の裏で小突いた。志希はころりと態度を変え、両の瞳を秋の晴れ空色に光らせる。
「こないだのリベンジ」
……ふた月ほど前のことだ。
志希とおれはテレビ番組の収録のため、とあるスタジオの楽屋にいた。真新しいこの建物は思想も新しく、ほぼすべての楽屋が九畳の個室になっている。大人数のグループが一部屋にまとまりたいときのために、教室ほどの広さの楽屋もあるそうだが、我が部署でお世話になったことはない。
仕出し弁当をテーブルの縁に追いやって、志希はサラダボウルを抱えている。きょうは野菜の日だと本人はうそぶく。きのうはサプリの日、おとといは豆だった。一週間サイクルでバランスが取れていればいいとのたまい、管理栄養士でなくても怒る極端な生活だ。
「ねえプロデューサー、ここの奥の楽屋、使ってるひと見たことないんだけど」
この楽屋が並ぶフロアにあって、“ここの奥の楽屋”、つまり北の端の一室だけは、どれほど出演者が多くても使われることがない。ADのミスで楽屋が足りなくなったときでさえ、そこだけ空室のまま若手芸人が駐車場待機になったという逸話もある。
「あれ、知らなかったのか。あの楽屋のウワサ」
「知ってるよ?」
「だよな? ならわかるだろう」
くだんの部屋には幽霊が出るともっぱらの噂である。テレビ局に幽霊話は珍しいことではないため、知らないといえば驚きをもって迎えられる。新人でもないかぎりは。
何階のどのトイレの個室には自殺した社員の霊がいるとか、夜中に試写室で勝手に機材が動くとか、踊り場の大鏡を斜めから見ると、階段の上に死んだアイドルがぶら下がっているとか。どれがどこの怪談だったか憶えたら一人前の芸能人、なんて冗談もある。
「志希にゃんがいってるのは~。オバケくらいでみんな避けすぎじゃない? ってこと」
こちらを向いたプラスチックのフォークから、カットレタスがぽろぽろと落ちる。
「信じてるひともいる以上、局としちゃあ評判の悪い楽屋を割り当てるわけにはいくまいよ」
「プロデューサーこそわかってないんじゃないかにゃー」
両の瞳を晴れ空と光らせて、志希は取り落したレタスを突き刺した。眼光が増し鼻の穴がひくついているのは猫の威嚇ではなく、強烈な興味にかられていることの現れである。
「ああ、ごめん、いまわかった」
つまり、志希は幽霊楽屋をのぞきに行きたいのだ。
ふだんなら一人で勝手に行くところをこうして意思表示するのはおれを巻きこみたいからだろう。監督責任者としては助かる話だが……。
「幽霊にビビってるおれが見たいのか」
「にゅーふーふー、話が早い」
樹脂の透明なボウルに残ったハニーミルクドレッシングをべろんと舐めると、化け猫はにっと笑った。
北へ伸びる廊下の突き当りは薄暗い。LEDの光量が絞られているわけでもなかろうが、ふしぎと物足りなく思える。
「鍵かかってるな」
L字のノブに手をかけてみたが、二、三度傾いたところで頑丈なものに押し止められる。反響しない金属の音がガチガチと鳴るのみだ。志希を見ると、青い目と視線が合った。
「ホッとしたにゃ」
「勝手にはいって怒られずに済む……って思ったんだけど、そうでもないみたいだな」
志希の細い指には、さらに細い金属棒が数本挟まれている。ピッキングツールだろう。ムスクの香る頭でおれを押しのけ、鍵穴へ無造作に棒を突っこんだ。
「ぜったいオバケを見せてやる~っと」
「頼もしいやつだぜ。心配でかなわん」
渋い顔で見守る……というより睨んでいたいところだが、通じぬ抗議よりは安全への配慮だ。すなわち、鍵穴をいじる志希が廊下の向こうから見えないよう、おれは壁際で見張りになった。
「まだか」
一秒が一分にも一〇分にも思える不安につい急かしてしまう。これじゃあおれも不法侵入がしたいみたいじゃあないか。いやしかし、志希一人の悪さにするわけにもいかなければ、これくらいでいいのかもしれない。
「もー少しでゲスよおやびん、ゲシシシシ」
「もっとかわいくいって」
歳ごろの娘がなんちゅう言葉づかい、とはしょせん男の幻想である。志希がかわいくいいなおすより先に、ドアがバネの音を立てた。
「大成功!」
「すごいけどさ、どこで覚えてきたんだこんな邪悪な手口」
「こないだ防犯対策の番組でやってた」
こんな鍵は何分、あるいは何秒で開けられてしまうとスタジオで実演するコーナーのせいらしい。放送されるときはピッキングツールを使う手許にモザイクがかかるが、志希たち出演者にはとうぜん丸見えだったわけだ。もっと教育にいい番組に出させてやらねば。
「防犯! ……の対策なんだから、つまり犯罪側のレクチャーだよねー。ちゃんと勉強できたにゃ~」
防犯対策にせよ防寒対策にせよ、“対策”の二文字を余分につけて意図した意味を逆にしてしまっているのは否めない。けだし、つけたすべきは“施策”なり“策”なりだろう。
「あんまりヒネクレないでくれよ志希にゃんちゃんよ」
「はいはーい。それじゃ素直にオープン・ザ・ドア~」
L字のノブは深く回転し、ぎいいとドアバネがうめいた。九畳間は物足りない明かりを吸いこみ、すえた臭いを吐き出す。
「見た目は変哲なし」
「暗いままでわかるのかい」
おれは楽屋の電灯を点けた。ドアは部屋の長辺の端についていて、正面に大きい化粧台。それと干渉しないようにテーブルがあり、荷物置き場とコートハンガーは奥に配されている。
左右のちがい、ポットなどの有無はあれど、どこもおなじ作りだ。
「電気が点くともうただの部屋だにゃー」
「ここのオバケは鏡に映るらしいぞ」
このスタジオを設計した建築士は、楽屋の一つに仕掛けを施した。楽屋の壁のすぐ裏にひと一人ぶんの小部屋を作り、鏡をマジックミラーにして、なかをのぞこうと思ったのだ。
もちろんスペースを作るまでは指定できても、マジックミラーをはめこめとは指定できない。夜中に自分で交換しようとした。しかし高さ一メートル、幅二メートルという大きい鏡を一人で交換などできるはずもなく、彼は鏡を外すのに失敗して手首を切断され、取り乱して立てかけてあったマジックミラーを倒し、首を落とされた。
死体が片づけられ清められても小部屋をコンクリで満たされても、自業自得とはいえ無残に死んだ彼の妄念はその部屋の真裏に残りつづけ、鏡からにじみ出てくるという……。
……というのが、“ここのオバケ”の怪談だ。本物の建築士のかたには失礼な話である。
「鏡よ鏡よ鏡さん、世界でいちばん怖いひとはだーあれ」
「そんなん訊かれても鏡さん困るだろう」
ところがそうでもなかった。笑うおれたちの視界の端に、鏡は赤黒い影を揺らめかせた。
その影はじっとしている。
鏡にへばりついて、鏡の外を見ている。
いや、見させている、というのが正確な表現かもしれない。
手首のない腕が灰色の頭を抱えて、鏡に押しつけているのだ。口はうつろな空洞を見せ、黄色く濁った目をこぼさんばかり見開き、ぽっかりと広がった瞳孔でわれわれをとらえる。
「おわーっ!」
「フギャーッ!」
たまらず廊下へ転げ出た。志希を先に出してやったのは、自分で立派なもんだと思う。志希も一緒に驚いたことに、正直なところ、してやったりという余裕があったおかげかもしれない。……まあどうでもいい。
「あー、もー、やなもの見た」
「あの鏡め、気をつかってやったんだから素直に困ってりゃあいいものを」
二人でドアに寄りかかって悪態をつく。
「やっぱし怖いなオバケは」
立ち直ったような苦笑いをしてみたが、志希は対抗心を燃やして空元気を出すどころか膝を抱えてしまった。
「あんな鏡じゃだれも使いたがるわけないよね鏡像にかぶって映るなんて子猫とか子犬とかでもぜったいジャマじゃんメイクさんがかぶってくるのもけっこううっとーしーのにさ白ならまだ調光したら対応きくけど黒とかまともな色にならないしブサイク顔が重なったら加減だって狂うし」
「よしよし、怖かった怖かった」
「ぐるるるる」
……と、これが“こないだ”の話の顛末だ。
「ビックリしたという事実はゲンシュクに受け止めるぅ」
組んだ腕で胸の丸みを持ち上げて、志希はふんぞり返る。
「しかるに志希にゃんを驚かした責めは受けてもらーう」
「オバケに仕返しするのか?」
「オバケなんていなあい。あれは人間のイタズラ。いまやってみせたでしょ」
鏡のパーティションを志希は叩いた。
「反射率を低めにしたマジックミラー。明るいほうからでも暗いほうのようすがちょこっと見えるワケ」
「明るいとか暗いとかいわれてもだな」
「そこからか」
……志希ハカセの説明によると、マジックミラーは鏡の側とガラスの側がある板ではない。光の反射率が高いガラスであり、片側が明るく片側が暗いことではじめて用をなす。
明るい側では自分のほうからの入射光がそのまま跳ね返るため鏡のようにふるまい、暗い側では反射するものがないため明るい側からの光が洩れてきてガラスのようにふるまう。
したがって反射率を下げたり両側の明度を近づけたりすれば、どちらからもただの映りこみがはげしいガラスになるのだ。
「だから、あの化粧鏡の裏をちょっと明るくしてオバケの仮装で貼りつけば、あの偽建築士になるんだよ」
「その理屈だと、志希、楽屋が暗いときはあれは鏡に見えんはずだよな」
両側が暗ければガラスに見える、というのは先の説明のとおりだ。裏の小部屋がのぞけるはずである。
「志希にゃんの予想では裏に液晶パネルをくっつけてる。楽屋の照明スイッチに電源を連動させとけば、暗いときは鏡、明るくしたら鏡のなかにオバケが映る。あとは噂を流すだけ」
「バカにしてかかって来たやつは肝を冷やすってわけか。よく考えるな、きみもイタズラの主も」
……イタズラの主、という自分の言葉におれは引っかかった。電源系まで巻きこんだイタズラができるのはだれだ?
「ウソにはホントを混ぜると効果的~。あのビル建てたひと、あの部屋を独占しときたいんだろうにゃー」
「やっぱりそういうお偉方だよなあ……。そういう連中の秘密なんか探るのはよしなさい?」
「面白いニオイしなかったし、そのヒミツに興味はそそられないにゃ~」
志希は自前のパーティションの裏で得意げに笑う。
「今回の志希にゃんは秘密を暴いたりはしなあい。仕返しがしたいだあけ」
その“仕返し”を、おれは秘密を掴んで匿名で脅すとか、そんなことだと思ったのだが、志希の腹づもりはもっとシンプルだった。
「あの楽屋に来たフトドキものをさらなる恐怖で迎え討ち、ドギモを抜き差ししてつぶしたらお酒とバターを混ぜて練り練りしていただきます」
「レバーペーストならちゃんとしたもん食わせてやるからよしなさい」
「にゅーん、きょうはお肉の日だからレバーペーストは食べる~」
そういえば幽霊楽屋の日には、慰める気ならといって大粒のイチゴをたっぷり乗せたパフェをせしめられた。農林水産省の定めるところ、イチゴは野菜でもあるから偏食ルールを逸脱しないとかヘラズグチをたたいて。
……さておき、食べ物を約束したところで、化け猫に交換条件という言葉はない。
先日よろしく本番前の休憩時間に楽屋を出て三フロア下る。北ではなく西へ伸びる廊下の途中にある大道具置き場の隅のドアには、“立入禁止”の札。
「ふむふむ、“この先にやましいものを隠しているのでどうぞお暴き立てください”」
「長いな」
「漢字は表意文字だからね」
「……こっから先は不法侵入になっちまうぞ」
「かわいい担当アイドルと一緒に罪をかぶるにゃん」
「間抜けな恰好になるのがその罰かい」
志希の差し出した衛生キャップに投げた皮肉は、このゴムどめのビニール帽子がいかに潜入に効果的かという機能語りで迎え撃たれた。いわく、髪の毛を落とさないから目に見える証拠をつかまれないという。本当かな。
さておき、ドアをくぐって(開けかたはいうまでもない)三フロアぶち抜きの階段を昇ると、もう一枚ドアがある。
「これ、幽霊楽屋の裏の小部屋か」
「んー、たぶん」
「弱気だな?」
「この先までは見てないんだよにゃー。失踪にも時間制限があるから」
志希がどこをフラフラ歩いていても、たいてい“ああまた徘徊してるのね”と軽く考えられてしまう。すっかり有名になった失踪癖を免罪符に、どうも志希はこの潜入ルートを確保していたようだ。
さて、志希にとっても未知の小部屋を開く。廊下というのが正しいような細長さで、壁には志希の予想したとおりモニタが裏向きに取りつけられている。そこから伸びるコードは壁のコンセントに刺さっており、さらにもう一本、映像のケーブルが床のタブレットPCに繋がる。
「幽霊の正体見たりタブレット」
「時代の変遷を感じるようなそうでもないような」
タブレットならべつのモニタなど不要に思えるが、電源の状態で表示の有無を切り替えるならけっきょくこうして外づけにせざるをえないのだろう。
「どんな機械使ってもむーだ。すぐ台無しになるんだからにゃー」
大型テレビをしのぐモニタは二人で外すのも一苦労だった。これが鏡だったら、たしかに怪談のとおりになりそうだ。
「うーんやっぱりマジックミラー。予想が裏切られないのはつまんない」
ろくでもないことをいいながら、志希はバッグからゼリー飲料のパウチを取り出した。
「うりゃ」
それを握りつぶすと飲み口から赤くドロッとしたものが半マジックミラーに飛び散った。においまで血のようなそれは、赤錆を原料に作った志希特製の血糊だという。
「油断してる犯人は鏡が血ダルマでびっくりってすんぽー」
「こうリアルな色に仕立てると、暗いままじゃあわからなそうだぞ」
いま色がわかるのは、懐中電灯で照らしているおかげだ。
「そのための血っぽい錆のにおい! ……まあ鼻が詰まってたって、いずれかならず犯人はこれを見るし」
なんらかの用途に使うための、人払いの幽霊話だ。放っておいても近いうち、犯人は幽霊楽屋を使いに来て血まみれの鏡を目撃するだろう。
犯人より先にまただれかが肝試しをしても、血糊が掃除されることはない。噂に妙な尾鰭がついて犯人の首をかしげさせ、明かりを手に仕掛けを確認させしめる。
「犯人がそのあとこの小部屋をどうするのかはちょっと楽しみにしてるんだ」
「面白い変化があるといいな」
血糊を二人で鏡に塗りたくっていると、ガチリと硬い音がひびいた。鍵の音だ。反射的に懐中電灯を切り、よく見えぬ顔を見合わせ、この狭い隠し部屋の入口を睨む。
「そこのは鍵なかったし」
志希が小声で、血まみれの鏡へ視線を移す。幽霊楽屋になにものかが来たのだ。
「あ、あの、こんなところで……ですか……?」
「あはは、幽霊信じてるの? かわいいねぇ~」
声は若い女と中年すぎの男だ。明かりは点かない。室内を歩く靴音がする。
「はんにんとーじょー」
「モノマネドッキリみたいなタイミングだな」
おれたちが疑いもしないのは、男がねばつく声でここの幽霊話のからくりを自慢しているからだ。先に予想したとおりの、志希でなくとも退屈きわまりない長話なのでいちいち説明はしない。
鏡の見た目にも錆びたにおいにも反応がないあたり、よほど夢中になっているようだ。アイデア自慢にか、目の前の若い(おそらく)美女にか知らないが。
「こんな時間じゃまだひとが……」
「そのための部屋なんだよ? 音を立てても見に来ないって、みんな信じちゃってるんだから」
ばかばかしい問答がややあって、ガタガタと椅子の音、テーブルの脚が悲鳴を上げ、なおも女のためらう声。聞いている自分にも呆れてしまう。
「あいつら……」
「そういう部屋みたいよ、あの楽屋。だーからど~でもよかったんだにゃー」
「教育に悪い」
いいかげん切り上げどきだ。明かりなど点けたがらないだろうから、驚くのは期待できない。おれは志希の背中をドアのほうへ押した。
「志希にゃん一八歳にゃん! しゃーっ!」
「や、やっぱりなにかいるんじゃないですか!?」
化け猫の威嚇が聞こえてしまったらしい。若い声が怯える。中年は脂ぎった鼻で笑い、下卑たことをいいながら、とうとう楽屋の明かりを点けた。
電灯の光で、巨大なマジックミラーを埋め尽くす血飛沫がおれたちの目にもわかる。
「ふおおおお!?」
中年男が声を裏返して叫ぶ。それを甲高い悲鳴が引き裂く。マジックミラーを揺らす地響きに激しい物音。カエルの踏まれたような声。ドアノブがせわしなくがなり、硬い音が不規則に遠ざかると、楽屋は静かになった。
女が中年男を突き飛ばして逃げたのだろう。廊下ではだれかしらが、青ざめた半裸の女に驚いているかもしれない。
情けない男のほうは這って逃げたか、気を失っているか……。志希にはどちらでもいいようだった。
「大成功!」
勝鬨に上げた腕が下りると、青い目はすでにここから興味を失っていた。
(了)