猫、巫女、サンタ、あいのうた   作:久聖

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若葉  笑う山

 

 フロントガラスに切り取られた空は、下から上まで胸のすくほどに晴れて、左右を新緑で着飾った坂はまっすぐなだらかに、その青へと吸いこまれていく。助手席の日下部若葉の鼻歌にあわせて、エンジンもビブラートをひびかせる。

 

「いい道ですね~」

 

 大きく倒した背もたれにほとんど寝転がって、若葉は伸びをした。伸ばした両手がシートの肩にも届かないのは、この子が小柄だからというよりも寝かた……もとい座りかたがだらしないためである。

 

「リラックスしてるねえお姉ちゃん。台本のチェックはじゅうぶんかい」

「いま読むと酔っちゃいますから~。でももちろん、家でしっかり読みこんで来てますよ!」

 

 若葉はシートベルトに逆らって、自信に満ちた笑みを小さい口に浮かべた。きょうはグランピング特集の収録に、山あいの高原まで出張だ。ロケバスではなく電車とレンタカーで来ているのは、ひとえに経費という巨大すぎる怪物のためである。

 

「わ~っ、いい眺め~」

 

 開けたカーブから望む街に、若葉は小さく拍手をする。後続車もない小径だ。おれは制限速度より気持ち控えめに、アクセルをゆるめた。

 

「車もひともぜんぜん見かけなくて~。私でも安心して飛ばせそう」

「帰りは運転してみるかい」

 

 そう返した直後、上り坂が終わり、見通しの悪いカーブがつづく。やっぱりいまのなし。大きく切ったハンドルがもどるのを手に感じながら、おれは隣の小柄な大人に横目を向けた。

 

「よそ見ダメぜったい!!」

 

 若葉が怒鳴った、いや、叫んだ。前にもどした視線上には黒い人影。おれは目を剥いてブレーキを踏みこんだ。

 

 さいわいにして大したスピードを出していなかった車は、黒い人影の足許の見える位置で止まった。瞬間的に肚に湧き出ていたいやな空気を一息に吐く。うつむいて上目でのぞいたその路上のひとはお坊さんらしい。袈裟が見える。

 

「もぉ~、しっかりしてくださいよお!」

「ごめん……。怪我してないか」

 

 急ブレーキによって、若葉はほとんど座面からずり落ちていた。

 

「お坊さんにも謝ってくる」

 

 ハザードランプを点け、サイドブレーキを引いて……。身を起こすと同時になかば無意識的に動いた手を、おれは止めた。正面のにこやかなお坊さんに、違和感を覚えたためだ。若葉にも引っかかるものがあったらしく、怪訝そうにつぶやく。

 

「気のせいかな」

 

 二人でおなじことをひとりごち、おれは中断していた操作をつづける。

 

「気のせいじゃない!」

 

 若葉の悲鳴がサイドブレーキのばねの音をかき消す。おれはふたたび正面を見る。そうだ、あの違和感は気のせいではない。

 

 お坊さんが大きくなっている。

 

 急停止の直後には見えていた雪駄の先が、いまはボンネットに隠れている。

 

 近づいてきたのではない。

 

 “スピード落とせ”の幟の、真横に立ちつづけている。

 

 なにより、驚くおれたちの前で、目に見えて膨張しているのだ。

 

「ふ、風船ですか、ね……?」

「にしちゃあ質感があまりにも……」

 

 声を引きつらせるあいだにも僧形の巨大化は止まらない。顔はもうフロントガラスのはるか上だ。二人で身を乗り出す。袈裟の袷がどうにか視界にはいる。声も出ずただただ見上げる。袈裟の裾がボンネットに触れた。

 

 釘づけになりかける目を顔ごと若葉に向かせると、真冬の榊の葉の色をした瞳が青ざめている。

 

 若葉が小さい手を両方使って小さい口をおさえる。かすれた声、もはや音というべきうめきが洩れる。

 

 にわかにあたりが翳った。

 

「キャー!!」

 

 恐怖に歪む表情と声音が、おれの顔を右へ九〇度押す。老僧の顔があった。谷のようにしわを刻んだ大顔面はニターッと笑っている……はずだ。三日月のように薄く開いた血の色の口は顔を端から端まで横断して、吐く息だろうか、フロントガラスを曇らせる。黄色い板は歯だ。一枚がおれの頭ほどはある。

 

 おれが叫んだのと、眼前の怪物が煙のように消えたのはほとんど同時だった。おれがなにかしたわけではない。若葉も泣いて丸まっていた。うしろから来た車が、クラクションを鳴らしたのだ。

 

「どまんなかで停まってんなよ!」

 

 血の気の多い若者のスポーツカーはそう怒鳴ると、唸りをあげてあっという間に視界のはるか先へ行ってしまった。

 

 

 

「おおー、そいつは“のびあがり”だな」

 

 顔の下半分をおおう濃い髭に白いものの混じる監督が、ギョロッとした目を嬉しそうにした。

 

 のびあがりというのは日本各地に伝わる妖怪だ。不意に人前に現れて身長を増し、見上げるほどに高くなっていく。そうやって驚かすばかりのもいれば、見上げて伸びた首を切る兇悪なやつもいるという。全国に分布するだけあって見越入道や見上入道など、名前のバリエーションが豊富である。

 

 と、監督は怪談の調子で語ってくれた。

 

 ……おれたちはどうにか収録に間に合い、グランピング施設を半分ほど回り、いまは昼食休憩だ。

 

 多少持ち直したとはいえ、着いたときの若葉は青い顔をしていた。メイクを施してカメラの前に立てば背伸びをした明るいアイドルになっていたのだが、アシスタントディレクターの若者には気にかかったらしい。ADに気づかわれ、空元気ではごまかしきれず、若葉はおれに説明を投げた。

 

 オバケが出たという話にどう説得力を持たせるのか、若葉はもとよりおれもわからない。それで起きたことをそのまま話したところが、隣りにいた監督の耳にも届いていたのだ。

 

「しかしそうか、出たかあ」

「出たかー、って、監督ゥ。オバケですよ?」

 

 現代っ子のADは信じられないと眉を歪める。夢だとか見まちがいだとか、童謡さながらの感想だ。むべなるかな。おれだってばかばかしいと思う。

 

「あの山道は昔っからやれのびあがりだ、やれのっぺらぼうだとよく出るんだ。かくいうおいらもね、高校通ってた時分に見たよ、のっぺらぼう」

「のっぺらぼうというと、むじなのしわざですかね」

「あ、ラフカディオ・ハーンのお話ですよねっ」

「えーっ、のっぺらぼうってたぬきなんですか」

 

 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)ののっぺらぼうの話はおなじみだろう。

 

 夜道で顔のパーツがない女に出くわした江戸の町人が屋台の親父に顛末を話す。“そいつはこんな顔じゃあなかったかい”と親父が顔を撫でてみせると……。

 

 これのタイトルが“むじな”である。むじなとたぬきのちがいは面倒なので脇においておく。

 

「むじながひとを化かして遊んでたって話だよ」

「へー、じゃのっぺらぼうって、いない妖怪ですか?」

「いるとかいないとかあるんですかね……」

 

 ウルフパーマを左に流したADのペースに、若葉はすっかりはまっている。気にいらないとはいわないが、話が進まなくなりそうだ。

 

「だがひとを化かす化けむじなはいるってえわけだ。現に化かされたもんなあ、若葉チャンたちも、おいらもな」

 

 ……そこからしばらく、雪女や耳なし芳一といったラフカディオ・ハーンの怪談話に花が咲いた。若葉ははじめ怖がっていたが、ADのひょうきんな反応……“へー”と“ええーっ”と“ウワーッ”の三パターンだが……のおかげで存外楽しめたようだった。

 

「監督、監督ーっ! こんなところにいた!」

 

 そこへ駆けこんできたのはカメラマンだ。テープが一箱ぶん足りないという。聞くや若いADはさっと立ち上がった。

 

「じゃボクがバイクで取ってきますよ!」

「むじなに気をつけろよ」

 

 監督がごま塩の髭でにやりとした。若葉も重ねて念を押す。彼は胸をどんとたたいた。

 

「たぬきくらいバーンと撥ねて、鍋にして食べちゃいますよ!」

「それはかわいそうです!」

「じゃあ華麗に避けます! 行ってきまーす!」

 

 ……カメラマンとADの入れ替わったテーブルは、こんどはたぬき鍋の話で盛り上がった。

 

 

 

 ADがもどってきたのは、施設の紹介を終えてテントの設営を撮りはじめたときだった。

 

「でっ、で、ででで出たぁーっ!」

 

 ヘルメットのままなので顔はわからないが、声を蒼白にしてこけつまろびつ、髭の監督に近づこうとして草地に倒れた。

 

 おれがヘルメットを外してやり、監督が肩を揺する。おれの背中から若葉がのぞきに来た。声色どおりに青ざめた顔を見てほっと息を吐いたのを見るに、のっぺらぼうを疑っていたのだろう。

 

「出たんですか!?」

「出ました!!」

「出ちゃったんですかぁー!」

「出ちゃったー!」

「どっちが出たんだ」

 

 初老の監督は若者の会話にすっとはいっていった。ここで出るものといえば話題の妖怪のどちらかだろう。まさか月ではあるまい。

 

「化け和尚さんです!! でっかくて!」

「わああん新型ー!」

「落ち着きなさいお姉ちゃん。来るとき見たやつだよたぶん」

「なんで冷静なんですかあ!!」

 

 若葉はおれを肩でつかまえて大きく揺さぶる。

 

「いや、ごめん、きみたちがなんか愉快だったから……」

「ええーっ!? ボクら大真面目ですよ!」

「それで、どうした。避けてきたのか」

 

 監督はさすが、場の勢いに流されない。ADはブレーキをかけたと答えた。バイクごとつんのめり、投げ出されて空中で一回転し、背中でアスファルトを滑って崖の寸前で止まった。這うように起きると、そこにはもうなにもおらず、自分のバイクが倒れているだけだったという。

 

「前宙とかはじめてでしたよ」

 

 “前転でもちょっと怖いのに”とずれたことをいって、若葉は首を振った。

 

「あっ、のんきなこといってないで手当を受けてください! 肩貸しますから」

 

 小柄な若葉の肩を器用に借りて、ADの少年は駐車場に近い丸太の長椅子で横になった。言葉は元気そうだったが、交通事故はどうひびくかわからない。

 

 ……少年と呼んだのは、昼食のおりに、この春に高校を卒業したばかりだと聞いたからだ。弱冠まさに二〇歳の若葉お姉さんとしては、あれこれと世話を焼きたいところだろう。

 

「テープぜんぶ無事です。撮影再開しまーす」

 

 タイムキーパーが声を張る。救急車を呼んでいた若葉は、通話中のスマートフォンをおれに押しつけて、作りかけのテントに走っていった。

 

 救急車への対応のためにしばしの中断はあったが、残りの収録をつつがなく終えることができた。機材の片づけをするスタッフに挨拶をして、われわれは一足早く帰路につく。

 

「帰りは私が運転します!」

 

 車のロックを外したところで、運転席のドアハンドルを若葉が素早く取った。来るときに、たしかにそんな軽口をたたいた気がする。

 

「なにかあったら困るだろう」

「私だって大人ですよ、ちゃんと責任が持てます」

「だからだよお姉ちゃんよ。おれが運転してればきみは被害者だけど、きみが運転してたらきみが加害者になるんだぞ」

「事故を起こさなければいいんです。プロデューサーさんも助手席でちゃんと目を光らせててくれるでしょう」

 

 単独事故の心配もしてほしい。朝と昼とで、すでに二件の未遂があったのだ。ADの彼の怪我は、けっきょく軽傷で済んだそうだが。

 

「オバケだって目を光らせてるんだぜ。忘れちゃあいまい」

「ふっふっふー。私、気づいちゃったんですよプロデューサーさん。オバケはここに来るひとしか驚かさないって!」

 

 いわれてみれば、ADは行きはなんともなかったはずだし、救急車にしても無事に病院に着いたはずである。こちらに向かう道でも必ず出くわすわけではないことも、まあ納得できる。自分ルールと気まぐれが妖怪のはずだ。

 

「というわけで」

 

 若葉はするりと運転席にはいりこみ、シートをにぎやかに調節しはじめる。いまどきの車のキーはロックを解除するだけの代物で、エンジンをかけるのに使いはしない。おれが助手席のドアを引く前に、若葉は車を始動させていた。

 

「安全運転で頼むよお姉ちゃん」

 

 声に出すとだいぶ諦めを受け容れられた。シートベルトを締めているうちに若葉はミラーの調節も終えて、カーナビに小さい手を伸ばす。

 

「むむむ」

「なにがむむむなんだいお姉ちゃん」

 

 眉根を寄せて頬を膨らす横顔は、しばらく黙って機械を睨んでいた。

 

「……返す場所がわかんなくて……」

 

 素直に下がった一対の眉がこちらを向く。おれが設定を済ませると、口許を不満げにした。

 

「プロデューサーさんは簡単にやっちゃうのに、なんで私は詰まるんだろ……」

「そもそもがわかりづらいよ、こういうのは。おれができるのは回数こなして覚えちゃったからさ」

「経験の数かぁ……。大人の言葉だなぁ……」

「きみより一〇年、長いからね」

「私も早く慣れないと」

 

 そういって若葉はシフトレバーをDに合わせる。ハンドルを水平線より少し上から、小さい両手がつかんだ。

 

「まあ、身構えて取り組むくらいが安全さ。失敗はわかった気になったときにやらかすもんだしね」

「ナルホド、経験豊富ですね」

 

 新緑の瞳でニヤリとして、若葉はアクセルペダルを踏みこんだ。

 

 車は静かに、空の藍色と橙色のあいだへ滑り出る。山道に落ちる蒼色の影をヘッドライトで押し退けて、カーブや坂を危なげなく走り抜けていく。

 

「いい気持ちですねえ~」

「ご機嫌だねお姉ちゃん。心配して損したな」

「えーっ? それどういう意味ですか」

 

 だれかの口癖が伝染しているような。

 

「腕前の話」

「なかなかのものでしょ~。アイドルになってから走るようになったんですよ」

「前の秋にドライブに行ってたっけね」

 

 談笑しつつ、たそがれどきのドライブはまっすぐな上り坂にさしかかる。

 

「上り坂を加速してくのって気持ちいいですよね~」

「ああ、もう星が見えはじめてるなあ」

 

 のんきに見上げた坂の上、黒い木々の影を切り取って、丸いものが浮かんだ。眉をひそめ、目を凝らす。白く丸いそれに赤い裂け目ができた。それは口だ。ニタリと笑う血の色の口だ。

 

「えっ、なあ、お姉ちゃん?」

 

 車が速度を落とす気配はない。ヘッドライトに照らされた不気味に笑うそれ、のびあがりは、朝がたとおなじく高さを増していく。

 

「えへへ、法定速度超えちゃって……あっ」

 

 膨れ上がる妖怪が眼前に迫る。いやこちらが迫っている。若葉がいたずらを見つかった子供のような顔を一転、引き締めた。

 

「どいてーっ!」

 

 遠慮のないクラクションがたそがれの山道にひびいた。もともと白い顔色を妖怪はなくし、みるみる縮んでたぬきだかむじなだか、ずんぐりとして尻尾の短い動物の姿になると、茂みに身を翻した。

 

「……でかかったな」

「ですよねえ~。でもどいてくれてよかったぁ。道のまんなかでたぬき寝入り」

 

 たぬきにしろむじなにしろ、鼻先から短い尻尾まで一メートルもないはずだ。咆えた車に驚いて逃げたなにかは一メートル半はあるように見えた。

 

「あれが化けだぬきか化けむじなだったのかもな」

「えぇーっ、いまさら怖いこといわないでくださいよぉ!」

 

 車は道路の凹凸に一つ跳ねて、街の灯りへ吸いこまれていった。

 

 

(了)

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