猫、巫女、サンタ、あいのうた   作:久聖

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志希と留美の過去について、デレステおよびデレマスでの描写をベースに独自の色をつけてあります。
……が、使い捨ての設定なのでほかの話だとちがう過去を語ってると思います。


志希  二人なら

 

「志希がレッスンに来てない……?」

 

 午後二時すぎ、内線の告げた言葉に一ノ瀬志希の担当プロデューサーは喉を震わせた。アコースティックギターの弦を張り替える有浦柑奈が、ソファから彼を振り返る。イベントの企画書を打つ手が乗ってきたと得意げだった表情は一転して険しい。

 

「いつもの発作と?」

 

 三〇分ほど前に居室を出たときの志希に、とくべつに変なようすはなかった。それがゆえの“いつもの発作”、失踪癖という判断である。

 

「あー、スマホ切ってるね。もう、化けミミズクのくせにちゃんと目をつけてないから」

 

 並木芽衣子がつながらない通話画面を振った。あだ名のとおり、前髪を二束跳ねさせたプロデューサーは不服そうに電話を置く。

 

「やかましい。いくらつけてても盗まれたら見えないだろ」

「さいきんはまじめだったのに。志希ちゃん、ストレスためてたのかな」

 

 難しい顔をする日下部若葉の小さい手には、ジグソーパズルの青いピースがつままれている。その色合いは秋の空、志希の瞳の色をプロデューサーに思い起こさせた。はまる場所を探して右へ左へ移ろう小片が、胸の裡の模糊とした不安を膨らませていく。

 

「とりあえず拡散? 手が離せないなら私がやろっか?」

「きみらはロケ優先。おれが捜すよ、メッセージはもう打った」

 

 三人はそれぞれのスマートフォンを見るが、彼の担当一同宛にも個人宛にもそのようなメッセージはなかった。

 

「……あ、留美に送ってた」

「彼女さんに送っちゃだめですよ……」

 

 若葉たちが彼の恋人の名前を知っているのは、ようやく口説き落とせたのを彼自身がことあるごとに語ったからである。もっとも、みな名前しか知らない。つまり“どんなひとですか?”といった定型句さえ、だれも返さなかったのだ。

 

「やーいテンパりミミズクー。社外秘情報洩らすなー」

 

 いいわけもほどほどに、あわてミミズクは居室を飛び出していった。ドアの閉まりきるのを聞き、芽衣子が座りかたを浅くして唇を尖らせる。

 

「毎度だけど過保護じゃない?」

「ヤキモチとですか芽衣子さん」

「まあ私が旅先でどっか行っても捜しに来ないのは事実だけどさ……」

「芽衣子さんは知らんひとについてったりはせんでしょう」

「志希ちゃんはついてっちゃいますからね~」

 

 二人にいわれて、芽衣子は志希とはじめて会ったときのことを思い出した。旅番組の収録中に興味本位で乱入してきたあげく、面白そうというだけでこの業界へ飛びこむほどに軽い少女だったのだ。いつかまたどこかでおなじように、あらぬほうへ飛んでいってしまうことを危惧するのは自然だ。

 

「たしかに、危なっかしい子供、か」

「安心安全のオトナ~」

 

 からかう柑奈の人差し指を、芽衣子は勝ち誇った顔のVサインで強く挟む。

 

「そういえば若葉ちゃん、そのパズル……なに? ぜんぶ青くない?」

 

 取り逃がした指を追いもせず、視線を怪訝そうにして、手つかずのピースの山に向けた。

 

「さいきん復刻した五〇〇〇ピース高難易度、“雲一つない青空”です」

「雲……あったほうがいいと思うな」

 

 四隅に三ピースずつ置かれただけの台紙から、芽衣子は視線をはずした。

 

 

 

「化けミミズク、いまごろどこ捜してるかな~」

 

 ココア色の長い癖っ毛を辻の風に踊らせて、一ノ瀬志希は大きく伸びをした。電源を切ったスマートフォンを指先でもてあそびつつ、担当プロデューサーのあわてふためく姿を思う。もう自分の失踪に気づいているころだろう。

 

 いまごろはあわてミミズクか、トレーナーに怒られてしょげミミズクか……。情けない表情を思い浮かべて独り笑い、志希は失踪をつづける。夜には彼女と食事に行くんだといっていたから、だいたい五時まで粘ればじゅうぶん邪魔をしてやれると、頭のどこも使わずに計算する。

 

 志希を捜すことで滞るきょうのぶんの業務、そのための残業時間が現実的な範囲におさまらなければ、食事に間に合う時間で切り上げることは明らかだ。

 

 志希は彼が嫌いなわけではない。よくなついていると、自分でも評定を下す。それでもこうした悪行をはたらくのは、恋人のことを話すときの浮かれようが彼女の気に障ったからである。

 

 嫉妬だということくらいは把握できていた志希である。その源泉はなにかとなると、担当をおなじくするアイドルたちの見解はわかれた。

 

「いやー、志希ちゃんも女だねぇ~。お姉さんは感慨深いですよ」

「そうですか? 弟とか妹ができたときのちっちゃい子みたいですけど」

「ちっちゃい子なら、むしろお父さんの再婚するときの反応のがらしかかと」

 

 少なくとも二番目は的外れだと、志希は鼻を強く鳴らしたものだった。

 

 ……閑散とした通りをあじさいの角で曲がると、晴れた秋の空色をした瞳に動くものが映った。路上にではなく、レトロなレンガ壁を大きく切り取る窓の奥にである。木の吊り下げ看板を風に揺らす、喫茶店のようだ。

 

「お~、サビネコちゃん発見」

 

 近寄ってきたココア色の化け猫を、サビネコは気だるそうに見上げた。細い指のえがく軌跡はもはやその猫には見慣れたものであったが、それへの対応もまたルーチンワークのごとく慣れたものだった。

 

 そして志希には反対に、両の前脚を広げて指を追いかける猫のユーモラスな動きは、珍しい視覚刺激となって青い瞳を釘づけにするにじゅうぶんであった。自身までが両手を使いはじめるまでに、そう長くはかからなかった。

 

 動きがすっかり揃って、ピタリと止まり、ガラス越しに鼻をつけあって……そして次の手を、志希が長考しようとわずかに身を離したときである。背中にシャッター音が一つひびいた。

 

 とっさに左側、音のしたほうへ志希は全身で向き直る。想像していたよりもずっと落ち着いた雰囲気の、短い髪の女がそこにはいた。眉尻を下げた表情は、アイドルと偶然出会ったことを喜んでいるようには見えない。

 

「ごめんなさい、あなたを撮るつもりではありませんでしたが……」

 

 女はおだやかな、はっきりとした口調で詫びた。交渉ごとに慣れているなと志希には知識から判断できた。よく晴れた夏の夜空の色をした髪を短くして、鋭い銀の目はまっすぐに志希を見つめている。嘘のにおいはしなかった。より正確に志希の嗅ぐところでは、むやみな正直者のにおいがした。

 

「志希ちゃん以外に撮るものある? 見せて見せて」

 

 志希の甘えた声に弱く微笑んで、その女性はスマートフォンを差し出した。

 

「シピちゃんがこんなにはしゃいでるの、珍しかったものだから……」

「シキちゃん?」

「シピちゃん。その子の名前ですよ。生意気でワガママな小悪魔ちゃんという、フランスの言葉だそうです」

 

 ガラスのなかのサビネコを示す手に、志希は親近感をおぼえた。実験器具を操っていたころに見慣れた、疲れた手だ。充実した疲労感が染み着いた手だ。

 

 ……もちろん、年長だろう彼女の手のほうが、骨ばって大きいが。

 

「じゃああたしのことでも合ってるかもね」

「……そうかもしれませんね」

 

 正直にも否定しないそのひとのスマートフォンには、胸を張って両の前足を振りかざすシピが大きく写っていた。

 

「志希にゃんも写ってるにゃん。ふしゃー」

 

 まったくかわいげのない低い声音で、鼻の頭にしわを寄せる。画面のなかで窓に反射した自分の笑い顔を、爪の先でつつく。

 

「きょーはプライベートなんだよにゃー」

 

 大嘘である。二割を困って八割は楽しそうに女性は重ねて詫びると、写真の削除を志希に勧める。自分で消して見せればいいとそっけない志希に、それは信じにくいと返す。誠実とか愚直といった単語が、志希の頭にやっと出て来た。

 

 削除のついで、ふと涌いたいたずら心でクラウド上のファイルを眺めると、そこには猫の写真ばかりがおさまっていた。

 

 スマートフォンをしまうバッグも、本革のにおいがするシンプルなものだが、よく見ると正面に太い糸で縫い留められたラベルは猫のダヤンのデザインだ。

 

「……猫フェチ?」

「……恥ずかしながら」

 

 色を帯びたはにかむ頬、わずかに逸れる視線に、そのひとの素顔を見た気がする志希だった。時間を潰すにしても、だれもいない散らかった家に帰ったり、いつもと変わらぬ独り歩きをするよりは、このひとといるほうが楽しそうだ。志希の脳にそうした電気信号が、言葉ではなく走った。

 

「それでこの、猫がいるだけの喫茶店にもかよいつめてると」

「かよっているわけではなくて……顔馴染みというか」

「友達が働いてるとこってはいりづらいタイプ?」

「猫アレルギーですから」

 

 質問を投げかけながら、頬擦りをするように、志希は夏の夜空色の髪をした女性を嗅ぎまわした。手首から腋、首筋、背中、脇腹まで来ると背筋を伸ばし、開襟の胸許に鼻を突っこむ。止める声があがったところで、素直に聞き容れる志希ではなかった。

 

「お姉さんいいにおいがする~」

「……一ノ瀬さんにそういってもらえると自信になります」

 

 耳許で鼻息を荒くする肩を、大人の手がやさしくひきはがす。はじめは抗う意思を示していた志希ではあったが、肩を包む感触になぜか、それを放棄してしまった。

 

「どこ行くの? ついてく!」

「ええと……」

 

 たじろぐようすに、志希は違和感をおぼえた。いいたくないというよりも、考えていなかったように見えたのだ。

 

「一九時からひとと約束がありますけど、それまではなにも」

「おデート?」

「はい」

「じゃあ一七時までは志希ちゃんとデートね、けってーい」

 

 返事も聞かず、腕を組みに行く。切れ長の目におさまった銀色の瞳は、焦るふうでもなく、やさしく光った。

 

「デートにはご興味がおありでない?」

「あるけど、それすると馬に蹴り殺されるんだってさ」

「それじゃ、彼に自慢だけしておこうかしら……よろしい?」

「よろしー」

 

 チャットの向こうの“彼”は一七時までというところをしきりに疑ったが、満足な回答を得ることはなかった。血中に好奇心の飽和した志希が、秋空色の瞳に電流の花を咲かせて、答えかける彼女の腕を引いたせいである。

 

 

 

「おや、一ノ瀬は見つかったのか?」

 

 冷えた甘茶でくつろいでいた芽衣子たちの許を、志希のレッスンをするはずだったトレーナーが訪ねた。テーブルはジグソーパズルとおぼしき青い断片に、三人がけのソファの一つは柑奈とそのギターにより、それぞれ占領されている。

 

「いーえ、絶賛捜索中でござい」

 

 芽衣子からどこか自嘲めいた返事と、若葉から紙コップの甘茶を受け取ってトレーナーは頭を少しだけ傾けた。黒のセミロングが重たげに揺れる。

 

「キミたちはくつろいでるようだが」

「むりにね」

 

 倦みを増す口調に、首の角度が深くなる。それへ、柑奈がパサついた口調で言葉をつぐ。

 

「私たちも捜しに行きたかことは行きたかですけど、そろそろお仕事ですけん。プロデューサーさんはともかく、私たちの仕事に影響の出ると、志希ちゃんもバツの悪かでしょう」

「それに、志希ちゃんはプロデューサーさんに迎えに来てほしいんですよ」

「私の仕事にも影響が出ているんだが」

 

 頷く若葉に、トレーナーは口の片端だけ持ち上げて、眉をひそめてみせた。

 

「志希ちゃんあんがい、トレーナーさんはヒマができただけって思ってるよ」

「……キミたちもキミたちのプロデューサーも、一ノ瀬を過剰に子供扱いしていないか?」

 

 苦く呈された疑問に、芽衣子はむなしそうな表情のままで姿勢を正した。

「“志希は親に甘える時期をそっくり落っことしたままこの歳まで来ちまったせいで、そこから動けずにいるんだよ。甘やかせるやつが甘やかしてやって、ちょっとは急かして、歳相応にしてやらないと”……だとか、化けミミズクがいってたんだよね」

「情操教育みたいなの、やってるとお姉さん視点になっちゃいますね」

「私たちみんな志希ちゃんよりお姉さんですよ柑奈ちゃん!」

「家庭のことは聞いているが……そういう方針か。諒解した。もっとも、私は甘やかさないがな」

 

 紙コップに口をつけて、トレーナーは厳しくしていた表情を少し和らげた。

 

「トレーナーさんは怖いほうがいいよねー」

「そうか。厳しくしやすくて助かる。並木は演技に課題ありだな」

 

 ニヤリと笑い、静かな声で甘茶のお礼を残して、トレーナーは自分の仕事にもどっていった。……そしてこのあいだもずっと、青いピースを見較べていた若葉である。

 

「おや、若葉さん、真ん中から攻めっとですか?」

 

 “雲一つない青空”の四隅は三ピースのまま変わらずにいるが、中央に二つ、つないだピースが増えていた。

 

「うーん、偶然ここだけ噛み合っちゃって」

「若葉ちゃん、このパズルだとピースの行き先増えるのキツくない?」

「たぶん……いえっ、だいじなヒントになるはず……!」

 

 いまつまんでいるピースのはまる場所はまだないことに若葉が気づくのは、二分ほどのちのことである。

 

 

 

「ほほー、ここが留美さん行きつけの図書館か」

 

 和久井留美と名乗ったその女性と志希とが打ち解けるのは早かった。休日の過ごしかたを訊かれて留美が答えたのは四単語、掃除・洗濯・買い物・図書館。訊き返された志希が答えたのはさらに少なく、寝る・遊ぶの二単語だった。

 

 八時には目を覚まして朝食を用意する留美に対して、寝たいだけ寝て食事はサプリで済ます志希。まるで噛み合わない二人の休日のうち、志希のただ一つシンパシーをおぼえた図書館に、手をつないでやって来た。

 

「一階が小説だとか学術書で、二階が雑誌に漫画、CDよ」

「どんな本読んでるの?」

「三毛猫ホームズとか、猫の雑誌。連休になると松本清張も借りてるわね」

「アタゴオルとかは?」

「小さい子がいっぱいいて、そっちは行く勇気がね……」

 

 留美の苦笑いするとおり、ガラス張りの螺旋階段、あるいはエントランスに、親に連れられた小さい子供の姿が目立つ。三階には児童館もあるためだという。組み合わせもさまざまな若い親子の、一様に楽しく語らう光景は、志希の唇を尖らしめた。青い目許の険しくなるのが細めた視界の端に見え、留美は痩せた小さい手を両手で包もうとした。

 

「留美さん、こんにちは。きょうはご友人と?」

 

 矢先、小さい女の子を連れた女性が近づいてきた。藁色の長いワンピースに黒のレギンスの若い母親は、愛嬌のある笑顔で留美の返事を受けると、水玉のワンピース姿の娘の背を押す。

 

「留美お姉ちゃんにごあいさつは?」

「……」

 

 黒目がちの幼い目がおずおずと、精一杯にこやかにした留美の顔を見上げた。しかし、小さく開けた口は五音をこぼすより先に閉ざされてしまう。青い目が鋭く険しく光ったからである。少女は泣きだしはしなかったものの怯えを顔に色濃くして、母親の七分袖の手を綱引きのように図書館のほうへ全身で引いた。

 

「もう、ごめんね留美さん、ほんとこの子は引っこみ思案で……。はいはい、本は逃げないったら。受付のおばさん、とっといてくれてるから」

 

 肩越しの会釈を残して大小のワンピースは自動ドアのガラスの奥へと消えた。留美の小さく振った反対の手が、無遠慮に強く、短く引かれる。

 

「……知り合い?」

 

 そういって青い瞳が、下からのぞきこむように揺れた。それはあまりに幼く、すがるように見えて、留美は片手をこわばった頬へ伸ばす。

 

「たまに二階で会う、そうね、猫好き仲間。娘さんのほうは、私を怖がってるみたいだけど」

「ママ友だ」

 

 ……などと憎まれ口が返ってくるのを予期して、“きょうはそうね”と頬を揉む用意をした留美であったが、志希はなかばうつむくようにして顔の重さをその手に預けるだけだった。

 

「なにかしたの?」

「なにもしてないわよ、失礼な子ね」

 

 頬を揉んでも志希の表情筋は動かない。留美のそれもあまり鍛えられているほうではないが、困った顔を一瞬だけおおげさにしてみせた。

 

「顔が怖いんでしょうね。親戚の子もそうだもの。……でも、志希ちゃんには怖がられなかったから、ふふ、希望が持てたわよ」

「きぼー」

 

 遠いと思っていた記憶が、意外なほどあざやかに志希の脳裏によみがえった。真っ白いベッドに身を起こした母親の、細い……それでも幼かった志希の顔を包みこめた手が、やさしく頬を撫でてそうつぶやいたことがあった。

 

 そのとき小さい胸にあったのは、猛烈な不安と寂しさで……。

 

「ていうかしきにゃん小さい子じゃないにゃん!」

 

 記憶の淵から這い上がってきた昏いものを谷底へ蹴落とすように、はずみをつけて志希は胸を張った。頬から振り落とされた留美の手は白い喉をくすぐり、いちだん声をおだやかにする。

 

「そろそろひとが増えてくるから、場所を変えましょうか」

 

 志希は頷いて、留美の手を握りなおした。そしてすでにして見えない母娘を、ぼんやりと辺りを映す自動ドアの向こうに透かしてひとりごちる。

 

「さっきの子、あたしが睨んで、よけい怖がらせちゃったかなー」

「ま、いけない子ね」

 

 子猫のように甘えてすり寄る頬の、かすかに持ち上がるのを留美は感じた。

 

 

 

「そろそろロケば行く時間とですよ」

 

 トレードマークのギターを背負い、柑奈はまだソファに座ったままの二人を見やった。威勢のいい返事をして芽衣子も靴を鳴らす。テーブルの帽子を拾い、あくびを隠してから頭へ乗せた。

 

「うう……。けっきょく端っことどこかの二ピースだけ……」

 

 肩を落としつつ立つ若葉の耳に、バッグからの振動音が聞こえた。

 

「あっ、でもこっちはいいニュース! 志希ちゃん見つかったそうです!」

「もう解決と?」

「若葉ちゃんミュートにしてないんだね」

「しませんよ~。こういうのはだいじじゃないですかっ」

 

 パズルの進まない気落ちはどこへか、若葉は胸を張って鼻の穴を広げた。

 

「ま、これで心置きなくロケに行けるね」

「こころおきなく……」

 

 柑奈は復唱をよどませた。あえての真顔を傾けて、芽衣子はその顔をのぞく。

 

「なーに柑奈ちゃん? 私だって置いたり残したりいっぱいしてきたんだよ?」

「いえいえいえ、芽衣子さんに思うところなんてなかですばい、うっふふふ。若葉さんのパズルばどうすっとかと」

 

 ローテーブルの大半を占有する繊細そうな趣味の品へ、柑奈は視線と眉尻を下げた。

 

「台紙ごと箱にしまって、そこのキャビネットによけますよー」

 

 若葉の示すキャビネットは、花瓶と写真立てが不自然に脇に寄せられている。事前に置き場を確保していたわけである。二人が用意のよさを意外がることは気に留めず、若葉は手際よく五ブロックのパズルを載せた台紙を箱におさめ、ピースの山を袋へもどして、青いばかりの平たい箱を予約の場所へ片づけた。

 

「ばらかしちゃうと思ってたら危なげなくやったね」

「そんな不器用じゃないですよ!?」

「もう糊ば塗っとっと?」

「糊は完成してからパズルの上に塗るんですよー。台紙にくっつけるものじゃないんです」

 

 また得意げに反らした控えめな胸へ、芽衣子がころころと鈴の音を投げる。

 

「あはは、だよね。とくにあれは角の置きかたまちがえそうだしね」

「……かど?」

「え、だってぜんぶ空だから、どれが右上とかぜんぜんわかんないでしょ?」

 

 目と口を丸く開いて打ちのめされつつ、柑奈に促されて支度を……用意しておいたハンドバッグを取り上げるのみだが、若葉はした。

 

「うう……青空の完成は遠いなぁ~……」

「楽しみにしてるよっ」

 

 にやつく芽衣子に背中をたたかれ、多少の心をキャビネットの上に残して、若葉はロケ地へ出かけるのだった。

 

 

 

 志希と留美はコンビニエンスストアを出て、中央線のかろうじてある道路を越えた先に広がる公園を訪れた。車止めの小径には白薔薇がさわやかな初夏の香気を満たし、新緑の天蓋がやわらげた陽射しを風が撫でていく。春生まれのスズメの子がさえずるのを聞きながら、二人は木陰のベンチに腰を下ろした。

 

「鼻には白薔薇、公園スズメ、雪見だいふく!」

「あら、詩人ね」

 

 歯を見せて笑いあい、一つずつ、薄皮に包まれたバニラアイスに歯を立てる。剥がした薄皮の食感を歯に楽しみながら、バニラアイスは舌と上顎のあいだで溶かしていく。

 

 やがて志希自身、溶けるようにして留美の肩に頭を預ける。ココア色の髪に鼻をうずめるようにその顔をのぞき、留美はバッグからハンカチを取り出した。

 

「粉ついてる」

 

 拭われた口許は薄く開き、子猫のように楽しげに鳴いた。

 

「それにしても」

 

 しなだれかかる肩をなぞり、複雑に絡んだ髪の奥の耳に留美はささやく。

 

「知らないひとについてきて、食べ物までもらって、いけない子ね志希ちゃん」

「いけなくなあい。ちゃーんといいひとを嗅ぎわけてるう」

 

 声を上げて笑ってから、志希は挑発的な表情を作った。

 

「どこにつれてってもいいよ? お持ち帰りしちゃう?」

「あら、いいわね。一緒におうち帰りましょうか」

 

 みずから振った話題の返事で、志希の意識はふたたび白い光景へと落ちこむ。なつかしい声が、あのときは元気に、こういっていた。

 

「ママね、調子が安定してきたって、先生が。在宅に切り替えようって」

「じゃあ……おうちかえれる?」

「うん。あした、一緒におうちに帰りましょう」

 

 ぼんやりとした記憶はそこまでだ。これよりあとのこと……母親と過ごした思い出は、一秒として余さず志希の脳に刻まれている。

 

 出かけるときはいつでも手をつないで歩いたことを。

 

 作ってくれた料理も服も。

 

 お手伝いのルールも、どんな会話をして決めたかも。

 

 わがままをいったときのこと、困ったような母親の顔、その顛末。

 

 アイロン台のチリチリとする熱さ。

 

 母親のにおいとぬくもりの布団から幼い自分を誘い出す、朝食の魔力……。

 

 なにひとつ忘れてなどいない。少なくとも志希はそう信じているし、否定も肯定も、いまやだれにもできぬことである。

 

「どうしたの志希ちゃん? 眠くなっちゃったかしら」

 

 志希の半身の、脱力した重みを留美は小さく揺すった。

 

「んっ! にゃはは、そうかも」

「猫じゃらしでも持ってきてればよかったわね」

「持ってるの?」

 

 言葉にはせず、含みを持たせて、口の端だけで笑った。志希もおなじ笑みで返事をして、留美のバッグの口からはみ出ていたビニール袋に指をひっかける。

 

「にゃっ、そうだ、これ捨ててくる。朝起きたらゴミ出し~」

「あら、このくらい、持って帰って捨てるわよ」

「いーの! ママはここで待ってて」

 

 わざとか知らずにか出た単語に、留美はあえて触れなかった。

 

「そう、じゃあ、お願いね。車に気をつけて」

 

 返事が早いか、軽やかな足で砂利を鳴らし、志希はコンビニエンスストアへ駆け出した。なびく髪が白薔薇の生垣に消えると、残り香をさらう初夏の風が留美の心にさざ波を立てる。細長い溜息はかえって波濤を大きくし、バッグの分厚いラベルを、留美は手慰みになぞった。

 

 もどってこないのではないか……。目を離したことを後悔するのは一秒にも満たず、手はスマートフォンを握っていた。チャットを起動すべく指を画面に走らせる。

 

「ただいまー。暇だった?」

 

 緑色の画面からはじかれるように顔をあげる。一ノ瀬志希の、澄ました顔がそこにはあった。

 

「早かったわね。ごめんなさい、落ち着きがなくて」

「もっと落ち着かないのがいるよ」

 

 青い視線を追った留美の目に、セーラー服姿の二人組が映った。その手にはスマートフォンがある。内緒話のつもりなのか近づけた顔の下半分をさかんに動かしているのが、一〇メートルの距離からでもわかった。

 

 留美がベンチから立ち、まっすぐに近づいても二人はその場を離れなかった。

 

「なにかご用ですか?」

「えっと、あの子、一ノ瀬志希……ちゃん、ですよね?」

 

 呼びかけに、へらへらした愛想笑いが返ってくる。頼みこんだら写真くらい撮らせてくれるだろうという甘えが、はっきりとそこにはあった。顔の高さに掲げられるスマートフォンを抑えるように、留美は手をかざす。

 

「ごめんなさい、プライベートなのでご遠慮いただけませんか」

 

 二人は不満げに眉を変えたが、留美の表情は事務的な笑みのまま動かない。スマートフォンが角度を変えれば、すぐに白い手が追従してカメラをふさいだ。

 

「いまの彼女はあなたたちとおなじ、高校生の女の子です。ご理解を」

 

 ご理解致しかねる二つの顔が、とたん、ぱっと明るくなった。留美の両肩を抱くようにして、志希が顔をのぞかせたのである。

 

「にゃはははは、いまだけトクベツ、ワンショット無料サービス中だよ~」

「ちょっと志希ちゃん」

「いいのいいの、きょうはおおらかな気分~」

 

 気の早い歓声を聞き流しながら、志希と留美は位置を交換した。SNSには投稿しないことを条件に加えたのは、はたして効果があるのか留美はいぶかる。

 

「ねえねえねえ、きょうウチらテストあって!」

「そうマジ難問だった! これ解ける!?」

「t=0のときの点Pは(2,4)、面積Sの最大値は15」

 

 問題冊子をひと嗅ぎしてこともなげに答えを告げると、セーラー服の二人は快哉を叫んではしゃいだ。志希が嘘をついたりまちがえたりするなどと考えもせずに、“さすが天才女子高生!”と大喜びをしている。

 

 ……苦い表情をする留美にも志希の声のトーンにも二人は気づくことなく、さらにいくつも正答をねだり、何度もシャッター音を鳴らして、興奮の醒めぬまま、セーラー服の二人は去っていった。

 

「よかったの?」

 

 ふう、と一仕事終えた吐息に、留美があらためて問う。

 

「あんまりよくない~。あーゆー扱い好きじゃないにゃー。プロデューサーがいると追っ払ってくれるんだけど。せっかくアイドルと話せるんだからもっと楽しいこと訊けよって」

 

 表情を隠すように、鼻を服にすりつけて志希は留美のにおいを嗅いだ。

 

「予測不能の化け猫娘でとおってるんだから一人のときは逃げても嘘ついてもいいぞっていわれてたっけ。留美さんてプロデューサーと似たにおいするから、判断任せちゃってたや」

「そうなの? 気が利かなかったわね」

 

 留美の視界にもどってきた志希の顔はけろりとしたものだ。

 

「まーいーよ。それとも留美さん、志希にゃん独り占めしたかった?」

「そうねえ……。自分のものみたいに思ってたかもしれないわね」

 

 自嘲に声をかけぬまま、二人はベンチにもどった。つぎの高校生が現れないうちに移動しようと、留美がバッグの口を閉じる。

 

「そーいえばね」

 

 バッグを肩にかける背中に……視線はそれよりもずっと遠くにして、志希は話しかける。

 

「希望ってさ、ママにもいわれたな」

「あら、志希ちゃんのお母さんも目許がきついなんていわれてたタイプ?」

 

 “子供が怖がる”切れ長の目の端へ銀の瞳を滑らせて、留美は振り返った。

 

「そーじゃなあい。ママはあたしとおなじかわいい系だもん」

「そうなの?」

「……病気が遺伝しなくてよかったって」

 

 志希の表情の巻き添えとなってかき消された言葉を、留美が作り直すのには二秒とかからなかった。

 

「私も、猫アレルギーが子供に遺伝したらって考えて怖くなることがあるわ。気が早いし、たかがアレルギーでっていわれそうだけどね……」

 

 健康である喜びを本人以上に感じられるのが、親というものなのだろう。

 

「あー。ならあたしは、子供もギフテッドだったらって考えたらいいんだ」

 

 志希は感心してみせるついでに目を閉ざし、母親の心境を想像する。それは目の色に、かつて感じた疎ましさが憂鬱の色をにじませるのを、隠すためでもあった。

 

「おおなんと味気なき人生~。悪い子に育てば幸せになれるかなー?」

「いい子のまま幸せになりましょうね」

「あたしのことじゃなあい」

「はいはい、子供のこと子供のこと」

 

 頬をつつく指に、志希は頬を膨らせて抵抗した。

 

「……けど、志希ちゃんもそういうの、重荷に思うことがあるのね。ちょっと心強いわ」

「およ、留美さんもわかりすぎちゃうタイプ」

「答えのある問題には正解正解って急いじゃうタイプ。鏡の迷路で目を閉じて片手法で走ってくみたいっていわれたわね」

「なら志希にゃんは鏡の迷路で道が見えちゃうタイプかな。迷いもぶつかりもしなーい。つまんなーい」

「……でも、いざ迷路を抜けて空の下に出ると、どうしていいのかわからなくなってしまうのよね。だから次の次のって、もうなにが楽しいのか……」

 

 留美のついた溜息を吸って、志希は脳に電流をひらめかせる。余人が使わぬニューロンも活性化させ、留美の言葉の意図をさぐった。あるいは余人ならば使う必要のない、それは領域だったかもしれない。

 

「お仕事のことでお悩みかにゃー?」

「あら、鋭いわね」

 

 留美はさして驚いたふうでもなく、人差し指で志希の頬を撫でる。

 

「私が成果を出すのが面白くないひと、多いのよ」

「にゃーるほど。ストレスストレス」

 

 あまり健康的でない痩せかたをした頬を志希が撫でかえす。

 

「よく効くおクスリ作ろっか? 志希にゃん得意だよ」

「ありがとう志希ちゃん。でもストレスの特効薬はもういろいろ持ってるの」

「ちがうよ、会社で使うやつだよ」

「だから……」

「アロマに偽装して置いとけば部屋中に広がってみんなイチコロ。留美さんは抵抗薬を飲んどけば無事に済むにゃー」

「志希ちゃんあのね、嫌いなひとの人生なんて背負いたくないわよ私」

 

 頬を伸ばす留美の両手を引き剥がすと、志希はにっと笑った。

 

「辞めちゃえ辞めちゃえ。あたしにもそーゆーのいたし、アメリカのころ」

 

 毒殺せずに自分が日本に逃げてきたと、留美の手を揉む。

 

「だから留美さんも逃げちゃってさ、あたしのとこ来てよ。そんでお掃除して」

「あら、こんどは家政婦? 悪くはないわね。志希ちゃんの服ってアイロンのかけがいがありそう」

 

 薄手の服を埋め尽くす丸めじわは、撫でつけてもすぐ、シャーリング加工の生地のようにしてもとにもどってしまう。留美の苦笑いを受けてやっと志希の顔に気恥ずかしさが浮かんだ。

 

「洗濯もいっぱいできるし、図書館も近いし。……あ、ていうか本はたくさんあるし。それで……」

 

 志希はとびきり甘えた表情で頬の紅潮を塗り替える。

 

「ご飯作ってほしいな」

「ひとに食べさせるようなのは練習中だけど、それでもいいかしら」

 

 迷いなく頷く志希である。

 

「留美さんがご飯作って、あたしはその音とにおいで起きるの。志希にゃんは手作りに飢えてるのだ」

「ああ……私より独り暮らし、長いのよね」

「最後に食べたのは二ヶ月弱前……イースターでフレちゃん家に行ったとき」

「わりと最近ね?」

 

 志希の瞳の昏くなるのを、こんどははっきりと留美は見た。

 

「……食べちゃったから羨ましくなっちゃったの」

 

 抱きしめられて黒のワイシャツにうずめた顔で、志希は熱いものを感じた。それが涙であることを認識するのはすぐだったが、理由には辿りつけなかった。

 

「いまのうちに好物を聞いておかないとね。練習しておくから」

「うん……」

 

 母親と囲む食卓をいろどった料理の色と香り、一皿ずつ名前を教えてくれた母の声が、志希の五感によみがえる。

 

「まずね、甘い卵焼き……」

 

 

 

 志希の好物、母の思い出の料理は、シンプルなものから手のこんだものまで二〇あまりにのぼった。記憶にはさらに多くのメニューがあるのだが、留美の頭にはいりきるのも限度があったのである。

 

 二人は手をつなぎ、無言のまま歩いていた。ときおり志希が喉を鳴らしたり首筋に顔をすりつけたりする。留美は夏の夜空色をした髪を揺らして、志希の数センチ上で微笑み、鼻先を寄せる。留美にとって未知の、志希には一〇年来忘れていた、充足の時間だった。

 

 曲がり角のたびに二人は向きを変えて、JRの駅までを長く長く歩いてきた。まだ甘えていたい志希ではあったが、留美のシャツを汚したのは自分である。デートの前に着替えることを、やめさせられる由はなかった。まだ一七時には遠いが、しかたのないことである。

 

「着いちゃった」

 

 拗ねたような志希の唇を、留美の人差し指がそっとおさえる。

 

「ついてくる?」

「やめとく。あたしにも待たせてるひといるし」

 

 指を押し返した唇の笑みは白い歯をのぞかせる。留美もそれ以上は誘わず、肩のバッグの位置を整えなおした。

 

「それじゃあ、足の踏み場と私の寝られるスペースができたら連絡よろしくね」

「うん、プロデューサーにやらせるからすぐだよ」

 

 手を小さく振りあったのも数秒、留美の背は志希の視界のなか、すぐに駅の雑踏に消えていった。未練はない。近いうちにふたたび会うことになるのだ。家に招く約束が社交辞令でないこともあるが、それ以上の確信を持っていた。

 

「ここにいたか」

 

 案の定の言葉が、すっかり嗅ぎなれたにおいとともに志希に届いた。過去の例では、“どこに行ってた”“知らんひとについて行ってないだろうな”など追及の言葉があった。だが、きょうにかぎりそれはないと志希は予想していた。

 

「おっと、さすがミミズクの妖怪。音もなく近づいてくるにゃー」

「自慢の鼻は利かなかったか、猫の妖怪ちゃんよ」

 

 目と歯を剥いて怒ってみせるプロデューサーから、志希は鼻息で身を離す。

 

「さあ、トレーナーさんらに謝りにいこうか」

 

 稼いだ距離も化けミミズクが手を伸ばせばすぐにつかまる程度のものである。それでも自主性のためにかただの甘さか、彼は志希に手を差し出すにとどめた。志希はといえば、彼の期待どおり、ただしおそらく予想には反して、その手をしっかりととった。

 

「はーい、じゃあ逃げないよーにお手手つなごー」

「甘えん坊め」

 

 待たせているタクシーのほうへ、大きい手が志希の腕を引く。遅れないよう長い脚を速め、志希は真横から化けミミズクの、どこかにやけた顔を見上げる。

 

「ねえ、プロデューサー」

 

 あと二秒あと、この表情はどう動くだろうか。志希の青い両目が、好奇心の色にかがやいた。

 

「プロデューサーの彼女さんって、やさしいひとだね」

 

 

(了)





補記
若葉が組み立てていたジグソーパズルは、むかし週刊少年チャンピオンで連載していたSwitch(作・米原秀幸)の作中で、主人公・ナナシが作っていたもの……のリバイバル品という設定です。
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