猫、巫女、サンタ、あいのうた   作:久聖

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2019年の留美の誕生日(4/7)に書いたものです。
この時期に開催中だった展示に少しだけ触れてるので、念のため時期を明記しておきます(話の筋とは関係ありませんが……)。


留美  三インチの猫

 

 鍋の具になりそこねた春菊をちぎり、スライスしたセロリとクルミとともに酢、醤油、みりんにオリーブオイルで和える。シンプルなサラダのできあがり。

 

「ご飯、用意してくれない?」

 

 ハヤシライスの火を止めて、和久井留美が肩越しに振り向く。深い瑠璃色の短い髪からほほえむ、切れ長の目許が涼やかだ。買ってから一〇年ほど経った三合炊きの炊飯器から深皿に炊きたてのご飯をよそい、その手に渡す。

 

 小鍋で煮えていたトマトコンソメスープと、買ってきた惣菜二品とを添えて家デートの夕飯が整った。

 

 どこか出かけたいね。茨城のネモフィラ、弘前の桜、砺波のチューリップ、あるいはそろそろ封切りの映画か、トーハクの東寺特別展、シンビでトルコの至宝展……。

 

 大型連休の楽しみをあれやこれやと話し、やがて空になった食器をシンクに運ぶ。洗剤を落とした皿がかごに並ぶのをタオルとともに待ちながら、おれは部屋の隅に視線をやった。

 

「なにか気になる?」

「ああ……。あの紙袋、どうしたのかなと思って」

 

 なんのロゴもない、白い紙袋だ。なにか追加の惣菜でも買ってきたのかなと思っていたが、どうもそうではないらしい。そもそも、食べ物なら留美は床に置いたりはしないか。

 

「ハンディカメラよ。中古のね」

 

 洗い物を済ませるまで焦らし、ようやく留美は紙袋を開いた。箱も説明書もなく、シルバーの塗装がところどころ剥げている。多忙をきわめた期末期首に知らず知らずストレスを溜めていたとかで、衝動買いをしたらしい。

 

「決め手はこれかな?」

 

 猫の顔の形にきれいに残った部分を指すと、留美は目を閉じてほほえんだ。前の持ち主が貼っていたシールの跡なのだろうが、これでむしろ“美品でない”扱いになっていたそうだ。いくつかあった同型から、これを選んできたという。

 

「衝動買いにしちゃあ冷静だね」

「買うと決めるまでが衝動でしょ」

 

 そうかもしれない。おれは笑って、カメラを留美に向けた。

 

「ちょっとちがうふうにしてみる? 気分もちがうかも」

「いいわよ、カメラはなしでね」

「それは残念」

 

 電源ボタンを押しこむとボタンが光る。まだバッテリーが残っていたようだ。モニタを開くと、意外そうにしている留美が映った。レンズに細かい傷があるらしく、白や虹色の短い筋がちらつく。

 

「笑ってみてー」

「撮影会? 高いわよ」

 

 耳朶にかかる髪をうしろへかいて、挑発的な視線を機械越しに投げかける。なんだかんだいいはしても、撮られるのはそう嫌いでもなくなっているのだ。……服を着ているあいだは。

 

「ん?」

 

 録画ボタンを押さずに向けつづけていたカメラの画面、下のほうに、なにか動くものが見えた。

 

「どうしたの」

「いや、いま足許になにか……」

「私の? ……なにもいないと思うけど。ちゃんと掃除してるの?」

「虫とかじゃあなくて、もっとでかい……あっ」

 

 モニタに目をもどすと、留美の足許にその影はあった。猫だ。キジトラだ。しかし、留美はなんの反応も示していない。気づくべき要素は山ほどあるのに。キジトラは留美のくるぶしのあたりを嗅ぎ、顔を見上げ、足の外側のラインに沿って丸くなった。

 

 カメラによらず、自分の目で留美の左の足許を見る。そこにはなにもいない。カメラの撮影モニタ越しには、キジトラがすっかりここを自分の場所と決めたように眠っている。

 

「留美、そのままじっとしてて……おれがそっちに行く」

 

 柳眉の片方に角度をつけ、留美は首をかしげる。右隣からカメラのモニタを見せると、目を丸くし、つぎに険しく、画面と実像をせわしなく行き来すると、傷だらけの画面のほうへ銀灰色の瞳を固定した。

 

 猫はおれの終生のライバルである。……留美の愛情という点において。ともすればゆるみきってしまいそうな表情を留美は菩薩の笑みにこらえて、足許の丸いキジトラを見つめている。

 

「やっぱりカメラでしか見えないよね?」

「そうねえ。サービスアシスタントかしら」

 

 リアルすぎだろ。

 

「猫アレルギーは?」

「なんともないわ」

 

 猫が近づくだけでくしゃみが出るはずだが、返事のとおり平然としている。右膝をつき、留美は左足の猫に手を伸ばした。カメラでしか見えない、きっと化け猫に、素手で触れられるのだろうか。引っかかれたりしないだろうか……。

 

 キジトラが目を開いた。あちらにも触られた感触はあるらしい。淡い緑色の目に、黒い瞳孔を紡錘形にして鬱陶しそうな視線を上げた。

 

「ごめんね、起こしちゃったかにゃ?」

 

 キジトラはすっと起き上がる。先だけ白い毛の前脚で、撫でようと伸ばしたままの留美の手を挟む。濃い色の鼻を寄せ、指先に顔をこすりつけた。

 

「気にいってくれたみたいだね」

「手袋かわいい……はっ、感触がちゃんとあるわ」

 

 触って確かめようとすると猫は四つ足にもどり、留美の脚の間を抜けて行く。フレームアウトする尻尾を追おうとしたとき、カメラのバッテリーが切れた。留美は残念そうにバッテリーを充電器にセットして、ハンディカメラの本体を検める。

 

「猫ちゃんが映るボタンとか、あるのかしら……?」

 

 猫型に残ったシール跡を、艶のある爪の先で押す。

 

「ありゃあカメラの機能とはちがうだろう……」

 

 まぎれもなく怪談のたぐいなのだが、あのキジトラの、いかにも迷いこんだ野良猫といった態度が確信を阻む。つけたすなら、猫のことになるとどうにも常識のレベルが狂ってしまうところはあると思う。

 

 ともかく、どこにいるのかわからなくなった猫のことはいったん置いておき、三週間ぶりの二人の夜をおれたちは楽しんだ。

 

 

 

 一夜過ごして、オフの一日がやってきた。朝食を湯気のたつうちに平らげ、おれが洗い物をしているあいだに、留美は昨夜のカメラを起動する。

 

「あの猫ちゃん、まだいるかしら」

 

 そういって低いところにレンズを向ける。玄関、洗面所、テーブルの下……。寝室を一周りしてきて、画角は目線の高さになる。冷蔵庫、食器棚、テーブル、そしてサイドボードを写したとき、留美の声が明るくはじけた。

 

「見つけた?」

 

 おれも最後の一枚を拭き終え、留美の右手のカメラをのぞきに行った。

 

「すごい寝相よ」

 

 サイドボードの上にはおれの趣味で、仏像の絵葉書やミニチュアがいくつか置いてある。留美はそれをパンして見せた。安い額にいれた絵葉書をよぎり、帝釈天騎象像、パーラ朝の仏頂尊勝坐像、興福寺の阿修羅像、そして……。

 

「ああ、ほんとうだ」

 

 笑みの印象的なタイの黄金の仏像で画角の移動は止まった。降魔坐、つまり右の指先で地面に触れた座禅の膝に、頭をすっぽりおさめてキジトラが眠っているのだ。白いお腹を出して、夢を見ているのか前脚をぴくぴく動かしながら。

 

「昨夜はちょっと心配したが、こりゃあ悪い化け猫ではないな」

 

 悪魔祓いのポーズを枕にできるのだから、これにまちがいはないはずである。魔除けを期待して置いてるわけでもないだろといわれればそのとおりだが……。

 

「ええ、私も安心だわ」

「おや、心配してたの、留美ちゃん」

「もちろんよ。かわいがるとき身構えるかどうかの差は大きいでしょう」

「かわいがるのは揺るがないのね……」

 

 まだ化粧をしていない指先は、すでにキジトラの白くふかふかした胸の毛に潜りこんでいる。肉眼で見るぶんには、仏像の前で指を動かしているだけだが。

 

「ああ……この感触。昨夜のは錯覚じゃなかったのね」

 

 留美にくすぐられると、前足が力を抜いていっそうだらしない寝相になった。鼻水が提灯になりそこねてはじけても、撮影者が交代しても、毛皮を堪能する手が二本に増えても、キジトラは目を開けようとしない。

 

 図々しいといいたいところだが、ここはしばらく図太い猫でいてもらいたい。留美の切れ長の目がたたえる、幸せそうな光のために。

 

 ……かつては愁いをくゆらせるその伏した目に仏像的な美を感じたものだが、いまは慈母のおだやかな視線にこそ、それがあるように思う。仏像といっても日本や中国の固肥りしたものではなく、主に北インドで一二世紀以前に栄えた、写実的に理想の姿を表す美術のほうである。

 

 しかし、触られて気持ちよく眠る猫と触ってうっとりする留美と、はたしてどちらを羨んだものか。変な迷いが浮かんでくる。

 

「おれもちょっと触ってみたいな」

「どうぞ」

 

 微笑んで勧められ、伸ばした指で手袋の前足の先に触れる。……そのとたん、猫は億劫そうに浅緑の両目を開いた。おれを一瞥してない眉をひそめ、前足でおれの指を押し返してきた。そんなナマイキな所作にも留美は“かわいい”とうち震えている。

 

「なんだ、人間を選り好みするのか、おまえ」

 

 いまいちど手を出すと、こんどは後ろ足で受け止められ、蹴りもどされた。留美にはまだ喉許の毛をゆるしているくせに……。

 

 その留美の手も退くと、猫は仏像の膝枕から起き上がった。もちろん人間のように二本の脚で立ったのではなく、前屈して四脚をついたのである。そして両目をしっかりと開き、右手を招くように動かして鳴いた。声は聞こえないが、画面に映るキジトラは小さい口を動かした。

 

「もっと触っていいの? まあ~、ありがとう」

「果報もんの猫だなあ」

「拗ねないの」

 

 留美は空きの右手でおれの前髪をいじる。喉を撫でられているキジトラが、こちらを見て鼻を鳴らした。……ように見えた。

 

「ああ、そろそろ出ましょうか」

 

 不意に留美が手を止めた。右の人差し指でカメラの時刻表示を示す。

 

「行きたいところ決まったのかい」

「立川に」

 

 支度にかかる留美から視線を猫に転じると、おれの相手をする気はさらさらないらしく、また仏像の足許で丸くなっている。

 

「まあいい、そのいい趣味に免じて、おまえも連れてってやるよ」

 

 いったん電源を切って、おれも支度をはじめた。

 

 

 

 立川駅の北口を出てペデストリアンデッキを降り、一区画も歩くと左前方に視界がひらける。大正時代に旧陸軍の飛行場として整備され、戦後七年ほどは米軍の飛行場になり、返還されたいまは北東部分に自衛隊駐屯地として名残を残して、広大な緑地として再整備された土地……国営昭和記念公園である。

 

 平日の昼間とあって、芝生広場には遊ぶ親子連れの姿も少ない。……少ないだけで、数組はいるというのがなんとも羨ましい話だ。留美は不定休、おれは有給休暇でここに来ている。

 

 ともかく、小鳥のさえずりと子供たちの遊ぶ声、何種類かの外国語のなかを留美とおれは並んで歩いた。ユキヤナギはすでに白い花を落として濃い緑色に茂り、レンギョウが黄金色に咲き誇っている。ほころびだす八重桜、姥桜には葉が出はじめ、クリスマスローズの花は眠たげにうつむいている。道の左右へフラフラと渡りながら写真を撮りつつ行った先に、ボートの何艘も浮かぶ池がある。

 

 せっかくなので一艘借りて、涼しげに光る水面へ滑り出した。

 

「そうだ、そろそろあの子出してあげましょ」

 

 留美がバッグから取り出したハンディカメラを、オールを置いて受け取る。もはや小ぶりな猫用ケージの扱いで、カメラだという認識は薄い。

 

 昨夜は猫がいたシーンを録画していたのだが、再生してみると猫の姿はなく、おれたちがいぶかる声と留美の脚が映るのみだった。猫の存在が記録できないのであれば記録機器として見られないのは、まあ、必然であろう。

 

 さて、揺れる小舟の上に出現した猫は、目を丸くしてあたりを見回し、舟のへりをのぞいて硬直したあと、おれを威嚇しながら留美の足許に逃げこんだ。

 

「どこ行ったの?」

「きみの足許、ていうか席の下……ええと、ほら」

 

 モニタを反転させて見せる。留美は上体をかしいで、数インチの視界に猫を探した。おれはというと、小さいがファインダでもキジトラを確認できたので、撮影……いや、猫を遊ばせるのに支障はない。

 

「水場はあんまり好きじゃないのね、ごめんね」

 

 留美はかがんで猫に手を伸ばす。揃えた膝の下を八の字に開くと、ボートの椅子の板とジーンズの作る、ひしゃげた三角形からやわらかな光が見えた。

 

 顔を撫でる指にすがる猫を極力そっとケージにもどして……つまりカメラの電源を切って、留美に返した。ジーンズの脚が崩れて豊かな曲線美をえがく。

 

「どこを見てるの」

 

 呆れ笑いの留美に、おれはとぼけて視線をもどした。

 

 水辺を離れてしばらく歩くと、鮮やかな原色がわずかな起伏をもって連なる。チューリップ畑だ。甘いにおいが、むせそうなほどに漂っている。

 

 ここならば猫も怖がらず遊べるだろう。

 

 まばらな外国人観光客のなかへ、猫を放った。

 

 チューリップとヒヤシンスの色彩からキジトラがすまし顔を出す。背の低いヒヤシンスにつかまって立ち上がり、赤白黄色に紫のチューリップを見回した。

 

「やだ、もう……かわいい……!」

 

 留美はすっかり参ってしまい、目から下を覆って膝をついた。そうなるのも納得のかわいさだが、まだ先があった。こんどはチューリップの花につかまり、花弁に顔を突っこんだのだ。鼻先に花粉をつけてこちらを見られれば、思わず変な声が出て周囲を驚かせるのも、しかたのないことである。

 

「なに色が好きなのかな」

「猫ちゃんの目には、このあたりはみんな金色に見えてるんじゃないかしら」

 

 ……猫の色覚では赤と緑を黄色っぽく認識するという。そのかわり、光量の変化には強く、なにもないところを見つめる理由の一つとして、ちらつく光が気になるからではないかといわれている。

 

「金色の花の森か。いい景色だろうな」

 

 いっておいて、はたして猫が金色に価値を認めるかと疑問が湧いた。俗人のあいだでしか成り立たない価値観ではある。猫に小判ということわざがぱっと浮かばなかったのは、ふだん使う機会がまったくないからだ。

 

 やがて猫は留美の膝に寄ってくる。花粉を取ってもらうと満足げに鳴いた。やはり声はしないが。

 

「おっ、肩に登ろうとしてる」

「え? あっ、この肩につっぱってる感触がそうなの!?」

「がんばれがんばれ、爪は立てるなよ」

「ちょっと、私にも見せて!」

 

 モニタを一八〇度回す。歓声をあげつつ猫のために微動だにしないところがさすがの気のつかいようである。おれならつい身を乗り出して、振り落としてしまうだろう。

 

「おいおい、頭に登っちゃったよ」

 

 モニタを見ている留美の細めた目尻に、光の粒が浮かぶ。アレルギーのため諦めていたふれあいの、一つの夢だったという。

 

「こいつもえらく幸せそうだ」

「気をつけて歩かないといけないわね」

 

 少なくともこのキジトラは、留美の髪の色のほうが金色よりも好みらしい。前脚を正面に投げ出し、頭の上に伏せの姿勢をとっている。目をうつらうつらさせて、いまにも眠りそうだ。

 

 ……が、それは叶わなかった。こちらを向いて犬が吠えたのだ。猫は驚き、すばやく留美の肩、腕を伝って地面を逃げ出した。面食らった顔のプードルと頭を下げる飼い主に大丈夫だと告げ、おれたちは猫の姿を探した。

 

「あのプードル、猫が見えてたのかな」

「動物ってそういうところあるみたいね。……人間がないだけなのかしら」

「しかし驚かした自分が驚いてちゃあ世話がない……いた」

 

 猫は意外と近くに隠れていた。ヒヤシンスのなかに紛れてこちらをうかがい、留美が手を差し伸べると大急ぎですり寄った。散歩している犬の姿がちらほら増えだしたので、猫はカメラにしまってしばし、足許の香りと色彩を楽しんだ。

 

 

 

 買ってきたランチバスケットを芝生に置き、細長いレジャーシートを敷いておれたちは並んで座った。土や草で尻が汚れなければいいという、思い切ったサイズのシートだ。靴を脱がずに座ることになるのは、むしろ便利でもある。

 

 留美はアイドルであるからにはふつうのファンはともかく、悪質な人種からはさっと逃げ出せるのは重要なポイントなのだ。

 

 猫はまだおやすみかと思いきや、留美はカメラを構える。左利きの留美は、右手をカメラで封じられても平気というわけだ。……ただ、右隣に座るおれとしては、猫にあいだにはいられたような寂しさがないでもない。

 

「ササミ、食べてくれるかしら……」

「いつの間に……」

 

 茹でたササミの小片をチャック付きのビニール袋から取り出すと、シートの上に置いた。おれの家を出る前に用意していたんだろうか?

 

 はたして、みたび解放された猫はササミを一顧だにせず、崩して座る留美の膝許で丸くなった。世話が焼けないのは留美には残念だが、動く気のないのはありがたい。カメラを置いてしまって問題ないからだ。

 

 そして留美にとってもこれは幸いした。買ってきたサンドイッチは大きく、片手では食べづらかったのである。

 

「のどかね」

 

 猫を撫でながら、留美が長く息を吐いた。紅茶の香りがする。おれも食後の紅茶の湯気の向こうに、あてなく漂う桜の花びらをながめて頷いた。陽射しもやさしく、遠くに聞こえる無邪気な声といい、じつに心地よい時間だ。

 

 もちろんなにをおいても、隣に留美がいてこそである。うしろについた手に留美の手が重なり、たがいに頬がゆるんだ。とたんに猛烈な風が吹きつけて、レジャーシートがまくりあげられる。春の女神は弁天さまとおなじく、男女の仲睦まじいのがお嫌いらしい。

 

 おれが右脚を伸ばしてかかとで端を押さえると、留美も左の膝を曲げたまま外へ倒してシートを芝生にとどめた。さすがにジーンズでもヨガのような大股開きは抵抗があったか、右の膝は立てている。

 

「珍しい恰好してるね」

「がさつでごめんなさい。だれかの影響かしら」

「悪い影響を与えるやつがいたもんだなあ」

 

 右膝に頬杖をついて、留美は下からおれの顔をのぞきこんだ。にやりと笑い返した視界の端で、なにかが勢いよく動いた。猫だ。

 

 キジトラは留美の左の膝頭に前足をつくと、じっと見上げ、そして口を開く。……鳴いているようだが、声は聞こえない。

 

「なんていってんだろ」

「甘えたくなったの?」

 

 喉をくすぐる指に猫は反応せず、留美の顔を切々と見上げている。

 

「どうしたの? 退屈させちゃったかにゃ?」

「ぱっと跳ね起きたからなあ。悪い予感でもしたか?」

 

 いいはしたが、猫の目には期待感のようなものが見える。

 

「行きたいところでも思いついたか?」

 

 遊びたいから連れてけ、とやるのは犬ばかりというわけでもないのだろうか。猫は我が意を得たりとおれを見たのも一瞬、勢いよく身を翻して走りだした。留美も慌てて立ち上がり、カメラを取る。

 

「待って! ……ああ、でも」

「片づけは任せて。猫を頼むよ」

 

 すばやく動ける用意があってよかった。カメラを片手にした留美は、芝生をめくれるほど蹴り、あっという間に公園の奥へ走っていった。

 

「……ぼんやり見送ってる場合じゃあないよな」

 

 バッグもスマートフォンも置いていった留美を見失わないために、大急ぎでランチの始末をし、おれもまた走った。

 

 

 

 とにかく広い公園だが、留美がハンディカメラを持っているおかげで、探す労力はさしてかからなかった。出口の手前で追いつき、そのまま公園を出る。キジトラは立川の街を迷う素振りもなく駆けていく。

 

「ねこまっしぐらってやつか」

「懐かしいわね。余裕あるじゃない?」

「冗談いわないとつらい状態だと思ってほしい」

 

 一〇分以上はかかったろうか。ついに猫は足を止め、おれたちは追いついた。赤信号で止まったり、人混みを迂回したりと、走りどおしではなかったもののすっかり息が上がってしまった。留美も肩を大きく上下させている。

 

 猫を見失った瞬間も何度かあったが、留美の勘がじつに冴えていたことだけ補っておく。

 

「お寺ね……。ここに来たかったの?」

 

 呼吸を整えながら留美がかがむ。猫は後ろ足で立つと、前足を合わせて拝むようなポーズをとった。反射的に留美の顔がほころぶ。

 

「そういやおまえも仏像が好きだったな。でかいのが見たくなったか?」

 

 猫はポーズをそのままに半目になっておれを見る。なかなかユーモラスだ。

 

「あら、困り顔。ちょっとちがうのね?」

「じゃあ、なんだ、本物の仏像に用があるのか……?」

 

 猫の顔はもどかしそうに見えた。表情豊かなやつだ。

 

「ご住職……ううん、仏さまにご用?」

 

 三角に閉じていた口と横広だった目とがはっきりと大きく開いた。猫なりの頷きかたなのだろうか。肯定の顔だというのは、なんとなくわかる。

 

「猫ちゃんは/ブッダになんの/用がある……と。成仏したいとかいわんよな」

 

 しっかりした表情を崩さず、こんどはおれを見た。そんなことを考える猫がいるのか。いや、化け猫ならそのくらいの知識はあるのか。

 

「そうね、ずっとこのカメラのなかにいたんだものね」

「自力であの世に行けないのをどうにかしてくれるのは仏さまくらい、か」

 

 他力本願という言葉があるくらいである。

 

「このお寺がいいのね?」

 

 猫は三度目の肯定の顔を見せた。

 

「どうかなさいましたか」

 

 ……門前でカメラをのぞきながら会話するでもなく喋っている男女は、さぞ不審だっただろう。お寺のひとが話しかけてきた。いぶかりつつもおだやかな表情なのがいかにも僧侶らしい。

 

 事情を話すとう彼は何度も深く頷き、本堂に通してくれた。年季のはいった畳の間には白檀の香りがする。勧められた座布団で、おれたちは彼がご住職を呼んでくるのを待つ。

 

「あんまりキョロキョロしないの。猫ちゃんだってじっとしてるわよ」

「ごめんごめん、ご本尊が色ついてるなーと思って」

 

 御簾で胸許から上は見えないが、蓮華座の赤や裳の薄青など、けばけばしくならないように気づかった彩色がされているのがわかる。

 

「そういえば珍しいわね。肌の金色はよく見るけど」

「全身金色に光ってるって設定があるからね。ここのは薄めの色でいいな」

 

 これはブッダの持つという特徴、仏三十二相の一つである。

 

 歯が四〇本あり、舌が髪の生え際まで届き、腕は下げると脛にまで下におよぶなど、なかなか不気味なことが並べ立てられている。

 ちなみに、腕が妙に長いように読めるし、じっさいそのつもりで設定したのだろうが、“腕を広げると身長とおなじ幅になる”という常人より腕が短そうな描写もある。

 

 擦り合わせるなら、異様に腿が短く脛が長いのかもしれない。

 

 ずいぶん悪くいった気がするが、どこまでも届くいい声をしているだとか、つねにいいにおいがするだとか、歯が白いだとか睫毛が長いだとかシンプルでいい特徴もちゃんと挙げられている。

 

 ……と、それで思い出したことがある。仏三十二相にいわく、ブッダの髪は深い瑠璃色である。ちょうど、留美とおなじ髪の色のはずだ。

 

 青を人間同様に見られるという猫は、その色に惹かれて留美に寄ってきたのではないだろうか。このひとが成仏させてくれると思って……。

 

「ねえ、お行儀がいいわね。いまのうちに、もう一回だけ顔を見せて?」

「……」

 

 カメラのキジトラは紡錘形の瞳孔で振り向いた。留美の眼差しが、いっそうやさしくなる。手袋の前足が顔につづいて向きを変え、ジーンズの膝に甘えた。細い指が震えながら耳を撫でる。

 

 ……やっぱり、思い過ごしかな。ただおれと趣味がおなじ化け猫なのだろう。どうせ化け猫なら、人間の言葉を話せればおれも楽しかったのにな。

 

「留美、まだ取り消しはきくぜ。ちゃんとした服で来るとか、先延ばしにもさ」

 

 ささやくと、留美は膝に視線を落としたままで答えた。細くした慈しむ目に薄いオレンジの光が揺れる。

 

「たいせつなのは、私の気持ちじゃない。この子の気持ちよ」

 

 カメラではキジトラが、留美の手に顔をうずめ、手袋でしがみついていた。

 

「お待たせして申し訳ありません」

 

 ……が、ご住職が姿を現すや、キジトラははじかれるように飛び、ご本尊に向き直った。とぼけるように前足で顔の毛を整えてみせる。

 

 苦笑しつつ、おれたちはあらためて事情を話し、猫の姿も確認してもらって、供養がはじまった。ぴんと伸ばした猫の背中は、微笑ましくも頼もしくもある。

 

 留美の横顔をちらりとうかがった。表情を消してただただ静かだ。口の端に気持ちを押しこめて……。

 

 やがて読経が終わる。ハンディカメラの液晶モニタの光は、それを待たずに消えていた。バッテリー切れかと思い、コンセントプラグを借りて給電しても電源ははいらない。

 

「きっと、あの子が無事に……」

 

 言葉を切る留美にハンカチを渡し、おれは肩を抱いた。

 

「ちがいないよ」

 

 ゆっくりと頷く僧形の二人に、おれたちはハンディカメラを預けた。

 

 留美と並んで歩く参道は静かだ。風がふわふわと、淡い色の花びらを運んでいく。

 

「ご住職が来たときの仕草、ちょっとあなたみたいだったわね」

 

 留美が空につぶやく。

 

「……おれはもっとうまくやってるよ」

 

 遅れておれも天を仰いだ。春の空はあいまいな青色で、ぼやけた雲が何条かたなびいている。

 

 左の手の甲に熱っぽいものが触れた。留美の右手である。見なくともわかる。震えるその細い手を、おれは握った。

 

 

(了)

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