猫、巫女、サンタ、あいのうた   作:久聖

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留美・イヴ・志希  願望の鱗

 

 

 昼食にと立ち寄った喫茶店にはマホガニーの調度品が並び、眠たげな照明と落ち着いたクラシックが支配していた。めいめいに、しかし静かに昼をすごす客層の年齢も高く見える。

 

 これはちょっと、店をまちがえたかもしれない……。視線を苦くして、隣の和久井留美に投げかける。夜の帳から紡いだ短い髪の下から、おなじく困った視線が返ってきた。二組の視線を向けた先では、ココア色のウェービーな髪と雪色のストレートヘアが、店員に連れられて窓辺の席へずんずんと進んでいる。

 

「……もう出らんないな」

「せめて席は替えてもらいましょ」

 

 店員に頼み、メニューを広げるケミカル化け猫とサンタクロースを店の奥の目立たない席に連れていく。意図を察したのかスネたのか、二人はテーブルの奥に座った。

 

「留美さんはそっち、キミはこっち」

「あら、志希ちゃんに嫌われることしたかしら」

「あたしよりイヴちゃんのほうが留美さんのこと好きでしょ」

「それがいえるなら、おれの隣にさせてくれよ」

 

 一ノ瀬志希は歯を剥いた。猫と馬のフレーメン反応を混ぜたような顔つきだ。

 

「その顔はよしなさいって。いいよ、いってみただけだよ」

「へえ、じゃあ、あなたの愛はイヴちゃん以下なのね」

「留美ちゃん、その件は今夜ゆっくり話そう」

「今夜はだめ。もうちょっと待ってて」

「フラれてやんの」

「……志希はもう少しかわいい顔をしなさい」

 

 かわいい顔の対価にはおいしい食事が必要だった。正確には、おいしそうな食事を好きなように選ぶ権利だ。ファラフェルのサンドにハッシュドビーフのドリア、鶏肉とキノコのパスタ、パスタ・プリマヴェーラ。どれも聞くからにおいしそうである。メニューを見せてもらえなかったおれには、ほかになにがあるのかよくわからないが。

 

「留美さん、きょうはお芝居のお稽古でしたっけ」

「またおまわりさんの役だよねー」

 

 以前、舞台で破天荒な女性刑事の役をやった留美は、そのときのつながりでべつの警官役をもらった。猫が好きなのに猫アレルギーという点が留美と通じ、ある種の話題性を狙ってのプッシュだったようだ。

 

「そうよ。主人公のお姉さんで、なんだか不器用で……。身に積まされるわね」

「原作だと男なんでしょ?」

「役者のファンはともかく、原作のファンからはあんまりいい顔されないし、ハンデっちゃあハンデなんだよなあ」

 

 おれの担当のなかに、大西由里子という腐女子がいる。原作のファンだが、留美の立場への理解もあるためか、抗議の意志はバイクの声帯模写という形で示していた。とはいえみんながみんな唸り声だけで済ませてはくれまい。

 

「それをひっくり返してやるのが楽しいんじゃない」

「頼もしいよ、留美ちゃん」

「あたしとイヴちゃんは~?」

「きみたちは危なっかしいよ」

 

 二人は心外そうな顔をしたのも一瞬、嘆息とともに表情をゆるめる。注文のランチプレートが届いたのである。おれの想像の、倍くらいの量で。

 

 料理が置かれるなり、志希は形のいい鼻を鳴らしてキノコを嗅ぎわけはじめ、イヴは氷の彫刻のような指でサンドイッチを掘り起こしだす。ファラフェルのサンドは食パンで挟むのではなくピタで包んだものなので、“掘り起こす”ということが可能なのだ。

 

 ……できるからってやらんでもいいことは多い。

 

「ごめんなさい、大きいけど子供なので」

 

 怪訝な目をする店員へ、留美につづいて謝り、愛想笑いと伝票を受け取る。

 

「……これじゃ叱れない親みたいで情けないわね」

「観客つきでヘリクツ問答するよりいいさ」

 

 諦めとともにセットのサラダを貫いたところで、これは“叱れ”とのお達しかなと思ったので、おれは紅白の頭の二人に向いて座り直した。

 

「志希、イヴ、食べ物で遊ぶな」

「遊んでないもん。ちゃんと味わってるもん」

 

 声は完全にふざけている。

 

「口で味わったら消えちゃうでしょ?」

「……イヴはなにかヘリクツある?」

「具をチェックしておきたくて~」

 

 いまはイースターの少し前。一部のプロテスタントをのぞくキリスト教徒が生活を慎ましやかにする時期である。イヴはサンタクロース、聖人の末裔ゆえカトリック側の立場で、肉食を断つことにしているそうだ。

 

「うっかり食べちゃうと残念な気持ちになりますからね~」

 

 一片の悪気もない笑顔に諦めそうになったおれごと、留美がかさねて叱った。

 

「お行儀が悪いでしょ。せめてほかのひとの目があるときはやめて」

 

 ……かなりの妥協を感じる。

 

「それから逃れてこんな奥の席にしたのににゃー」

「きみたち自体を隠すためで、奇行を赦すためじゃあないんだよ?」

「キミだってレタスの串刺しでひとのこと指してお下品じゃん。叱られろ~」

「そうね。子供たちのお手本になるようにお願いします」

「……はい」

「チェックOK、お肉はないでーす」

 

 二人でふざけて目を離した隙に、イヴは刻んだキャベツやら細かい具を、無邪気にそれを報告してくるのだった。

 

「イヴちゃん、注意したばかりなのに。現逮よ」

「もう役にはいってるの~?」

「役作りはふだんから積み重ねてくタイプだからね」

 

 留美は得意気に口の端を引いて、銀のフォークに少量のパスタをからめ取る。出逢いからもう一年を過ぎ、急峯のように荒く尖っていたかつての姿は消えた。抱きしめて心配になった硬さも、いまではみずみずしい張りに……。

 

「ニヤニヤしてないで食べなよ」

 

 ……志希の揃えた指で脇腹を、金銀の視線で顔を刺されて、おれは串刺しのままだったレタスを口に運んだ。

 

 

 

 早々とプレートを空にしたイヴが、おれたちを見回した。三人ともが、半分ほどをまだ残している。留美は役にはいっているのかふだんより上品に食べ、それに合わせているおれのドリアもなかなか減らない。志希はどうやら留美の真似をしているらしい。

 

 下がり眉の笑みで置物になったイヴを見て留美と無言で笑いあっていると、脇腹に猫パンチが飛んできた。いうまでもないが、志希である。

 

「レコーディング!」

 

 仕事ではない。レコーディングは音をいれる、おといれ、そいうことである。席をどき、もどろうとしたところで、今度は留美がカバンを手に立ち上がった。

 

「あれ、もう時間?」

「そうよ、ごちそうさま」

「出勤のゴアイサツはいらない?」

「ドリアくさいのはやめて」

 

 留美はしなやかな指で、ミミズクのように跳ねたおれの前髪の毛束をつかむ。

 

「私の食べきれなかったぶん、野菜だけでも志希ちゃんに食べさせておいてね」

「けっこう残したね。味わうにしてもずいぶんゆっくりで」

 

 留美はあいまいに笑って、細い腰回りを撫でた。

 

「あなたのせいよ」

 

 意味ありげな微笑をひらめかせ、毛束を乱して離れた指は、おれの鼻の頭を軽くはじいた。

 

「まあ、わかった、こっちでやっつけておくよ」

 

 送り出す挨拶を交わし合うのを待って、イヴも見送る言葉とともに手を振る。留美とおれとの間にはいらないように、ずいぶん気を遣っているらしい。

 

 「きみがとおりすぎたくらいで隙間があくような関係じゃあないぜ」といったこともあるのだが、イヴとしては遠慮をすること自体が大切らしい。

 

 志希がもどったのは、おれがドリアをほぼ食べきったころだった。どこうとした膝に尻から落ちて邪悪に笑う。

 

「なあ、イヴ、おれ椅子に似てるかな」

「ミミズクさんはちゃんと人間に似てますよー」

 

 一部の人間はおれのことを、人間に化けたミミズクの妖怪だという。根拠は羽角のように跳ねた前髪の癖毛である。正真正銘に人間ではないイヴとしては妖怪仲間がほしいのか、この説を熱烈に支持している。

 

「志希、ふざけてないで食べるもの食べなさい。留美ちゃんが野菜残してってくれたから」

「ふぎゃーっ! 緑のトッピングが増えてる!」

 

 プリマヴェーラを彩っていたアスパラガスとエンドウマメに、癖の強い髪が浮き上がった。おそらく、秋の晴れた空に似た色をした目では、瞳孔が縦長になっているだろう。

 

「きみはバランスよく飯を食うことを覚えなきゃならん」

「味のバランスはもっと大事ー!」

 

 そういいつつ、タバスコでコーティングするのだから、もはやツッコむのも野暮というものだろう。

 

 

 

 ガラス質だった陽射しはやわらかくなり、風も薄衣の肌触りをともなって、春の訪れが全身で感じられる。志希とイヴを連れて撮影所へ行く真昼の道は、ふだん以上の満腹感も手伝って睡魔の泥濘がずいぶんと深い。

 

「まったくもう、留美さん食べ残しすぎだにゃー」

「そもそもの量が多かったしな」

「どうせダイエットなんでしょー。食事制限やるのは勝手だけど、巻き添えでデブらされたらたまらな~い!」

「ダイエットが必要なようには見えませんよ~」

「野菜じゃあ肥らんよ。しっかり食べなさい。しかし、ダイエットだとして、いきなり始めたな……」

 

 口に出したところで、ダイエットなんてそんなものだなとも思う。

 

「さいきん体重計によく乗ってたし、よーやくって感じー」

「私が知ってるかぎり、毎日量っておいでですねえ」

 

 そうだったのか……。

 

「気づいてたらドン引きにゃー」

「そういうものか」

「男に見せるワケないでしょ~」

「でも本当に肥られたんですかね~?」

 

 やけにこだわるイヴである。おれの(ありもしない)正体といい、サンタは頑固者なのだろうか。原理主義的な部分は、まあ、ときおり見えるけれども。

 

「留美さん、たしかに体重計に乗ると眉をひそめておいでですけども、口許はゆるんでるんですよ」

「え、顔まで見てるの」

「お二人に良からぬことのないように目を光らせておりますよ~」

 

 イヴは白い指先で金色の目を示す。おれはともかく、留美の身辺を見守ってくれているのはありがたい。ちょっと怖いが。

 

「で、考えてみれば、クリスマスイブから三ヶ月ですね」

「なんだ藪から棒に」

「三ヶ月ですね」

 

 留美と二人でイヴを拾った一二月二四日からは、たしかに三ヶ月ほど経った四月のはじめである。二人だけでクリスマスを楽しむつもりが一騒動になり、留美の部屋へイヴをどうにか追い出したのは、なかなか薄れてくれない記憶だ。まったく、ゴムは捨てるわ、留美の部屋の鍵の使い方がわからないと夜更けにもどってくるわ、……。

 

「あの晩から」

 

 金色の瞳が至近距離で爛々と輝く。

 

「あなたのせいよといい、お腹を撫でて、体重が増えた。バラバラのピースをつなぎあわせれば!」

「ピース少なっ……」

「留美がダイエットに乗り出すほど自己管理を怠るとも……。ああ、いやいや、まだ短絡的に判断はできないな。ちょっと手がお腹に行っただけではな」

 

 平静を装わんとした言葉が上滑っていくのが自分でもわかる。

 

「うわ、ニヤけてるし」

 

 志希の声音はすっかり威嚇する猫のそれだ。だがニヤケもするだろ、男なら。

 

「人間はですね~、小さいタマゴで生まれるんじゃなくて、お母さんのお腹のなかで三・五キログラム程度に育ってから生まれてくるんですよ~。だいたい二八〇日くらいかかるんです」

「それは知ってるよ! きみはどんだけおれを化けミミズクにしたいんだ!?」

「首がまうしろに回るのが見たくて……」

「そんなの天の国に里帰りしたときに司馬懿を捜して頼みなさいって」

「アイドルしてると里帰りする機会がないんですよ~」

 

 この三ヶ月でずいぶんヘリクツを身に着けたものだ。

 

「信じる心が現実を変えるのは、私たちサンタが身をもって示してますからね」

 

 子供らや一部のクリスチャンのサンタの実在を信じる気持ちが、イヴたちをこの世に生かしているらしい。アイドルを兼業しているのは、そんなサンタの支持基盤、有り体にいえば生命線の維持と拡大のためである。ゆえに、留美とおれの間に子供が生まれれば、イヴにとっては綱のような蜘蛛の糸だ。

 

 もちろんそんな打算だけで喜んではいまいと、この無邪気な顔には思いたい。

 

「信じていればきっとプロデューサーさんも化けられます」

 

 化けてたまるか!

 

「ありえないあえりえなーい!」

「そうだろう志希。さすがうちの子だいいことをいう」

「ぜったい肥っただけ! 志希ちゃんの鼻はだまされにゃーい!」

 

 そっちか。

 

 まあ、志希も化け猫のたぐいだから、おれが妖怪でも困りはしないのだろう。だが留美は人間なのだ。おれが妖怪になってしまったら留美と一緒になれないじゃあないか。

 

 どちらに抗議しようか迷い、妖怪の話より大事なことがあるのを思い出して、おれは口の片側で笑った。

 

「半年もしたら志希もお姉ちゃんだな」

「ふしゃーっ! 聞け! イヴちゃんの勘よりあたしの鼻のがたしか!」

「大丈夫ですよ志希さん。お子さんが生まれても留美さんの志希さんへの愛は変わりはしませんよ」

 

 志希はいっそう猫のようにイヴを威嚇して、おれに細い指を突きつけてきた。

 

「だいたいそんな不祥事で炎上大爆発するようなの、留美さんがうっかりでもやるわけないじゃん!」

「でもおれはわざとでもやっちまうんだよ」

「会社に恨みでもあるのかにゃー」

「恨みはないが……」

 

 留美は出逢ったころからすでに、当時の職場に疲れていた。酒の力を借りて愚痴をこぼす留美に、「なあ、そんなやつらのそばは離れてさ、おれのところにおいでよ」などとよくいったものである。腕を広げて、胸を指でたたいて示しながら。

 

 「いまだけね」と応じてくれたのは、出逢ってからのひと月に三度だけで、ほかの場合ではグラスを深く傾け、「逃げるわけにはいかないの」と酒気を帯びた深い溜息をつくのだった。

 

 それが、とうとう前職を辞した日には、

 

「逃げ込む先があるって頼もしいわね」

 

 前後不覚の寸前で、留美は作った笑顔でそううそぶいた。

 

「あなたの胸に飛びこめば、守ってくれるんでしょう? ゆがんだクチバシにひっかからないように」

「もちろんさ。きみを幸せにしてみせるよ、留美……」

 

 ほんのひと月たらずで気が早いといわれても、おれは留美の左手を離したくなかったし、じっさい、留美も震える指で握り返してきた。

 

 それがまさか、アイドルとして事務所に所属する、という意味だったとは。

 

 あくる昼、持って来られた書類を広げて固まるおれに向かっていわく、「もっとあなたのことを知ってからね」

 

 この業界にだって、他人をせっせとついばむのが生業の連中はいるわけだ。愚痴を聞くしかできなかった前職とはちがって、おれが陰に日向に守ることはできる。だがそれはごく一部のことで、多くは留美本人がさらされるものだ。

 

「ここは味方が多いもの」

 

 本人はそう目を細める。アイドルとしての日々を楽しく過ごしていることは、言下に無言に、極彩色になって伝わってくる。留美が幸せなのはいいことだ。

 

 ……しかし、それにしたって、だ。

 

「永久就職だと思ったのに、この会社に盗られたようなもんだぜ、まったく」

「えーきゅー……?」

 

 音を立てて揺れる対照的な一組の長い髪に、おれは苦いままの顔で答える。

 

「……カミヨノムカシの言葉で結婚という意味だ」

「あたしたち現代っ子なんだから現代の言葉でしゃべってよおじさん」

「さすがミミズクさんは古代語にもつうじておいでなんですね~」

 

 乱暴にかき回した二色の髪は半笑いの悲鳴をあげて、道の向こうの撮影所に駆けこんでいった。

 

 

 

 たまごクラブだかひよこクラブだか、買ってから来るべきだったろうか……。二人を撮影所に送り届けてからの記憶があいまいなまま、おれは留美を迎えに都内のホールの玄関に立っている。

 

「どうしたの、迎えに来るなんて」

 

 白いトレンチコートのかっちりした姿はいつもどおりで、ほんとうに変化があるのか目ではわからない。

 

「調子、よくないんじゃあないかと思って」

「そんなことないわよ。このあとジムに行ってみようと思ってたし」

「ジム!?」

 

 瞠目したおれに、留美も切れ長の両目を見張り返した。

 

「なに? インストラクターの心配でもしてるなら、ついてきてみる? 女性限定だけど、フロントまでは行けるわよ」

「いや、そういうことなら安心だけど、あんまり負担をかけないほうが……」

「かけなきゃ痩せないでしょ。もう、しょうがないわね。ダイエットしてるの。さいきん肉がつきすぎてるから」

 

 そういうと留美は柳眉をひそめて、コートの上から腰周りを撫でた。

 

「えっ、肉……?」

「気づいてなかったのね。それはそれで寂しいけど、まあ隠してたことだし」

「子供じゃあ、ない……の?」

「は?」

 

 留美のこんな丸い目ははじめて見たかもしれない。ひとごとのような言葉が頭にひびき、留美の顔が遠くに見えた。

 

「なんか、お腹周り気にしてたし、体重量って嬉しそうにしてたとか聞いて、それでおれのせいって……」

「……」

「前に生でしてから三ヶ月だし、これはって」

 

 イヴが囃し立てたことは黙っておこう。

 

「嬉しそうにしてたってだれに聞いたの?」

「イヴ」

 

 おれはわりあい薄情な男である。

 

「あの子は私たちに子供ができるの、とくに望んでるでしょうからね」

 

 苦々しくも、留美の表情はどこか明るい。

 

「妊娠したなら自分で気づくし、ちゃんとあなたに知らせるわ」

「それじゃあ、志希のいったとおり……?」

「……幸せ肥りよ。あなたのせいで。こんなことってなかったから、体重計に乗るたびに数字で実感させられるみたいでね……」

 

 淡いマニキュアの指が、張りのある頬を伝った。

 

「顔にもずいぶん肉がついたのよ。これは気がついててほしいんだけど」

「そういえば、あのころは、頬がこけて……」

「目許もくぼんで暗かったわ。あんなのつかまえて、よく“きれいだ”なんていえたわね」

 

 黒いストッキングの引き締まった脚が曲がり、血色のいい整った顔が近づく。自分で気づかないうちに、おれは膝を折って磨かれた床に座りこんでいたのだ。

 

「去年のきみも、じゅうぶんにきれいだったよ。もちろんいまは、それ以上だ」

 

 短く甘い吐息とともに、両目が星の光をこぼす。

 

「もっと肉がついたほうが?」

「いや、おれは程々がいいかな。たぶん、いまくらいが」

 

 留美は艶やかに一笑をひらめかせ、黒い脚を伸ばすと、白い手を差し伸べる。

 

「いつまでへたりこんでるのよ」

「ごめん、なんか……。ひとりで舞い上がりすぎちゃって、落差が……」

「ご期待に添えなくてごめんなさいね」

 

 白い手はじれて、額のふちの髪束をつかみにきた。

 

「責めてるわけじゃあないんだよ」

 

 我ながら嘘くさい笑いが出てしまった。それをごまかすように手を取って、膝に力をいれた。

 

「やっぱり、今夜空かない? 本当のことにしよう、なんて……」

「これからジムで絞って、まだ動けるならね」

 

 はい?

 

「あなたも体重増えたもの」

 

 引き起こした手を握ったまま振って、留美はおれの顔を覗きこむ。

 

「一緒に通えるジムで引き締めましょ」

「……留美ちゃんにゃかなわないな」

「私の体重を増やしたかったら、いままでどおりじゃだめってことよ」

 

 出逢ってから一年あまり、いちばん魅力的で挑戦的な笑顔がそこにはあった。

 

 

 

 

(了)

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