正午を回った駅ビルには着くずした制服姿がちらほらと見られる。帰宅中といったふうでもなく、サボりと思われる。ぼんやり眺めていると、女子高生が一人寄ってきた。若い子が好きそうで、金を持っているように見えたのだろう。指を三本立てて期待感を顔にぎらつかせている。
「ご指名のとこ悪いけど、きみには付き合えないよ」
「えぇー、うちみたいの待ってんじゃないの?」
「お兄さんはもっとかわいくて元気なのを待ってるんだよ」
ふりかたが辛辣なのは、この子の第一声が“おじさん”だったからである。少女が描いた眉を持ち上げたのと同時に、おれのうしろ、階上がどよめいた。それに全身で振り向いたのは、不幸中の幸いだったにちがいない。
階段とエスカレーターを隔てる低い壁、その狭いスロープを、横座りで滑り降りてくる白いスカート、ダークブラウンのレギンス……。
「どーん!」
遠慮もなく膝から飛びかかってきたそれは、おれの待ち合わせていた相手、宮本フレデリカであった。受け止めてよろけた背後で、不良少女のうろたえたおたけびがあがる。フレデリカはおれに抱きつく、というよりよじ登るようにして、おれの頭越しに彼女を見下ろした……はずである。
「スカウト~?」
視界をさえぎる胸と腹が訊ねた。不良少女は驚きのためだろう(種類まではわからないが)、なにもいわずにいる。
「売りこみだってさ。降りなさいフレちゃん」
紙の剥がれるようにのけぞって床に手をつき、下半身を持ち上げて逆立ちになると、静かに長い脚を下ろし、靴の裏を接地させた。フレデリカが上半身を起こすと。まばらな通行人は拍手をしつつ、それぞれの道を急ぐ。
「フレちゃんや、すごい隠し芸だがパンツ見えたぞ」
「え~? 気のせいだよ。きょうははいてきてないもん」
「……あしたからはちゃんとはくようにね」
短い会話の本筋をとっ散らかして、ライム色の瞳は楽しげに丸く光っている。一呼吸置いて、なによりいうべきことがあるのを思い出した。
「そうだ、手すりを滑るな。おれが避けたらどうなってたか」
「プロデューサーなら避けらんないと思った!」
「たいした信頼感だねえ」
……あきれるおれの背後から、興奮してまくしたてるものがあった。呆然としていたであろう不良少女である。
「宮本フレデリカ!? マジ!? ホンモノ!?」
「長~い脚でわかってよ~」
「えマジなんだ!? じゃあ待ってたってなに!? どゆこと!?」
「デートだよー」
「はマジ!? マジで!? そーゆーカンケーあり!?」
できはあまりよろしくない娘さんのようだが、そう悪い子でもないらしい。
「純粋だねえ」
「どゆこと!? どゆこと!? えっ!? あ、うそってこと!?」
「うん。ミミちゃんにご飯あげなきゃ」
「ミミちゃん?」
「おっきいミミズクだよ」
両腕を広げて示したサイズを大きすぎないかといわれ、フレデリカはおれのほうに寄ってきて体の輪郭を撫でた。
「あー、思ってたよりちっちゃいな~。ミミちゃん洗濯した?」
「だれがミミちゃんだ」
「うえっ!? おじさんが!?」
「フレちゃんもうお店決めてあるんだ~。名前書いてきたからね~」
なんだと。
「えっ、ねえ、ちょっとちょっと待って! おじさんなんなの!? ねえ!?」
「お兄さんはプロデュース業ってのをやってるんだよ……。なあフレちゃんよ、そろそろちゃんとしたこと教えてやってくれ」
「ハチノスって食べ物は三種類あるんだよ」
「……一六時になったらそこの駅前広場においで。フレデリカのお仕事がある。それまでは学校ででも暇をつぶしていなさい」
言葉があいまいな理由は二つある。一つは二度もおじさんと呼んだからだ。もう一つは事前に具体的なことを周知したくないから……そうしたイベントは何種類かあるが、今回はゲリラライブをするのである。
不良少女がそこまで思い至ったかどうかを確かめることもなく、おれたちはその場を離れた。これはイジワルではなく、順番待ちについては本当のことをいっているらしいからだ。
フレデリカの下りてきた階段の上は、ファストフード店やカフェスペースのあるパン屋が並ぶ広い連絡通路、“味のプロムナード”になっている。時間が時間だけに、どの店にも長短はあれ順番待ちの列が伸びる。
「フレちゃんや、どの店に書いて来たんだい」
フレデリカがショートボブにしたレモン色の髪をクラゲのようにふくらませ、ブーケの香りを散らした。ライムグリーンの瞳はきょとんとしている……。
「順番待ちに名前書いてきたっていったよね?」
「いったよー。その大うそがどうかした?」
この無邪気なツラでおおよそのことを赦されてきたフレデリカである。額に鈍痛を聞きながら、ともかく、やはり無邪気な提案によって、昼食という名の食べ歩きをすることにした。
パン屋でフルーツサンド、ファストフード店でフライドチキン、量り売りのサラダはベンチで食べて、ジューススタンドのミックスジュース。一口だけといいつつ口いっぱいに含む姿は、とてもアイドルとは思えない……。
連なった店の端、クレープ屋でも豪勢なトッピングを注文したフレデリカであったが、さすがに若い胃袋も音を上げたようだった。
「プロデューサー、これあげる~。ハッピーバレンタイ~ン」
「ありがとう」
心のこもらない返事をして、おれは半分以上残ったクレープを受け取った。果実ソースに酸味はなく、生地と生クリームとともに幾重もの甘味を舌の上に広げ、腹にずっしりとくる。これ以上なにか口にしたら下から出るかもしれん。
「ゲリラリハーサルまでまだあるよね?」
「あんまり大きい声でいわないの。……移動を考えても、一時間くらいあるよ」
「略してゲリハーサル」
「その単語は禁止な」
さて、フレデリカの計算、フレデリカ算によると、一時間で服屋に雑貨屋を五軒回れるそうだ。おれが疑義を呈すと、フレデリカは証明すべく駆け出した。駆け出して何秒とかからず、エスカレーターの前で立ち止まった。
「おおープロデューサー、このエスカレーターめちゃ長だよ~」
……フレデリカのはしゃぐとおり、このエスカレーターは非常に長い。地上五階から一階までの直通である。
「滑って下りたらすぐ着くかなあ」
本気で五軒も回る気でいるのか、フレデリカはエスカレーターにはさまれた金属の坂へ、登ろうと手をかけている。
「やめなさい。ばかたれが滑ったりモノを落としたりできないように障害物をたくさん置いてるんだから」
「タディ?」
唐突に真顔で振り返ったフレデリカに、おれもつられて表情を消した。
「ばかなことはやめなさいといったの」
タディ……t'as dit? は“なんていったの?”というフランスの話し言葉だ。その昔、パリ娘を預けると聞かされて、日常会話くらいは支障のないようにといくらか勉強したものである。それが成果を挙げたかは、いうを待たない。
ともかく、鋭く発音されるこのセンテンスは、意味も発音もいらつき気味の“なに?”に似ていて、向けられるのは少しばかりつらい。
「でも立ち乗りをするとー? ワオ! これならスルスルー」
「気軽に死のうとするのはやめろといってる!」
「プロデューサー、フレちゃんが死んだら困る?」
「困らないと思うのか」
「フレちゃんのおもりから解放されるよ?」
二つのライムがまっすぐに見上げてくる。顔のしわをすべて眉間に集めると、自分で驚くほど苦い声が出た。
「そんなもの望んでないの。なんだってそんな自虐をいうかね」
というか自覚してたのか。当の本人はあっけらかんとしたもので、得意げな猫のような笑いかたで答える。
「プロデューサーならそういうと思っていってみた!」
「……フレちゃんは賢いな」
さっきよりも苦みばしったつもりだが、フレデリカの相好はくずれなかった。まばらに階下へと急ぐ人波は好奇の視線を投げかけながら、歩みを止めることなく銀と黒の滝に吸いこまれていく。フレデリカとおれも、その流れに乗った。
下に着くまでじっとしていてほしいという願いは、口にしもしたが、二秒ともたずに破れてしまった。フレデリカがベルトに座ろうとしたのである。
「滑らな~うおう!?」
エスカレーターの勾配は三〇度以上といわれ、これは人間が立っていられる限界をやや超えている。地球人としては非常識なほうにはいるフレデリカでも物理法則を曲げることはかなわず、小ぶりの頭で金の弧をえがくと、尻を紺のベルトから浮かせた。
……悠長に構えているように見えるのは、のちに思い返した感想だからだ。落ちようとするフレデリカの体を抱えこむまでの一秒か二秒のことは、まるで覚えていない。
「ありがと~プロデューサー。いやーバレンタインさんになるところだったよ」
声は震えていたが、それでもトンチキな言葉が飛び出すのは見上げたものだ。怒鳴りつけてやろうとして言葉が出ず、うなるのが限界だったおれからすれば、であるが。
「きみは聖バレンタインをなんだと思ってるんだ」
「バレンタインデーに死んじゃったひと」
「……」
基本的にフレデリカはわかった上でふざけている。ゆえにツッコミは効果がないのである。
「あっ、プロデューサーの心臓が止まったり動いたりしてる! いつもの五倍くらい!」
腰のところで抱えているので、フレデリカの耳はおれの胸どころか頭よりも上にある。心音を聞いているのはむしろおれのほうだ。……とはいえ自分でもわかるほど動悸しているので、いつもの放言ともいいきれない。つけたせば、フレデリカもおなじくらい、メリハリのある身体に早鐘をひびかせているが。
「なんでだと思う?」
「フレちゃんにおさわりしてるから」
「手ぇ離してるときのほうがよっぽど心臓に悪いわい」
「おっぱいのせいじゃないの~?」
押しつけられた二つの丸みは、厚布の硬さの奥に、頭全体を包みこむような温度とやわらかさを隠していた。不安定なフレデリカが揺れるたび、両の胸は持ち上がった下半分からブーケの香水を漂わせ、おれの頭をこねる……いや、そこは逆か。
「悪いがフレちゃんよ、おれにおっぱいは効かん」
「なるへそ」
フレデリカの脚がついと持ち上がり、ダークブラウンのすべやかなタイツを顔に擦り寄せる。しなやかなアールのついた表面には、シャドーストライプのようにして“Happy Valentine Day”と無数に織りこまれている。
強い弾力を備えた低デニールのふとももは、ジャケットの上から胸を撫で、顎のふちをなぞって、膝の裏にでもつけているのだろうカカオの香りで鼻腔をくすぐる。なるほど、甘美なチョコレートである。
「……それはちょっと効く」
おれは揺らいだ。もちろん物理的にだ。フレデリカが高い位置にしがみつき、しかも動くのだから当然である。歩いて降りたいひとがいたら申し訳ないが、ステップいっぱいに足を踏ん張った。
「それじゃもっとドキドキさせてあげるねー!」
「下に着くまではおとなしくしててくれ!」
「おまわりさーん、このひとひとさらいでーす!」
「しゃれにならないことはやめろ!」
心配に反して周りは静かなままだった。苦笑いくらいは起きてもいいはずのものだが。宮本フレデリカだぞ、これ。
「しゃれになることならしていいの?」
「できるもんならな」
睨み上げると、胸の丸みのあいだでライム色の目が細まり、桃の唇は両端を高く持ち上げた。
「じゃあ変身しまーす」
「……」
「なににって訊いて」
「なにに?」
「おんぶおばけ」
身体を深くたたんだ横抱きの状態から、肩をまたいで背中に行こうというのだろう。長い脚を跳ね上げるフレデリカを、おれは上半身の力を総動員させて抑えこんだ。
「やめなさい倒れるでしょ! こんどは無事にすませてやれないんだぞ!」
「うーん」
難しい声を出すだけ出して、跳ね上げた脚は下りてきた。おれの背中側に。引き締まった弾力が肩を包み、脚や胸以上の熱と湿度をもたらす。そしてまたチョコレートの美脚がおれの顎をさすり、硬い殻が頭上に溶け落ちた。
「これでよぉーし!」
「いまさらなんだけどさ、外聞って知ってるかいフレちゃん」
胸が揺れておれの額を叩く。フレデリカがあたりを見回しているのだろう。少なくとも進行方向には、エスカレーターの先客もプロムナードへ上るひとも見当たらない。見ることのかなわないうしろは、かぎりなく不安である。
フレデリカは鼻を鳴らしたきり、いちどの放言もせず、胃袋のぐるぐるいう音を聞かせるばかりになった。脚も胸を挟んで止まったまま、身じろぐことを忘れたようにしていた。
「ねえプロデューサー、アタシ考えてたんだけどね」
不安定なステップからようやく解放されて一番、フレデリカがまじめぶったトーンで話しかけてきた。
「どうやったら下りられるかな?」
ただそれもほんの一言のあいだで、すぐにもとの、ホンキートンクな口調にもどってしまう。むしろ、調子っ外れがたまたま真剣そうに聞こえただけかもしれない。
「だれかに訊く?」
「おれがしゃがめば足が地面につくよね? 長いだろう、きみ、脚」
「あ~、そっかぁ」
どこまで本気で話しているのやら。膝をついたアスファルトはゴツゴツして、離れていくフレデリカの落ち着かない腰が少し名残惜しい。気のせい!
「お股がスースーする」
「慎みを……まあいい、おれも肩が軽くなった」
ついでにいえば、フレデリカではないがスースーもする。ブーケの残り香を顔にまとわりつかせて見渡す地上も見上げるエスカレーターも、まるで人影がなかった。あまりに長すぎるせいで使おうという人間がいないのかもしれない。フレデリカにはわかっていたのだから、だれもいないと教えてくれれば無駄に心臓を動かすこともなかったのに。
「じゃあ、いっぱい服が持てるね~!」
おれの不満もどこ吹く風と、フレデリカが街並みへと駆け出す。レモン色のクラゲが風に泳ぎ、ブーケで鼻腔をくすぐった。よれた襟を直しているうちにあの放縦娘の姿は消えている。
「極端なやつ……」
雑踏にまぎれたところでにぎやかなフレデリカである。見つけるのに苦労はしないだろうが、そう長く時間がとれるわけでもない。においをたどろうと、おれは歩幅を広くした。
「どーん!」
一〇歩も行かぬ物陰から、尋ねびとが飛びついてきた。姿を消すのが早いと思ったら、フレデリカにしては珍しい計画的なイタズラだ。
「心臓が休まらんなフレちゃんよ」
「きょうはフレちゃんがいつもの五倍以上ドキドキさせちゃうからねーっ」
「そりゃあ、頼もしいことで……」
結論だけを述べると、先導するフレデリカを見失わぬように気は揉んだが、そこまで心臓に悪いことは起こらなかった。そしてフレデリカ算は正しかった。
(了)