ごうと唸る音がカビ臭い地下鉄の構内をかきまわし、りんご柄のワンピースをばたつかせた。それに脚をもつれさせた少女が短い悲鳴をあげて、目の前の細い腕にしがみつく。彼女は辻野あかり。上京して数ヶ月になるが、東京の地下を駆け巡る鉄道網は路線の名前も駅の名前もまるで頭にはいらないし、電車が来るにつけ去るにつけ吹き荒れるこの猛烈な風は苦手なままだ。あかりの吐いた情けなくも重たい溜息を背中に受け止めて、和久井留美がゆっくりと振り返った。両腕と頭とでしがみつかれた、左の腕を軸にして。
「すごい音よね、私もよく驚かされたわ」
「えーっ、留美さんが!?」
格助詞の使いかたにどことなく距離を感じつつも、留美はあかりの乱れた前髪を顔の横へ整える。ようやく自分の身だしなみに気づいて、しがみついていた腕を離してあかりも分け目をたしかめた。“ウサギに剥いたりんご柄”のネイルでひっかくのを恐れて、指の腹で額に髪をよじるように。やわらかなカーブをえがく切れ長の目に照れ笑いで大きく頭を下げればとうぜん、髪はふたたび乱れて留美の、さり気ない色のマニキュアの爪の世話になるのであった。
「上京したときはもうあかりちゃんより歳上だったけど、警笛も風も……」
留美は視線をあかりから床へ、壁へ、天井へと巡らせた。黒いホームドアがまっすぐに伸びる南北線のホームは、歩く徒労感を目に倍加させる。
「方向もわからなくなっちゃうし」
「わかります! ああ、いえっ、わかんないんですけど!」
「うん、うん、いいたいことはわかるわよ」
「いまほんとうにどこにいるのかぜんっぜんわかんないんご……。あ、でも東京駅の近くですよねっ」
かなりのスケールであかりは現在位置がわかっていない。留美さえ腋を軽く締めて困り笑いを浮かべたほどに。
「ここは永田町。東京駅とは三キロくらい離れてるわよ」
「東京駅の近くにながたちょーってあったような……」
切符売り場に掲げられた、文字だらけの路線図を二人で見上げる。少しは見慣れた地上の路線図よりも複雑に感じながら、あかりは“見た気がする”駅を探した。
「あっ、あった! ながたちょーじゃなかったんご……」
「どれ?」
留美は純粋に疑問をあかりに示した。有楽町、大手町、茅場町に人形町。こことおなじくらいの距離なら神保町、御徒町、馬喰町に錦糸町。東京駅の周辺に〇〇町はとみに多い。
「だいてちょー」
「よそでそのまちがえかたしないでね」
あかりにしては素直に、もっとも近い大手町とかんちがいしていた。なんでこれだけ“まち”なのかと、御徒町を忘れて不平を鳴らす。頭でコミカルに動く小さい二つの房毛を撫でて、留美は迷子になりかけていた話題をひきもどした。すなわち、地下鉄の構内はどこへ向いて歩いているのかわからなくなる、という話である。出口の番号を頼りに歩いているうちはまだいいが、地上に出たときに目指す方角を見失う。地上駅の“ハチ公口”や“港南口”でも混乱していたあかりは出口の番号を頼るのもおぼつかず、大先輩の手を両手でひしとつかんでちょろちょろついて歩くのが精一杯だ。
「数字だけならともかく英語まで出てくるのおかしいですよ~……」
「いちおうルールはあるみたいなのよ。私としては、端から数字の順に並んでいてほしいんだけど」
「一番の隣に百番があったりするんですか!?」
情けない声を出す後輩を肩に引き寄せて、留美は額に寄せられたしわを押し伸ばす。りんごの果皮色の目がしばたたき、眉根の力を抜いた。あかりの絶望ほどではないが、この永田町の駅では東から、一、二、三、四、六、五、九、八、七、十と番号が振られている。そのうちの九番の、西側にあたる九A出口へ上がるエスカレーターのステップに、二人はようやく両足を乗せた。
「はひー、長い……。なんか東京って縦に広くないですか?」
肘にぶら下がるあかりの、しおれた双葉を留美はつまむように撫でる。そのやさしい感触がために留美の前で頭の位置を下げるところが、あかりにはあった。
「渋谷で下りたぶんより長く上ってる気がするし」
「あら、いい感覚してるわね」
不意に褒められてあかりは顔をあげた。
「渋谷では地下三階まで下りたけど、永田町に着いたのは地下六階よ」
「な……なして? あっ、あれだ! 渋谷って谷底だから地下鉄が地面から出てくるって! だから渋谷だと浅い地下でも、よそだとすごい地下になるんですよね」
「よく知ってたわね」
頭を撫でられて照れているあいだに、二人を乗せたステップは地上に到着していた。秋めいた風がサルスベリの花をいくらか摘んで去り、高い空には輪郭のはっきりと丸い雲が、少しずつ形を変えながら北へ転がっていく。晩夏の灼けたアスファルトのにおいがあかりの鼻をくすぐった。
「けど、このあたりの海抜は渋谷とあんまり変わらないのよ」
「えっ」
「私たちの乗ってきた半蔵門線はずっと東に伸びて、下町までつづいてるの。東京の下町って、“山の下の町”なのよ。皇居や上野あたりを東の端にして、小高い丘が広がってて……その下は海抜ほぼ〇メートル」
「関東平野って習ったのに……」
「三〇メートルくらいは平野のうちなんでしょうね。ともかく、半蔵門線は海抜〇メートルの地表よりさらにずっと地下まで潜らないといけないから、渋谷を出てからすぐ下ってたというわけ」
「地上を走っちゃえばよくないですか? 渋谷だとほら、銀座線なんか空飛んでるじゃないですか」
あかりの表現に肩をゆすりつつ、留美は手で促してゆるやかな坂を上っていく。太陽は天頂を少し過ぎて、盛夏の折には見下ろして溜息の出るばかりだった影はすでに、小人ほどの大きさである。
「それもあかりちゃんいったでしょう、東京は縦に広いって」
「え? はい」
「埋立地で、遺跡が出てくる心配がないから地下をたくさん使えるの」
「えーっ、だったら山形にも地下鉄掘ってほしいんご……。モグラくらいしかいないですよ地下」
「新しくても戦国時代に大大名がいっぱいいたと思うわよ」
「戦国大名はお墓の下にしかいませんよーっ。掘ってほしいなあ海まで行ける地下鉄~」
あかりの気持ちは地下から、綿のように吹き崩された雲の向こうへ飛んでいく。七月の末の青空はペンキで塗ったよりも青く、雲は自分の理科の知識を疑うほど白くたしかに、水平線の向こうに立ち上がっていた。潮の独特のにおいに灼けた砂の感覚があざやかによみがえり、だが、すぐに涼やかな声に吹き散らされた。
「ここがお昼のお店よ」
天を衝くガラスの塔の下にひそやかに、かつなんらの気後れもなく、クリーム色の洋館がある。四枚連なったチョコレート色の出窓には繻子のカーテンがおなじ形に三角のシルエットを見せ、ステンドグラスが陽光と室内のランプに色彩をちらちらのぞかせる。来客に礼して出迎えるような、低い門柱のフワラーアレンジメントとアプローチの花壇。エントランスがどこにあるかなど、あかりにはわからない。端々に光る物静かな美しさに目を奪われて、考えすらしない。それでも脚が迷わないのは、頼れる先輩が手を引いてくれているからである。
「赤……坂? 永田町じゃなかったんですか?」
建物の名前を聞かされて、あかりは首をかしげる。肩越しにそれを振り返り、留美は隣同士の地区だと教えるが、一つところで足踏みをするあかりではなかった。
「あれっ、そういえば永田町って総理大臣がいっぱい歩いてるところじゃないですか!? そんなところでご飯食べてて政治家が出てきたらどうすれば……先に話しかければ議員バッジがもらえるけど逆に話しかけられたら……あばば」
「……大丈夫、政治家は怖くないわよ。私が守ってあげるから」
困り笑いの留美に抱きついてやさしい感触をあかりは後頭部に楽しむ。杞憂と呼べば杞の国の若者が怒りそうなほどの心配を、あかりが手から取り落して坂の下へ転げさせたころ、革張りのメニューを携えたボーイが二人の案内に姿を見せた。
(了)
※この話の舞台は紀尾井町にある複合施設であり、接続する駅が東京メトロ永田町駅。永田町そのものは紀尾井町の南東、赤坂は南です。