猫、巫女、サンタ、あいのうた   作:久聖

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2016年にカープがリーグ優勝したのをフックに書いたものです。


留美  ビールかけのビールは冷やさない

 

 灼けるような日中の埋め合わせとばかり、夜がひと恋しいほど肌寒い時期だ。事務所に近いファミレスで遅めの夕飯をおごって、未成年者たちは帰らせて、酒の飲める二軒目を探して二人、街路を歩く。

 

 月白の肌でふだんは怜悧な刃の瞳が、夜の涼気に染め上げたような短い髪の香りにはおよばぬながらも、甘く笑っている。彼女、和久井留美は公私ともにおれのパートナーである。公の調子が良くなるほどに私が圧迫されていくのが、アイドルという仕事の面倒なところだ。女優業であればマシだったのだろうか。

 

 たまには家で飲みたい、などとネオンを流し見ていた横で、留美のスマートフォンが震えた。

 

「家から……?」

 

 柳眉をひそめたのも一秒、軽く断って留美は受話のアイコンをタッチした。漏れ聞こえてくる興奮した声はお母上だろうか。留美は困った様子で、しかし“おめでとう”とか“よかったわね”と楽しそうに応対をしている。九割方はあちらが、おそらく短い話を螺旋状に継ぎ繰っていて、秒ごとに顔からは絹の光が失われていく。

 

 ……見守ること一〇分以上、留美の応対は機械的になっていた。視界の端におれの存在をアピールすると、“大声でいえ”とジェスチャーを返す。おれはそのとおりにした。電話の向こうに聞こえるように。

 

「彼が待ってるから、そ、お父さんと仲良くね。はい、はい、優勝おめでとう。……おやすみなさい」

 

 はじめて二文以上を口にして、ため息とともに通話を切った。

 

「助かったわ。まったく、一歳や二歳のころのことなんか覚えてないわよ」

 

 赤い球団が最後に優勝したのは、二五年も昔のことである。五、六歳だったおれも覚えていない。

 

「意外に応援してるもんと思ってたよ」

「広島にたいする偏見よ……なんてちょっといいきりづらいけど。私みたいなひねくれ者は、身近に熱狂的なひとがいると醒めちゃって。それに、あなたはキャッツを応援してるんじゃないの」

「いや、あれが勝つと楽しくはあるんだけど、応援ってわけでもなくて……」

 

 キャッツが勝ったと聞くとにやつくくせは、留美の知るところだったらしい。

 

「それこそひねくれた話でさ」

 

 ……高校時代、教師陣が野球好きばかりだった。ある教師など、毎年D組の担任を第一希望にしていたほどの龍の球団好きだ。最大派閥アンチキャッツの一人でもあり、余談だが、定年までついにC組の担任にはならなかったと風の便りに聞いた。そんな学校だから、キャッツが勝った翌日はみんな目に見えて元気がない。教師が弱ると生徒は楽しい。そんな青春早期に得たくせだ。

 

「なるほど、ひねくれたファンね」

「負けて悔しいわけでもないから、ファンなんていうと怒られそうだ」

「なら、私も怒られちゃうわね。親がはしゃいでるとつい引っ張られるけど、負けて唸ってても呆れるだけで」

「その留美ちゃんにつられて喜んでるおれはどうなるんだ……?」

 

 留美は吐息とともに、“地獄行きかもね”と笑った。

 

「さ、どこにする?」

 

 秋波を放つ白い横顔が、車のテールランプに濃い陰影をつくる。おれは靴のひとつ分だけ、留美の方に寄った。

 

「家で飲みたい気分かな」

「買い置きはあるの?」

 

 細く開いた瞳が、おれの肩から回りこんだとりどりの色の波濤でおだやかにきらめく。

 おれは首を振り、二人で足を、近場のスーパーに向けた。

 

 

 

 買ったのは辛口で軽めの赤ワイン。つまみは適当なチーズだけのつもりが、留美が缶や生のトマトやら生ハムやらを買い足した。赤くなったかごにレジのご婦人は熱心なファンだと思ったのだろう。ご祝儀の言葉を贈ってくれた。

 

 留美はこれを見越してか、レジをよけて作荷台のそばで待っていた。じつは熱心でもなんでもない者として、昨今の風潮に乗ったようにとられたくはない、ということか。

 

 おれが両手にかばんと晩餐の材料を、留美が片手にワイン一本をぶら下げて、都会の喧騒を少しだけ離れれば単棟型の高層マンションが見えてくる。会社の家賃補助を頼りに借りている、なかなかの背伸び物件だ。

 

 留美はおれの顔をちらりと見ると、エントランスへと小走りに駆けていく。下からのオレンジの灯りを背負う姿に急げば、紅い唇をすっと引いて、合鍵をかざしてガラスのドアの向こうへ逃げる。舞い上がってるな。沸き立った心の泉の底に、まだ優勝の二文字が沈んでいるだろうか。石焼き鍋の石みたいに。

 

 オートロックの前で鍵を出そうとまごついていると、からかい顔の留美が、内から自動ドアを開く。にやりとして大股に歩み寄ればひらりと身をかわす。リズミカルなヒールの音をたどったエレベーターホール、細長いかごの奥に、ようやく逃げる麗鳥を追いつめた。

 

 おれがかごを揺らし終えるや扉が閉まる。壁際、留美にかぶさるようにして、おれは腕をついた。

 

「あん、残念」

「待ってたくせに」

 

 車イス用の閉じるボタンから手を引き、留美は白い歯を見せる。さわやかにミントが香った。おれはもう少しだけ、姿勢を深くする。

 

「ひとが乗ってくるわよ」

「……マンションで?」

 

 うすく開きかけた唇を塞ぐ。感触は一瞬で、額で押し返されてしまった。

 

「気が早い」

 

 残念な気持ちを間延びした返事にのせたが、開いた扉の先へ、留美はおれの腕をくぐり抜けた。すらりとした、機嫌のいいうしろ姿について行く。もはやどちらが家の主だかわからない。

 

 手慣れた解錠に妙な頼もしさを覚えながら、開け放たれたドアを腕で支え、灯りの点ったばかりの我が借家にはいる。出迎えの言葉と笑顔があたたかい。

 

 留美がシンプルなエプロンで種々のトマトを調理しているあいだに、おれはおれですることがある。軽めの赤ワインはすこしばかり冷やしておくのがいいらしい。冷蔵庫の袖に置いておく。

 

 息苦しいネクタイを外す。腕時計も外す。上げていたマットレスをもどしてベッドを整える。安くて繊維の硬い敷きパッドは、なめらかなものと替える。包丁とまな板のリズムが耳に心地いい。ベランダの洗濯物を取りこむ。仕舞い終えるころには、煮えたトマトのほどよく酸っぱい香りが漂ってきていた。

 

 リビングにもどって出す皿を訊き、そのとおりにする。深皿二枚、大皿一枚、オーバル……楕円形の皿はないので、代わりを示した。

 

「それ、焼き魚のせるやつよね……。まあ、いいわ、それはこっちに頂戴」

 

 そしてスプーンとフォークと、グラスを二つ。……仕事が終わってしまうとなんとも身の置き所がない。テレビを点けようかと思ったが、もう用の済んだ話を蒸し返されても困る。手持ち無沙汰にしていると、留美の背が笑った。

 

「ふふっ、もうちょっと待ってて」

 

 ちょっと、は最終的には五分だった。……それで、いまふたりでささやかな、といっては大飯喰らいのそしりを免れない夜食を前に座っている。

 

 圧力鍋のボルシチ風スープ、トマトと生ハムのマリネにペンネアラビアータ。

 

「けっこう作ったね」

「これくらいないともたないと思って」

 

 冗談めかして笑う。表情筋を引き締めつつ、グラスの半分を占めたワインで乾杯をして、赤い食卓に手を伸ばす。

 

「なるほど、マリネ用だったのか、オーバル皿」

「なんだか紅しょうが盛ったみたいになっちゃったわよ」

 

 皿の重要さを感じつつ、フォークで一山、口に放りこむ。生ハムとトマトの甘味が酢で引き締まり、胡椒とともに鼻に抜けていく。

 

「うん、美味いよ。酢の量、こんどは間違えなかったね」

「それもあるけど、タマネギをやめたのが効いてるかも」

「ボルシチははじめて作ってもらったけど、これもいいね」

 

 こっちにはタマネギがはいっている。マリネに使うのは生で、ボルシチのはよく煮えているわけで、そこに採否のわけを求めると、気分が高揚した。

 

「あくまで“風”、よ。具の多いミネストローネかも」

「まあ、留美ちゃんが作ってくれるなら、名前のない料理でもいいさ」

「そうね。おいしく食べてくれるなら、私もなんだっていいわ」

 

 やや心配になるコメントだったが、最後にペンネアラビアータだ。ピリ辛のトマトソースに和えられたペンネは、はじめは小麦の風味が……。

 

「ちょっとしょっぱい」

 

 おれの言葉に、留美もペンネを一本取った。

 

「ああ、本当ね。レトルトはやっぱりいまいちね……」

 

 レトルトなのはちらっと見てわかっていたから、ストレートにいえたのだ。これが手料理だと、直そうとしたりなんだり、変なくすぶりが残るから。まあ、こんなことも口が裂けたっていえはしない。

 

「こんどはじっくり、ソースから作ってみる?」

「暇があればね」

「工面しましょう」

 

 それをつくるのは、おれの仕事だから。

 

 つい進むワインは、三杯目で止められてしまった。

 

「整えておいてくれたんでしょ。あんまり酔わないで」

 

 留美の声にも、すでに酒気が濃い。おれはボトルとグラスを下げ、コップの水と替えた。

 

「グラスもお皿と漬けておけばいいわ、起きたら洗うから」

 

 白い腕を枕に、切れ長の瞳がとろけ始めている。手指の先まで色づいた姿の艶やかさに、水をもう一杯飲み干した。

 

「立てる?」

「どう思う?」

 

 NOを予期していたおれは、椅子から留美を抱き上げた。淡紅色に染まった身体は液体のようにしなやかに、腕と胸のなかに収まる。

 

「おあいにくさま、まだぜんぜん歩けるわ」

 

 色づいた爪が伸び上がり、おれの頬をつねる。

 

「酔い足りないみたいだね」

「ええ、それは正解よ」

 

 酔い足りないのはおれもおなじだ。白に近いこのロゼを、今夜はそれこそ、浴びるほど。

 

 

 

 

(了)

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