「はあ、食べた食べた」
張ったお腹を満足げに浴衣の上からさすり、有浦柑奈はドアを開いた。冷えて乾いた空気が足許から上がってきて、畳の匂いを鼻に届ける。ちゃぶ台は床の間に寄せられて、布団が二つ並べて敷かれていた。
「ビュッフェスタイルはつい食べすぎちゃうね~」
「芽衣子さん、塩だけでばり食べとらしましたね~」
柑奈はスリッパを器用に端に寄せて脱ぎ、ちゃぶ台で食後のお茶を淹れる。並木芽衣子は施錠をたしかめると頭から、奥側の布団に飛びこんだ。いたずらっ子の笑みを交換して、二人ともテレビの電源を点けようとはしない。見たい番組があれば点けなよと芽衣子がいえば、柑奈は首を傾がせてうめき、それを断った。ひそやかな潮騒が広々としたホテルの部屋に満ちる。
食べすぎの苦しさに深くしていた芽衣子の呼吸が、やがて浅く規則的になっていく。黙然として薄めのお茶を用意した柑奈の、湯呑をテーブルに滑らせる音に鼓膜を叩かれ、芽衣子は全身をびくつかせて横寝に起き上がった。
「やばいやばい、寝るところだった」
「寝ててもべつによ……くはないですね。お化粧落とさないと」
熱いお茶で腹の裡から目を覚まさせ、芽衣子は少し濃くなった二杯目を淹れる。ぬるくなりはじめても一杯目をちびちび飲む柑奈が、ふだんの元気をどこにか置き去ってきたことはあきらかだ。
「ごめんね柑奈ちゃん、謝りそびれてたんだけど、夏美さんの名前になっちゃってて」
「名前を穴埋めに使われた夏美さんにむしろごめんねしたほうが……」
「だってフラれると思わなかったんだもん。柑奈ちゃんが来てくれてよかったよ~。こんなきのうのきょうなのに」
「私も助かりましたよ~。ちょうど予定が消えちゃってたんで」
「消え?」
柑奈の薄い眉が困って、整った爪の指が頬をかく。
「きょうバラエティあったんですけど、キャンセルされちゃって」
「ええなにそれ、よそのネジコミ?」
「いえ、まあ、自分のせいなんで……」
力なく笑って柑奈は視線を顔ごと逸らした。芽衣子が浴衣の襟をなおし、正面にそれを見据える。眠気を表情から払い、年長者らしいおだやかな笑みをたたえて。さらにあぐらをかくと左手を顔の高さに、右手のひらを上にして膝にのせた。仏像のポーズである。まったくのうろ覚えの。
「愚痴でもなんでも、お姉さんに話してみなさい」
「そんなおっきなラブ向けられたらほだされちゃいますよ~」
「ほだされろ!」
「強引だなあ」
言葉も顔も苦くしながら、柑奈の頬はゆるんでいた。正座で向きなおって話すには、端は一週間前の報道バラエティに発するという。
「戦後の節目の年にって番組ですよ。どーもねえ、テレビ的には私に、反政府的な極端なこといわせたかったみたいで」
「テレビで政治の話すると政府のことはぜったい褒めないよねえ」
「でも私は頑張ってるひとを悪くいうのイヤだし、そりゃ戦争は悪いことですけど、戦争するひとを全員悪人みたいにいうのもちがうんですよね……」
ラブアンドピースを掲げるものたちは戦争を否定し、個人の自由を第一に主張する。それゆえに個人を縛る法律と、それを作る政府を嫌う。言葉に反して軸にあるのはなにかに対する否定と、根拠のない全能感。すなわち幼い反抗期の延長であり、テレビのショーの見世物としては非常に有能である。だが今回、そんな人物を探した彼らの見つけたのは、あくまでも隣人愛を旨としてたがいを立てあう、肯定を軸とした有浦柑奈であった。この点について非のあるのは、誤解を招く表現を使う柑奈か、半世紀あまりをかけて言葉を汚染した先人たちか、属性だけでひとを決めつけたテレビマンか、評定の下しがたいところではある。
ともかく、新旧の別なく政府のネガティブキャンペーンを旨とするその番組が都合のいいキャッチコピーを掲げたアイドルに目をつけ、想定と正反対のことをされて腹を立てた、それがことのすべてである。
「おかげであの局の仕事みんななくなっちゃいましたよ」
「むむむ……。悪い縁が切れてよかったって、私はいいたいけど」
「ありがとうございます。あはは……」
「プロデューサーはなんていってた?」
「プロデューサーさんはだいぶ人類を見損なっちゃってましたね。干されたよりこれがいちばんヤバくて……」
「テレビ業界を妖怪で乗っ取るとかいってたの本気なのか……」
二人を担当するプロデューサーは遠くルブアルハリ砂漠からやってきたミミズクの妖怪変化である。業界内にはそうした妖怪がそれなりの数生息していて、非科学的な方法で気づかぬうちに人間を減らすことなど造作もない……とは正体を知る者たちの考え。じっさいのところ、すっかり人間に情がうつって、“バレると嫌われるから殺さない”という(人間からすると)いびつな倫理観に縛られている。そのタガが外れて“たいせつな者たちが生きやすいように脅威になる人間は殺す”となればアナーキズムも軽々と超えた野生の世界になってしまう。
「みんなが幸せに暮らせるように人間は法律を作ったんですから、一線を超えないようになんとかしないと」
「いい人間もいるとかいってもいい人間と悪い人間の区別がひどくなるだけだよねえ……。自分でやな気分を変えたいなら旅行とかあるけど、他人の気分を変えるのは~」
「まあ、いま歌鈴ちゃんと南の島行って気分転換になってるといいんですが」
「うん、あとは悪いこと考える暇ないくらい忙しくしてやるくらいかなあ。……あ」
難問に後頭部を支えて天井を見上げた芽衣子が目と口を丸くした。柑奈が上半身を少し乗り出し、次の言葉を待つ。
「お風呂行こう」
「へっ? いいですけど、もうですか?」
「うん、あのね、ぜったいお風呂はいりたい」
柑奈に倍して身を乗り出し、芽衣子は断言した。ヘーゼルの瞳の光は業界人の命よりも緊要なる課題のせし迫りしを見せる。肉食獣のそれにも似た眼光に圧されて柑奈が立ち、二人はすばやく用意を整えて大浴場へ早足で向かった。浴衣で走らない程度の大人の素養は持ち合わせているのである。
「早く! 早く!」
湯気たちこめる大浴場の洗い場で、芽衣子は猛烈な勢いで髪も体も洗い終え、体ごと柑奈に向いて両のこぶしを上下させる。リンスを洗い流した柑奈はタオルで髪をようやくまとめ、ボディソープを手に取ったところである。
「なんで私体洗うの急かされてるんですか……。見られてるとやりづらいんですけど」
「わかった見ないから早く」
顔だけ背けて芽衣子はまたこぶしを振る。片頬を笑いそこね、柑奈は急かされるまま全身に泡を広げ、熱いシャワーで洗い流した。芽衣子は無言で露天風呂を指差す。さすがに風呂場である。早足も控え、ゆっくりと二人は歩く。
「そういえば柑奈ちゃんてタオルでまとめる派なんだね」
「クラリスさんに教わったんですよこれ。昔はとくにまとめてなかったんですけど、エチケットというか」
「なんかお団子にするひともいるよね、夏美さんとか椿ちゃんとか」
「私いっつも横で留めてるんで、お風呂のときくらい休ませたほうがいいとかで」
「ほほう」
芽衣子の髪はタオルでまとめずとも湯に浸らない長さではある。だがせっかくだからと、タオル派の門戸をたたいてみた。広げたタオルのふちで前髪を上げ、つまんだ端を耳の上をとおして前へ運んで交差し、顔の前に垂れた布を頭の上に持っていく。
「あれ、なんかちがう」
「剣道の面かぶるときのっぽいですねそれ」
「ターバンにならない……。教えてそれ」
「まずこう、首にかけた状態で……」
タオルの巻きかた指導していると、低く唸るような空気の震えが大浴場のタイルに反響した。雷鳴かと柑奈は窓の外へ視線を送る。露天風呂の湯気に包まれた四阿の、骨組みだけの屋根の上に広がる夜空は暗く、晴れとも雨雲とも判断がつかない。
「天気崩れるんでしたっけ?」
「崩れないよっ」
「いいきりますね」
「いいから行こう露天風呂!」
目を輝かせる年長者の大股の歩みについていくと、夏の夜風が濡れた肌をひやりと撫でていく。黒々とした空は晴れだった。オレンジの強い灯りを背に立てば、ぽつぽつと星がまたたいて見える。芽衣子は露天風呂のへりに腰かけて、膝下だけを湯のなかに遊ばせた。促されるまま隣へ、おなじように柑奈も座る。温泉客はほかに二組ほどいて、そのだれもが柑奈たちには背を向けて入浴していた。
「どうしたんですか?」
「ほら、上がった上がった!」
嬉々としてまっすぐ伸ばされた指先を、柑奈は虚空にたどった。ゆるやかに湾曲した海岸線の先、岬の反対側から白いものがいくつも、濃紺の空に上っていく。その正体を柑奈が言葉にするより半秒早く、夜空に大輪の花が咲いた。夏の夜の花火大会。芽衣子が発作的に見たくなってプランを組んだイベントであり、いま悩める人生の後輩に特等席で見せたかった芸術である。芽衣子の予期した以上にそれは柑奈の瞳に輝き、由々しきことがらをその胸の裡から追い払ってみせた。二人は湯船に浸かるほかの客と一緒に夜空を彩る花々にはしゃぎ、歓声を上げる。
「たーまやー!」
「かーぎやー!」
芽衣子が向こうをかければ、ならばと柑奈も次の花に声を張る。湯気と笑声に包まれて、芽衣子がかさねて屋号を叫んだ。
「きどりやー!」
「ちょっ、だめですよプロデューサーさんの悪口叫んじゃ……」
「悪口じゃないよ」
いたずらのバレた子供のように、芽衣子が口をすぼめて答える。温泉客のとまどいが洩れ聞こえ、柑奈は声のボリュームを少し下げた。
「まさか恋しくなって?」
「それもちがーう」
「じゃあなんです?」
「……三つめが思い出せなかった」
「それでって……。でもあれ? たまやと、かぎやと……」
真に受けて柑奈は頭のなかを浚ってみるが、三つ目の屋号は出てこない。高麗屋? これは歌舞伎だ。二人で首をひねっても正解は出てこない。とうぜんである。花火の向こうはこの二つだけである。そんなことはつゆ知らぬ二人はスターマインの輝きと歓声で我に返り、ひときわ大きく咲いたオレンジの花に拍手を送った。
「わーっ、ほら芽衣子さん、デイジーですよデイジー!」
「ヒマワリだよ~」
「ヒマワリはもっと周りがぴょこぴょこしてますって」
あいだをおかず、光の花々が空にいくつも描き出されていく。その一つ一つの正体をあれだ、これだと連想ゲームを二人は楽しむ。湯冷めものぼせも遠い世界の、夏の夕べは明るく更けていった。
(了)