シャンパンゴールドと瑠璃色のツートンに染まった西空で月が大口を開けて笑う。夏の日暮れはまだまだ明るく、だが油断しているとすぐに青黒い夜闇に包まれてしまう、そんな短い時間である。
「由里子さん、あのお店いいんじゃないですか?」
日下部若葉がそういって、赤提灯に縄のれんの居酒屋を指した。右左と街角を見回していた大西由里子は、その小さい指の先を眺めて頷く。
「いかにもくつろげそうだじぇ~」
いそいそと戸を引くとすぐに店員が応対し、二人を個室に案内した。通路とのれんで区切られた、四人がけの席だ。注文の声や歓談でにぎわうフロアには、完全禁煙だけあって子供の声もひびいている。
「お客さま当店のご利用ははじめてでいらっしゃいますか?」
「はい!」
若葉の元気な返事に由里子の間延びした声がつづく。店員は型どおりに来店のお礼を述べると、テーブル脇のガラスドームを示した。二人が小首をかしげて癖毛を揺らす。
「当店ではこちらの注文装置にお声かけいただくことで料理の提供をいたしております」
やや怪しい敬語の店員は、首の角度を大きくする二人の前で装置に“お冷や二つ!”と声を張った。ガラスドームのなかの空気が揺れる音がして、氷水をたたえたグラスが二つ現れる。二人の首はいちど鉛直を経て反対にかしいだ。
「お冷やおしぼりなど無料で提供のほうさせていただいているものもございますが、お支払いのほうはですね、基本的にはご注文いただいたあと都度会計でご料金のほうお支払いいただくことになっております」
「だいたいわかった」
聞き苦しい敬語をハキハキと話す店員は“ごゆっくりどうぞ”といって下がった。由里子はニヤリとして注文装置に向かい合う。
「完全寄宿制の音楽学校に転入してきた顔はいいけど喧嘩っ早い天才ヴァイオリニストの少年と一つ歳上で頼りなげながら怪しい美しさを持つ優等生ピアニストの少年の甘酸っぱい青春イチャイチャマンガ読み応えたっぷりB5版四五ページ二色刷りでただしエロはほのめかす程度ででも攻めはヴァイオリンのほうでお願いしますッ!!」
「た……食べられるもの頼んでください!!」
「ゴ注文ノモノハ一人前アタリ一〇〇〇円デス」
「はーい一〇〇〇円でぇーす!!」
「通った!?」
財布の千円札と引き換えに満足をカバンにしまう由里子の脇で、若葉は二杯のお冷やを飲み干した。
「まあこれはブラックディーヴァへのお土産だから。さすがのユリユリもここではちょっとネ」
「ちょっとネじゃないですよ……。もらって困るものあげるのよしましょう?」
「そんなことより食べ物注文しよ。まずは女子力サラダ二人前!」
装置はなにもいわず代金を飲みこむと、豆腐と海藻とゴーヤのサラダをガラスボウルいっぱいに盛りつけて転送してきた。若葉がピッチャーでお冷やのおかわりを頼む声は若干疲れている。
「濃いめのゴマダレがゴーヤを甘く包んで……これはうまいじぇ」
「この機械、由里子さんのことすごい好きですね……。なんであの注文でこんな」
「波長が合うからよにゅふふ。あとはー、えーと……。焼いた魚とか……刺し身とか……揚げ物?」
「さっきの食べられない具体性どこ行ったんですか、もう。アジの開きとミズダコのマリネとキスのてんぷら二人前ずつ!」
「あとお酒お酒! 定番の!」
“とりあえずビール”と二人が声を揃えると、小ぶりのグラスに瓶ビールが一本送られてきた。
「ラベルに“とりあえずビール”って書いてあるんですけど!?」
「生かなあドライかなあ」
「これほんとうに飲んで大丈夫な銘柄なんですか!?」
若葉の叫びに転送装置は紙を一枚吐き出した。“大丈夫”の三文字が太いポップ体で書かれている。若葉はそれを無言のまま鶴に折り、由里子はグラスに泡と半々のビールを注いだ。……とにかくも、二十歳の女子会のはじまりである。
「かんぱーい!」
由里子はもとより、なかば捨て鉢の声音ながら若葉も、よく冷えたビールに喉を鳴らした。厚みのある立派な泡のひげを蓄えて、若葉がうなる。
「にっがーい! 鉄みたい……っと、いえいえいえ、この一杯のために働いてますね!」
「きょうは働いてないけどね!」
「アイドルは二四時間アイドルしてるんです!!」
酒を飲んでもアイドル。キス天とビールで顔をくしゃくしゃにしてもアイドルである。高級な酒を三〇〇円ぶんだけ頼んで量の多寡にはしゃいでも、だんだん物足りなくなってがっつりモツ煮を土鍋でつついても。
「冷房ガンガンの部屋でアツアツのモツ煮は犯罪的ですね~」
「もうコレぜったいうどんで締めるやつぅー」
「おうどん大好きですよねえ由里子さん」
「香川県民の魂だからね」
しかし鍋いっぱいの濃い色の煮汁から具の絶えることはなく、まるで締めには近づかない。怪しい鍋だからではない。若葉が次から次へと足しているからだ。
「若葉ちゃんはモツ煮好きなの?」
「好きっていうか、ソウルフードらしいですよ、群馬の」
「らしいの?」
「東京に出てきてから知ったんですよ~。そういえばモツ煮あんまり食べなくなったなーって思ってたら、なんかそうらしくって」
「離れてわかることってあるよねえ」
ガラスドームのなかの空気が揺れた。皮の脂がじゅうじゅうとうなる、鳥のもも肉が無骨なハサミとともに転送されてきたのだ。取り出せばスパイシーな香りが立ち、由里子も若葉も目を輝かせる。
「骨付鳥~!! 香川の魂その二~!!」
「二つあるんですか魂」
「香川県は宇宙人と技術提携してるからね」
「コチラハ無料さーびすデス」
「無料らしいですよ二つ目の魂」
「ただより高いものはないんだじぇ」
群馬にも二つ目がないかと腕組みをする若葉をよそに、由里子は大きい鶏肉をハサミで豪快に切って取り分ける。ハサミを置いて脂とスパイスにまみれた手をさまよわせる由里子へ、機械は新しいおしぼりを転送した。
「えっ、すごい見ててくれてる……。ママ?」
「機械になにいってるんですか……」
「ママーッ!!」
叫んだのは由里子ではない。一枚垂れ下がるのれんを突き抜けて、通路から飛びこんできた声だ。ただごとではないその涙声に二人は、少しふらつきながら個室を飛び出した。
「おーうプリティーショタボーイ」
「どうしたの~? お席がわかんなくなっちゃったのかな?」
「ところでショタって美少年のことだと思ってたんだけど“ブサイクなショタ”という言葉も登場してよくわかんなくなってきたユリユリです」
「酔っ払いは座って水飲んでてください!!」
赤ら顔の由里子はどすんと音を立てて椅子に尻を落とし、若葉の指示に従った。
「ママーッ! ママーッ! ショタを拾っちゃったよ~」
「ホントに怒られますよ!?」
「お、お姉ちゃんいいのあれ。ピッチャーから一気に飲んでるよ」
「いいんですよ~。小ボケにいちいちツッコんでるとテンポ崩しちゃうから気にせずにどうして泣いてるのか教えてくださいね~」
少年の涙ながらに答えるには、トイレに行ったらどこが自分たちの席かわからなくなってしまったということだった。店員が出てきてもいいものだが、来店にしか反応しないのか、飛び交う上機嫌で大声の注文にかき消されてか、姿を見せようとはしない。若葉の胸に使命感が、わずか三秒で燃え上がる。
「大丈夫、お姉さんにまかせて!」
若葉は迷わずのれんをはためかせた。さっき自分たちのいた個室ののれんである。注文装置のガラスドームに食いつかんほど迫って、一つの注文をした。
「この子がいた席はどこですか!?」
ガラスドームのなかが揺れ、店の間取りに一つ赤丸をつけた紙が現れる。
「そんな使いかたあるんだあ」
「最初に由里子さんがやってたでしょう。……なに食べさせてるんですか?」
「モツ煮うどん」
さっきどうにか涙をこらえていた少年は、いまや鼻水の運河を二本作りながら夢中で濃い色のつゆを絡ませたうどんを啜っていた。小鉢を一つきれいに空けておいしいねとはしゃぐ。
「香川と群馬の魂が輝いてるからね」
「かってに締めのうどん……まあいいですよおいしそうだから。私にもよそってください」
「はいはーい。食べたらパパ上とママ上のとこもどろーねー」
「うん!」
少年の小鉢にも二口ぶん足して、和やかな時間が過ぎる。由里子も若葉も酒気が抜け、元気をとりもどした少年とともに紙に示された個室を訪れた。そこでは四〇前だろう男女が、頼む鍋の具でモメていた。食い物の恨みは恐ろしいというだけあって、他人が来ても口論は止まる気配を見せない。
「まだケンカしてる……」
少年の目にまた涙がにじむ。若葉がスポーツ刈りの頭をそっと撫でる。トイレの帰りに迷ったわけではなく、両親のケンカに耐えきれず逃げ出したが、心細くなって帰ろうとするも個室の場所がわからなくなったのが真相なのだろう。息子の消えたことにいまのいままで気がつかなかった二人へ若葉が叫んだ。
「モツ煮! 山盛りで!!」
「うどん二玉生煮えで!」
甘じょっぱい香りの鍋がガラスドームから現れ、夫婦のあいだにどっかと置かれる。鍋とはいいがたい第三の選択肢とそれに目を輝かせる愛息子とのあいだを、両親の視線は何往復もする。
「これすっごくおいしいんだよ!!」
少年を座らせ、若葉がはつらつとしてモツ煮うどんを取り分ける。笑顔の息子に勧められるまま口にして二親はぎこちなく笑った。その様子に少年も足りない白い歯を見せて、とびきりに笑う。由里子と若葉はほっと撫で下ろした胸をぐっと張った。
「ノーマルカップリングのひとたち! 嗜好のちがいでいいあらそうのはしかたないけど!」
「自分たちのお子さんのこと、ちゃんと見てなきゃだめですよっ!」
まさに張子の虎と両親は頷く。満足げに大人一年生は荒い鼻息を吐いた。
「それじゃ、坊っちゃんは無事にお送りできたし、我々はこれで~」
「あ、はい……。ありがとうございます」
「ご姉妹で団欒のところをすみませんでした……」
「ありがとう、お姉ちゃん、おばちゃん!」
「……」
「やっぱり私、子供に見えるんですね」
個室へもどるにぎやかな通路で、肩を落として顔の翳った若葉がつぶやく。
「若葉ちゃんはまだいいよ。おばちゃんっていわれたよあたし……」
「ママにおいしいもの出してもらいましょう」
由里子の返事は喧噪にまぎれたが、若葉にははっきり聞こえていた。
(了)