道明寺歌鈴は全身でさざ波を聴いている。寝転ぶフロートはバナナ色の(というと本人は表情をくらませる)ロープで浜辺に繋がれているし、肌には赤道直下の陽射しに抗するだけの日焼け止めを塗った。手足をフロートからはみ出させて、歌鈴は南国の海の香を吸う。サングラスの濃い褐色をとおってなお空は鮮烈に青い。フロートに波が一つ砕け、まどろむ歌鈴の口に落ちた。
「ううーん、しょっからい……」
「おー、起きたか。そろそろ休憩終わるしな」
ラムネ色の浅瀬をバタフライで近づいてきたのは歌鈴の担当プロデューサーだ。のんきに波に浮かんで、ハイビスカス色のタンキニの歌鈴を見上げる。
「あっ、プロデューサーさん」
口を拭うものをフロートに探したが、トロピカルフルーツのがらのほかはなにもない。唾でごまかして歌鈴は、あらためてプロデューサーに視線を落とす。
「……ミミズクって泳げるんですね」
緋色の目がきょとんとして映すのは、フロートよりも大きく翼を広げた巨大なミミズクだ。羽毛が海水を吸ってボリュームを喪い、だいぶ鳥らしいシルエットになっている。ふだんは人間の姿に化けて歌鈴のプロデュースをしているそれは、目をまぶしそうにして答えた。
「水浴びして虫とニオイを落とすのがフクロウの日課みたいなもんよ。海でってのは珍しいだろうけどな」
「正体現してていいんですか? スタッフさんから見えますよ、ここ」
「きょうのスタッフはみんな妖怪変化だよ。ぶっちゃけ、この島に人間は歌鈴だけ」
大きい目をのんきに閉じて、化けミミズクは仰向けに浮かんだ。歌鈴がうめくようにして浜辺を見めぐらす。神職の家に生まれた歌鈴である。
「ロケチーム編成できるほどいたなんて……」
「泣く泣く留守番してるのはこの何倍もいるぞー」
歌鈴の思っていた以上に、テレビ業界には妖怪変化が生息しているのだ。しかし正体を明かして安心な人間は非常にかぎられる。裏でネットワークを作り、化けの皮を脱いで過ごせる機会を虎視眈々と狙っているのだ。
「泣く……まあ、プライベートリゾートって人間も憧れですしね」
本島の方角へ歌鈴は手でひさしを作った。途切れることない水平線が碧にかがやいている。仮にフロートの上に立ったとしても、本島に生える木の頭も見えないだろう。クルーザーで三〇分ばかり走ってきた、ここはサンゴ礁に囲まれた絶海の孤島である。
「リゾートも楽しみたいし、歌鈴の用心棒もしたいってね」
「用心棒?」
「この辺の海、悪いやつがさいきん棲み着いたらしいから」
見渡した海はどこまでも青くおだやかで、どこか水菓子を思わせる。遠く深い色をしたあたりに、なにかが潜んでいるのだろうか? 歌鈴の顔に不安の陰が落ちるより早く、プロデューサーはことさらのんきに笑った。
「みんな歌鈴が好きなのさ」
「そ、そういわれるとちょっと照れちゃいますね……」
照れてかいた頬はすっかり乾いている。もういちど水を探して歌鈴が視線をさまよわせたのを、化けミミズクは耳で気づいて浜辺へ声をかける。未開封のペットボトルを足に掴んだ白い鳥が飛来し、フロートの端に留まった。それへお礼をいっているとおなじくペットボトルを握りしめた緑色の腕がぐんと伸びてくる。目を丸くしつつも水を受け取って、戸惑いがちにお礼をいいさして聞こえるわけがないと、軽く握手でそれに代えた。
「いまのは」
音もなく浜にもどっていく緑の腕を見送って、歌鈴の緋色の瞳が化けミミズクの黒いクチバシに止まった。砂色の背中を天日であたためながら、プロデューサーは目を閉じたままで答える。
「ADの河童」
「二〇メートルは離れて……ううん、なんでもないです。妖怪変化ですし。こちらは?」
白い鳥の変化は黙って姿勢よく立っている。ワシやタカに似ていて、頭の位置は座った歌鈴よりも少し高い。プロデューサーとおなじくらいの大きさに、歌鈴には見えた。当のプロデューサーはミミズクらしく首を前後や上下に動かして、その白い猛禽の姿をたしかめている。
「……えっ、だれこれ」
「えっ、し、しらないひと……? あっ、現地の……?」
白いワシは首を振った。
「こいつ紙でできてる。折り紙の付喪神かな」
白いワシが片脚を上げた。爪の先まで一枚の紙のそれは、ひらひらと海面の風に揺れる。その足が化けミミズクの頭に打ち下ろされた。
「ごぼぼぼぼ」
「ちょっ、プロデューサーさん!? なんてことするんですか! まさか!?」
白いワシはなにもいわず、左の翼を開いた。そこに墨と筆の文字でなにか書きつけが浮かび上がる。歌鈴には見覚えがあった。父親の字である。目を疑いつつも読んだそれは、水着の撮影に遠方へ赴いた一人娘を心配する言葉が連ねてあった。困り果てた顔で歌鈴は白く輝くワシの手紙から顔を離す。
「式神……。お父さん、いつの間に陰陽道を」
「なにすんだこのヘリコプターパパ!」
「ちょっ、プロデューサーさん!?」
紙の足をはねのけてまたたく間に空高く飛び上がり、鉤爪の四本ずつで相喰み回転する……要するに猛禽類同士の喧嘩をはじめた父親(の式神)とプロデューサーを、心配と呆れのまぜこぜになった顔で歌鈴は見上げる。
「どうしよう……」
「本当にねえ」
背後から呆れきった女性の声がして、歌鈴は振り向いた。振り向いて叫んだ。タイムキーパーの顔だけがそこに浮かんでいたからだ。顔は不満げに唇を歪めてみせる。
「なんだい、妖怪変化には理解のあるいい子だって聞いてたんだがねえ」
「目の前に顔があったらだれだって驚きますよ!!」
「そーだそーだ、しかも四十路の厚化粧だぞ失神しなかっただけえらいんだ」
「おだまり三十路小僧。そんなことよりそろそろ撮影を再開するよ」
「あっ、ろくろ首……。きょうのスタッフさん、どこかしら伸びるんですね」
「体が伸びるのはあたしと河童だけよ。あとは鼻の下伸ばしてる連中がちらほらね」
喧嘩していた二羽の猛禽がすっと降りてきて、片方は声で、片方は翼に文字を浮かべておなじことを訊いた。“そいつらの名前は?”
「さっききりっと真面目に撮ってくれてたカメラさんに“なんでシケた顔してるの?”ってすっごい絡んでたのに」
「
“もういい、顔を見ればわかる”と二羽が飛んでいき、呆れ果てながらろくろ首も浜へ首を縮めていく。歌鈴も白い太陽へぐっと手首を伸ばして、夕刻の撮影に気持ちを向けはじめた。フロートに腹ばいになってのんびり泳いでもどろうか。その姿を想像するとあざとく思え、降りて手で牽いていこうと考えなおす。遠浅の海は浜からだいぶ離れたフロートの場所でも、まだ歌鈴の胸を濡らすていどのはずである。ラムネのゼリーのような海は掬えばあたたかく、のぞけば底の白砂を透かして、カラフルな魚のダンスを見せてくれていた。
「……あれっ」
だが、降りようと乗り出した歌鈴が見たのは、夜空よりも濃い青い水の色だった。フロートを係留していた“バナナ色の”ロープはたわんで、ウミヘビのように水面の下で揺れる。黄色をたどって視線を上げればはるか先、くつろいで眺めたより半分ほどの小ささに小島が見える。数人が集まって騒いでいるのは、ロープを結んでいた杭のあたりだろう。歌鈴は青ざめた。
「流されてる!?」
「歌鈴ー!」
耳のいいミミズクも目の利くワシも、歌鈴が騒がずとも彼女を見つけた。空から駆けつけていうには、これはシオマネキの変化の仕業である。人間の子供を小舟に乗せて引き寄せて食べる、共存できないタイプの変化だ。河童たちがロープを掴んでも、止めるのが精一杯なほどに強い。それをやっつけてくるとこともなくいう二羽を、歌鈴は止めた。
父親の式神はきっと強力だろうし、化けミミズクの目には見ただけで殺す毒がある。二人がかりならばまちがいなく退治はできよう。しかし身内と血なまぐさいこととの結びつくを肯んじえぬものが、彼女の胸にはあった。
「あの、わたしがプロデューサーさんにおぶさって浜にもどったらじゅうぶんじゃないですか?」
「それはおれも思ったんだけど、そのフロートも撮影にまだ使うんだよ。キッチリ仕事をやりとげるにはどっちも無事にもどんないと」
「カニさんはこのフロートを操ってるってことですか?」
「幼児だったら人間もまとめてだろうけど」
歌鈴は操られるには育ちすぎていた、というわけだ。モンスターペアレントの殺傷能力の高さもだが、シオマネキの変化の見こみちがいはさらにあった。歌鈴はペットボトルの水を頭からかぶり、口をすすいで指先を洗った。
「なら、カニさんの呼び声を断ちます!」
小舟と呼ぶにも満たぬ不安定な足場に正座をし、残った水でフロートを洗う。幣の代わりになるものを探して桃色の指がさまよい、空になったペットボトルを平たく潰す。左、右、左、右。ポリエチレンの板が一メートル四方あまりを包む邪気を祓っていく。だが相手もさるもの、ひとたび弱まったかに思えた引力は強さを増してフロートを掴んだ。浜辺のスタッフたちもロープを握る手に力をこめ、一瞬ののちにひっくり返る。途中で切れたのだ。
「あああっ、未熟者、歌鈴~!」
「自分を悪くいうもんじゃあないよ。歌鈴のやさしさがわからんカニだけだ、悪くいわれていいのは」
化けミミズクはふたたび沖へ羽ばたく。式神のワシは一歩遅れて反対側に飛んだ。歌鈴の揺られるフロートの上に、紙の両足で着地する。
「幣も祝詞もちゃんとしたものを使いなさい」
左の翼に文字をそう浮かべるや、右の翼が根本から崩れて御幣に変わる。白い翼の御幣を歌鈴は握った。ワシの翼にはひらがながつらつらと現れ、緋色の瞳がそれを見る端から赤い舌と唇が歌うような音を紡ぐ。海からの邪気が押しのけられていくのを妖怪変化たちは見た。フロートががくんと大きく一つ揺れる。歌鈴が振り向くと、緑色の腕がフロートの端をしっかと掴んでいた。
「河童さん」
風を切ってフロートは浜へともどる。河童の腕の縮む速さは、タイムキーパーと迫る夕焼けに急かされてのものだ。黒に近い青色の沖で、あきらめ悪くシオマネキの変化が海面にしぶきをあげる。だがいいところのなかった化けミミズクに八つ当たり気味にハサミと脚を蹴りちぎられると、ブクブクと昏い海中に没していった。
「もう、せっかく平和に終わりそうだったのに」
困り笑いを歌鈴は作ってみせた。低空を並走する化けミミズクの素知らぬ顔の向こうで、太陽は柘榴石の輝きに変わりはじめている。
(了)