土曜の夜。<新宿>である催しが行われた。
魔法街、での“明るく楽しいサバト”である。参加年齢、性別、人妖問わず。誰でも楽しく魔法使い達と交流しましょう、というイベントだった。
ただの遊び感覚の場として設けられてはいない。若い者達はこの場で一般区民や観光客らへ、“秘儀”を悟られずどこまでも表面上は穏やかに、精神を保ちながら接する事を求められる。ベテランは彼らの一日の動きに目を光らせ、全てを査定する。
トンブ・ヌーレンブルグはこのイベントにはまるで関わりたがらない。彼女にしてみればひよっこ達の修行のための屋台の陳列、程度の事にしか感じられない。仕方なく、代役として人形娘が代わりに出ているのだが、辛口の評価と長所を見抜く目の評判が好評で、トンブはますます複雑な気分になっていた。
そんなチェコ第二の魔法使いの心も知らず、参加者の一人は上機嫌で帰途についていた。
霍青娥。妙につやつやとした白い肌を夜風に晒しつつ、この邪仙は鼻歌交じりで隠れ家への道を歩む。<新宿>の夜は危険である。だが、幻想郷で“死神”に追いかけられながら平然と生活していた彼女にしてみれば、この恐るべき土地でもやる事は変わらない。
好きな時に出かけ、興の赴くままに行動する。“明るく楽しいサバト”に参加した彼女は、大いに種々多々な魔の技に触れ、男と女の間でしか出来ない“術”も熱く深く体験した。
オトコ、の影がやや薄い幻想郷ではなかなか出来ぬ事だった。身も心も満たされながら、空の半月を見上げた時。
急激な加速音が背後で聞こえた。振り向くと、ヘッドライトをハイビームで輝かせながら猛烈な勢いで黒塗りのベンツが突進してくる。
ふわり、と鮮やかに舞い上がり、足元を車体が通過していく。フロントガラスに黒く揺らめく何かが張り付いていた。突然視界を遮られて、運転手がパニックに陥ったのであろうか。
そのまま道路脇の街灯と柵に激突し、車は停止した。間抜けな救援音が鳴り、助手席からドアを蹴破ってスーツ姿の男が現れた。手に持った短機関銃を撃つ前に、フロントガラスの黒い揺らめきが人型を取り、正面から男へ覆いかぶさった。
グチャグチャガリガリ、と肉と骨の咀嚼音が聞こえた。男、であった肉片と骨、銃を残し、黒い影は立ち上がった。
「美味しかった?」
あまりに場違いな質問が、明るい声で投げかけられた。影は何故かビクッと輪郭を震わせ、ゆっくりと声の主を振り返った。
青を基調とした、ゆったりとした服装。身体の周囲に、巻き付きもせず不自然に白く清浄な布が浮いている。そして、今人一人が食い殺されたというのに、顔には恐れも驚きも無い。引き込まれそうな明るさと無邪気さが、美しい顔を彩っている。
「●×△◇!」
言葉にならない、しかし後一つなにか加えれば意味が通りそうな、そんな叫びだった。
青娥の口元が綻んだ。意味が分からなかった。だが、聞いた事の無い類の叫びに、彼女の好奇心が微かに動いた。
「芳香ちゃん」
音高く指を鳴らす。背後の闇から、青娥のお供でありキョンシーの宮古芳香が、両手を前に真っすぐ伸ばした独特のポーズで飛び出した。影の中に隠れてでもいた様な、そんな唐突な出現だった。
「捕まえて!」
命令をどう解釈したのか、芳香は素早くクナイ状の弾幕を相手の爪先と、両肩に撃ち込んだ。そして、機械的に腕の関節を曲げると黒い揺らぎでよく見えない頭の部分を掴む。
そのまま喉に噛みついた。キョンシーは相手の血を吸う事で、他者を同じくキョンシーに変える特性がある。しかし、この場合はどうだろう。正体不明の存在にキョンシー化が通じるのか、それ以前に、「捕まえて」という命令をどう解釈して噛みついたのか。
黒い影は意味不明な叫び声を上げながら、頭を抱え後ずさった。身体を覆っていた黒い揺らぎが薄れ、消えていく。
そこに現れた姿は、形だけはヒト、だった。足の指から毛髪がちびちびと残る頭部、まで、皮膚にひびでも入っている模様、なのかと思われたが、よく見ると色々な肉片が一枚一枚いびつに張り付いて構成されている。
眼には瞼が無いが、眼球はきちんとはまっている。何故か潤いを残したまま。
不気味なそれは、滑稽にもキョンシーのポーズを取った。
「うーん? 芳香ちゃん、お友達にしちゃったの?」
「捕まえる、青娥、キョンシー、操る、得意」
「あら、言われればね」
青娥の手が浴衣な胸元に入り、一枚の札を取り出した。鮮やかに飛んだそれは、怪物の額に貼り付いた。
「やめておいた方がいいぞ」
振り向いた青娥の背後に誰もいない、わけではなく、視線を下げると目が合った。
半壊した車の中から、奇妙というかこの場に似つかわしくない存在が降りている。
二つの小さな背丈。サスペンダーの半ズボン、小さな背広、そしてお坊ちゃまカット。
顔立ち、子供にしては不気味な程細く、鋭い目つきがそっくりな子供達、だった。
「どなたかは知らないが、礼は述べよう。しかし余計な手出しだ」
「僕、の手で片付けられた」
細い視線が、一瞬だが交錯した。色々な意味で社交的とはいえない雰囲気の子供達、だった。
青娥は双子を薄笑いしながらじっと観察した。面白かった。更に、偶然だったが半壊した車内に、まだ人影が残っているのが見えた。運転手、そしてナイトドレス姿の女。
どちらも気絶しているらしく動かない。双子の片方が、腕組みをして一歩前へ出た。
「おい、母様をあまりジロジロ見るな」
「やめろ、馬鹿が」
うっかり、自分で女性の素性を明かしてしまった少年を、もう一人が窘める。
邪仙は深く礼をした。
「これは失礼を。私は今宵の事、何も見ておりませぬ故」
本心は違う。青娥はこの件に深く首を突っ込みたくてしょうがなかった。火がついてしまった。
「それではごきげんよう」
幻想郷では興味を持ったらひたすら正面からまとわりつく、のが邪仙のやり方だった。
しかし、魔界都市、という場所ではそれが通用せず、結構痛い目にあった事もあり、青娥は時に引いてみる手を覚えた。
その場からふわりと軽く宙に浮き、夜の闇へと消えていく。その背後に、芳香と、新たなキョンシーが続く。
双子は何もせず、不気味にその背を見送った。
翌日。
再び魔法街に青娥と芳香、そして布を被せられて姿を隠したキョンシー二号(青娥は二号ちゃんと呼んでいる)達が現れた。
トンブ邸の扉の呼び鈴を鳴らし、誰も出ないと分かると青娥は簪を突きさし、穴を空けて入ろうとした。彼女の“壁をすり抜けられる程度の能力”である。だが、扉が突然軟質の素材に変わった。簪が抜けない。手間取っている内に、重々しく扉が開いた。人形娘が表情はないが、何処か憮然とした雰囲気で立っている。
「霍青娥、様。扉はくれぐれも穴を空けないでくださいと言いましたね?」
「だってー、誰も出てくださらなくて」
「帰れという意思を読み取る事が出来ないのですか?」
「トンブさんなら、私の話を聞いてくれる筈よ?」
「あの方に企みを吹き込まないでください」
「報酬もきちんと払うから、ね?」
「以前は元気になるという漢方薬、でしたね?」
「ええ、老若男女問わず精気が五臓六腑に染みわたり、肥満の方には脂肪の燃焼にも効果があるのよ」
「‥‥試しにある方に飲んで頂きました。新薬のモニター、と嘘をついて。その方は五分後、突然走り出し、三日後、<新宿>を飛び出して遥か埼玉の山中で倒れているのを発見されました。しかも何事も無かったように目覚め、メフィスト病院で経過観察中です」
「あら、家康の無比山薬丸を見習って、八味地黄丸に再生マンモスの巨根と新宿御苑で見つかった新種の薬草を入れてみたのだけど」
「まずご自分の身体で試されては?」
「私には必要ないもの、元気元気!」
お茶目のつもりか筋肉ポーズをとって見せる邪仙だが、人形娘は後に引かなかった。
「とにかく、貴方は出入り禁止です。扉にも壁にも軟化の仕掛けが施してありますから、その簪も使えません」
「あーら、じゃあ機動警察から特殊装甲車借りてきたら入っていいの?」
「扉を無理矢理ぶち破ると仰りますか? 戦争でも始めるつもりで?」
「いーわねそれ! トンブさんと私で第三次大戦起こそうかしら!」
「やめてください、後帰ってください」
「ねーいいでしょ人形娘ちゃーん、私は貴方の事も大好きなのよ、貴方って不思議の塊でしょ。幻想郷のアリスちゃんでも叶えられない完全自律人形の極致じゃない。もし出来るなら一晩中語り合いたいわ」
「気持ち悪い言葉使わないでください、警察呼びますよ」
「警察、誰が来るのかしら? 鬼顔さんだったら背中のミウミウちゃん観察したいし、シャーリーさんならあの長い指でねっとりと尋問してほしいわ! 屍さんは取りあえず芳香ちゃん盾にしないと撃たれちゃうけど」
延々と押し問答する二人を、巨大な威圧感が圧し包んだ。音も立てず、下手なチンピラなど眼光で粉砕しそうな威圧感の肥満体が現れたのである。トンブ・ヌーレンブルグ、チェコ第二の魔道士。
「何漫才やってるんだわさ」
「トンブ様、今青娥さまはお帰りになるところです」
わざとらしくしなを作る邪仙。
「いやーん私達莫逆の友でしょ? ね、お願いよートンブちゃん」
「誰が大陸産の極道仙人と友達だ、変な噂になるだわさ」
「あーらつれないわねぇ、ホムンクルスのヤンシャオグイ開発の時は、あんなに激しく愛し合ったのにぃ」
ホムンクルスのヤンシャオグイ。人工生命の秘術を中華の道術「养小鬼(子供や流産した胎児の遺骨などを媒体にその霊魂を使役)」と組み合わせた外道中の外法。
霍青娥がこれまでどうやって己が得意とする“邪符「ヤンシャオグイ」”を用いてきたのか、謎が多かった。子供の霊魂は三年目までしか手元に置けず、その後は成仏させないと悪霊化するため、青娥は三年ごとに“子作り”をしている、と噂された。その実態を知る者は幻想郷に二人、だけという。
一人は八雲紫。青娥は時々外界へ出て、中絶が行われる病院、治安の悪い場所、貧困地帯、紛争や内戦が今だ続く所へ赴き、そこで大量に子供の霊魂を集めて来る、という。
ただし意外な事に、優しく子守歌を歌い、霊魂に生前の名前あれば必ず覚えて、三年の付き合いの間決して忘れぬという。その姿は外道を行う邪仙ではなく、生れ落ちる事の無かった命を拾い上げる別の何かに錯覚させる程であった、と紫は阿求に漏らす。阿求はこの事を未だ書物には記していない。
もう一人は射命丸文。こちらは、もっとおぞましい光景を目にした、と語る。
子供の霊魂が必要になった時、霍青娥は多数の男を連れて様々な場所へ出かける。そして、三日三晩その男達と不眠不休で交わる、やがて男が何処へともなく消えた後、突然大地に横たわり、大きく足を開いた青娥の股から、赤く蠢く何かが次々と吐き出されていく。
幾千年の時を生きた天狗の手が、凍り付く光景だった。邪仙は男達の精を身体に受け、如何なる秘術か、己の胎内で瞬時に胎児もどきを「生産」していたのだ。やがて彼女の周囲は不気味に蠢く赤い肉塊で埋め尽くされ、その中心で青娥は恍惚としていた。
目撃した一部始終を、文は友人の姫海堂はたてと遊びにいった時、夜の寝物語として聞かせたという。このため、何処までが事実かは分からない。ただし、はたてが後日、戯れに“念写をする程度の能力”で文の言っていた場所を「念写」してみた所、赤い小さな髑髏がドアップで移り、乳首に“何か”が噛みついた。後で見たら、小さな乳歯の噛み跡がしっかりと残っていた。
怖くなったはたては、それ以上何もせず撮影写真も破棄している。
「愛し合ったとかなんだわさ、殺し合った筈だね」
「近年の流行で殺し愛、というやつね~美しいわ~♪」
「まあお前は殺しにくいからね。幻想郷の、あの偉そうな濡れた鬼も手こずっているそうじゃないか」
「あら、鬼神長さんとお知り合い?」
「召喚して歌舞伎町の悪魔っ娘BARに連れて行ってやったわさ。魔界都市特製の血の池シャンパン三杯で地獄の愚痴を語りだしたから、相当心労たまってるわね。お前を逃し続けて書かされた始末書で大砲弾が防げる、とさ」
「なら私と貴方の間にも縁があるのね、共通の知り合いがいるんだもの!」
「本当無駄にポジティブな奴だわさ」
トンブは微かに舌なめずりしながら、眼を必要以上に輝かせている邪仙を観察し、思考した。<新宿>の常識なら、この手の思考の者は珍しくない。徹底して自己中心的故に表裏無し、ただし危険とのほんの少しの利益をもたらす。
ほんの少し、がとてつもない物に化ける事もある。以前、殺し合った後、結局押し負けて研究を手伝った見返りの漢方薬。効き過ぎ故、苛立ち紛れにトンブが苦労して薬を分離し、配合比率を変えたところ、僅か指先程度の量を一日三回一か月、で虚弱体質の老人がマラソンを完走出来る程健啖になる薬へと生まれ変わった。
老齢にのみ、劇的かつ副作用の少ない効能をもたらす。トンブにはお呼びではなかったが、彼女が手を加えて製薬会社に横流しした品は旧態化していた漢方に衝撃をもたらし、魔道士の懐を潤したのである。
「あたしに話がある、というなら出すものあるんだろうね?」
「そうね‥‥幻想郷の天界から盗んだ桃、本物の天界の蟠桃。それか、仙人のお肉」
「桃はなんか怪しいさね。しかし不老長寿を約束する仙人の肉、か。あんたの事だから誰かを騙してあたしの前に差し出すつもりかね?」
邪仙はスカートの裾を持ち上げた。並みの男ならその美しく滑らかな素足に涎を流すところだが、この場合は魔界都市の肉弾派魔道士が相手である。
「この脚の何処から“切り取って”さしあげましょうか? それとも別のトコがいい?」
「‥‥いい覚悟、と素直に言えない奴だわさ、お前は。入れ、話を聞こう」
人形娘の抗議も虚しく、邪仙とそのお供二人は邸内に迎え入れられた。
芳香の隣、頭から布を被っていた新たなキョンシーの姿を見せつけられ、トンブは形だけは不思議と綺麗なラインの眉をひそめた。
「あんた、区の死体置き場から盗んできたんじゃないだろうね?」
「まさか、出会いは唐突、一期一会よ」
「警察が事情聴取にきたらそう言ってやんな。‥‥その子が一回噛んだのかい?」
キョンシーに手をかざしながら、顎で芳香を示す。青娥は頷いた。
「その前、が気になるてわけだ。こいつが何だったのか、てね」
「ご名答」
「興味が湧くモノでも感じたかい」
「“叫び声”ね。何を言ってるのか聞き取れなかったから」
「ふん、果たしてそれだけかね? あたしも少し興味が湧いてきたな」
分厚い唇がぶつぶつ、と呪文を紡ぎ始めた。太い指が突き出され、キョンシーの身体に触れる。その全身に青いプラズマの様な光が一瞬走った。
「百」
「え?」
「こいつの身体は、百人の人間の破片が集まって出来ている。正確には、肉片に残った魂のカスが寄り集まって出来た物、かな。一番でかい魂、は‥‥」
指が何かを辿る様に段々と上へ移動し、キョンシーの目玉で止まった。
「これだ。この目ん玉に宿ってる」
「ふーん、じゃあそのお目目に、お話を聞く事出来る?」
「何を言い出すんだわさ? 眼が喋れるわけないし、所詮はアンデッド。しかもあんたのキョンシーみたいに五体満足‥‥いや死体満足というべきかな、とにかく、そういう注文ならメフィスト病院いくだわさ」
「だーめよ、あそこ私出禁なの」
トンブの眉が吊り上がった。
「何やらかした!?」
「院長先生のお部屋に、ちょっと。流石に死ぬかと思ったわー」
軽蔑と侮蔑の入り混じった視線をトンブは露骨に突き刺した。
「あんた、いつかこの“街”に殺されるよ」
「あーらそれは楽しみ。で、どうする? 私、知りたいの。この子がどうしてこうなったか、何を叫んでいるか、確かめたいの」
不気味な肉人形のキョンシーを、愛おしそうに撫でる青娥。トンブは再び計算を巡らした。
「本当に盗んで来た死体ではないね? 病院の死体安置所、とかは本当に御免被るよ。もしなんかあれば、あたしが自分でお前に引導を渡す。あの地獄の鬼らも呼び寄せて、絶対に仕留めてやるから、肝に銘じておきな」
「はいはい、ではせめてものお慰み。とくとご覧なさい」
青娥が簪を抜くと、スカートをまくり上げ、太ももの辺りを一閃した。その手に、3㎝程の小さな肉片が現れる。
「仙人の身体に最も価値があるのは肝‥‥ただし仙気は全身に行き渡り、常人がその肉辺でも食せば不老長寿。ましてやこれは、外道の邪仙の肉。聡明な貴方なら使い方は分かる筈」
「‥‥ふん」
トンブの厚ぼったい掌が不気味なキョンシーの片眼に添えられた。どういう技か、眼球はあっさりと取り出され、潤いながら手の上で転がる。
「何があったか、手間ではあるが“眼”に聞いてみるよ。問題は何処まで魂がきちんと覚えているか、だが」
眼球の横に肉片が置かれた。死者の眼の横で、肉片が蠢く。まるでまだ血が通っているかの様に。トンブの眼光は邪仙の股間へ走った。スカートの内から血も垂れた様子はない。
霍青娥は、ただ不敵に微笑んでいた。
トンブ邸を辞した青娥は、新宿有名肥満魔神の内、もう一人のとこへと赴いた。
ここでは“痩せる裏漢方”を取引材料に使い、ある情報を入手した。
ちなみに漢方薬、確かに痩せる効果はある。ただし、きっちり5㎏まで。これ以上痩せようと思った者がもし大量にこの薬を服用すると、内臓の何処かが5㎏、新たに痩せる。
それに気付かず服用を続けると、やがて自分の脳味噌までが“痩せた”事にも気付かず、最後は心臓が痩せ、この世から姿を消してしまう。
筈なのだが、もう一人の女、外谷順子は自分が5㎏減ったその日にラーメンの大食い大会とフライドチキン屋のサービス・デイに出くわし、薬が副作用を出すとか以前に体重が変化しなかったそうである。呆れた様に薬は切れ、情報屋は舌打ちした。
翌日。
区外へと飛び出した青娥は、電車とバスを乗り継ぎ(二体のキョンシーを連れて、である)、東京都からも離れある場所へ来ていた。
魔界都市の誕生は、単に恐怖の街が日本で産声の絶叫を上げた、というだけではない。
区外の者には、凄まじい金や技術をもたらす魔の桃源郷でもあった。
<新宿>より大量の様々な賂を受け取れる東京都知事は、総理に並ぶ影響力をもたらす地位となり、東京は二十三区だけでなく、西部の都市群や周囲の県まで巻き込み、世界有数の大都市へと変貌した。技術の進歩は過密空間での集団生活を可能とし、日本中の若者という若者は東京へ殺到した。
だが、そんな中にも夢破れた者や都会での暮らしに馴染めない者達が、様々な理由で東京を離れ、過疎化したとこに集落を作っていた。
そんな僻地と化した地域、山奥に一軒の診療所がある。ここは一人の女医が住んでいた。
短い髪、野暮ったい眼鏡と申し訳程度に引っ掛けた白衣、少し古ぼけたジーンズ。垢ぬけない容姿だが、腕が良く患者を根気強く診る上、遠くまでバンを運転し往診に訪れる。
素性は誰も知らないが、この過疎地では菩薩の様に慕われていた。
霍青娥がこの診療所の前にキョンシー達と降り立つまでは。
木製のドアの呼び出しホンを押しても返答が無く、芳香に扉をドロップキックさせても反応が無いため、得意の壁ぬけで繰り抜いて中へ侵入した。
途中、何度も“転んだ”が、青娥は平気な顔をして鼻歌交じりで診療所の二階、ここの主の私室、へと向かう。
粗末なベッドの置かれた部屋に、白衣とジーンズ姿の後ろ姿が立っていた。一人と二体が部屋に入ると、突然ドアが激しく誰の手も触れずに閉まる。
「どなたかしら。急患?」
「ええ、貴方にしか頼めない病気なの」
「お断りするわ」
「何を言ってるか、分からないの。この子がね」
「断る、と言ったわよ?」
振り返った女は、野暮ったい眼鏡を外した、
黒い風、が室内に吹き荒れ、その中心に先刻の女医者はもういない。短かった筈の髪は黒く、滑らかな光沢を持って腰まで伸び、ジーンズは古き時代のハリウッド・スターでもこうは着こなせない程綺麗に脚へ吸い付いていた。白衣の前の胸はこうも形よく突き出ていただろうか。
「こうしてお会いするのは初めてですわ、ドクター・シビウ」
「軽々しく名を呼ばないで頂ける? まるで漫画の中の天女みたいな恰好をして、しかも内面は‥‥」
かつて、<新宿>でドクター・メフィストに挑んだ女医師。それ以前は、メフィストと同じく“歩行者の語らい”という大学でドクトル・ファウストの教えを受けた、兄、いや姐弟子。
魔女医シビウ。死者すらも蘇生させる、一面ではメフィストすらも上回る技を使いこなし、一度は新宿駅西口の大陥没口で行われた「治療戦」に勝利。新宿六丁目にシビウ病院を建設し、区民の脳味噌を何処とも知れぬ場所へ運び出そうとしたが、結局メフィストの「針金」に気付けず、最期は醜態を晒した末自らの病院の倒壊と共に姿を消した、筈だった。
その女が、何故こんな僻地で医療行為など行っているのだろう。そして恐るべきは、この事実を突き止めていた外谷順子である。でぶの眼は欺けない、のだった。
「何処かで見た、と思ったら私に似てるのね。貴方は」
「そうなのかしら? 私はただ楽しく生きているだけよ」
邪仙、霍青娥の薄く笑った瞳と、魔女医の妖艶な視線がぶつかり合った。この二人には共通する所がある。自分の追い求めるもののためなら、どれほどの犠牲が出ようと気にもしない。かつてシビウをメフィストは、「病んだ者を治すと思っていない」と評した。霍青娥もその美しい笑みの奥に、血で塗装され骨で舗装された道がある。仙人、ではなく邪仙であり続ける所以は、まさに外道でありながら自らを是とする精神構造であった。
ただし、シビウある所災禍あり、とはいえ、その原因は果たして彼女であったものか。
腺ペストが発生した病院で患者から関係者全てを焼却処分し、彼女一人が生き残った事件。
東欧で旧式の原子炉が爆発し、国土の九割が汚染され、一時期死者と白血病患者が増加した際、原子炉管理局の医療責任者、だった事もある。
<新宿>で起こした邪悪な企ても、裏で何者かが暗躍した結果でもある。ドクトル・ファウストの欲した結果、とも言われているが、この件に関しては謎が多い。
「それでも、貴方の頼みは何であれ聞けないわね」
「ふふ、ペストの処置をあれだけ一生懸命していた女医師が、お厳しい事」
シビウの眉が吊り上がった。美しい顔が激しい激情に彩られ、髪が逆立つ。
「あの時、黒死病を完全に治療出来たのに、それを行ってしまえば歴史上ある人物が田舎へ帰る事が無くなり無名で終わる。この結果、文明の進歩が五百年遅れる。また人口爆発の歯止めが効かなくなり、数十年後、更に多くの人間が飢えと戦争、新たな疫病で死んでいたわ。これはアカシア、明石家? アカシック? なんでもいいけど、あの面倒臭い記録に記され、そして初期心理歴史学と七大占星術、欧州最大の宗教の“神託”により、焼死者三千八百人を含む、世界での大流行は歴史に埋められた人柱だった。貴方が一人生き残り、無罪判決を受け、ついでに全ての憎悪を集めたのは何故かしら」
「何処でそんな戯言を?」
「仙人の世界にも、様々な未来を読み取りそれを記録している者がいるわ。私は一度その記録を読ませて貰ったことがあるのだけど、貴方の事はずっと覚えていたのよ。興味があった、から」
青娥が赤い唇を軽く舐めた。シビウ、は憎悪を止めも隠しもしない。黒い風が室内に充満しつつある。
「知らぬ。私にはどうでもいい事だった」
「もしあそこにいたのがメフィスト先生なら、歴史は変わっていた? 貴方は歴史の流れに抗わなかった。そういえば、ここへ来る時、地元のお爺ちゃんに会ったの。貴方のおかげですっかり風邪が良くなったって。優しい先生がいて、ありがたいって。魔界都市の区民の脳を取り出して怪しげなおクスリを作っていた貴方が、何をしようとしているの?」
キラキラとした目で、煽る。いや、邪仙は無意識に言っているのだった。魔女医の身体から毒の籠ったオーラが放たれる、が、すぐにそれはしぼみ、消えてしまう。
「この私が、このド田舎で慈悲深く腕のいい医者、を演ずる気持ちが分かる?」
「え?」
「メフィストは<新宿>だからこそ腕を振るえる。あの魔界だからこそ彼は“魔界医師”でいられるのよ。彼が国境なき医師団に参加し、紛争国の間であの腕を無料で振るう姿が想像出来る?」
「‥‥うーん、とっても絵にはなるでしょうけど、あくまでそれは絵に描いた餅。絶対に実現はしないわね」
「私にとって、こんな場所、患者らを相手にし、日々愛想を振りまくのはとてつもないストレスよ。拷問ともいっていいわ。でも、今はその苦痛が<新宿>で受けた屈辱を忘れさせない」
「つまりここにいるのは、貴方のリハビリなのかしらね」
「そういう事になるわ‥‥さ、もう帰ってほしいのだけど」
「久しぶりに、本格的な患者を診ない?」
青娥は、部屋の片隅に手招きし、芳香ではないあのキョンシーを連れて来た。
「彼女の生前の記憶、貴方の技なら復元できるのでなくて?」
「無意味だわ。私には何のメリットもない。ただの死体蘇生、をここでやっても」
無言で青娥は衣の帯を解いた。羽衣と脱ぎ捨てた衣の下には何も着けていない。
その裸体を前に、シビウは顎に“左手”を当てた。
「仙人の身体を解剖した事はあって?」
「いいえ、師匠でも仙人の“完全”な遺体は入手出来なかったわ‥‥」
「肝の一部をさしあげますわ。そして、取り出すところを見せてあげる。見学なさい」
そう言って、邪仙は美しい乳房の一角に簪を突き刺した。そのまま、ぐるりと綺麗に円を描き、自分の身体に“穴”を作る。
「痛いのよ、これ結構」
「分るわ、その位」
近くで軽く涎を流す芳香に、切り裂いた外皮と肉・骨の塊を渡した。血渋き一つ流れないが、ピンク色に波打つ内臓に邪仙の手が入る。中から赤黒く、形の歪んだ小さな物体が取り出された。
「あら、間違えた」
人間には無いその“何か”を戻し、今度は別の灰色の塊を出す。
「魔界の妖気に当てられたのかしら? 色が変ね」
「ただの飲み過ぎと診るわ。さっさと切って」
「はいはい」
現在室内で行われている不気味極まる儀式には程遠い会話、だった。肝臓、らしきものの一部を切り落とし、邪仙は元通り臓器を戻し、芳香から肉を受け取って穴に押し当てた。
傷口は塞がり、何事も無かった様に衣服をまとう青娥。シビウはいつの間にか出した銀の皿に、邪仙の肝の一部を受け取っていた。
「口だけでは無い様ね。まやかしでもない」
「結構やるでしょ?」
「対価に見合う技を見せたいのだけどね。貴方、分かってるのではなくて?」
「?」
「私はメフィストの針金を見抜けず敗北した。あの時のダメージはまだ残っている」
シビウは右手を、百八の魂が合成されたキョンシーに突き刺した。トンブが抜いた片目から体内へ。一本の手が苦も無く、不自然に吸い込まれている。
「‥‥魂の断片はどれもちっぽけ。でも一際大きいものがある」
突然顔をしかめ、シビウは右手を抜いた。人差し指の先端が食いちぎられている。
「どうしたの?」
「腕が鈍ったわね‥‥。百個目の魂を、何かが守ってる。ただし、いい意味ではない。エサ」
「エサ?」
「自分以外に狙う何かがいて、それが消えるまで守ってるのよ。こんな魂に、随分とご執心ね」
シビウの右手の指はすぐに再生した。
「さあ、もう帰って頂戴。外に車の音が聞こえたわ。あれは近所の家族よ。多分、父親の膝ね」
「すぐに分かるのね」
「診療の御礼だって、いっぱい野菜を持ってくるのよ? ここの所、ずっと野菜カレーばかり食べて‥‥」
いつの間にか、部屋の中から黒い風が消えていた。シビウの顔には野暮ったい眼鏡が戻り、“優しい先生”の姿が偽装されていた。
やがて彼女はまた本性を現し、この近辺の住人を何らかのおぞましい実験に捧げるつもりなのだろうか。<新宿>で治療と称し、区民の脳を取り出して何処かへ出荷したおぞましい所業は変える事が出来ない。変える気もないであろう。青娥は何も言わず、愚痴る魔女医を置いて外へ出た。
外に止まっている電気自動車の近くで、五歳位の男の子が遊んでいた。患者の家族だろうか、青娥はその隣にふわりと舞い降りた。無垢な目で見つめる男の子の近くに、邪仙がしゃがみこむ。
「おねぇちゃん、だぁれ?」
「先生にね、治して貰ったの」
「へー、せんせぇ、えらいでしょ? ぼくのとーちゃん、ずぅっとおひざいたいいたいだったのに、なおしちゃった。かーちゃんもアタマいたいいたいのとんでっちゃった。ぼくのアツいアツいのも」
「あーら」
「でもね、せんせぇも、うちのまえでいたいいたいしてたことがあるんだよ」
「あらあら」
「おじいちゃんとおばあちゃんとぼくがね、みつけたの」
「‥‥ふーん」
邪仙の顔に微かに悪い笑みが浮かんだ。彼女は何事かを男の子に吹き込んだ。彼女は知っていた。
この僻地には、“幻想入り”すらしていない土地神の血脈がまだ残っている。人が少なくなった事で、逆に霊気が戻っている。<新宿>で手痛い打撃を負った罪深い魔女医。彼女は果たして、ここに偶然住み着いたのだろうか。
青娥が去った後、魔女医の診療所に微かだが黒い風、が吹き荒れた。
何故か。
「せんせぇ、おヨメさんになって?」
意味もよく分からず放たれた五歳の言葉に、邪仙の哄笑が裏で聞こえた様な気がした。
魔女医のストレスがまた、増えた。
僻地からの三両ローカル高速列車で帰る途中。窓の外に見覚えのある姿を見つけた。
ヌーレンブルグの大鴉。窓を開けた邪仙へ、嘴にくわえた小袋を突風の中器用に投げ渡し、飛び去る。車内が大騒ぎになる中、青娥は小袋に入っていた手紙に目を通し、それが自動的に“燃えて”消滅するのを見届けた。
「さーて、“叫び”の意味が分かりそうね」
青山の超高級住宅街。
ここに近年、目覚ましい躍進を遂げている政治家の邸宅があった。過去は大した実績の無い、世襲の議員でしか無かった。が、ある日結婚してから覚醒を遂げ、2XXX年の関ヶ原と言われる大選挙で与党陣営をそのカリスマに満ちた演説とパフォーマンスで劣勢から大勝利させ、いずれは総理を狙う男、と目されていた。
この厳重な警備の大邸宅に、青娥はいとも容易く潜入した。
外谷順子の情報は三つ。魔女医シビウの居場所、青娥が覚えていた“女”の住所、と、ある事件について。
霍青娥は芳香とキョンシーを連れ、壁に次々と穴を空けて目的の場所へと向かう。
警報の類は一切鳴らない。邪仙の技といえ、強引に潜入しているのだから電子の眼も魔の防壁も勘付くのが普通であろう。しかし何も起こらない。
誘っている、と青娥は看破し、同時に不敵な笑みを浮かべた。
最後のドア、は簪を使わず、強めに仙気を放ち、開けた。重々しく扉が鳴り、奥にはマホガニーの執務机、その向こうの安楽椅子に腰かけた美女。そして、双子の少年、が机の脇へ衛兵の様に立っている。
「お邪魔致します」
優雅に礼をする邪仙。室内の三人はピクリとも動かない。
「私、霍青娥、と申します」
少し青ざめた美しい女が、椅子から問いかける。
「一体どの様なご用件で? 息子達が、貴方の潜入を黙って通せというから」
「私、現在は故あって<新宿>に住まわせて頂く身分で御座います。職業は、仙人」
「それ、お仕事ではないでしょう?」
「どうなのかしら? 芳香ちゃん、どう思う?」
青娥の正しき同行者、であるキョンシーは抑揚のない口調で答えた。
「プータロー。青娥、無職」
「あ、やっぱり」
双子が吐き捨てた。
「下らん。貴様の茶々などどうでもいい」
「お前を引き入れたのは、そいつに用があるからだ」
双子は、同時にもう一人のキョンシー、を指さした。そして、机を挟み、互いに睨み合う。
母親、は二人からただならぬ雰囲気を感じ取り、椅子から立ち上がった。
「小太郎、小次郎!」
「成程、そんな名前をつけてまで、“二人”と思いたいのね」
ここに来て、青娥の声は冷めていた。双子、の眼が互いに赤く黒く脈打つ様に点滅し始める。子供、に見えた体躯に筋肉が漲り、服が吹き飛ぶ。その下の皮膚は、青黒く変色していた。獣の咆哮を互いに浴びせ合う。だが、小太郎、の方が少し優勢の様だった。
「当然よね。片方は、あの“シビウの右手”の指を食らった。ただでは済まないわ」
互いに跳躍し、宙で双子は激突した。もはや身体に浮き出るウロコを隠そうともせず、爪を振るい、牙で噛みつき、殴り、頭突き合い‥‥姿は変わったのにやってる事はほぼ子供の喧嘩だった。だが、片方が片方の咽喉を喰い破り、その傷跡に爪を突っ込んで引き裂き、首を引きちぎった。
「や、やめ‥‥」
母親の遅すぎる静止の前で、緑の血を撒き散らしながら怪物が叫ぶ。そいつは流暢な人語を話した。
「ようやく、ようやく食い残しを食えるぞ」
部屋の隅に立っているキョンシー、を怪物は指さした。青娥は淡々と独白する。
「そう、あの時、貴女は“双子”を宿してしまっていた」
母親は、胎内にいた子供すら犠牲にしていた。
「九十九人の同じ年頃の少年少女を誘拐してきて、恐怖を味あわせた上で殺した」
でぶの情報屋に探らせたのは、区外で大規模な集団失踪事件がないか、というアバウトなものだった。だが新宿一の肥満頭脳は、あるフリーライターらが追っていた事件を思い出し、同じ年頃の少年少女らが短期間に大量失踪を遂げた、という事を調査してのけたのである。
「百人目は、貴方の娘、である事が条件だった」
娘が助けを叫び、泣き喚き、発狂する様子をじっと母親は見ていた。娘の“眼”に記憶が残っていた。
「その程度の化け物を呼ぶために、ね」
今や青娥は呆れていた。母親が<新宿>で大量の生贄(己が娘を含む)を捧げて呼び出した怪物は、その時胎内にいた生命に宿った。
だが、双子を宿していた故に存在が二つに分かれ、この世に現界してしまったのだ。
生贄を全部食らった方が、本物になる。だが、どちらも様々な術で相手を妨害していた。
それを破ったのが、“シビウの右手”。そして霍青娥の好奇心、だった。その好奇心は、今や消えようとしていた。こんな程度の怪物など、<新宿>どころか幻想郷でも大した事はない。つまらない。人二人幸せにするために大量に食らうモノ、など珍しくもない。
邪仙の興ざめなど、怪物の知った事では無かった。彼は“母親”に宣言した。
「僕がママを守ってあげる。パパもだ。あいつを全部喰って、完全になるんだ」
青娥がため息を吐く中、怪物はキョンシー、ではなく、ある意味自分の姉とも言える何か、に飛び掛かった。
その片目が、いつの間にか戻っている事にも気付かず。
眼に施されていた、退去の印術がさく裂した。トンブが、嫌がらせで施していたものを青娥があえて見逃していたのだ。チェコ第二の魔道士は、邪仙が自分の知らぬところでキョンシーにした娘を利用し、何か企むとでも思ったのだろう。それを邪魔してやるために、ちょっとした罠を仕掛けた。
その罠は、怪物の体内にあったシビウの指とも反応し、あっという間に身体を青い炎で焼き尽くしてしまった。
「なんと情けない、ねぇ、そう思いませんこと?」
眼前で我が子でもあった怪物が焼き尽くされ、母親は茫然としていた。
「それに比べ‥‥」
邪仙は、初めて愛おしげにキョンシー、にした娘を見た。
「なんという執念。<新宿>で食い残されたこの娘は、ずっと貴方を探していた」
床に残った怪物の燃えカスから、邪仙は何かを拾い上げた。シビウの爪。
「今なら、何と言っているか分かりそう。私は医者じゃないけど」
喉元に仙気を込め、爪が打ち込まれる。娘の咽喉からまず、あの意味不明な叫びが漏れ、次に意味を成した。
「ママ、ママ、ママ‥‥」
延々と続くその絶叫に、母親は護衛を呼ぶ事すら忘れていた。いや、呼んでも無駄だったろう。外に出ていた芳香が、大量の9㎜弾丸の嵐をものともせず、全員をノックアウトしてしまっていたからだ。
母親は耳を塞いだ。それでも呼ぶ声は聞こえる。
青娥は、娘の耳元で囁いた。
「ほーら、あそこにママはいるわ。よーくその目で見てごらんなさい」
額に貼られていた札を剥がした。娘は大きく跳躍して、ママに抱き着こうとした。護衛用のデリンジャーが火を噴いた。胸に風穴が空く。でも娘は止まらない。
「来るな」
その声も娘には理解出来ない。ただ、大好きだったママを探している。顔の半分を吹き飛ばされながら、娘はママに抱き着いた。力の限り。
やがて、背骨が砕け、肉が破裂し、母親は潰れた肉塊になった。青娥は、何処か白けた表情でそれを見つめていた。
娘が、半分しか無くなった顔で邪仙を見た。その唇が動く。
「ねぇ、ママはどこ?」
「もう、いないわよ」
「どうして?」
「貴方が、潰しちゃったから」
娘は自分の手を見た。
「ママはどこ?」
「‥‥もう、終わり。つまんないわ」
青娥は簪に手をかけた。娘に近付く。同じ事を呟きながら近寄って来る娘の首筋に、簪を一閃する。
べちゃり、と半分しかない首が落ちた。
「芳香ちゃん?」
外から入って来た、自分の愛するキョンシーに命じた。
「貴方が“それ”をキョンシーにしちゃうから、こんなつまらない結果になっちゃった」
「ごめん」
「お片付け、しなさい」
芳香は床に落ちた肉塊を食らった、それは量があって、食いでがあった。
最後に彼女は、ある事をして、既に穴を空けて部屋から出ていた青娥の後を追った。
誰も生ける者のいなくなった邸宅で、ちぎれた大人の女の腕に、腐り切った何かの腕が重ねられていた。
芳香がどうしてそんな事をしたのか、彼女に聞いても分からないだろう。邪仙もそんな光景は見ていない。
翌日。新宿歌舞伎町の某酒場。
ケーブルTV「スキャンダラス・ニュースショー」で、ある政治家の失脚とそれに伴う大疑獄事件が報道されていたが、すぐに店主が異種族プロレス中継に切り替えた。
青娥は今、一人の娘々としてここでキセルを咥えながら、強烈な酒とに酔いしれている。
この時、偶然であるが、ある選手の入場曲が流れた。
三橋美智也の「男涙の子守歌」だった。
「自分が飢えればこの子が育たない。でもこの子を捨てなくては自分は飢える。どうすればいいのやら」
そう呟き、美しい顎を両手に載せる。
「乳を与える母親ですら、子を平気で捨てる世の中だというのに、そんな事で悩むものなのかしら」
青娥は、自重する様に笑った。
その隣で、椅子に呆然と座った芳香が王維の「九月九日山東の兄弟を憶う」を静かに吟じている。
独り異郷に在りて異客となる
佳節に逢う毎に倍親を思う
遥かに知る兄弟高きに登る処
遍く茱萸を挿して一人を少くを
(意訳、遠くの地で独りぼっちでいると、季節ごとに家族の事が思いやられる。皆が楽しく出かけている中、その中に私一人がいない)
トンブやシビウ、という個性の強いキャラを書いていると、時々不安になります。
青娥さんは初めて主役を張りましたが、こんなに軽やかに動いてくれるとは思いませんでした。