魔界都市の夜を好んで徘徊する人間は少ない。もしいるとしたら、それは魔の囁きに誘われた者が大半だ。あるいは、元々人ではないのかも知れない。
日が落ちた若葉町の一角。暑い夏だった。
夜空には丸く月が浮かんでいた。新宿において月は様々な凶事、奇跡を当たり前の様に起こす。
月明りと妖虫がたかる街灯の下、フードを目深にかぶり灰色のマントを前でかき合わせた姿が歩いていく。魔界都市では珍しくもない魔道の者だろうか。
マント姿は廃墟と化した中型のマンションの前に差し掛かった。
ほぼ同時に、廃墟の中から小柄な影が動物的な速度で飛び出した。そのままマント姿の足にタックルし押し倒すと、馬乗りになる。廃墟から次々と同じ小柄な影が続き、足や手を押さえた。月明かりに血の色をした赤い帽子が浮かび、全員が腰からボロボロの刃のトマホークを抜いた。被害者を苦しませて殺害するための凶器だ、
その一匹が、獲物のフードに隠されていた口元が歪み、牙が覗くのを見た。濁った瞳が動揺する間も無く、放たれた咆哮が衝撃波となって襲う。
馬乗りになっていた一匹は吹き飛ばされ、残っていた壁に叩き付けられた。残りの影も足がすくみ、トマホークを落とす者もいる。
素早く立ち上がったマント姿は両手を外に出していた。そこに鋭く禍々しい爪が生えている。赤い帽子の小さい影は、残り五つ。血に飢えた雄叫びと共に、爪が一体の顔を引きはがしてしまった。小さい影も勇気を奮い起こし、二体がダッシュして斬りかかる。しかし瞬時に咽喉をそれぞれ切り裂かれ仕留められる。残りはトマホークを投げつけ逃げようとするが、一体の背中に深々と凶器が食い込んだ。残りの一匹に追いつこうとした時である。
轟音二発、“若葉町のレッドキャップ”の最後の一体は身体を四散させた。マント姿が油断なく見つめる先に、大型リボルバーを構えた大男が佇む。
「悪ぃ悪ぃ、そのままだと後ろからバッサリだったもんでな?」
マント姿の背後に、最初のレッドキャップが頭部を吹っ飛ばされて倒れていた。
大型拳銃S&WM29を構えながらも、ソフト帽の下で大男が笑う。
「その様子だと、あんた狼男だな? おっと動くなよ。この銃にはありがたい文字がナノ単位で刻んであるんだ。銃弾は今見た通り、先端に十字を刻んで怪物の嫌いなものが弾頭に詰めてあるぜ」
大男の右手で銃はマント姿の腹を照準してる。銃口は微動だにしない。
「ちょっとお話をおじちゃん達に聞かせてくれるかな? この物騒な土地じゃなくて別のとこでよ‥‥」
大男の背後から黒い影が飛び出た。レッドキャップ、ではない。インバネスコートの裾が巨大なコウモリの如く開く。
大地を蹴ったマント姿がコートの内側に吸い込まれ、途端に進行方向が変わり傍らのコンクリート壁に突っ込んだ。が、激突する直前にトンボを切り、壁を蹴って逆襲せんと爪を一閃させる。僅かなステップで回避し、インバネスコートの手がフードの中の喉首を掴み、大地へ叩き付けた。
マント姿が、痙攣しながらもなお立ち上がる所へ大男はS&Wの照準を付け直した。
「違う、こいつは女だ」
構え一つ見せない青白い顔の相棒に、大男は鼻白んだ。
「あん? どういうこった」
マントを前で止めてた金具が外れ、赤・白・黒の三色で染め抜かれたドレス姿が露わになる。頭部に獣の耳が突き出し、顔は戦闘態勢の狼の如く引きつり、鋭い犬歯が見えていた。美しく長い黒髪が月光に映える。
「格好は確かに女だが」
「獣人化しているが、脈の流れや息遣いは女だ」
「俺も見分け方ご教授願いたいな」
拳銃が納められ、大男はウィンクするとその場から走り去った。青白い顔の相棒は油断なく狼女を見つめていたが、彼もまた闇に溶け込み消える。
今泉影狼は、深く息を吐きだしながら戦闘態勢を解く。マントを着込みフードを被ると、レッドキャップ達の遺したトマホークを拾い始めた。
怪物たちは、マンションの中で違法に改造を受けていた老人達だった。年老いて行き場を失った最初の一人が、ある科学者によって強化措置を受け動けるようになった。同時に凶暴さを増し、家族や自分を虐めていた隣人に復讐を遂げた後、科学者を脅して近所の折老人をどんどん改造させていった。やがて、伝説の怪物「レッドキャップ」の如く頭部に赤い布を巻いてあちこちを襲う様になったのである。この赤い布、かつて還暦を祝ったものの名残らしい。
一度魔震後、傭兵部隊により掃討された彼らだが、生き残りが細々と活動を続けていたのだった。それも、今夜壊滅した。
翌日。袋に詰めたトマホークを証拠として分署に提出、賞金を無事入手した影狼は、スーパーで水道管用の溶解液、後セールだったジャイアント牛肉と外内逆転魚のアラを買い込んだ。
アパートに帰ると戸口に再生ビニール袋がぶら下げられていた。しばらく袋を見つめる。
狼の一族の視線が袋を走査し、爆発物や式神が仕込まれていない事を確認する。袋の中からずるり、と見知った顔が袋の中から現れた。まだらの蛇だった。二軒隣の魔女のペットで、差し入れの袋をいつも守っているのだ。
影狼は牛肉の欠片を差し出す。蛇は丁寧にそれをくわえとると、主の待つ部屋へと這っていった。
部屋に入り、五重ロックをかけると、袋の中を確かめる。強い森の香りが漂った。
同時に影狼の胸に深い多幸感が広がっていく。獣人の多くがこの香りを嗅ぐ事でリラックスし活力を得られる、“黒く深い森の残り香”である。魔女はその道のフレグランスの専門家だった。
肉と魚を冷蔵庫に入れ、フレグランスを漂わせたまま影狼は服を脱ぎ、シャワ―ルームへと入る。
夜、特に満月になると戦闘力が増し、人格も攻撃的になる彼女だが、基本的に血の匂いは嫌いだった。幻想郷では水浴びで済ませていたが、魔界都市で入浴する習慣を覚えてからは積極的に行う様になった。温いお湯を肌にかけると、全身を覆っていた体毛が抜け落ちていく。
排水溝にはフィルターをかけてあるが、すぐに毛が溜まってしまう。掬い上げた毛をバケツに放り込み、湯を浴び、また毛を拾う。この毛が結構な高値で売れたり、懇意の魔女に分けてやると喜ぶのだった。ただ、どれほど注意してもたまに排水溝が詰まるのでスライムを利用した掃除用の溶解液が欠かせない。
一部を除き身体を覆ってしまう毛を洗い流し、鼻歌を口ずさみつつシャワーを浴びる影狼の耳が微かに動いた。
他の生物には聞き取れない音程で、何かが流れて来る。よく入れ替わる左隣の部屋に、変態が入居したのだろうか。
狼の子よ 来たれ
狼の子よ 来たれ
影狼は一瞬聞き惚れていたが、すぐに頭を振り、シャワーを急に冷水に切り替えた。
鋭い冷たさが鋭気を呼び起こす。音は消えた。
幻聴だったのだろうか。影狼は髪を拭きながら、ドライヤーが壊れていた事を思い出し舌打ちした。
ベッドに寝転び微睡んでいると、スマホが鳴った。親友のわかさぎ姫、からメール、それともう一人、意外な人物が留守録にメッセージを入れていた。
差出人、ヒメ
区立水族館の淡水区での住み込みのお仕事、上手くいってまーす
今度淡水マーメイドショーもやるんで見に来てね(ぎりぎり健全です)
「ヒメったら、淡水魚コーナーなんてよく作ったわね? ‥‥海の人魚に比べてバストがアレだけど人気出るかな?」
〈用件を、一件再生します‥‥〉
「もしもし、犬走椛。奇妙な陰気臭いお祈りを聞いたか? もし聞いていたら大京町の喫茶店“フィアレス”まで明日〇×時に来てくれ」
「えっ? 白狼天狗‥‥? そういえば‥‥」
大京町の一角に巨大なリュックを背負った河童が出入りし、その知己である白狼天狗も時々姿を見せるとの噂だった。
ただ、影狼はその一帯の喫茶の微妙なオイル臭さとミネラルたっぷりのデザートが少し苦手だった。
“フィアレス”は繋ぎ姿の男女で溢れていた。店内は喫煙OKで煙草を嗜まない影狼はややげんなりしたが、少しの我慢だと思い直した。待ち合わせの時間よりやや早く来てしまったが、席について黒ウーロン茶を頼む。雑誌“月間鋼鉄野郎”をめくりながら待っていると、何処かで見た男が前に音も無く滑り込んで来た。
「よお、また会ったな」
「‥‥貴方、一体何?」
若葉町で遭遇した大男だった。銅鑼の様な声だが顔には妙な人懐っこさがある。
「ちょい技術町に用事があってな。で、あんたを街角で見かけた」
「私をここで撃つつもり? 不意でも突けば簡単だったでしょ」
「生憎人狼でも女には用はないのさ」
影狼の脳裏に、自室で聞こえた声が蘇った。
「何か知らないかなぁ、あんたの親戚とか」
「おあいにく様、私は残念ながら独身独り暮らし」
「おや、じゃあ住所教えてくれる?」
「嫌よ、貴方得体が知れないもの」
「はは、嫌われちまったかな」
「当り前よ」
大男の傍らに青白い顔の男が不意に現れた。影狼は驚いたが、実は大男の方も気配を消して近付いてきていた事には気付いていない。
耳打ちされ、大男は席を立つ。
「悪いな、また今度だ」
「次は警察呼ぶわよ?」
「おう、怖ぇ怖ぇ」
手を振りながら店内から足取り軽く去っていく大男。怪訝な表情で見送りながら影狼はまた雑誌を広げた。
十分後、椛が店内に現れた。天狗の衣装は着ておらず、油汚れのツナギを着ている。額にはゴーグル。
「何その格好?」
「将棋の駒を作る手伝いだ」
「意味わかんない」
「それは置いとけ‥‥。今大切なのは、あの“声”だ」
「あんたにも聞こえた?」
「ああ。“狼の子よ、来たれ”。たまたまにとりが近くにいたが、あの娘には聞こえてなかった‥‥嘘かも知れないが」
「狼、ね。私達なんか接点あった?」
「一応、どちらも狼上がり、だろう。ただし私は天狗、だがな」
「お偉い御身分てわけね」
一瞬、緊張に満ちた沈黙が流れた。この二人が互いの電話番号を知ってるのは、ある鴉天狗が勝手に登録してしまったからである。理由はあまりに知己が少ない、というのが表向きだったが真意は不明である。影狼と椛は、別に特別仲が良い、というわけではないのだった。
「ここが妖怪の山なら制裁してやるところだ」
「あら、私も今はスペルカードだけじゃなく携帯満月暗示装置があるわ。昼間でも本気の毛深い狼女を味わってみる?」
「‥‥ふん」
椛は微かに顔をしかめながら席を立った。がに股で喫茶店を出て行こうとする。
その脚が止まった。
再び、あの声が聞こえたのだった。
店を飛び出した影狼と椛は、声の流れて来る方へと走った。二人の他に、野良犬、ペット、魔狼、狼の因子を持つ武闘家、がんすがんす喚きながら鍋を叩く男など、町中の狼に関わる何かが荒木町の一点を目指して集結し始めた。
魔震で崩壊した建物の残骸を巧みに積み直し、石造りの祭壇の様な物が作り上げられていた。あちこちに白い頭巾をかぶった者達が潜み、印を組みながら低い声で呪文を唱えている。
祭壇の上で胡坐をかきながら、天を仰ぎつつ吟ずる男がいた。周囲に人や獣が満ちるのを感じたのか、視線を下に戻し男は立ち上がる。
多少、毛深く顔が長い程度の顔つきだった。その視線がゆっくりと集まった群衆を見渡す。
影狼は、男の黒い瞳と自分の視界が宙で交差するのを感じた。男の手が静かに彼女を示す。姿を現した白い頭巾が三人、影狼を取り囲んだ。押しのけられた椛は、ツナギの下に隠した小刀を確認し、逆に白頭巾を押し返す。
「気安く触るな、この身は白狼天狗だ」
「知るか、狼を名乗れども天狗如きに用はない」
「何?」
表情を硬くした椛は刀印を組み、口元にあて小さな声で真言を唱え始めた。群衆の視線に活気が戻り、ざわめきが起こり始める。動揺した白頭巾に、祭壇の男の術を乱した椛は冷笑した。
「愚弄する相手を間違えたな?」
「おのれ!」
白頭巾らが古いブローニングの9㎜を抜いた。何人かが空へ発砲し、集合してた獣人や犬らがどよめく。
椛はひるまずツナギの前を開け、小刀を抜いた。銃撃をくぐり、地面すれすれに低く風を切って走る。一人の右手首が切り裂かれ、拳銃ごと下に垂れ下がる。
そのまま戦闘力を失った者の背後に椛は回り込み、四人ほどの誤射を誘発させた。
影狼が狼狽して叫ぶ。
「もう、騒ぎ起こさないでよ!」
「白狼天狗を愚弄すればこうなる。実証してみせた」
自分達を呼び寄せた男の正体は気になるが、いきなりぶっ放す奴は仕留める。幻想郷も魔界都市も変わらない。更に群衆に火が付いた。
「なんでぃ人を呼びつけておいて豆鉄砲か!」
「餃子食い残してきたんだぞオラァ!」
「ばらせばらせ! 新宿名物の大豆だかソイだか何とかシステムの缶詰にしろ!」
全員がナイフやら携帯槍やら、身体に仕込んだ大砲まで展開し始めた。更に、である。
上空に自警団の巡回ヘリが飛来し、無許可の集会への警告を始めた。興奮した連中がヘリを撃ち現場は大騒ぎである。
混乱に紛れ、椛は影狼の手を引いて逃走する。それを見た白頭巾達が、被り物を外すと狼の皮を縫い付けた頭部が現れた。
唸り声と共に口が裂け、全身の筋肉が膨れ上がる。ありふれた、変身だった。
ただ、全身に毛が生えていない。筋肉構造が四足歩行の獣のものに近くなり、口も狼、に似せたのにちぐはぐだった。
なんとも中途半端な狼男もどき。乱闘していた連中も手を止めて失笑してしまう程の。半端な人狼らは掛け声だけ勇ましく、逃げた妖怪達の後を追った。
「ちょっと、禿げた気持ち悪い何かが追ってくるわよ!?」
「えっ、うわっ頭には毛があるのに身体がって、新手の変質者か!」
毛のない人狼らは四足歩行でやけに足が速い。しかもそれだけではなかった。
四足で走りながら、その内の前足、つまり人間形態の手が拳銃を握り発砲してくるのだ。
つまり三足なんか四足なのか二足でも別にいいではないか、という具合に攻撃してくる上に、拳銃はどこから出て来たのかも分からない。
開き直って立つ、という事をしないのは余程の事情があるのか、どうでもいい影狼らは低空で気味悪がった。
そして、一体が腹の下からグレネードランチャーを引っ張り出し、鈍い射出音を響かせた。空中で弾丸が自動で展開し、暴徒鎮圧用の網が二人を包み込み、そのまま地面に落下した。
網にかかった二人に麻酔針を撃ち込み、素早く背中に載せると狼男もどき達は何処へともなく走り去って行った。
影狼は夢を見ていた。
遠い昔、一匹の雌狼として大地や森を駆けていた頃。仲間が、家族が、そして、愛したかも知れない狼が、いた。
だが、段々と皆周囲から消えていく。一匹、また一匹と。孤独が皮肉にも影狼を滅びの手から守った。いつしか、一族を滅ぼした憎むべき人の姿になり果て、野生の心すらも遠く忘れ去ってしまった。
今の影狼には友人がいて、生活がある。そこに忘れ去っていた影が近寄ってきた。
昔の仲間、同胞、一族。記憶が影狼の身体に食いつく。人としての身をずたずたにされ、痛みに打ち震えた。それだけではない、自分の内面が壊されていく。昔に戻れるはずなのに、それが何故かひどく寂しかった。それ程大切なものを持っていたのだろうか、と問うも答えは虚空に消えていった。
意識の唐突な覚醒の後、影狼は自分が柔らかいものの上に寝ているのを感じた。詰め物の多いソファー、とはとろんとした目で身を起こしてから気付いた。
「気付いたか」
大理石の応接机を挟んだ側の皮張りの巨大な椅子から、黄金の瞳が影狼を見つめている。体中の灰色の毛はところどころがはげ落ち、灰色のごつごつした地肌がむき出しになっていた。
巨大な狼が、影狼にじっと視線を当てている。彼女に対する言葉は、その口から紡がれた。
「幾年もの断絶の果てに出会いし同族。ここは我が住処の一つ」
その声は意外な程渋く、そして落ち着いていた。
「貴方、何者?」
「今申した通りだ、わしはそなたの同族ぞ。最も、お前の様に人型になり果てたわけではないがな」
「信じられないわね」
「わしもお前の姿が信じられぬ。人間のメスの姿など」
黄金の目が影狼の全身を素早く上から下まで見つめ、鼻を鳴らす。
「小賢しい、小賢しいぞ。しかも醜い。人間のメスの姿など餌の価値しかないわ」
「ご挨拶ね。生きるためなら、餌の姿でも使う柔軟性よ」
「ほう、言うではないか」
冷笑しながらも、狼は小さくため息をつく。
「わしも生きるためなら他を利用してきた。それがお前を捕らえた連中だ。狼の皮を被り、狼の真似事をして力を得ようとする愚者の群だ」
「中途半端な姿、のね」
「その通りだ。力を少し授けてやってもあの程度。まあ、中には例外もいる」
小さく狼は咆えると、部屋の隅でうずくまっていた何かが立ち上がった。息を切らしながら、新宿で祭壇に座っていた男だと影狼は気付いた。そのまま、傍らで立ったまま舌を出しながらの姿に違和感を覚える。
「こいつはわしの遺伝子の入った人間だ。ただ正式に母胎から生まれたわけではないから、息子とは呼べん。お前達を呼び出す事は出来ても、言葉を発する事も出来ん」
「彼を使って新宿で何をしていたの?」
「あやつの力を確かめるためだ。ただ、思わぬ収穫があったがな」
「‥‥私をどうするつもり、かしら?」
「知れた事、本来なら出会えぬはずのオスとメスが一つどころに集ったのだ。する事は一つ」
「生憎年上は趣味じゃないの」
「お前こそ何歳だ?」
「乙女の秘密」
「このたわけが!」
狼が一喝した。空気が震え、影狼の全身の毛が一瞬立ち上がる。傍らの男がきゃんきゃん鳴きながら部屋の隅へと逃亡した。
「‥‥あれは、情けなく見えるが今のわしと対して変わらん。今でも人間ども相手なら銃を持ってたとこでわしの相手ではない。だが、時の流れには勝てん。その前ではわしも子狼と変わらんのだ」
「心はずっと子供のまま? そんな椅子に座ってるのに? 情けないわね」
「なんとも思いあがった言葉、人型の狼がほざくのは滑稽なり」
「この姿だからこそ得られる者も多いのよ。貴方にも教えてあげたいわ」
「くく、震えておるくせに目を逸らさず言い返すか、生意気だが気に入ったぞ。その姿でなければすぐにでも妻として契りたいわい」
「え、あの、それは」
「だが残念ながらお前の姿は醜い。さっさと狼の姿になればよいものを、無作法に服など着て興ざめだわい」
「ぶ、ぶ、無作法ですって!?」
「然り。まぐわう場所もこんな石臭い場所ではたまらんわい。狼なら大いなる星の下、大地を走る風と共に結ばれるのが至上じゃ。お前はそんな事も忘れてしまったのか」
「都会派と言ってほしいわねケダモノ」
狼は大笑した。まるで狼らしくなく、豪快な笑いだった。
「オスなど毛皮を剥いた腹の下に皆ケダモノを飼っておるものだ」
「微妙な下ネタで返さないで欲しかったわね‥‥」
突然、部屋の扉が乱暴に開かれた。アサルトライフルやショットガンなどを手に持ち、二人組で小型のガトリングガンを構えている者までいる。全員頭部に狼の皮を張り付けていた。
椅子から素早く飛び降りた狼は、不機嫌そうに唸った。その体長、三メートルはあろうか。
「何の真似か?」
「我らはこれより、偽りの偶像を排除する」
「ふん、まさか既にわしのものとなったこの女を担ぐつもりか?」
背後で影狼が抗議の声を小さく上げた。
「‥‥誤解を招く言い方やめてよね‥‥」
当然、さらりと無視された。
「今の時代の偶像はよりコンパクトであるべきだ。お前の技はもう十分我らは学んだ。用済みだ」
「ほほぅ」
狼の目が輝き、その口から短くしかし激しい咆哮が飛んだ。部屋にいた者達は、影狼も含め耳を押さえ蹲る。
「貴様らの身体に宿るわしの力は、同時に貴様らを縛る枷ともなるのだ。我が咆哮に耐えられる筈も無い。武器を向ける気力も既になかろう」
「‥‥ぐぐっ、やはり正面からではっ」
「全員食い殺してくれる、この出来損ないが」
精悍な前脚を踏み出そうとして、止まる。一人だけ、まだ白頭巾を被り何事もなく立っている者がいた。
狼の顔に初めて動揺の色が現れた。刀印を組んだ指が唇に寄せられ、小声で真言を紡ぎ始める。
天狗が古より山中で活動する時、たまに狼に襲撃される事がある。狼そのものが長じて白狼天狗となる事も少なくはないが、未熟な修験者などを守護するためにも、野生の狼を従える術を持つ事は当然と言えた。
頭の頭巾がずれ、真言を口にする犬走椛の顔が現れた。その手に小刀が現れると、目にもとまらぬ速さで投擲された。狼の右目に鮮血と共に突き刺さる。
実は眉間を狙われたのを、眼を犠牲にして回避したのだった。しかし呪縛が解け、床から起き上がった者達が一斉に武器を構える。
狼の背中を飛び越え、影狼が空中から椛に突進した。牙と爪を剥きだして組み付く。瞬間、引き金を絞る指が止まった。片目になった狼はその瞬間を逃さなかった。
部屋の外に転がり出た影狼と椛。しかし、白狼天狗は素早く影狼の拘束を振り払うと、逆にとんぼを切って距離を取る。
椛は虚ろな視線をしている。影狼は背筋に寒い物を覚えた。
「人間を甘く見て“天狗”になり過ぎたのね‥‥目を覚ましなさいっ」
相手の洗脳を解こうと飛び掛かるも、椛は素早くバックステップしながら逃走に移る。
がむしゃらに広い屋内で後を追った影狼は、何度も角を曲がる内に、ホールを見渡すエントランスに出た。
一階に詰めていた、大量の白頭巾達が一斉に発砲した。慌てて伏せたところ弾丸の雨あられが通過する。跳弾が左肩と右足を掠り、影狼は苦痛に呻いた。
その声を聞き届ける者など、いない筈だった。
一台の大型ジープが、ホールの正面扉をぶち破って突入してきた。突然の事態に唖然とする白頭巾へ、車外スピーカーからバカでかい声が飛ぶ。
「全員武器を捨てな!」
効果はなく、照準がジープに向けられる。その“返答”に助手席側の屋根が開き、20ミリ機関砲以下複合ウェポンシステムがせり上がり、猛然と火を噴いた。
次々と粉砕されていく頭巾らだが、狼男もどきになり必死に反撃を始めた者もいる。ジープの防弾ガラスに傷一つ着かぬ中、後部ドアが開き、怪鳥の様に黒い姿が疾走った。
その手には小型の短機関銃が握られていた。一連射で狼男もどきの身体が引き裂かれる。
22口径ながら特殊炸裂弾が装填してあった。更に、銃剣で突っかけてきた相手を黒い羽根、に見えるインバネスの裾が覆う。銃剣がライフルごと回転し、胸の中心を貫いた。
伸縮警棒で殴りかかってきた敵の手を静かに指が掴むと、一回転して脳天から地面に叩き付けられた。噛みつこうとする者の頬に手が触れると顎が外れ、更に首がごきり、と転回する。次々と狼男もどきが黒い姿に叩きのめされていく中、ジープの主も戦場に降り立った。手に抱えられた巨大なドラムマガジン式の自動散弾銃が唸り、次々と相手を肉塊に変えていく。
影狼は階下の惨状を目にして戦慄していた。二人の男は一体何者なのだろう、と思ったが今は敵ではない事を祈るしかない。逃げ出したくなったが、確かめなくてはいけない事があった。
匍匐前進しながら奥へ戻ろうとする。が、その眼前に見覚えのある足が立ち塞がった。
見上げると、表情の消えた椛の顔があった。踏みつけようと落ちて来る足を回避し、低い姿勢で爪を構える。椛は拾い物か戦闘ナイフを持っていた。両者が床を蹴る。椛の早い突きを手の爪でいなす、と思ったら空いていた左手が影狼の腕を取り、そのまま懐に飛び込んで背負い式に投げ飛ばした。
背中を強かに打ちながら、影狼は舌を巻いた。洗脳されてる割に動きが細かい。
「退きたまえ」
階段を駆け上がって来た黒いコート姿が乱入する。手の短機関銃が光るのを見て影狼が叫ぶ。
「殺さないで!」
銃弾で死ぬかどうか、叫んだ後に影狼は疑問を感じたが男の銃はコートの中へ消えた。
ナイフを宙に放り逆手に構え直した椛が一気に間合いを詰める。インバネスが舞うと、その身体は激しく後ろに逆回転する。が、宙を切って椛は足から何とか着地した。右手がナイフを落としだらりと下がっている。肩から外されたのだ。
激痛に歯をわななかせつつ、尚も闘志を失わなず膝を突かない椛。
その身体を黒い影が静かに包んだ。男が両手を広げた、と思うと不気味な異音が影狼の耳に聞こえた。椛の口が発した物、と気づき顔が青ざめる。
「大丈夫だ」
あまり大丈夫はない程口を開き、白目を剥いた椛が床に倒れ込む。影狼が駆け寄り、抱き起こすとびくり、と反応した。
差し出された男の手に、ひどく毛羽立ってぐしゃぐしゃの毛皮が乗っている。狼、の皮だった。あの狼、の物に比べ劣化が激しい。もどきの手による粗悪な模造品だが、白狼天狗を操る程度には働いた。
「この女は君と同じ、新宿の住人かね?」
「は、はい」
「警視庁公安部対暴力特別調査官、桐生だ」
提示されたIDカードに、影狼は開いた口が塞がらなくなった。階下を掃討したらしい大男も名乗る。
「同じく剛大作だ。ご協力、感謝するぜ」
「何もしてないわよ?」
「ここのアジトを突き止めるのに、新宿で桐生があんたの綺麗な髪に仕込んだんだよ。髪の毛と同じ細さで巻き付いてるから、風呂でも落ちねぇ。センサーで位置は丸わかりだ」
ぎょっとする影狼の髪に、桐生と名乗る不気味な男の手が伸びた。微かに顔の横で何かが切れる感触があり、数本の髪が男の手から宙に舞う。
「後で専門家に頼んで全身を探査するんだな」
「貴方達‥‥お巡りさん、ていうガラじゃないわね?」
剛はごつい図体に似合わないウィンクをした。
「まあ、これは少し複雑な事情があってな。もう少しだけ付き合って貰うぜ、こいつらのボスにご対面する」
影狼は起き上がると、椛を背負った。剛の手の自動散弾銃は油断なく引き金に指がかかっている。逃げようとすれば撃たれるだろう。
狼がいる部屋まで、数人の者が抵抗したがいずれも姿を現した途端吹き飛ばされた。どちらがテロリストなのか分からない、と影狼は思ったが口には出さない。
開けたままの扉の前で、左腕を肩から食いちぎられた男が絶命している。逃げ出そうとして力尽きたのだろう。部屋の中は血の海、になっていた。ばらばらになったり踏みつぶされたりした男達の姿より、血の異臭に影狼は吐き気をこらえた。
狼も死んでいた。全身に銃弾やクロスボウの矢、ナイフを突き立てられていた。相手の一人の上半身に噛みつきながら、息が切れた様である。新宿で祭壇の上に座っていた男も流れ弾に当たったらしく死んでいた。
「なんだこりゃ‥‥」
「狼男のボスが狼だった、というわけか?」
「そういう事、なのかね。流石魔界都市、て事か」
影狼は無言で立ち尽くしていた。狼の死骸を見つめ、彼女の顔から表情が消えていた。
二人の男が立ち去り、屋敷に新宿署が突入してきてようやく我に返った。その頃には、涙も乾いていた。
椛を病院に預け、影狼は署で事情聴取を受けた。担当した暮六刑事は、区外で狼男もどき達が武器密輸を捜査中の特別調査官を殺害したらしい、と教えてくれた。
「特調の連中は同僚が倒れると、担当中の事件を放り出しても敵討ちにいくそうだ。先刻の銃撃戦は私闘。君はそれに巻き込まれた、という事になるね。狼の秘密結社についてだが、今後捜査で幾つか聴く事があるかも知れないよ?」
「分かりました‥‥。あの大きな狼の死体は?」
「珍しい種族、なのかよく知らんが、区外の連中が血相変えて亡骸を持って行ってしまったよ。気になるかね?」
「いいえ」
影狼は眼を閉じて即答した。滅びゆく者の楽園で同族を探してた頃の記憶を押し殺して。
数日後。
椛は仏頂面で病院の退院手続きを終えた。何気無く視線を巡らすと、玄関ロビーに影狼が座っている。
「お前がなんで来てるんだ」
「退院祝いに、ね。区立水族館に連れてってあげようと思って」
「魚に興味はない」
「魚じゃなくて、人魚よ。淡水魚だけど」
「わかさぎ姫か?」
「あの子に貴方を紹介したいのよ」
「私はお前の友達ではないだろう」
「じゃ、これからお友達になればいいじゃない?」
椛は閉口しつつ正面玄関をくぐった。
「お前が気に入らん、というわけじゃない。私はつまらんぞ?」
「将棋教えてちょうだい」
「ただの将棋ではない。大将棋犬走流である!」
「よろしく、椛センパイ」
影狼が、初めて犬走椛の名前を呼んだ瞬間である。
ゲストキャラ
いずれも、
著 菊地秀行
淫殺街 コマンド・ポリス
魔人街 コマンド・ポリス
にて主人公。
剛大作、警視庁公安部対暴力特別調査官。身長190㎝、体重150㎏。愛銃はS&WM29。
桐生、同じく”特調”。作中で下の名前が出た事はない。謎めいた格闘術の達人。
愛銃はCz91(架空の銃)。
≪新宿≫シリーズとは別世界の登場人物。