コーヒーの概念がぶっこわれる。
名前というのは生まれたときに初めて両親から受け取る贈り物だ。様々な願いを乗せられたそれは生涯自分についてまわり、人生に大きく影響を与える。
と、されていたのはもう半世紀以上前の話だ。今では一定の年齢になれば名前を変えることが簡単にでき、また仕事の関係で名前を変える、仕事を変える度に名前を変える者も珍しくはない。
危険な仕事、特に密偵の仕事をしている者などは常に名前が変わるのだとか。映画の見過ぎのような気もする。
僕はというと、一度も改名しないまま今日にいたっている。要するに僕の両親は堅実で、僕の人生も平坦でスリルや映画とは程遠いところにある。
僕はI.O.P.の16labで勤務しており、そこで特に目立たない何の変哲もない研究員として生活している。
僕はここで無名の存在で、誰かに恨まれたり特段褒められたりすることもなく穏やかに平凡な日々を過ごしている。とても心地よい日々だ。仕事は大変だけど。
僕の数少ない楽しみはコーヒーを淹れることだ。
現在、本物のコーヒー豆を入手するのは困難で、手に入ったところで手を伸ばすのをためらうほど高価だったりする。なので、僕は趣味にかける費用のほとんどをコーヒー豆に費やしており、他に趣味もない。
普段はインスタントを使うけれど、本物のコーヒーは週一回のペースで楽しんでいる。ほんの少し豆を買って、一カ月かけて消費して、また次の月に買いに行くのが僕のサイクルだ。
今日は待ちに待った週に一回の本物のコーヒーが飲める日。僕は豆の紙袋を持つといそいそと給湯室へ向かった。
コーヒー豆はこんがりとした香りが漂い、黒っぽい茶色で楕円形の愛らしい姿をしている。これは焙煎したてよりも二週間ほど熟成させたほうがおいしくなるそうだ。今日が二週間目なので、今日使ったあとは袋に名前を書いて冷凍庫に入れておく。
袋を開けて肺いっぱいに香りを吸い込んだら適量をコーヒーミルへ入れ、ハンドルを回していく。ここから僕とコーヒーは会話を始める。
どれだけ豆を挽いたらいいか、どれくらいのお湯を注ぐか、温度はどれくらいにしようか、どのタイミングでお湯を注ぐか。これらは豆によって定められているらしいが僕は我流でやってしまっている。定量的に決めずに今日はこうしようと決められることが僕にとっての楽しみなのだ。
ほどよく挽けた豆をドリッパーに入れた紙フィルタへ投入する。数回叩いて豆を平らにならし、湯気を立てているドリップポットからお湯を回しかける。これが僕の手順。僕はドリップポットの細長くゆるくカーブした注ぎ口がたまらなく好きだ。このカーブがかわいらしさを引き立ててくれる。
お湯を注いでいる瞬間が僕とコーヒー豆との会話が最も盛んに行われる瞬間だ。もう少し早く入れようか? 熱すぎない? ちゃんと全体にお湯がかかってる? などなど、僕は豆に語りかけその反応をうかがう。豆は香りと音、それから見た目の様子で僕に回答をくれる。それが正しいのかどうかは知らないけれど、幸福な時間だ。
お湯を注ぐと粉末にされた豆はふくふくに蒸らされ、黒とも茶色とも表現しがたい液体がサーバーの中へ落ちていく。僕はこの色をコーヒー色と呼んでいる。毎週色を少し変える魅惑的な色にぴったりだ。
液体の落下音が耳に心地よく、ずっとずっと聞いていたくなる。ただあまりにもそちらに集中していると悲しいほど薄いコーヒーになってしまうためほどほどに。
最後に豆の中心がくぼみ切る前、サーバーの中に灰汁までもが落ちてしまう前にドリッパーをサーバーの上から流し台へ移動させる。最後の瞬間まで気を抜かないのがコツだ。
サーバーから流し台へ移動させられたドリッパーからはしばらくコーヒー色の液体が流れ出る。これが妙に哀愁ただよう光景で、僕は名残惜しくそれを見てしまう。最後の瞬間までコーヒー豆の姿をこの目に焼き付けたいのだ。
あぁ今週も素晴らしい時間をありがとう。また来週はどんな淹れ方をしようかな。などと語りかけていたので、給湯室に人が入ってきたことに全く気付かなかった。
ドリッパーから目を離し、サーバーの蓋を閉めるべく手に取ったところで、その中身がマグカップ一杯分減っていることと、隣に立っている人に驚いた。
「うん、なかなか」
「ペルシカ博士」
彼女はこの研究所で最も優秀だと言って間違いない人で、僕とそう大きく年も変わらないながら多くの人から尊敬と畏怖の念を集め、天才の名を惜しいがままにしている。そんな人がふらりと給湯室にやってきて僕の淹れたコーヒーを飲んでいる。勝手に。
「いい匂いがしたからつい。これ本物だよね?」
「ええと、はい。週に一回ですがここで淹れてます」
彼女はマグカップに注がれた僕のコーヒーを掌の中でくるくる回しながら語りかけてきた。こうして話すのは初めてだ。
「そうなんだ。なかなかうまいね。来週もよろしく」
「え?」
そう言うと僕の戸惑いなんてお構いなしに給湯室から立ち去ってしまった。僕は少し減ったサーバーを呆然と見つめて、慌てて蓋を閉じた。
翌週、冷凍されたコーヒー豆と蜜月を過ごしていると予告通りペルシカ博士はやってきた。
「今日もやってるね」
「僕の唯一の楽しみですので」
「寂しいねぇ」
「そうでしょうか?」
「一人のように見えるから」
彼女と話すのはまだ二度目なのに、まるで親しい同僚のように接されて戸惑っている。案外、彼女に尊敬と畏怖を抱いているのは僕らだけで、彼女は親密になりたいのかもしれない。
「ペルシカ博士の楽しみはなんですか?」
「人形いじってるときかな」
「なるほど」
彼女は若くして人形に全てを捧げると豪語しているそうだ。それ故の能力と成果だと考えると納得はできる。
僕にとって人形は商売道具ではあるけれど、生涯を捧げられるほどの存在ではない。いずれ結婚して家庭を持ちたいと思っている。相手は未だいないけれど。
「それにしても君はコーヒーを淹れるのがうまいね。こんなに美味しいのはめったにお目にかかれない」
「いえ、そんな……」
「謙遜しなくていいよ。事実だから」
驚いた。ペルシカ博士はこんなにも素直に人を誉めるのか。僕は彼女を誤解していたかもしれない。
勝手にもっと冷淡で人形以外に興味がない人なのかと思い込んでいた。なんと失礼なことか。恥じよう。
僕は少し多めに豆を挽いて少し多めにお湯を使い少し多めにコーヒーを淹れた。
「どうぞ」
「ありがとう」
彼女はマグカップにコーヒーを注ぐと香りを吸い込み、それから一口飲み込んだ。
不健康そうな血色の悪い唇にコーヒーが流れていくのは妙に色っぽい光景で、僕は少し目をそらした。
「うん、今日も結構なお点前で」
その言葉に安堵した。
「また来週も頼むよ。えーっと」
そして彼女は僕の顔を見て眉間にしわを寄せた。
「何君だっけ」
認識を改めよう。彼女は人形とコーヒー以外に興味がない人だ。僕は首から社員証を下げているのにそれを見ようともしないのだから。
翌週、僕は一週間早く豆を買いに出かけた。馴染みの店主は僕の来訪に少し驚いたようだった。
「お客さんいつもより早いね」
「ちょっと事情が変わりまして」
そして僕はいつもより少し多めの豆を購入し、ついでに保温用ボトルも用意した。
いつものように給湯室で豆を挽いているとやはりペルシカ博士はやってきた。
「今日も精が出るね」
「自分で最初からやることが僕のこだわりなのです」
「へぇ」
あくまでも僕に興味はなく、コーヒーだけが目的のようだ。
今回は豆の種類が変わったので挽き方を変えた。つまり使うお湯の量も変わる。種類が変われば対話の回答も変わる。
挽いた豆をドリッパーにセットし、お湯を注ぎ、先週より多めのコーヒーを作った。
「博士、どうぞ」
「ありがとう」
僕なんか見ずにコーヒーに向けられたお礼は吐息を浴びた水面の波打ちで返事した。
彼女がコーヒーの味見をしている間に僕は保温用ボトルにコーヒーをいくらか注いだ。
「これ、お仕事中にどうぞ」
「なかなか気が利くね」
「明日ここに空になったボトルを置いてくだされば洗っておきますよ」
「そうしてもらおう」
彼女は機嫌良さげにマグカップとボトルを持って給湯室を後にした。
これで僕の名前を覚えてもらう布石になっただろうか?
翌週、僕は洗ったボトルとコーヒー豆を持って給湯室へやってきた。支度をしているとペルシカ博士はやってくる。
「博士は最近お忙しそうですね」
「そうだね。なかなか面白い人間を見つけて」
彼女が人間に興味を持ったことが不思議で、ついコーヒーミルを回す手を止めた。さらに珍しいことに、彼女は話を続けた。
「G&Kに来た新しい指揮官なんだけどね、どうもM4を手懐けたみたいで」
その名前は聞いたことがある。なんでもペルシカ博士が開発に関わった人形らしい。
彼女はその人形がえらくお気に入りらしい。一生を捧げたい人形とはそのM4なのだろうか?
「指揮官は面白い人間だよ。他の人形にも懐かれてる。これは重要なピースになってくれるかもね」
M4のことは今はいい。問題は指揮官だ。人間に興味を抱かないペルシカ博士が興味を抱く人間。
「どんな方ですか?」
「どんなって言われてもね、普通だよ。特に変わったとこもない特徴のない人間」
それなのに彼女はその指揮官を個人として認識して興味を向けている。不思議な話だ。
特徴のなさであれば僕だって同じはずなのに、僕の方がこうして話す機会が多いはずなのに、僕の方が印象に残るはずなのに、ペルシカ博士は僕の名前を覚えずにそのぽっと出の指揮官を覚えた。
うまく口に出せないもやもやが胸でとぐろを巻く。それでもコーヒーを淹れる手は止まらない。
豆を挽いて、ドリッパーにセットして、お湯を注いで、博士のマグカップと保温用ボトルに入れる。
「ん、今日のは少し苦くて渋いね」
「あっ」
しまった、豆を細かくしすぎたし灰汁も落としてしまった。
「まあでもこういうのも好きだよ」
彼女は先週と同じようにマグカップとボトルを持って給湯室から出て行った。
なんてことだ。集中力を欠いて雑な仕事をしてしまった……
翌週、翌々週共にペルシカ博士は指揮官の話を楽しそうに僕に語った。いやコーヒーに語ったのかもしれない。
その新人指揮官は彼女の使い走りをやりつつ散り散りになってしまったAR小隊を見事にまとめ直したそうだ。この話が本当なら大活躍だ。
「いやー、予想外に楽しいことをしてくれる子だよ」
「博士が楽しそうで何よりです」
「人間はたまに予想外のことをしてくれるからいいね」
それは、予想の範囲内の人間なんて興味がないということで、彼女の予想通り毎週決まった時間にここにくる僕には興味を抱いてもらえないということでもあり。
僕も指揮官になりたいな、などとくだらないことを思ってしまった。僕になれるはずもないのだ。そもそも僕がなりたいのは指揮官ではなくペルシカ博士に興味を抱いてもらえる存在なんだ。
最初にここで彼女に出会ったとき、ほのかに期待した。今までとは違う毎日が始まるんじゃないかと。僕が物語の主人公になれるような出来事があるのではないかと。
結局そんなことはなくて、僕はただのしがない研究員のままで、彼女からは単純にコーヒー係くらいにしか思われていなくて。惨めで消えたくなった。
平凡なままでも構わない。ただ尊敬している、敬愛するペルシカ博士に名前を覚えてもらえれば、それだけで僕は十分なのに。
そんなことを考えていたらうっかり豆を使い切ってしまった。この前のように失敗しないようにとせめてそのあとは集中力を保った。
「うん上々」
「よかったです」
こうして喜んでもらえることだけが僕の至福の瞬間だった。
翌週、コーヒー豆はまだなかったがとっておきのニュースがあったため給湯室へ向かった。
しばらくしていつも通りペルシカ博士はやってきた。
「あれ? 今日はないのかい?」
「すみません豆が入手できなくて」
「そうかぁ。楽しみにしてたのになぁ」
がっくりと肩を落とす彼女に僕は大げさにせき払いした。
「しかし今週とっておきを仕入れられることになったので、来週はお楽しみに」
「へぇそんなにすごいのが?」
「ゲイシャです」
「芸者?」
話は先週末に豆を買いにいったときに遡る。
豆が買えないことに落胆した僕に問屋の店主は先ほどの僕と同じように大げさにせき払いした。
「しかしこれを飲んでくれ」
そしてカウンターに出されたのはどうやったのかわからないほどカップになみなみと注がれたコーヒーだった。
そのコーヒーは僕が普段淹れるものよりも透明でカップの底が見えていて、およそ味などしないだろうとつい訝しんでしまった。
しかし店主とはいい仲を保っている。ここは彼を信じて飲んでみよう、と顔を近づけて驚いた。こんなに薄いのに嘘のように香りが立っている。
僕は吸い込まれるようにカップに口を付け、ほとんど透明な液体を飲んだ。そして再び驚いた。確かに味はほとんどない。しかしなんだこの芳醇な香りは? 言うなれば香りを飲んでいるような感覚だった。
香りはこんがりとしたコーヒーのものとは少し異なりハーブティを思わせる華やかさがあった。少し遅れて感じられた味は苦味を感じぬ爽やかな酸味の中にほのかに甘味があった。それもチョコレートのような甘味が。
これにミルクを入れるなんてもったいない、ブラックで時間をかけて一口一口飲むべきものだ、と理解するのにそう時間はかからなかった。少しかかった時間はコーヒーによる感動の余韻だった。
ほう、と幸せのため息を吐くと店主は嬉しそうに頷いた。
「ゲイシャだよ」
「聞かない名前ですね」
「そりゃそうさ。普段入荷してるブラジルやマンデリンとは違う。この業界では最高級品と言っても過言じゃない」
信じられないくらい高価だろう。しかし僕は何も迷わなかった。
「いつ買えますか?」
「来週さ。今回のは試供品みたいなもん。用意しとくから待ってておくれ」
それから店主は付け加えた。
「お湯は八十五度、中挽き三十グラムに対して四カップ。忘れるなよ」
僕は何度も頷いた。
「そういうわけなので、来週までお待ちください」
「へぇ、ふぅん、それはなかなか楽しみだね」
ペルシカ博士は楽しげに空のマグカップを手の中で回した。
「じゃあまた来週来ることにするよ」
そして空のマグカップだけを持って給湯室から立ち去った。
来週だ。来週が僕にとって最も大切な日になる。
ここでいいところを見せれば僕だって名前を覚えてもらえるかもしれない。そう思うだけで楽しみで仕方なくなる。
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「やあ室長」
「おやペルシカさん、珍しいですねこんなとこで」
「ちょっと聞きたいのだけどあの……誰だったかな、コーヒーを淹れるのがうまい人を知らない?」
「あぁ……彼ですか……実は先週街で強盗に襲われて」
「それは、大丈夫なの?」
「いえ残念ながら。他の職員には実家に帰ったことにしてあります。あまり聞きたくない話でしょうし」
「それは、そうだね。なんでまた強盗なんかに?」
「どうも現金をかなり持ち歩いてたようで。銀行から後をつけられてたようです」
「それは災難だ。室長も気をつけてね」
「えぇどうも。それにしてもどういう風の吹き回しですか? ペルシカさんが他の職員を気にするなんて」
「いやね、自分でやってもなかなかうまく淹れられないものだから、コーヒーの天才博士に会いたくてさ」