アルドスが激流に呑まれる様を目にしたヨウタたちは、衝撃で言葉を発することができずにいた。
味方に対する容赦の無さは元より、
かろうじて絞り出せたのは、どうしたらいい、という諦念にも似た疑問だった。
逃げようなどとは、考えても口に出すことはできない。まだ逃げ遅れている住人がいるかもしれないし、そもそも逃げ場があるかも定かでない。「海」そのものを相手にどこまで逃げたらいいのかという疑問もある。
――だが、何より対処法が浮かばない。
並外れた実力を持ち、「神」などと称されることすらある伝説のポケモンたちと言えど、彼らはやはりポケモンというひとつの命だ。
対して、今、彼らが挑もうとしているのは、ポケモンという枠組みを破壊した、意思を持つ自然現象と呼ぶほかの無いものになり果てた怪物だ。そもそもの存在の規格が違う。
宗教、ひいては信仰というもの興りは人知の及ばないものや、人の手ではどうしようもないものに「神」という上位存在を規定し原因を求めたという点も一因として挙げられる。現在のカイオーガは限りなくそうした視点でいう「神」に近しい能力を備えた、災厄の化身だと言えよう。
海中に爆弾を投げ込んだとして、目の前の海水は飛び散るだろうが、「海」という総体には何ら影響を与えることはできないだろう。これはそういう次元の話だった。
海の魔物は依然、不気味なまでに静かだ。しかしその威容は確実に、宙に浮いた状態のままに町へと近づきつつある。
絶望感が苛み、今にも重圧に押し潰されそうになる中――ひとつの声が上がった。
「――凍った、よね」
そう告げたユヅキの声は、どこか呆けたような調子だった。
何を当たり前のことを、と言いかけたところで、ヒナヨは留まった。
凍ったのだ。
間違いなく、
「……攻撃が効くなら倒せるよ! どんなダムも蟻の一穴から、だよ!」
「言いたいことは分かるけどその例えを持ち出したのだけは最悪よゆずきち」
よりにもよって相手は水の化身である。
――と、更に、朝木が思い出したように尋ねる。
「な、なあ、ヒナヨちゃん。あいつ、アレに似て……ってか、アレじゃねえか? ポケスペの」
「――海の魔物?」
「正式な名前まで知らねえけども」
「……その、魔物……というのは? 倒し方などは……」
「漫画に出てきたヤツ。ジラーチに願ったことで生まれた……何て言ったらいいのかな、海水で作ったカイオーガの偽物、みたいな。どうやって倒したかは……」
倒し方は何か――それを考えたところで、彼女は腕を組んで軽く冷や汗をかいた。
「……フシギバナとメガニウム、ジュカインの
「……ち、ちなみにそこにいた人たちの実力は?」
「十人いて全員図鑑所有者」
「ざけんな」
ヨウタの目は死んだ。
当然のことである。それは要するに、彼と同等の実力者をあと九人呼んでこい、ということに等しいのだから。
現状、確実にヨウタと伍するものがあると見込んでいるのはアキラくらいのもので、そのアキラは過労で一時戦線離脱中。復帰まではまだしばらくかかるだろう。
それに加え、この世界に出現した
「メタ・グラードンはどう倒したっけか」
「動き止めて『はめつのねがい』。ジラーチいないと無理ね」
「……ヨウタ君、残酷な話ですが、もしアオギリを殺害することで止める、と言ったら」
「それも選択肢だと思う。けど、
「電撃ビリビリーって!」
「それは……拡散するだけ、でしょうね……いくら海水だからと言ってもあの質量では、霧散するだけです……」
一つ意見を投じれば、すぐさまそれを否定する状況が見えてくる。その繰り返しだった。
このままではただ気が滅入るだけで、やがて敵と対峙するだけの気力すら失われてしまう。
危惧を抱きつつ、もし一旦逃げることを選べるなら――と思い、東雲は避難状況を確認するため無線を取り出した。
「こちら東雲。避難状況はいかがですか。どうぞ」
『こちら藤宮。怪我人と要介護者の搬送が間に合わない。どうぞ』
「了解」
やはり、どれほど頑張っても、避難というものには長く時間がかかるものであった。
呼吸器に慢性的な疾患を抱えている者は、携帯型の吸入器が必要になることもある。寝たきりの老人もいるだろうし、透析が必要なほど血糖の状態が良くないという者もいるだろう。あるいは場合によっては、家に愛着を持ちすぎてその場から離れたがらない住人がいてもおかしくはない。急かしたところで結果は得られないだろうと彼は断じて、口を開いた。
「皆、対策を練るのは、そろそろ限界だ。少しでもヤツの進行を遅らせなければ、俺たちの後ろにいる人たちは全員、死ぬ」
「現実逃避してぇ」
言いつつも、朝木は新たにマニューラとブロスターをその場に出した。また、続いてナナセはまるさんをボールから出す。
ユヅキもハミィを頭の上に乗せて出してみたが――。
「ちょっと難しいね……」
「ふわー……」
出せるのは、せいぜいが「こなゆき」程度である。ハミィはユヅキの頭の上でもっちりと意気消沈した。
「……凍結技は、通用します。これで……時間を、稼ぎましょう。内側から破壊されるかもしれませんが、それでも動きはある程度まで止められます……」
ナナセの言葉に頷きを返し、彼らは一斉に駆けだした。
誰から言い出すでもなく、その進行方向と進行速度は不定だ。ヨウタは朝木と共にキュレムに乗って上空から強襲をかけ、東雲はカメックスやクレベースと共に正面に陣取った状態で迎え撃つ構えを取っている。ヒナヨはユヅキと共に側面へ向けて突撃し、ナナセはその逆サイドから、まるさんの進行速度に合わせつつ、あぶさんやしずさんと共に氷原を駆け抜ける
「――――――」
「来たッ!」
海の魔物の攻撃は、極めて単純だ。その規格外の質量をぶつける、ただそれだけ。
――たったそれだけの行動に「ハイドロポンプ」の数十倍の威力が備わり、ポケモンも人間も激流の中でもがくことしかできず、やがて溺死する。簡単なことだった。
そうしてただ放出しただけの、しかし絶大な威力を伴った水流は――。
「「「『れいとうビーム』!!」」」
「『アイスボール』!!」
瞬時に、凍結してその動きを止めた。
海の魔物は複数の相手に対して、同時に対処を行える。当たり前に考えれば、その全てに対処しなければならない
一か所のみに向かって放たれる水流と異なり、複数個所・複数人の相手に対して使用されるものは、分散し、どうしても一つ一つの水量は少ない。攻撃のためには、海の魔物を構成する海水を割り振らなければならないからだ。対してヨウタたちは正面から当たることを前提に攻撃を行う。
とはいえ、水全てを凍てつかせるようなことは流石にできない。相対した者の大半が頭から海水を被るハメになってしまっていたが、それでも威力の大幅な減衰には成功しているようだった。
「氷は砕くかブッ飛ばすか、とにかく『海水』って形態から離せばあいつの影響下から逃れることができるはずよ!」
「うん、ゴルムス! やっちゃって!」
「ゴゴオオ」
指示を受け、力自慢のゴルムスが勢いよく氷を山に向かって投げ飛ばす。こうしておけば、海の魔物は氷を回収して海水に還元、体積を元に戻すというプロセスを経ることができなくなるはずだ、とヒナヨたちは考えた。
「もういっちょ! 『こごえるせかい』!」
「ヒュラ――――」
次いで、再び魔物の表面が完全に凍結した。数秒か、数十秒か、いずれにせよこれで僅かばかりでも時間を稼ぐことができるだろう。
「小暮ちゃん、こっからどうする!?」
「ほのおタイプを。ばくさん」
「バァック!」
「は!?」
「え、えーっと、ルル!」
「ヒードラン!」
突拍子の無いナナセの言葉に、その場に現れたポケモンたち共々困惑を向ける。ポケモンとしての枠を超え、特性に使うべきエネルギーも全て体の維持、あるいは増加・増幅に利用していることから雨こそ降っていないものの、状況は雨が降っている以上に悪い。
そもそもほのおタイプの技があの海の魔物に通用するのかという問題と、何より凍結状態を解除しかねないという懸念。ナナセへの信頼は強いものの、彼らにとってその指示は不可解に過ぎた……のだが、そこでもう一つ、声が上がった。
「『ねっとう』が来ます」
次の瞬間、海の魔物が氷の内側からゴポリと音を立てる。驚きに声を上げる間もなく――氷の檻は、その
「――なるほど」
ヒナヨは納得したように小さく微笑んだ。
いかに本能で動く、反射で動く、と言っても、それはそうすることが最善手の一つであるからだ。同じく本能のみで動いている単細胞生物であろうとも、行動の効率化、最適化というものは必ず行うだろう。
故に、二度も氷漬けにされた上に、最適なはずの攻撃手段までもが凍結させられたというのなら、より効率的に相手を倒す手段を利用するのが当然と言える。
あくまで海水の集合体である海の魔物は、既にカイオーガとして扱えるはずの技をいくつか使用できない。それでもなお、海水の肉体であるからこそ利用でき、かつ、即効性と確実性の高い技こそが――「ねっとう」だ。
「『ねっとう』ね。表面がグツグツ煮えたぎってるくらいの!」
「『海水としての形態から離す』か――そうだな。これだけ温度が上がれば、蒸発もさせやすい。ヒードラン、『かえんほうしゃ』!」
「ルル、『れんごく』!」
氷の檻から逃れ出た海の魔物は、即座にその身を火炎地獄に晒すことになる。全身に
「こんだけやりゃどうだ、ヨウタ君! アオギリに攻撃が届くか!?」
「できたらやってる!」
ヨウタのポケモンたちは現状、海の魔物に対して有効打を与えることのできるほのおタイプの技やこおりタイプの技を持たない。
とはいえそれ以外の技は使えるし、依然として最高戦力となるのも間違いない。極めて分厚い水の鎧を強引にでも突破できる可能性を持つのは、やはり彼とそのポケモンだろう。
――しかし、それでもなお、突破するための手が浮かばない。
(――メガシンカとZワザの併用は最低条件だ。ワン太の「ラジアルエッジストーム」で表面を突破、メガシンカしたライ太の推進力で可能な限り突き進むとして、鋏の中にボールを隠せばそこからもう
モク太は当然ながら水中での行動など視野に入れることのできない体のつくりをしているし、仮に強引に「ハードプラント」を放つにしても照準が定まらない。カプ・コケコの扱う雷のエネルギーは、莫大な量の海水があるせいでアオギリに到達する前に他所に逃がされ、拡散してしまうだろう。マリ子はみずタイプのポケモンだが単純に力量不足だ。
ヨウタは誰よりも、それこそポケモンたち自身よりも彼らについて詳しい。――その上で、どれだけ限界を
せめてあと少し、もう少しでも、体積が減ったならば……そう考えた時だった。
「――――え」
――突如、海の魔物が、その身を氷原に降ろし、叩きつけた。
その
「マズいッ!!」
氷原が――
それだけではない。固体である地面に叩きつけられた
「みんなぁぁぁっ!!」
「ッ、やべえ、町が!」
「!!」
当然、それは海上にのみ留まるようなものではない。全長にして数百メートルを優に超すほどの質量が、勢いをつけて落下したのだ。
意思を持つ海として、己の領域を拡大せんとする本能のもと、魔物は陸地をそこに住まう人間たちごと貪らんと、更にその速度を増した。
「キュレム、アレを止めろぉ!」
「レイジさん! まだみんなが!」
「優先順位考えろ! ンな悠長なこと言ってる場合じゃねえんだよ!! みんなは自力で助かる可能性がある! けど戦う力の無い町の人たちは俺らがあの津波をなんとかできねえ限り可能性はゼロだ!! ちったぁあいつらを信頼しろ!!」
朝木は激していた。ニューラとブロスターが引き留めていなければ、彼はたとえ相手がヨウタであろうとも胸倉を掴みあげていただろう。
ヒナヨならルリちゃんの「テレポート」でできる可能性はあるし、ユヅキはその彼女の隣にいた。東雲もナナセも不測の事態に備えてみずタイプのポケモンを隣に立たせていたため、逃げ延びられる可能性は高い。しかし、町の人間はそうはいかない。この場を切り抜けられるポケモンを持っていないどころか、そもそも手持ちポケモンすら一匹もいないということすらありうるのだ。それどころか、大多数はそうだろう。
――頼むから誰も巻き込まれてくれるな!
その祈りを込めて、キュレムの全身全霊で放たれた「こごえるせかい」は、確かに津波と化した海の魔物を凍てつかせた。
だが――凍結速度が足りない。恐るべき速度で、かつ氷原に体から突っ込んで水温は落ちている。
だが、海の魔物も本能を通じて学習している。
切り離した分、海の魔物自身の意思が介在しないことでその勢いはやや弱まる。しかし、キュレムの放つ極低温の範囲から僅かに逃れたことで、その一部――と言うにはあまりに膨大過ぎる水量――が、流れ込もうと、恐るべき勢いで侵略する。
「っそだろオイ……! キュレム! マニューラ! ブロスター! 『れいとうビーム』だ急げ!」
「マニュ……」
「まだ分かんねえんだ! 届かせようとしなきゃ届くモンも届かない! 撃て! ……撃ってくれよぉ!!」
マニューラは、気付いていた。上空からでは、数百メートルも遠く離れた目標に当てることはできないと。
キュレムにしても、全力全開でその冷気を操った反動が生じている。ただでさえ、数百メートル以上はあろうかという海の魔物を何度も凍てつかせ、その上、それこそたった今、最初の状態よりも更に肥大化してしまった魔物を先の一撃でなんとかして瞬時に凍らせようと努力はした。結果、彼は今、満身創痍となっている。
羽ばたいているのが精いっぱいで、これ以上まともに冷気を発しようがない。元々、キュレムは己の冷気で自分の肉体すら凍てつかせるポケモンだ。ここまでの規模で何度も能力を行使した以上、もう限界は近かった。
「止まれ! 止まれ……止まれ! 止まれぇぇぇぇぇッ!!」
絶叫が、空を裂く。
血を吐くほどに、喉が潰れるほどに、朝木は叫んだ。
そしてその先で――――――。
――――海水は、
文字通り、大質量が消えて失せた。この光景には海の魔物のみならず、ヨウタや朝木、彼らのポケモンたちもまた動きを止めざるを得なかった。
一拍遅れるように、静寂を切り裂いて高い声がヨウタの耳を打った。
「ヨウタ、電話ロト!」
「な、何!? 今!?」
「今ロト! 繋ぐロ!」
ヨウタたちは困惑せざるを得なかった。せめて空気とタイミングを読んでくれ。そう心で悲鳴を上げるその中で――静寂を割いたのは、彼らが恐らく最も信頼する人間の、ごく高いソプラノの声だった。
『状況がよく分からない。何が起きてるのか説明してくれないか』
「は、はっははは……やっべ……おい、ヨウタ君、これマジか」
「……マジ、みたいだね……」
『おい、ヨウタ?』
この世界随一のトレーナー、刀祢アキラ。
彼女が疲労困憊の状態から復帰し、何らかの手段をもって迫りくる海水を全て消滅させたのだ。
思わず、二人の口元に笑みが漏れた。相手は最悪の理不尽とも形容すべき質量の塊だ。対してやってきたのは――――これまで幾度となくレインボーロケット団の最精鋭を磨り潰してきた不条理の化身である。
「――カイオーガがアオギリを核に『
『分かった』
端的なその説明に、通話口の向こうでアキラが頷くのを二人は感じた。
『ここからは、わたしたちも出る』
――それと同時に、彼女が強い怒気と殺意を湛えていることも。