思考の全てが空白になっていく感覚を、アキラは知った。
元から血色の悪い顔から更に血の気が引いていく。彼女はボールを投げることもできないまま、青ざめた顔で固まるしかできなかった。
尋常ではない彼女の様子に最初に気づいたのは、すぐ隣にいたナナセだ。アキラに続いて状況を把握すると、彼女はぎょっとして目を見開いた。
――言ってしまえば、こうなってしまったのはとにかくめぐり合わせが悪かったせいだ。
アキラの祖母である刀祢ヨシテルは、孫にその力を活かすための指針を締めたように、善良な人格者だ。ヨウタからクマ子を預かっている――普通の人間よりも強い「力」を持っているからこその責任感もあり、避難誘導を行っている自衛隊員を手伝うためにも、土地勘を活かして周辺の家々を回って声をかけたりと精力的に活動していた。
そこへやってきたのが、アオギリへ
彼はゲーチスのためにその身命を捧げる影の存在だ。誇りというものを全てゲーチスに委ねている彼にとって、卑怯、卑劣といった概念は無い。
ここでヨウタたちが海の底に沈めば、ゲーチスが勝利する確率が跳ね上がる。そのためにダークトリニティは手近なところにいた老人を人質として選んだのだった。
どんな人間を人質として選んだとしても、思考を硬直させるなどして一定の効果は得られる。ヨウタたちというのは、こういう場面で見捨てるということを選べない集団だ。たまたま選んだのがアキラにとっての急所だった、これはそういう話である。
「やめろ!」
目に見えてアキラが狼狽している。そのことに、ナナセは不謹慎ながらもわずかな安心を覚えた。
ちょっと神経質な部分こそあるが、戦場での彼女は一切の無駄を排した抜身の刃のようで、人間味がまるで感じられなかったからだ。ただ、だからと言って状況が好転するわけでもない。むしろ身内を大事に想っていればいるほど、状況は悪化していく。
次いで、離れた位置に陣取っていたヨウタたち徐々に状況に気づき始める。が、手は出せない。東雲は砕けんばかりに歯噛みし、ヨウタは関係ない人間を巻き込むという手段を取ったダークトリニティにぞっとするような冷たい怒りを向ける。
(この状況……見捨て
無力感に苛まれながらも、東雲は頭のどこかで冷静にそう判断した。
アキラとユヅキにとってはあまりに酷な話だが、ここで彼女らの祖母を優先するのは本末転倒だ。四国は沈み、何万、何十万という人命が失われる。
いざとなれば自分が泥をかぶるしか無い。そんな覚悟を固め、いつでも攻撃に移れるように彼はカメックスへ小さくハンドサインを出した。
「死ぬ気か、お前……!?」
「我らの全てはゲーチス様のためにある。貴様らを道連れにできるのならば本望……!」
ダークトリニティは自らの命を消耗品と捉えている。自分が死んだとしても、ゲーチスが勝利できるならそれは彼らにとっての「勝利」に他ならないのだ。自らの死によって状況が好転すると言うのなら、喜んで命を差し出すだろう。
アキラたちの中の一人でも道連れにする。ないしは何らかの形で精神的に強烈なダメージを与えて戦闘不能に陥らせる。それさえできれば、レインボーロケット団にとってわずかでも有利になる。狂信と盲信が生んだ凶行だった。
(誰かぁー! 誰かこっちの援護してぇーっ!!)
一方、キュレムに凍結を指示して逐一凍結状態を更新させ続けている朝木は、エラいことになっていた。
ダークトリニティに気取られないようにキュレムに指示を出すにはキュレムに近付く他ない上に、その体は冷気を用いた攻撃を行えば行うほど体温が下がっていく。
既に周辺気温は零下10度。髪には霜が降り、そろそろ目を開けていられない状態だった。当然、アキラたちの状況など見えるはずもない。
こちらはこちらで修羅場だった。
(どうすればいい……? いや、というか……)
ダークトリニティの持つ短刀には、濃縮された毒が染み込んでいる。かつてのアキラは強化された生命力でねじ伏せはしたが、体力の落ちた老人ではかすり傷であっても間違いなく命に関わる。既に短刀が首筋に添えられてしまっている今、それこそ時を止めるほどの摂理を無視した現象が起きなければ助け出すことは難しい。人間同士の諍いに対して力を貸してくれることなどありえないが、カプ・コケコが雷の速度を出しても、不可能だ。
ではディアルガの力を使えばあるいはと考えたが、時間の流れが遅くなる空間を作り出してもらった直後で、体力の消耗が激しい。まだ再使用できるタイミングではないだろう。
――と、考察を並べる一方でヨウタは小さな違和感を覚える。
(……アキラってあんなに焦る方だっけ)
アキラのあの焦り方だ。普段の彼女は、こうした非道を目にすれば怒りこそすれ、頭はむしろ冷酷なまでに冷ややかになる。口数も少なくなり、瞬時に最適解を選び取るまでに頭も研ぎ澄まされる。
それが今や年頃の少女と同じように、この後に起きる惨劇に怯え、苦しんでいるようだ。無理からぬことではある。実の祖母が今にも殺されようという時に冷静でいられる人間など普通はいない。
とはいえ、これまでのことを考えると、その態度も何か策があるからこそのものだと考えられた。
そう、希望的観測を抱いていた。
「ッ――――」
一秒にも満たない逡巡の後、アキラは何かを諦めたような面持ちで再び動き出し――ボールを投げた。
(まさか!)
まさか。よりにもよって彼女が見捨てるのか。ヨウタは全身の血が沸騰するような感覚に見舞われた。
一方的な期待ではある。アキラならもしかすると、という思いを否定しきれなかったのだ。失望の冷たい感覚が心の奥底から漏れてくる。
――この時、ヨウタがもっとまともな精神状態であったなら、隣に立っているユヅキの様子にも気づいただろう。彼女がこれから起きる惨劇を前に浮かべた表情は、怒るでも焦るでもなく、「あちゃあ」という小さな後悔か嘆き程度のものでしかなかった。
「馬鹿め」
あまりに予想外だったアキラの判断に一瞬たじろぎながらも、ダークトリニティもはや邪魔にしかならない人質を始末するべく動いた。
鮮血が舞う。赤黒い花弁が散るように血が吐き出され、崩れ落ちる。
――ダークトリニティが。
「……は、え?」
ヨウタは思わずそんな季の抜けた声を上げていた。
ちょっと待って今何が起きたの? 二度見しても現実は変わっていない。ダークトリニティは膝から崩れ落ちかけている。
東雲はあんぐりと口が開いていて、ナナセは何やら瞳の中に宇宙を映している。ヒナヨはヨウタとダークトリニティとの間で何度も視線をさまよわせていた。
「――な」
ダークトリニティは霞む視界の中、混乱に陥る頭に活を入れて半ば無理矢理に思考を回す。
一体何が起きたのだ? 何か途轍もないことになっている気がする。何か正気を疑うような事態になっている気がする。少し頭を整理する時間が欲しい。一瞬の出来事なので分からないが、今恐らく自分は内臓に凄まじいダメージを受けている。……いや何で? この老婆に?
思わず一瞬素に戻りかけた彼は、自身を見下す老人の目に
「いつも自分を基準にして考えるのは、アキラの悪い癖だねぇ」
――更に次の瞬間、ダークトリニティは全身の関節が外れる音を聞いた。
身動き一つできない。いや、それだけならばまだしも、この
「悪因悪果……悪いことと理解して行動をおこせば、いつか必ず報いを受けるものだよ。誰だか知らないけれど、命を張るならその人の道を正すことに張るべきじゃないかねぇ……」
パチリ、と指先で淡く白い電光を瞬かせて呟いた言葉は、雨に溶けるように消えて、誰の耳に届くことも無かった。
一方その「惨劇」を目にしたヨウタは、二、三度目を擦ってユヅキに問いかけた。
「何あれ」
「お姉は言ってなかった? ウチらの師匠っておばーちゃんだよ」
「初耳だよゥッ!!」
しかし、その前提条件があるとこれまでのことも概ね自然な反応に思えてくる。
アキラが焦っていたのは祖母が殺されるからではなく、祖母が人殺しになりかねないから。実際のところ達人と言ってもいいアキラをほんの二年足らずであれだけの腕に育て上げた以上、手加減などできて当たり前だ。杞憂に過ぎないと言っていいだろう。
もっと深いところに目を向ければ、なぜアキラが肉親の情という以上に最大限の敬意を持って接しているのか、なぜ姿形の変わったアキラが「刀祢アキラ」だと気づけたのか、なぜ常識外れの身体能力を暴走させていたアキラとごく普通に暮らすことができたのか……。結局のところその答えはただ一つ、彼女がアキラ以上に気の使い方に精通した達人の中の達人だからだ。
ほんの僅かな気の緩みで人を、ものを壊しかねないキテルグマのクマ子が一度も「粗相」をしでかさなかったのは、その手腕によるところも大きいだろう。既にノウハウがある以上、対応するのは簡単だ。
ヨウタはふと、顔も知らない刀祢家の両親の戦闘力が気にかかった。
「普通のサラリーマンだよう」
何やら心を読まれたが、ユヅキも額面上普通の女子中学生であるのにあの戦闘力だ。説得力にまるで欠けていた。
他方、もはや無事に済ますことを諦めていたアキラは、ことの顛末を見届けてほっと息をついた。いくら敵でも死なれると気分の良いものではないし、実の祖母が人殺しになるというのも避けたかった。
仮に人質が祖母でなかったとしても、助け出す手段は少なくない。既にデオキシスがボールの外に出ている以上、念力で腕を無理やり動かすなどして短刀を刺すこと自体できなくしてしまえばいいだけのことだ。
結局のところ、ダークトリニティは最初から詰んでいたのである。
「グゥゥ……」
いつまで面倒なことをしているんだ、とばかりに唸り声を上げるレックウザに、アキラは仕方ないだろうと唇を尖らせた。
超越者の視点からすればどうでもいいことになるのだろうが、人間としてはこうしたことが大事なものだ。
「行くぞ。小難しいことはいい。作戦は一つだけだ」
「クアゥ……!」
「――『しんそく』でぶち抜け」
その言葉を耳にすると、レックウザは口元に笑みを浮かべるかのように、獰猛に牙を剥いた。
アキラの言葉を聞きつけたデオキシスが、アキラに続いてレックウザの背に位置取る。わずかにレックウザが不快感を示したが、それを振り払うかのように気流がその全身に纏わり付く。
続いてデオキシスのサイコパワーが、レックウザの前方に巨大な「手」、あるいは受け皿とも呼ぶべきフィールドを構築していく。それを待つことなくレックウザは動き出したが、フィールドの構築速度はそう遅いものではない。
そして、およそ人間の認識の外にあるような速度をもって、レックウザは空を駆けた。
巨大な氷塊となった海の魔物の外殻を砕き破る。念力によって強引に変えられそうになるのを、デオキシスが更に強引に念力によって軌道を修正。一瞬の後、レックウザの牙がダークルギアの翼を捉えた。
「グルルルァァァッ!!」
「――――」
噛みつき、へし折り、引きずり出す。一瞬の攻防――と言うには長過ぎるやり取りの中、アキラもまた、目が霞むほどの衝撃の中で波動を通じてデオキシスに思考を伝える。
念力の乱気流の中では、デオキシスはアオギリの位置を掴めない。そこで重要になるのが、アキラの目だ。彼女の視覚ならば波動を通じてアオギリの居場所――海の魔物の心臓部を正確に把握できる。どれほど位置が変わろうともだ。
「△△△」
ここだ、とばかりに、デオキシスはその複腕を一つの「腕」にまとめ、形成した掌で空気を掴む動作をした。
同時、アオギリの肉体が上下から挟み込むようにして拘束され、アキラたちが前進するその勢いのまま海の魔物の体内から引きずり出されていく。
「ぐぅ、うおおおおおおお!!」
海の魔物の代弁の如く、アオギリの口から絶叫が漏れる。ここで彼を外に抜き出されてしまえば、もはやこの形態を保つことはできなくなる。
絶対にそうはさせはしないと、彼の手が青く輝きかけ――直後、デオキシスの念動力によってそれは強引に捻じ曲げられた。
「絶対に逃がすな! 手足の一つ二つ潰していい! 何が何でも引きずり出せぇっ!!」
治療はできるし、手段はある。とにかく今はアオギリの体を海の魔物の体内から抜き出さなければならなかった。腕があらぬ方に向けられたことで衝撃波もまた本来向かうべきではない方向へと飛んでいく。
――そして、アオギリとダークルギアの体は「しんそく」の突進その勢いのままに、先の激戦が嘘のように呆気なく外へと飛び出すことになった。
「ヒナァァッ!!」
「分かってる! ジガルデぇっ!!」
そこに待ち構えているのは、
●――●――●
レインボーロケットタワー、管制室。当然というべきか、「海の魔物」が現出してからというもの、この場所では逐次情報収集と監視が続けられていた。
監視を行う責任者は、最高幹部のアポロだ。彼はドローンから送られてくる映像――海の魔物が破裂し、急速に萎んでいく姿――を前に、一つ部下に向かって指示を送った。
「例のものを投下しなさい」
「ハッ!」
アキラたちは現在、海の魔物に勝利した直後ということで多少なりとも気が緩んでいる。
本来ならば「例のもの」を用意し、そして運用するにはごくごくわずかな時間が不足していたが――それはダークトリニティによって稼がれた。
彼の行動はアキラたちに対して大きな影響こそ及ぼさなかったものの、レインボーロケット団にとっては作戦遂行のための一要素として珠玉の働きをしてみせたのだ。
映像に続けて映し出されているのは、大型の輸送機だった。そこから複数のボールが投下され、やがて空中でその中身を曝け出す。
――強制進化マシンによって即席で結成された、数百匹のマルマインによる絨毯爆撃である。
「弾着まで5,4,3,2……」
「起爆しました」
観測員のカウントダウンに合わせて、およそ現実の光景とは思えないほどの火の花が咲いた。
一匹あたり数十メートルほどにも渡る広範囲の爆発だ。当然、人間が生きていられるわけは無いしポケモンでも生存できるものか分からない。
しかし、どこかアポロには予感があった。この程度では足りないのではないだろうか、と。
「続けて第二陣の投下急ぎなさい」
「ハッ! ……お待ち下さい。
「!」
そして、その予想は正しかった。
瞬時に、マルマインの第二陣を用意していた輸送機の翼が
「やはりこの程度では効果がありませんか。周囲の状況は――」
「お待ち下さい。視界不良――開けました。……市街地に損傷無し!?」
そして信じられないことに、市街地に損傷はない。となれば間違いない。デオキシスがその全力をもってバリアを展開、この窮地に対応したのだろう。
だが、それで少なくともデオキシス自身のサイコパワーは尽きる。少なくとも、アポロはそう計算していた。
しかし、そこで問題となるのは黒煙に紛れて敵トレーナーの姿がポケモン諸共に見えなくなってしまったことだ。アポロは一つ舌打ちして部下に指示を送る。
「敵トレーナーの位置把握急ぎなさい! 動員できる団員を総動員し包囲殲滅線に移ります!」
「捕捉を急いでいます!」
ふと、そこでアポロは違和感を覚えた。
――「ソーラービーム」を撃った直後のグラードンは、いったいどこへ消えた?
あるいは、黒煙の中に紛れるように動いている可能性も否定できない。
が、だとしても「ソーラービーム」を撃ったその場には確実にいるはずだ。熱とそれに伴う風圧によって吹き飛ばされた黒煙の先、そこにいない、などということはありえないはず――。
「――エネルギーの探査範囲をタワー周辺まで拡大しなさい」
「は? なぜ……」
「いいから早く!!」
重要なのは、ここで彼らの姿が捕捉できなくなったこと。
つまり――あの
彼女の行動は常に突拍子がなく、そして時によってはレインボーロケット団に対して極めて深刻な傷を与えてきた。
何かやる。確信に近い予感のもと出した指示に、部下はやや反応が遅れながらも対応を見せる。
「は、はっ! ――――!? ね、熱源、タワーに最接近!!」
「場所は!?」
「
「ッ、総員退避ィィィィィ!!」
――直後。
伝説のポケモンのメガシンカに伴う絶大なエネルギーを帯びた光が剣山の地下より噴出。
レインボーロケットタワーは、天に駆け上がる龍の一撃によって崩壊を遂げた。
ゥ!