朝木達が療養のために滞在しているのは、先に利用させてもらった温泉にほど近い場所にある学校や神社を利用した山間の避難所だった。
様々な意味合いでの特性上、この周辺には高齢者が多く、医療者の存在は非常に重要だ。たとえ「元」であっても朝木の知識量と技量は今もなお高いままだ。頼られる頻度はやけに高く、人に頼られることに慣れていない朝木は常に恐縮しきりであった。
ヨウタの容態そのものは、そう悪くはない。元来の体力と成長期特有の回復力の賜物だろう。
最近なんだか疲れが取れづらいことを思い出し、三十路手前の男は知らず空を見上げていた。十二歳から見て一回り以上も年上の男はもうおっさんもいいところである。
さて。ともあれ療養中とはいえ――あるいは療養中である程度の暇があるからこそ、仲間たちの動向は気にかかる。
「ほしぐもちゃんが増えたって何???」
「どういうことだ、まるで意味が分からんぞ!」
そして連絡を取り合った結果、朝木たちは間借りさせてもらっている保健室で混乱の渦に叩き込まれることになった。
とんだフレンドリーファイアである。
『私たちに聞かれても困るんですけど! 一日で状況動きすぎなんですけど!!
「どこのII世だオメー」
「一日でハジけすぎじゃない?」
心理的負担と後ろめたさが無くなったヒナヨは、有体に言って絶好調だった。
『落ち着け』
『ハァ……ハァ……そうね……』
「アキラちゃんはどう思うよ?」
『……期待しすぎるのは良くないと思う。進化に伴って成長はするかもしれないけど、きっと今はまだ精神的に未熟な――』
『いや誰が戦力評価しろっつったのよ』
『大事だろ、戦えるか戦えないか、仮にそれができるとしても戦いたいのか戦いたくないのか……』
良くも悪くも、過去を失った経験によって、アキラはその辺りの割り切りが極めて速い。経緯については深く考えず、「今」どう思っているか、何をしているかという点が、彼女にとっての主な判断材料だった。
『まあそこは置いといて。ゲーム的にはこれ、コスモッグの入手イベントに近いやつじゃない?』
「ああ、あの……なんか、遺跡みたいなトコに行くやつ」
『そ。って言ってもそれそのものじゃないだろうし、なんだか意図……というか、意思……? みたいなものを感じるんだけど』
『気のせいじゃないか』
「アキラ、そういうところだよ」
多少の割り切りが必要なことはあるが、割り切りすぎだった。
主にこれまでの戦いとレインボーロケット団のせいである。
『とにかく、ちょっと話は逸れたけど、ほしぐもちゃんが増えた……っていうか、コスモッグがこっちに来たことに関しては、間違いないと思うの』
「そ、そっか……」
「一旦回収とかしたのがいいか?」
「いや、僕はユヅに預けたままにした方がいいと思う」
『だな。わたしは情操教育上良くない影響を与えるだろうし……』
「『わたし』?」
通話口から何やら人が倒れ込むような音がした。ここにきてようやく一人称の異常に気付いた瞬間である。
状況が分かっていないヒナヨの悲鳴と、『オレ……オレ……わた、オレ……』という呪詛か何かかとでも言うような声が漏れている。
ヒナヨが「とうとう」倒れたと言ったことからもまた無茶をしたのだろうということも読み取れたため、ヨウタは小さく溜息をついた。
ともあれ、とりあえずは今のまま。
アキラの状態については多少の議論と問診、映像のやり取りを行ってからの診断の上で、応急処置とリュオンの「いやしのはどう」を併用することで自然治癒が見込めるという結論となった。二人はこれから奪った物資の検証を行い、東雲たちと一度合流することを告げると、そこで一度通話を打ち切った。
「状況動きすぎだろ……つーか何してんだあの
「結果オーライ……とは言いたくないよね」
「言い出したらああいう子ら絶対また同じことやるぞ」
結果的に大損害を与えることにこそ成功はしたが、それは曲芸じみた綱渡りの連続の果てにようやくつかんだ結果だ。一歩間違えれば大怪我では済まなかったのだから、仔細を聞かされていなかったヨウタと朝木は肝を冷やすどころではない。
「んで、ヨウタ君が治ったら雪山と……またハードだなしかし」
「……ウラウラ島に比べたらマシかな」
「あー……」
ウラウラ島。ホテリ山にホクラニ岳、ハイナ砂漠にラナキラマウンテンといった、極端な環境を詰め込んだかのようなある種の魔境だ。アローラの中でも特に印象深いその島のおかげで、ヨウタの認識は「まあそういうこともあるよね」程度に落ち着いていた。
「あーチクショウ、やること多いな」
「ごめん、僕が下手打ったせいで……」
「それは……別にヨウタ君のせいとは違くねえ? つか、こういう時はむしろ大人の方がなんとかしないといけないもんだしな……キミ、もっと不甲斐ないっつって怒っていい立場だと思うぜ」
「本当に怒っていいの?」
「いやマジギレされたらそれはそれで俺は多分ヘコむ……」
じゃあ言わなきゃいいのにと思いつつも、それがある意味では朝木からの気遣いだろうということを感じて、ヨウタは少しだけ気が軽くなった。
そうして一つ息をつくと、朝木は医療器具を詰め込んだ鞄を手に取った。これから彼はまた避難所のあちこちに言って怪我人や病人を診察しなければならない。それが終われば今度は防寒具を調達し、夜にはヨウタたちのポケモンたちと特訓だ。せめてウデッポウがブロスターに進化し、「いやしのはどう」を覚えてくれなければヨウタの治療は長引くばかり。戦闘も激化していく以上、自衛のためには強くなる必要があった。
もっとも、ポケモンが強くなる一方、特訓に付き合う関係上朝木の体力は日ごとに削れているが。
軽く手を振ってその場を離れる彼の背はどこか煤けていた。
「あら、先生は?」
そんな折、戸を開けて一人の老婆がやってくる。避難所の運営に携わっている女性で、ヨウタたちも度々世話になっていた。
先生、とはつまり朝木のことだ。彼は本職の医療従事者からは外れてしまったが、それでも極めて貴重な医学を修めた人間だ。自然、周囲からは医者として認識され、「先生」と呼ばれるに至っていた。
「体調が悪い人の診察に。何かありましたか?」
「おやつでもどうかと思ったんだけど。ああ、ヨウタ君もどうかねえ」
「いただきます」
おやつ、と言いはするが、実際に老女の手のお盆に載せられているのは大きめのサツマイモだ。食べ盛りのヨウタにとってはちょっと嬉しいが、普通に考えればややヘビーである。
が、果たして二十代後半の朝木にはどうだろうか。いや、そもそも彼ならニューラやジャノビーたちに奪われることだろう――と想像して、ヨウタは小さく苦笑した。
「レイジさん、先生って言われるのあんまり好きじゃないみたいですけどね」
「そうねえ。でも、あんなに親身になってくれるお医者様もあんまりいないからねえ。どうしても先生って言っちゃうのよ」
人に「先生」と呼ばせたくないというそれ自体は、「先生」であることをやめたからこその朝木の矜持だった。
特に自分のミスで医療の現場から離れた以上、そう呼ばれるたびに罪悪感で死にたくなるのだと言う。実際、避難所に来てからの彼の顔色は芳しくない。もっとも、ここまでの旅での体力の消耗が大きかったこともまた一因ではあるが。
「白衣も着ないしねえ」
「『それは医者の領分を侵してる行為だ』って言ってました」
「お医者さんじゃないの?」
「お医者さんじゃないです」
「まあ、なんだか……複雑ねえ」
「そうですね……」
ヨウタも言うまでもなく複雑な経緯を辿っているし、ヨウタたちには知らせないよう立ち回って現在は仲間という立場に修正されたが、ヒナヨもレインボーロケット団がこの世界に来て以降はまた複雑な立ち位置に置かれていた。あるいはそれに次ぐレベルで複雑なのが朝木だ。アキラに関しては複雑怪奇すぎるので例外である。
いずれにしろ、医療技能を修めているのに医者ではないと言い張っているのだから、周囲からすれば違和感はあった。
「複雑なんですよね」
呟くようにして発せられたその言葉は、小さな憂いが込められていた。
そこから更に一時間ほどが経って、日が落ち切った頃。朝木は怪我人や病人を寝かせている体育館から一度出て、階段に腰掛けていた。
彼の前には、幾人かの青年が立って――あるいは正確に表現するなら立ちふさがって――いる。彼らは皆一様に不機嫌そうな表情を浮かべており、朝木に対して小さくない敵意を向けていた。
対する朝木は、迷惑そうな表情を隠そうともせず。しかし生来の小心者の気質から、彼らの向ける視線から軽く目を逸らしていた。
「……早く出て行ってくれよ。お前らがいるとここが危ないんだ」
「わぁーってるよ。出ていきたいのはこっちだってそうだ」
朝木は小さく舌打ちをした。彼としてもその気持ちが分からないではないし、自分たちが追われている自覚はある。だからこそ、滞在させてもらっている間は、避難所にいる人間の診療をするという取引をしたのだ。内心「テメーこの野郎だったら今すぐ出て行って医者不在の状況作ってやろうか畜生」くらいのことを考えている朝木だが、そうすると自分たちも薬品や医療器具を使えなくなるため、反論することはできなかった。
「せめて連れの小学生が普通に歩けるくらい回復するまで待ってくれって何度も言ったろ。こっちだってちゃんと護衛も診療もやってるし……」
「それが何なんだよ。そのガキ追われてんだろ?」
「……そりゃあ……追われてないっつったら嘘になる」
「だったら釣り合いが取れてないんだよ!」
「釣り合い?」
「人数だよ、人数! そのガキ一人助けてここの人間全員殺されちゃあ話にならねえだろボケ! 迷惑してんだよ、全員な!」
「おい……」
そうだ、とも違う、とも。激している男に対して朝木は答えられなかった。
それでヨウタを殺されてしまえば、やがて四国全土の一般人が……それが終われば日本が、世界各国が標的にされ、およそ想像できない規模で虐殺が起きかねない。釣り合いが取れていないという意味ではそちらの方がよほど取れていないだろう。
しかし、彼らの言うことも一般論としてあり得ないものではない。自分や関わりの深い人間以外はどうだっていいと考えている人間は少なくないものだ。特に命がかかっている状況なら、自分のことだけを優先して、友達だろうと家族だろうと蹴落として生き残ろうとする人間はいる。他ならぬ朝木もその類型だ。ただ、関わりを持ったアキラやヨウタたちが、見ず知らずの相手でも――敵は除く――見捨てられない人間だったという点は大きい。最初は自分の身を守るためだったが、やがてアキラたちを見捨てられなくなり、彼女らを助けたいと思った、その結果としてなんとなく目についた人間は助けていくというようなスタンスに落ち着いたのだ。
本質的な部分で朝木は小市民だからこそ、そういったことを告げてくる気持ちは分かってしまっていた。
こういったところにまで思考が行ってしまうと、次は正当化のために相手に罪を擦り付ける段階に入る。
「だいいち、お前らが余計な抵抗なんてしてるから、あの連中がムキになって民間人を殺して回ってんじゃねえのか?」
朝木は心の中でほら来た! と悲鳴を上げた。
そもそもレインボーロケット団は好き好んで民間人を虐げるような者たちであることに間違いない。ヨウタたちが抵抗しているいないの問題ではないのだ。
「何とか言ったらどうなんだオイ!」
「なんとか」
「ブッ殺すぞテメエ!?」
ほとんど煽りに近いことをごく自然な風に口にしている自分に驚きつつ、随分と肝が据わったものだと朝木は内心で苦笑した。
濃密な「死」という概念そのものとすら言えるイベルタルや、しょっちゅう全身を引き裂いてでもまだ足りぬとでも言葉を操りそうなほどに濃密な殺気を放つアキラと比べれば、本気で殺す気の無い言葉だけの脅しなどそよ風もいいところだ。胸倉を掴まれてさえなければだが。
こういう時に限ってニューラたちは勝手にボールから出てきてくれたりはしない。徹底的に締まらないアラサーだった。
どうあれ、今はそれどころではない。努めて冷静な風を装い、朝木は口を開いた。
「今俺がここを離れたら、助かる人も助からないぞ」
半ば脅しに近い発言だが、厳然たる事実である。
ポケモンは頭が良く、人間に対して友好的なものこそいるがやはり、その本質は野生動物でもある。人を傷つけることに躊躇しないものも、当然ながらいる。
中には人間に好意的であっても、人との関わり方を知らないために、そんなつもりではないのに誤って人を傷つけてしまうポケモンもいる。
ポケモンにとって住みやすい自然――山に囲まれたこの避難所の周囲は、特にそういった被害が多い場所だった。
必然的に、医者の需要は増す。ここで朝木が離れれば、深い傷を負っている老人や子供は命を落とす可能性はある。もっとも、彼個人としては人命を盾に取るようで気は進まなかったが。
「チッ……」
男たちは舌打ちをして、朝木の服から手を離した。そこまで勘定ができていないわけではないらしい。彼らは謝罪などをすることはなく、足早にその場を後にした。
後に残されたのは、服が伸びたせいで落ち込み、今後もこういうことがあるだろうと予感してなおのこと憂鬱になった朝木だけだ。
しかし、こういった人間の暗黒面とすら感じられるような場面をヨウタに診せるのには気が引ける。年長者の役割だなぁ、などと、朝木は体を傾けた。
「マジでキツい……」
「ポーゥ」
「うおっなんだお前そんな鳴き声だったのか!?」
出てくるにしてもあまりに遅すぎる登場と、何よりなんとも往年の名歌手を思い出させるような鳴き声のせいで、彼は思わず声を上げた。何が問題かと言えばこれまでほとんど無口だったウデッポウが鳴いたというのもある。驚きはなおのこと大きい。
当のウデッポウはその反応が気に入らなかったか、朝木の足に水をぶちまけてそそくさとヨウタのいる保健室へと去っていった。
靴下までまとめてびしょ濡れにされてしまった不快感でうへえと声が出るが、後になって考えればそれがウデッポウなりの気遣いであると気付いた朝木は、穏やかな笑みを見せた。
(結構な修羅場くぐってきたしな……)
伝説のポケモンからの逃走や数々の戦い――というよりかはそれによって傷ついた仲間の治療に心を砕いていたこと――によって、彼はようやく手持ちのポケモンたちからも一目置かれるようになっていた。距離感はどちらかと言えば主と言うよりも悪友とでも言うような雰囲気があったが、それでも距離が縮まったことは嬉しいことだった。
もっとも、戦闘の際はポケモンの自主判断に任せた方がよっぽど効率が良いため、基本的に誰も指示に従わないが。それでもトレーナー以前に人間として落第点を出されていたことを考えればよほどマシではあるが。
「ゴルバット」
「ババッ」
旅の最初から連れ添っているゴルバットなどは、それがより顕著だ。当初はそれこそ出てくるたびに血を吸われていたものだが、今となってはよほど不興を買わない限りそういったことは無い。やや沸点が低いのが難点だが、それも常識的な範囲だ。普通に同じ人間と接するように、相手を尊重して、それでいて相手を上に置きすぎず、かつ侮って見るようなことをしなければそう簡単に怒るようなことは無い。
「索敵、頼むぜ」
「ゴルバッ」
防寒具の調達にあたって、レインボーロケット団の監視の目に引っ掛かることだけは絶対に避けなければならない。その点、「ちょうおんぱ」によって暗闇の中でも行動できるゴルバットの能力は最適だった。
返答に気を良くした朝木は、その背を撫でようとし――すぐに手を引っ込めた。
これがヨウタのポケモンたちなら、ミミ子を除けば気前よく触れさせてくれるものだが、朝木の手に渡る以前までレインボーロケット団に虐待を受けていたゴルバットは、人に触れられることをあまり好まない。これはニューラも同じことだったが、毛づくろいの必要性からか、彼女は他の人間に対してはよく慣れているようだった。
これではいつクロバットに進化するものか――と思いつつも、朝木は一切期待するようなことはせず、ゴルバットに向けて笑いかけた。当のゴルバットはその意図が分からず、しかし何だか馬鹿にされたと感じたのか、鋭い牙を見せつけて目を逸らした。
「お前はそのままでいいや」
「バッ?」
睨みつけるような視線を向けられた朝木は、冷や汗を流しながらゴルバットを手で制する。
そういうつもりで言ったわけではないが、悪く取られても仕方ない言葉ではある。悪いな、と軽く謝って、朝木は借りた車に乗り込んだ。
――人が嫌いなら、嫌いなままでも仕方ないよな。
彼は良くも悪くも諦めの速い男だ。そのため、嫌われていると分かっていれば無理に距離を詰めようとはせず、自然の成り行きに任せて事態を見守る。
人間的に優れているスタンスとは言い難いが、そうして距離を取ってくれているというのは、彼にとっては気が楽だった。
繋ぎ回になってしまったので明日もう一話投稿予定。