オリ狩人さんは倫理マシマシ常人精神からスタート。最初は啓蒙0なので…。
――ああ、酷い悪夢を見た。
男は目を覚まし、診察台から身を起こした。
悪夢の内容は断片的で、何処までが実際にあったことなのか、分からない。夥しい血痕は確かにそこに存在したのだが、しかし車いすの老人も、血だまりから現れた獣の焼死体も、そこには存在しなかった。
視界に入るのは、夢と同じ暗く静かな病室だ。……ここは一体何処だろうか? 男は、この病室を知らない。辺りを見渡すが、暗がりの中ではぼんやりとした輪郭しか捉えることが出来ない。鼻腔にはエタノールと――血の臭いが入り込んでくる。
血――そういえば、輸血はどうなったのだろう。そうだ自分は……「青ざめた血」を求めて、ヤーナムへと……?
それ以上は、頭の中に靄がかかったように思い出せない。腕を持ち上げて確認すると、包帯が巻かれている。どうやら、目的である輸血は成されたようだ。
己の中で確かな記憶はそれだけだったものだから、ほっとした。今やこの頼りない包帯だけが、男の唯一の縁らしかった。目覚めてから暫く、この場所、ここに居る理由、自分は誰なのか……じっと考え込んでみたが――男は、自分がここに至るまで、どんな人生を歩んできたのか。その何もかもが、思い出せなくなっているのだった。
他に何か手がかり、もしくは人は居ないかと、診察室を離れ、灯りのない院内を歩いていく。何処か遠くの方から、野犬の鳴き声がしている。
見える範囲を歩き回ったが、他に特筆すべきことは無く、男に輸血をした老人も、その他の人間も見られなかった。
兎角、外に出ようと探索する内、出口と思しき方から水音のようなものが聞こるのを、耳が捉えた。ようなもの、というのも、何かを食いちぎるような音や、荒々しい呼吸音がそれに伴っており、単純な水の奏でる音とは思えなかったからだ。
一抹の不安を覚え、忍び足で近づいていく。想像通り、廊下の終わりには玄関扉があり、その手前の小部屋には――灯りのない闇に溶け込むような、不気味な獣が這いつくばっていた。
こんなにも大きな狼は寡聞にして知らないが、人間ほどの大きさの狼、というのが一番近い表現だろう。
先ほどから聞こえる水音は――その獣が、人間を食らう音のようだった。
そっと身を潜めてやり過ごそうとするが、獣は敏感に反応し、男を鋭く睨んだ。理性を感じさせぬ蕩けた瞳孔が男を見つめ、たちまちの内に肉薄した巨躯が、鋭い爪が振り翳された。
咄嗟のことに、男はどうすることも出来ず、その攻撃を食らってしまう。体躯に合った膂力で振るわれた爪が自身の腹を容易く裂いていった。必死で身をよじり二度目の爪を避けたが、痛みと失血でそれは幼子のように緩慢な動作だった。
既に致命傷を負っていることはなんとなく理解できたが、ただ漫然と死を待つことも出来ず、男は力を振り絞り、弱弱しくも牽制のつもりで拳を振るう。しかし、獣は抵抗など意にも介さず、再度その爪を男へと突き立てた。
痛みを感じる。体から、血が失われる。力が抜ける。ああ、血が……! 血を……! このままでは、失ってしまう……意志が……。
視界が狭まり、体温が、音が、全てが消えていく。男は死を自覚し、抗えぬ永遠の眠りに、静かに目を閉じた。
――月光の香りを嗅ぎながら、男は身を起こす。
自身が死んだという記憶を持ったまま、男はここに立っていた。まさか、あれも輸血の後の、出来の悪い悪夢だったのだろうか。男の意識はまだ続いていた。
ここは死後の世界だろうか。神の裁きもまだ受けぬ身だが、眼前には花が咲き誇る美しい墓地が広がっている。緩やかな丘の上には屋敷があり、その階段の下には突拍子もなく人形がうち捨てられていた。
「……フン、フフン……」
一通り体を動かし、傷がないことを確認していると、耳に微かに触れるように、小さく鼻歌が聞こえることに気づいた。甘く優しい歌声だった。ここに誰かが居るのだ。
澄んだ少女の声に惹かれ、不気味な祭壇が並ぶ敷石の道を上っていく。自分はどうなったのだろうか。この声の主は、本当に人間だろうか。幾つかの不安を抱きながらも、記憶のない真っ白な男は、歌に惹かれるように声の主へと近づいていく。はたして、男の直観的な妄想とは違い、そこにはきちんとした人間が居た。
それも――息を呑むほどに美しい、少女が居た。
少女の、レンゲの蜂蜜のような色の長い髪は、たっぷりとした光沢を持ち、彼女の横顔に美しくかかっている。白いフリルが施されたドレスを身に纏い、青いリボンでその髪を留めていた。その少女は小さな花のような儚さで、今にも空に溶けてしまいそうな、不思議な空気を纏っていた。
少女の見事な意匠の服飾は、彼女が上流階級の存在であることを示している。男はそれに目を止め、声をかけることを躊躇う自分を自覚した。……どうやら男の生まれは、高貴な身分ではないらしい。
とはいえ、男には記憶がない。何も分からないのだ。やがて男は、異様な現状に心が急かされ、少女へと話しかけた。
「……フン、フンフン……」
だが――鼻歌は止まず、少女の目は男を捉えない。どこか違和感を覚え、男はおずおずと、手を彼女の目の前に翳してみたが、彼女は変わらず、空に昇る月を一心に眺めており……男の声も姿も、彼女には届いていないようだ。これでは、話など出来はしない。
人の気配に高揚していた男は肩を落とし、その場を離れ墓地を散策する。屋敷の玄関を目指す階段を上っていると、その途中で不気味な小人が身を乗り出し、男へと、武骨な斧と銃を与えてくれた。彼らは悪夢で、男の体に集った小人と同じものに見える……。ここはやはり、夢の中の世界のようだった。
階段の最上階、屋敷の扉は、しかし固く閉ざされていた。男は手がかりを求め、階段沿いに墓石を見て回り、その内の一つに、不気味な小人――使者が集まっている場所で足を止める。それに気づいたか、悪夢の使者たちが何かを促すように呻いた。男は応えるように、その墓石に手を触れる。
そして――内臓が浮くような奇妙な感覚と共に、男は再び、夢から目覚めたのだった。
斧と銃を手に、男は診療所にて立ち上がる。先ほどと異なるのは、獣を殺すための凶器がこの手に握られている点。そして、この先に何が居るのかを、既に知っている点だ。
再び進むと、あの死の経験が夢幻ではない証拠に、記憶の通りの道が続く。そして、同じく大きな獣も。男は仕掛け武器を構え、大きく振り下ろす。先ほど獣の爪が男に食い込んだように、男の斧は、獣の臓腑を切り裂いた。返す刃で切り上げると、跳ね飛んだ獣臭い血が降り注ぐ。その暖かい血液と共に、男の体に力が――血の遺志が、満ちていく。
一度は自らを容易く殺した怪物の返り血を浴びる感覚に、男は酔いしれる。斧からピタピタと滴り落ちる血の音に興奮し、男は今宵、初めて狩りの快感を知った。
◆◆◆
見知らぬ街ヤーナムを徘徊し、男は獣を狩り殺していった。正気を保った人間は殆どおらず、何処もかしこも獣だらけだ。
男は何かに突き動かされるように、何処かに籠るでもなく、自ら危険な街中を進んでいく。街を闊歩する人型を保った獣たちは、それを邪魔するように、強烈な殺意の元、男に襲い掛かってきた。
だが、彼らは正常な意識を失っても尚、男と同じように、火を持ち、獣を狩ろうとしているように見えた。人の残滓が見える者を殺すことに、男は多少の後味の悪さを覚えざるを得なかった。
男が彼らを殺し尽くし、まともに会話の出来た異邦人ギルバードに聞いた大橋へと向かうと、甲高い悲鳴のような鳴き声が聞こえた。それは目覚めてすぐ、ギルバードの家の近くでも聞こえた、怪物の咆哮だった。
橋の中腹に来た辺りで、遠くでドォン、とレンガの砕ける音がした。遅れて、目の前に全長五mほどの恐ろしき怪物が、どすりと降り立つ。怪物の物悲しい咆哮が、男に威圧を叩きつけた。
しかして、咆哮のせいだろうか。その悍ましき威容を目にした男の身に――ふらりとした“眩暈”が、襲い掛かった。はて、威圧に怯んでしまったのだろうか……。吐き気を催すような、得も言われぬ眩暈をなんとかやり過ごすと、どうしてだろう――男は何に教えられるでもなく、一つ新たな知見を得ていた。
この獣こそは、聖職者の成れの果てだ、と。
まるで大橋を渡る者を赦さない、とばかりに立ち塞がる獣にも、しかし男は躊躇いなどない。殺すことへも死ぬことへも、彼は一切恐怖を感じていなかった。
――男は、かつて敬虔な信徒であっただろう獣も、例外なく狩った。
はあ、はあ、と乱れた息が整うのを待つ。それが終わって、辺りがしんとして初めて、男は構えを解いた。
狩りを終えると、脳の奥に、じわりと染み入るような”光“が満ちるのを感じた。視界が広くなったような不思議な心地は、先ほどの眩暈をより強くしたような、尋常ならざる感覚だった。首を振って振り払おうとすると、それは馴染んで消えていく。ただ、気のせいか、目の前が少し見やすくなったような、視界が広がったような……。
倒れ伏した獣の骸は灰となり、跡には夢の気配を纏った幻想のランタンが現れる。使者に促され、再び男がそれに触れると、彼は灯火から、夢へと戻っていった。
死んだあの時と同じ、白い花の咲く墓地で目覚め――そこへうち捨てられていたはずの人形が立ち上がり、男へ狩人様、とはっきりと呼びかけるのを見た。
一瞬武器を構えたが、彼女に敵意がないことを悟り、体から力を抜く。心当たりは、あった。あの”不思議な感覚“だ。恐らく、変わったのは人形ではない。変わったのは、男自身――男の思考、物の見え方。
ここには、元から人形が在った。今もここには人形が在る。何も変わらない。男には、捨てられていた人形が動いているように見える。それだけだ。
未だ、夢の世界には、鼻歌が響いているようだった。人形が動いたのだから、もしかすると、と思い立ち、少女に近づき、もう一度話しかける。
少女の青い瞳は――男を遂に見つめた。
男を見る少女の目は、青く、深く、美しかった。瞳の奥に、星のような輝きが見え、それは宇宙のようだった。男は、吸い込まれるようにその”瞳“の煌めきに見入った。自分の胸の拍動が、やけに大きく聞こえてならなかった。
「貴公は、狩人だろうか? ああ……よく、分からない。……見えないし、聞こえない……。貴公を、感じられない」
男は困惑し、何度か言葉を重ねたが、少女は応えない。言葉が届いていない。その上、こちらを見つめてはいるものの、男の姿が鮮明に見えている訳ではないらしい。……だが、落胆することはない。男の姿は、彼女の目に映った。同じように、いずれ声も聞こえるようになるだろう。
獣を狩るのだ。獣を殺し、あの“不可思議な頭蓋への感覚”を得られれば、きっと彼女に近づくことが出来るに違いない。獣を殺し続ければ、いずれはこの甘く涼しい声と話すことも出来るはずだ。
なんにせよ、少女と話すことは現段階では不可能なようだ。名残惜しくも見切りをつけ、閉ざされていた扉の開いた屋敷へと次の興味を移す。武器の整備の道具や情報など、何か使えるものがないかと踏み込んだ。
中には、車椅子に座った老人が居た。彼はゲールマンと名乗り、男を見つめ、しゃがれた声で話した。彼が男へ与えたのは、助言だった。獣を狩れ――それこそが、男の目的に通じる唯一の道である、と。
何人もの狩人を見てきたという助言者へと、男は少女について問うた。彼ならば、あの少女と言葉を交わしたこともあるかもしれない。しかし、ゲールマンは目を細める。
「……それは、私には見えない者でね。ここを訪れた狩人は、ある時期を境にみな、口々にその少女について語った。曰く、酷く美しく、甘い声をしているのだと……」
ゲールマンは小さく頭を振った。
「私にはやはり、見えないな。そこには、花があるだけのように見える。……ただ。獣を狩れば狩るほど、その少女と、意志の疎通が出来るようになる、とか……」
なれば、やはりやるべきことは変わらないだろう、とゲールマンは締めくくる。男は漠然とした理不尽に思うところもあったが、何もかもを失った自身の、唯一覚えている「青ざめた血」という目的、そして――あの、美しい瞳の少女のため、獣を狩ることを決意した。
<●>7
聖ケモ邂逅+1
聖ケモ撃破+3
少女の目を見る+3