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月光が差している。少女を――いや、美しい
男はわなわなと震える足で、一歩一歩を踏みしめた。長くうねるような、夢よりもずっと長い、だが同じ蜂蜜色の髪。白く長い手足に、起伏のついた肢体。年齢としては、家系図と同じく、二十代といったところだろうか。妙齢の若く美しい女性が、そこで眠っている。
――ああ、なんということだ……。
マールムだ。これは、マールムの本当の姿だ。男は恍惚として、警戒も忘れ、彼女を繋ぐ鎖を断ち切る。こんなに窮屈で可哀相だ。あんなに月に焦がれているのに、今夜ああして破られるまでは、新月の部屋に閉じ込められていたのだろう。なんと憐れな……。
血まみれのオブジェの花弁の隙間から死体の顔が覗く。根の部分に引っかかっている幾人もの狩人は、凄惨な死に顔で空を眺めている。
男は膝を付き、マールムにそっと手を伸ばした。夢の中でのように、静かに、優しく、怯えさせないように。男は彼女の瞳が見たかった。あの美しい青色の瞳さえあれば、男はなんだって出来た。それを手に入れるためならば、何をしたって構わないとすら思える。
美しいあの瞳を、現実で見たかった。男と、もう一度目を合わせて欲しかった。本当の姿で。本当の体で。
マールムのまつ毛が、震える。気が付けば、男の、彼女に触れようとしていた手は止まり、固唾を呑んで彼女の顔を食い入るように見ていた。
瞼がふわりと持ち上がり、青い目が隙間から覗く。
彼女は確かに、男を見つめた。
男は何にも代えがたい感動を噛み締め、踊りだしそうなくらいの喜びを耐え、彼女に微笑みかけた。マールムはそれに微笑み返し、しなやかな腕を男へと伸ばす。いつものように頬を包まれるのかと、男は幸福な予感に身を任せた。横たわる彼女のために身を屈めると、マールムは嬉しそうに目を細め――男の項に手を宛てた。
蛇のように伸びた腕は、男の背と項に添えられ、彼女はゆっくりと顔を持ち上げていく。段々と彼女との距離が失われていく。青い瞳が、甘やかな声を吐く唇が近づいてくる。思わず引いた身は存外強い力に押しとどめられ、男はわずかな身じろぎしか出来ない。
やがてマールムの唇が――狩人の遺志を喰す口が、男へ柔らかく触れた。
頭が真っ白になった男の耳に、くすくす、と笑い声が聞こえる。とん、と悪戯っぽく叩かれたのは口元を覆うマスクで、彼女との口づけはそれに阻まれていた。だというのに、男のわずかに覗く目元は明らかに紅潮していたのだ。
彼女の体から、力が抜けるのを感じる。男が慌てて支えるも、彼女が目を閉じる。彼女が息を止める。マールムはそれきり何も話さず、動くこともなく――男が我に返ると、彼が抱き支えていた女性は、いつの間にか、腐敗した死体になっていた。
彼女からずっと流れていた濁った色の血液は止まっており、まるで今初めて死んだかのように、その古い死体はそこに在った。男は死体をそっと地に下ろし、それからマスクを外し、彼女の頬に手を添え――その瞼に口づけた。
――寝込みを襲うほど、落ちぶれたつもりはないとも。だからこそ、口づけはまた……次の機会に。
キスを逃した男は、そう言い訳を呟いたが、意中の相手の瞳に口づけた彼の耳は、言い逃れのしようもなく、真っ赤に染まっていた。
火照った顔を持て余しながら、男は降りてきた階段以外にも、大きな扉があることに気が付き、そちらへ進む。ランタンが等間隔に置かれた廊下の先は、大聖堂へと続いているようだった。ぐっと上部の持ち手を押すと、床のプレートが一枚はがれ、梯子を上がることが出来た。
――不意に、誰かの含み笑いが聞こえた。
男は咄嗟に頭を下げ、頭上を通る刃を目で確認するよりも早く、勢いよくその場を飛びのいた。
「狩人は皆、狩りに酔う……あんたも、何も変わりゃあしない……」
風切り音と共に、ナイフが飛んでくる。男はそれを避け、暗がりの中の、敵の正体を確かめた。聞いたことのある声だ。
「あまねく狩人に死を……悪夢の終わりを……それが、あたしの仕事さね……」
――烏羽の狩人、アイリーンだ。
彼女は以前の激高を感じさせない静けさで、男へと刃を翳した。どこか酒に酔ったような、何かに呑まれたような口調で――ああ、なるほど……。
――どうやら、あんたの方がおかしくなってしまったらしい。……最も、今していることは、正しいだろうが……果たして、あんたの尊厳とやらはどうなったんだ。
「狩人め、狩人め……。狩りに酔い、人を殺めるお前たちに、死を……!」
対峙し、時折飛び掛かり牽制し、銃で隙を狙う。互いがそうする内、アイリーンは血を吐くように叫び、男へと斬りかかった。捨て身の攻撃に、男は痛みに息を呑みながら、なんとか浅く済ませる。
「あんたの血を! 狩人の血を! あんたの死を! 狩人の死を! そうして悪夢を終わらせるのさ!」
――悪夢が恐ろしいのなら、自分のものにしてしまえば良いだろう。彼女の住まう世界すら、悪夢なのだから。
輸血液を太ももに強く刺すと、男は斧を両手に持ち替え、勢いよく振り回す。アイリーンはそれに足元を掬われ倒れこむ。素早く片手に銃を持ち、男は、立ち上がった彼女の振りかざしていた刃を撃ったが――彼女は反対の手に握ったナイフで、すかさず男の目を潰そうとした。
「グッ! 狩人に死を……! お前たち狩人など、誰一人として残さない! 特にあんたはね……!」
アイリーンは武器を変形させると、勘の鈍い者でも気づけるほどの眼光で、マスクの下から男を睨みつけた。
「あの子を救うのは、あたしたち狩人じゃない……別の誰かさ……!」
――それもまた、一つの道かもしれない。だが……。
男は至極冷静に、刃を振りぬき体勢を崩した彼女の腹を撃ち抜いた。前のめりになっていた体に、正反対の衝撃を食らって踏ん張ったアイリーンは、一瞬の静止を迎える。
男は一息に距離を詰めると、彼女の暖かな腸に手を差し入れ――中の臓器を鷲掴み、勢いよく引き抜いた。
――あんたの遺志も貰っていく。次は、そうだな……狩人とは別に、あまねく“別の誰か”とやらを、殺して回ることにしよう。
「……怪物め……! ああ……お前たち……お前たち狩人に死を!」
男は残心の構えのまま、細い息を吐く。どうにか殺せたようだ。以前の男では、とてもではないが、勝てなかっただろうが……。
ぐっと手を握ると、調子が良いと感じる。自分の中に、莫大な血の遺志があるのが分かる。恐らくは、現世のマールムが喰らってきた遺志を、あの口づけで男に託したのだろう。
辺りを見渡しても、もう近くには誰も居ない。男は体から力を抜き、考え始める。
アイリーンはこの夜出会った中で、最も意識のはっきりした人間だった。精神力の強さが、言葉の芯から伝わってくる良い狩人だった。そんな彼女でさえ、赤い月の影響か、はたまた、それによって知己を失ったせいか……すっかり狩りに酔ってしまった様子だった。
想像以上に赤い月の影響は大きいようだ。男はふと、処刑隊のアルフレートのことを思い浮かべた。いつか殺さねばならぬと思っていたが、彼の振る舞いはまぎれもない強者のものだった。だが、そんな彼も、正気を失っていたならば、或いは……。
――アルフレートと最後に出会った場所に向かうと、彼は未だそこに居た。少し様子を窺ってみるが、彼の腕前と、果たさなければならない使命を前にしての、微塵も揺らがぬ精神力は侮って良いものではない。決定打が欲しかった。
まずは彼から、使命を奪わねばならない。
男は気が進まないながらも、マールムに不義理を内心詫びながら、カインハーストへの招待状を彼に渡す。彼は喜び、男に感謝を述べた。
「あなたに会えてよかった、さようならです。あなたに、血の加護がありますように」
男は彼を見送った後、オドン教会へ向かう。赤い月が人間にどのような効果を齎すのかを見ておきたかったのだ。
教会の中は変わらず、獣避けの香の臭いが充満している。赤い布を被った男に声をかけると、彼は変わらず理性的に、男を歓迎した。一方で、娼婦アリアンナは……。
穏やかな声だったはずだが、それも思い出せぬほどに苦痛の悲鳴を吐いている。どうやら体調が悪いらしいが、獣や発狂に通じるような、本質的に様子のおかしいところはなかった。道中の家では、もはや気の触れた人間や、獣となった者ばかりだったというのに。
男はオドン教会の特異な点を胸に留め、それだけ確認すると、使者たちの灯りに手を翳した。
◆◆◆
――おかしい、歌が聞こえない。男はすぐさま、現世で自分がした行為を思い出し、後ろめたさを覚えながら、それでもマールムに速足で近づいた。
彼女が俯いているのを見て、男は傅いてその顔を覗き込んだ。しかし彼女は、怒っている訳ではなく、悲しんでいる訳でも、怯えている様子もなかった。
ただ、困惑しているようだった。混乱と言っても良かった。
「貴公、あの成り損ないを見たのだろう? なぜ、私の下に平然と傅く。美しき星の娘とも、出会ったはずだ……。おかしい、変だ……貴公は本当に、こんな出来損ないを……」
マールムは視線をさ迷わせると、ぎゅっと膝の上で手を握った。
男は、自身が先刻その手に触れられた感触と、その後に起こったことを意識してしまい、努めて彼女の瞳だけをじっと見つめていたが、次は、自分がその薄い瞼に口づけたことを思い出し、結局、マールムと同じく視線を泳がせた。
「だけど、ああ……愛してくれるのか、こんな私を……。ならば、私も愛そう、貴公を……優しいあなたを……」
マールムは男の両手を、一回りは小さな手で包むと、優しく持ち上げる。男は抵抗もせず、彼女の導くままに動いた。
少女は男の手袋の指先にキスを一つ落とすと、蕩かすような笑みを男へ向けた。
「貴公は良い狩人だ。この手で「青ざめた血」を掴めるよう……いや、貴公の望む「青ざめた血」、その先こそが手に入るよう、私は祈ろう。大切なあなたの、望む未来が叶うように……」
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遺志の口移し+3
オーストリアの劇詩人フランツ・グリルパルツァー(1791-1872)の作品「接吻」
キスの場所の意味etc…はこれ由来らしいのでヴィクトリア朝のブラボでもいける…はず…。
みなさんプ●メアは見ましたか?見てない人は見た方がいいです。かっこよすぎて興奮で脳みそ溶けました。かっこいいの暴力ですよあれは。