あとは、後書きで読者のみなさんへの感謝とか、完走の感想とか、伏線? 裏設定的なのを書くだけなので今話でストーリーは完結です。長年のご愛顧ありがとうございました!!
墓場の夥しく並ぶ裏庭で、男は最後の決意をし、懐から例のへその緒を取り出す。突然液状になったり、肉体が腐り始めることも考慮して、マールムの前では使用できなかったが……。これまで、幾人もの狩人を葬れるほどの実力者――最初の狩人ゲールマンに、最善を尽くしたかった。
月の照らす白い花を踏みしめ、男はグッとへその緒を握りこむ。すると、ぼんやりとした青い光が消え、赤黒い血のようなものが飛び散ったかと思うと、生きた蛇のように、するりと男の手の中に潜りこんだ。
薄皮一枚の皮膚も、筋肉も、骨も、まるで存在しないかのように、へその緒は男の体内へと溶け込んだ。腕を辿っても、変色などしていない。へその緒は男の一部となった。
――男は、自分が資格を得たことを悟る。自分は、人間にできる全てを成した。
軽快に回る柔らかな脳が、知るはずのない智慧を男に知らせる。後一つでいい。男に、必要な最後のピースは――「青ざめた血」だ、と。
確かめるように斧を握るが、特に奇妙な身体的変化はない。思考はかつてないほどに冴え渡っているが、未だ上位者だとは言えまい。
だが、これで勝ち目も見えただろうか。上位者の悪夢の剪定者に選ばれた人間にも、手が届くほどにまで。どうも、らしくもなく弱気になってしまう。夢の終わりを与える相手に負ければ、男は恐らく、その瞬間に夜明けに目覚めてしまう。
臓腑を裂かれ、腸を零し、目を潰され、人の血と油に塗れた斧を取り落とす。そんなことは、今晩だけで何度もしてきた。しかし、これが正真正銘の最後となる。一度きりの、本当の死合いだ。
男が介錯を拒絶すると、ゲールマンは静かに立ち上がり、鎌を変形させる。
「そういう者を始末するのも、助言者の役目というものだ。……ゲールマンの狩りを知るがいい」
――その全てを私の糧とさせてもらおう……。さあ、貴公も疲れた頃合いだろう……ゆっくりと眠り、夜明けの夢でも見るが良いさ。
これまでの幾人もの狩人の血の遺志を蓄えた老人に、男は武骨な斧を構え、己の生涯をかけた目的のため、全てを賭して斬りかかった。
老人は右足を失っていたが、機敏にステップを駆使し、男を攻める。しかし――彼の狩人は、走れない。ゲールマンの義足は粗末なもので、足首から先を丁寧に作られていないため、踏ん張ることが出来ない。足の指がないものだから、彼はバランスよく地を踏みしめられず、恐らくは直線的に駆けられないのだ。
つま先で捉えた土を勢いよく後ろへ蹴り、その反動で踵を浮かせる。それから、腕を地に突き、なんとか前転の要領で、全身で低い位置を取りながら距離を取る。冷たい土と、むせかえるような花の香りが妙に場違いであり、後頭部が地に着き一瞬天を見上げた刹那、丁度ゲールマンの鎌が真上を通り、ひゅんと風切り音が聞こえた。
負傷している手首に輸血液を刺しながら、改めて飛び退くと、ゲールマンが鎌を二度、三度と振るって追撃してくる。ぷらぷらと揺れる手が千切れやしないかと、少し懸念しながら、男は慎重に銃を撃った。
月の光を浴びてから、彼の様子が一変した。何かから力を受け取ったかのように、痛みに怯むこともなくなり、明らかにその膂力も上がっている。一撃一撃が致命的だ。今の彼ならば骨さえものともせず、首を落すことも出来るだろう。
一度、なんとか臓腑に触れることは出来たが、それでも彼は立ち上がった。疲弊していることは感じるが、信じられないタフネスだった。
もはや水銀弾が尽きかけている。だが、補充できるほどの血液は男には残っていない。これ以上は失血死のリスクがある。輸血液も、残り二つ。
一か八かと、大きく振りかぶったゲールマンへと自ら肉薄し、一度切りつける。彼はやはり怯まず、振り切った鎌を手前に引き、男の首を斬り落とそうとした――その肩に、最後の弾丸を打ち込んだ。
関節の方向とは反対の衝撃に、ゲールマンの腕は痙攣しながら止まった。男はそれを好機とみて、ゲールマンの腹に再び腕を突きこんだ。うめき声と共に彼は倒れこみ、小さな声で、彼は何事かを呟いた。
「……すべて、長い夜の夢だったよ……」
倒れ伏したゲールマンを見下ろし、男は大きく息を吐く。貧血の体に輸血液を打ち込み、その充足感に、ようやく戦いが終わったことを実感した。
そして――背後に何かの気配を感じて、振り返る。
赤い――赤い月が、降りてくる。
赤い月を背に……上位者が――いや、あれは……! あれこそが……!
男は我知らず、足を踏み出す。覚束ない足取りで、真っ白になった頭のままに、体に残った記憶が腕を伸ばさせる。
月の魔物、「青ざめた血」。男がここへ来た理由。今の男が唯一持つ記憶の縁。男に必要な、最後のピース。
男の求めに応えるように、月の魔物は両手を広げ、男を抱える。その巨躯に抱えられながらも、男の心には困惑はあれど、恐怖も敵意もなかった。ただ、成すがままにそれを受け入れ――しかし、体の内の何かが、月の魔物を拒絶する。
月の魔物は退き、男を窺うように佇んだ。男は、魔物の想定していた存在ではなくなっていた、ということだろう。では、何だ? 何になったというのだ?
――俺は既に、上位者に足を踏み入れているのか……?
月の魔物は咆哮し、男へ腕を振りかぶる。咄嗟に避けながら、弾の切れた銃を腰に差し、変形前の斧を持ち、片手を空けた。
習性に近く、男は月の魔物を殺す算段を考え始める。だが、良いのか? 果たして本当に? なぜなら男は、この存在以外に、何も覚えていないのだ。これを求め、死地と知りながらヤーナムに来た。微かに残る朧げな記憶も、人間の高みを目指していると――そのために、「青ざめた血」が必要だと、確かに囁いているというのに……。
そもそも、殺し切れるかも分からない。輸血パックは最後の一つだ。水銀弾ももうない。こんなコンディションで敵う相手とも思えない。しかし……。
――自分には記憶以外にもう一つ、上位者を目指す理由があった。
ちらりと目を遣っても、遠すぎて表情までは覗えない。それでも、マールムがその手を組み、男の“望みが叶うこと”を祈っている。介錯を受けるも、上位者となることを諦めることも、はたまた、上位者に成り本懐を遂げることも。
彼女のために、ゲールマンから得た血の遺志を――これまで彼の殺めた狩人の意志を――彼女の神秘の混じった遺志を、返してやらねばならない。月の魔物は、男を殺す気だ。そうでなくとも、死んでも構わないと思っている。
男が死ねば、遺志はどうなる? この魔物が喰らえば、これまでと同じではないか。この魔物はずっと夢を知覚していたはずだ。それでもマールムに、その身に宿す狩人達の遺志を渡さなかった。
――どうやら……彼女のためには、お前は邪魔な存在のようだな。
男はマスクの裏で乾いた唇を舐め、圧倒的な窮地に立ちながらも斧を構える。月の魔物は腕を振り乱し、敵対を続けるようだった。男は避け、交わし、攻撃と撤退を繰り返した。
月の魔物が、不意に止まる。魔物が後退するのを追っていたため、男はそれの停止に伴い、少し近すぎる距離に立ってしまった。肝がひやりと冷たくなり、男はすぐさま下がろうとする。
しかし――それよりも早く、顔と思しき面のような部分がこちらをこれまでにないほど、しっかりと捉え……咆哮が響く。質量を持った音だ。
それを聞いた途端、衝撃と共に、男の体から何かが抜けていく。分からない。わからない。血か? 遺志か? 体温か? わからない! 体から力が抜け、今夜何度も経験した死が、加速度的に近づくのを感じる。意識が点滅しだし、目の前が真っ暗に狭まっていく。貧血に近く、ああ……苦しい、苦しい、苦しい!!
――血だ!! 血が無ければ死んでしまう!!
男は生存本能のままに、一切の防御を捨て、斧で斬りかかった。月の魔物を斬ると鮮やかな赤い血が出る。温かくて心地良い。ああ、血を浴びねば、もっと、もっと血を……さもなくば、死んでしまう!
狂ったように斬りつける内、段々と意識が明瞭になっていく。男が正気に戻った時には遅く、月の魔物の腕に、男は勢いよく吹き飛ばされた。
立ち上がり、すぐさま輸血パックを刺す。これで最後だ。そして……あちらも、随分と消耗している。
自身の体に付着した夥しい量の返り血からして、自分はよほど狂気的に攻撃したのだろう。男は迫ってきた魔物の攻撃を避け、先ほどの咆哮を警戒する。あれほどに死を間近に感じながら、意識を保てたことはなかった。強烈な死の気配に男は我を失ってしまった。
血を浴びて回復出来たから良いものの、次にあの薙ぎ払いを受けては、輸血も出来ず時を待たずに死ぬだろう。男は距離を詰め、隙を与えぬよう必死で張り付いたが、触手による思わぬ方向からの攻撃に、体勢を崩す。
月の魔物はそこから退き――あの咆哮を放つ。
男は躊躇わなかった。呼吸も荒く、意識も朦朧としながら、斬りかかった。何度も、何度も、何度も。血を、血を、血を!! もっと血をよこせ。もっと、もっとだ!!
返り血によって体が十分に動くよう回復すると、攻撃を交わすため勢いよく飛び退く。月の魔物が腕を振るったが、男は再び近づき、その頭蓋と思しき部分を割ろうと、斧を突き立てた。
空いた方の手で釘を打つように、勢いよく刃の側面を殴り、深く切り込ませると、月の魔物が怯んだように止まる。男はもう、この瞬間を逃せば次はなかった。
咆哮の名残か、眼窩の奥に微かな赤い光が見える。男は深く腕を差し入れ、吹き出す血を浴びながら内部を弄り、太い血管を鷲掴んで引きちぎった。
腕を振りぬくと、月の魔物は痛みと反動で首を反らす。そしてゆっくりと仰向きに倒れ伏すと、低い唸り声を挙げながら――やがて、灰となって消えた。
「ああ、お寒いでしょう」
光沢のある身をよじった幼子を、人形は優しい手つきで抱き上げる。彼女は振り返り、金糸のような髪を持つ女性に問いかけた。
「どうか……狩人様を抱いていただけは、しませんか?」
「……彼は、私如きまがい物が触れて、不快にはならないだろうか?」
「いいえ、いいえ。狩人様は、あなた様を愛しています。……被造物は、造物主を愛します。ですが、人は、同じ人を愛します。きっと神も、同じ神を愛するのです。だから、狩人様もあなた様を愛しています」
人形と同じくらいの背丈の女性は、恐る恐ると人形に歩いて近づくと、壊れ物に触るように、男に触れる。
「あなたは、まだ私を愛してくれているのか? 私を……あなたの、花嫁にしてくれるのだろうか……?」
青い瞳を細めると、女性は腕に男を抱える。男は暴れることもなく、鳴き声のようなものを発した。到底人には理解できぬ、上位者の音で。
だが、それで彼女には――マールムには、十分だった。今や、現世と同じ姿を取り戻したマールムは、地に着かんほどに伸びた美しい金の髪と、起伏を持った肢体を以て、花嫁に相応しい年ごろの女性へと成長している。
それでも、どうあがいても人の体だ。彼女の上位者としての血は薄く、マールムはそれを懸念していたが、男の言葉を聞き、綻ぶように笑った。
「ああ、そう言ってくれるか……そうか、そうか……。少し、恥ずかしいけれど、だからこそ私には分かりやすい。どんなに信じ難い奇跡も、なんとか信じられそうだ……」
男が威嚇するような音を発すると、マールムは小さく噴き出した。誤魔化す様に男へ頬ずりしながら、瞼を閉じ、万感の思いを込めて囁いた。
「愛してくれて、私を自由にしてくれて、ありがとう。私も……あなたを、心から愛しているよ、私の素敵な旦那さま」
頬に触れる男の体がびくりと強張る。照れているのか、驚いているのか。その両方か。マールムは自分が幸福に蕩けた笑みを浮かべていることが分かったが、それを抑えられそうもなかった。
小さな神秘を使い、地に小さなレンゲ畑を作ると、そこから摘んだ花を男の顔に雨のように降らせ、そうして自分の顔を男から隠した。
「ふふ、恥ずかしいからダメ、だ。……しかし、あなたは私の旦那さまであって、赤子ではないけれど……夢が叶ったみたいだ。いつか我が子をこうして抱ける日を、私はずっとずっと待っていよう。あなたが大きく育つまで……」
レンゲ塗れになった男の顔を見て、マールムは無邪気に笑うと、一本の花を退け、男の口にキスを落とす。なんとか花を退かそうと四苦八苦していた男は、ぴたりと止まり、マールムはその隙に再び大量の花をまた降らせた。
やっきになって暴れる男の背を撫でた後、マールムはぎゅっと男を抱きしめ、人形の先導に付いて、屋敷の中へと歩みを進める。
子守唄を歌うように、愛を囁きながら。
<●>99
ゲールマン戦闘+1
ゲールマン撃破+3
へその緒×3で+9
月の魔物遭遇+5
月の魔物撃破+5
幼年期の始まりEnd