婚姻指輪ネタ入れようと思って書いたらただのラブコメになった。これラブコメです。
男が立ち上がると、少女はそれをじっと見ていたが、やがて俯きがちに呟いた。
「あなたは、どんな夢を見る? そのへその緒は……あなたの望みを、そのままに叶えるとは限らない。後戻りが出来ないことだけは、覚えていてくれ。そう、どんな結末に至ろうと……」
男の脳裏に、ふっと再誕者の姿が過ぎる。あれは、断じて人の至る先の姿などではない。醜く下等な……それでも上位者だ。
へその緒が繋ぐ先はどこだろうか。自分は一体何になるのだろうか? 男はわずかな恐怖を覚え、逡巡の後、マールムの男を慮る目に促されるように、へその緒を使うことを止めた。
男は満身創痍で、骸となったゲールマンの傍らに立つ。何とか、打ち勝つことが出来た。輸血パックは一つ残らず使い切り、水銀弾も手元にはない。ボトボトと、体中ら滴り落ちる血液の音がやけに大きく、段々と鼓動が弱まっているような気さえした。
男は瀕死の重傷故か、野生動物のように敏感に、自身の背後に降り立つ何かの気配を感じ取る。痛みを堪え、緩慢な動きで振り返りながら、斧を手に構えた。しかし、そこに居たのは――。
これだ。これこそが、男の欲したもの。男の生涯追い求めた命題への方程式。
重い腕を持ち上げると、月の魔物は――青ざめた血は、応えるように手を伸ばす。切れた額から垂れる血が目に入り、はっきりとした輪郭が見えない。月の魔物は、そんな男にも鮮明に見えるほど近づいきた。
腹に押し当てられた顔は面のような形をしていて、髪のような触手が男を捉えるように包み込む。抱擁の上に、外部を遮断する触手によって、男は外界から遮断されていく。まるで、蛹になるみたいに。
小さく切り取られたような景色の向こう側、最後に見えたマールムは、どうしてか泣いているように見えた。
人形は車椅子を押し、男を屋敷の内部へと運び込む。男は決して夢を離れない。特に、獣狩りの夜は、じっとマールムの傍に居ることに決めていた。
男は今や片足を失い、まともな戦闘は出来はしない。だが、少女に魅了された不埒者を殺し、その遺志を全て夢の肥しにしてやれる程度の力は、残っていた。……戦う力があったところで、なんだというのだろう。この体では、歩けないマールムを抱いて移動させてやることも出来ない。
暖炉の前の安楽椅子で、マールムは座っている。男はゲールマンから血の遺志を得たが、それを月の魔物に――いや、それだけではない。血肉と化した遺志、男の力、全てを、月の魔物は奪ってしまった。そのためか、少女は完全な姿を取り戻すことなく、華奢な足は歩くのが難しいままだ。
「お帰りなさい。……あまり、無理はしないでくれ。今は平気だろうが、数年、数十年と年月を経れば、あのゲールマンのように、夢に居ることも難しくなる」
――そうはいかない。俺はお前の夫なのだから、愚か者を須らく肉塊にして、すり潰す正当な権利がある。
男が憤然やる方ないといった様子で鼻を鳴らすと、マールムはくすくすと笑い、壁に手を着けて立ち上がる。ふらふらと危なっかしいながらも歩くと、すとんと男の膝に乗る。
「本来の私では、こうはいかなかっただろうな。ふふふ……」
背を男の胸に預け、少女は手慰みに髪を弄る。男が少女の腹に手をまわし、滑り落ちるのを防いでやると、マールムは後頭部を男の肩口に乗せた。甘い匂いのする蜂蜜のような色の髪がすぐ近くで揺れた。
「あなたは今、何を望んでいる? 獣狩りの夜、新たな狩人を助言者として導き……そうしてどうするつもりだ?」
――見込みのある人間が来ると良い。俺は実に誠実に新人を指導し、そして……青ざめた血を殺し、それを浴びろと。それこそが狩りの成就だと、助言するさ。
「……驚いた。あなたは強いな。いや、そうか……そうだな。……初めから、そうだった。あなたは良い人間で、そして、良い……実に良い、狩人だったな」
マールムが沈黙し、そっと手を男の手に重ねた。薄い胎にはまだ何も宿っていない。それが、自分が上位者となれず、月の魔物の駒に堕ちたせいかと思うと、男は異常に歯がゆくなる。
恐らく、男は現在、分類としては上位者に当てはまるだろう。この身は月の魔物の眷属であると思われる。
月の魔物に包み込まれ、男は意識を失った。五感は全て闇に溶け、だが、最後に確かに聞いたのだ。懐かしく、酷く安心する――母の胎内で聞いた羊水の音を。
男は夢の住人として生まれ変わった。今やマールムや人形と同じ、もっと正確に言えば、ゲールマンと同じ存在へと。男は月の魔物に魅入られてしまったのだ。ずっと前から、男はマールムに魅入っているというのに。
男にとって口惜しいことは他にもいくつかあったが、最も悔しいのは、マールムを解放してやれなかったことだった。
男は確かに約束したというのに、それを果たすことが出来なかった。あれほど成就まで迫っておきながら、男の力が及ばなかったせいで、少女はここに囚われたまま。傍に男が居る内は構わないが、ゲールマンのように老いては、いずれ狩人に負け、殺されてしまうだろう。男は最早人ではないから、力や神秘を蓄えれば老いを遠ざけることは出来るだろうが……。
男がいつか消えた夢で、初めて会った頃よりも遥かに成長し、現世の姿に近づいた少女に、不埒な虫が集ることを想像するだけで腸が煮えくり返るほどだった。
――これは自分のものだ。自分の番いだ。自分だけの少女だ。
男は力を欲した。聖杯を介し、夢と夢の狭間、上位者の憩った場所――神秘の名残へと、何度も渡った。かつてのヤーナム、地下の神殿、墓場、星の娘の故郷、そして、女王の間が封じられた遺跡へと。
その内、一つ得たものがあった。人体の破片や、生きた人血などの儀式の道具等ではなく……婚姻指輪だ。それも、上位者が特別な意味を込めた。
今も胸元にしまってあるそれを、男が渡す資格はあるのだろうか。自分は約束を果たせなかった。それでも――どうしてか、弱い男のプロポーズに、少女が喜ぶ顔が浮かぶのだ。確かに彼女は自分を愛していると、男は信じていた。
彼女との蜜月も、無粋な狩人がやってくれば終わりだ。それまでに……日没が始まるまでに、これを渡さなければ……。
男の体温が急上昇していく。今しかない。今を逃せば次はずっと先だ。今日までどれだけ指輪を温めてきた? 手に入れてから現世ではもう三週間近く経っている。なんせ、今日は獣狩りの夜……つまり、満月の日なのだから! 当然ながら、前回の満月から、一月が過ぎている……。
一か月近くも怖気図いていた事実に、男は全くの無力感を覚えた。自分はなんと無力なのだ……ここまで自身の臆病さを侮蔑したのは、幼少期以来だった。
男はぐっと息を呑むと、出来るだけ何も考えないようにして、勢いよく指輪を握った。それからそっと……静かな動作で、マールムを抱え、自身の方へ体を向けさせた。
「……? どうした」
マールムはなぜか強張った顔で、男を見つめる。男はその数倍はかちこちに固まった状態で、無言でマールムの手を掴み、広げさせた。言葉が何も思いつかなかった。
男はそっとリングを掴み、少女の手に置く。不思議そうな顔をした少女を前にして、一度目を閉じると、覚悟を決める。
――改めて、約束してくれ。どうか、俺の花嫁になる、と。この指輪を以て、その誓いとしよう。
「……ああ、ああ! なんてことだ……! ごめんなさい、受け取れない。それを受け取る資格は、私には……」
少女は途端に顔を歪めて、指輪を大切そうに持ち、男へ返した。男はそれを半ば呆然としながら受け取り、顔を覆ってわっと泣き始めたマールムに、慌ててハンカチーフを差し出す。
「ごめんなさい……。だけど、私は……私は許されるべきではない……。嘘を吐いたんだ。あなたの望みを歪めてしまった! あなたはこんなにも強かったのに、私の弱さでこうなってしまった……!」
――泣かないでくれ。どうして俺に謝る。どうして受け取れないと泣く。俺は……喜んでくれるものかと……。
言葉にするだけで心に甚大な傷を負いながらも、尻すぼみに呟くとマールムは首を振った。
「嬉しかった。とても、嬉しくて、幸せだった……! 今日までの日、ずっと黙って過ごしてきたけれど、何でもないそんな日々でさえ、幸せだった。愛おしかった……」
マールムは泣きじゃくりながら、男に謝った。ごめんなさい、ごめんなさい、と何度も言った。
「あなたが何になりたいのか、本当は分かっていた。へその緒がどんな結果を齎すのか、知っていた。だけど、嘘を吐いた。どうなるか分からない、などと……。私が……私が嫌だったからだ。私が愚かだったから……」
男は手を浮かせ、迷いながら少女の背を撫でた。彼女はより一層泣きながら、男の背に手を回した。
「……あなたと、一緒に居たかった! 上位者に至れば、あなたはもう何処にでも行ける。私を置いていける。私よりも優れた花嫁を選べる。私は……。私は寂しくて、私は弱かった。あなたが何処にも行かないように、嘘を吐いた。ずっと、傍に居たかったから……」
ごめんなさい、と少女はか細く呟いた。それきり何も言わず、時折喉に引っかかるような声をあげて泣きながら、男の背に回した手に、力を込めた。もしも男が少女を引き離そうとしても、それを拒絶できるように。
男は少女の背を何度も撫でて宥めながら、顔を向き合わせると、少女の涙を拭い、キスを数度落とした。マールムは目を閉じてそれに応え、男の頬に手を添えた。
――俺は確かに上位者へ至ることを望んでいたが、それと同じぐらいに、お前を自分のものにしたいと考えていた。
「それは、本当……か?」
――事実だ。一夜の間ほとんどずっとお前のことを考えていた。俺は……何度も言ったが、お前を愛している。そして、お前の嘘が赦されざる罪だと言うなら……俺も、お前に嘘を吐いた。
男は自身の不手際を思い出し、一度視線を下に落とした。
――俺はお前を、解放できなかった。月の魔物が誰かに狩られるまで、お前はずっとここに縛られる。俺がどれほど力を蓄えようと、もう、あれに手を出すことは出来なくなってしまった……。
男は――ここで一つ嘘を吐いた。
マールムは嘘に気づいた様子はない。彼女は大きく首を振ると、未だ目に涙を貯めながらも、男を擁護した。
「それは嘘ではない! 私のせいだ。あなたはきっと強かった。私が嘘を吐かなければ、それは本当になっていた。私は……囚われていても良いから、あなたのことが欲しかった。……それだけだ。私の愚かさに、あなたを巻き込んだのだ」
マールムが再び涙を零すのを慰めながら、男は優しく嘯いた。慈悲と憐みを込めた声で、少女に偽りない愛の言葉を。
――いいや、俺たちはお相子だろう? 俺はお前の罪を愛ゆえに赦せる。お前はどうだ?
「そんな……! もちろん赦すに決まっている! 私は、あなたの罪を赦せる。私の罪さえ赦されるというなら、そのような小さな罪科が赦せないはずがない」
男は満足げに頷くと、再び指輪を手に取る。マールムはおずおずと手を出すと、男はその手をいつものよう、優しく掴んだ。
――さあ、受け取ってくれ。どうか、俺の花嫁になると……そう誓ってくれ。
その薬指に指輪を嵌める。少女はそれを拒まず、緊張したように、空いた手をぎゅっと握りしめてそれを見ていた。
「私は、あなたの花嫁になると誓う。あなたが、それを赦してくれるのなら……」
雪が溶けたように、少女はふわりと微笑んだ。暫く指輪を眺めたあと、マールムは男の手に指を絡めた。
「……キスを、しても……構わないか?」
少し不安そうに尋ねるものだから、男は万感の思いを込めて少女を強く抱きしめながら口づけた。彼女が男を疑いようもなく愛していることを、男は改めて理解した。無論、一点の曇りもなく、男も少女を愛していた。
だから、男も嘘を吐いた。彼女が男を離したくなかったように、男も少女を離したくなかった。
この一月の間、男が婚姻指輪を渡せなかった理由がある。マールムが自身の罪を懺悔するまでは、男はマールムに選択肢を与えるつもりだったのだ。
指輪を受け取って男の花嫁となるか――指輪を受け取らず、男の手により夢から目覚めるか……。
男は今やゲールマンと同じ能力を持っている。彼は助言者でありながら、死神でもある。男は、その気になればマールムを現実で目覚めさせることも出来るのだ。……それだけではない。恐らくマールムは、“不純物”が抜かれたのだから、純正の上位者として、現世に戻ることも出来るだろう。
男は彼女を解放する方法を知っていた。だけど、言わなかった。
彼もまた、少女を愛していたから。ずっと、彼女の傍に居たかったから。
嘘を吐いたのは少女も同じだ。少女の罪を男が赦すのだから、どうして男の罪が赦されないことがあろうか?
何よりマールムは、指輪を受け入れた。男の愛を受け入れたのだ。男のことを、いじらしい嘘まで吐くほど愛しているのだ。
男は少女を抱きしめ、顔を首元に埋め、見えないよう口が裂けそうなほどに笑った。自分たちは愛し合っている。互いを偽り、その罪を愛で赦せるほどに。
この少女は男のものだ。男の花嫁だ。男の妻だ。誰にも手を出させはしない。
今夜また、魔物の孕んだ夢の中に、新たな狩人が現れる。獣狩りの夜だ。赤い月はあれから解き放たれたまま。赤子は男が殺したが、その程度で収まるはずがない。この街は、赤子の赤子、ずっと先の赤子まで、呪われているのだから。
――やあ、君が新しい狩人か。ようこそ、狩人の夢に。私はただの助言者だ。分からないことは、何でも聞いて構わない。こちらは、私の妻だ。
マールムが立ち上がり、淑女らしく一礼すると、新たな狩人は困惑した様子で、両者を見つめた。輸血を終え、夢に選ばれた以上……彼にも一切の記憶がないのだろう。
――君も今夜から狩人となる。今は何も分からないだろうが、難しく考えることはない。簡単なことだ。
男はマスクに隠れた裏側で、助言者らしく、にっこりと笑みを浮かべた。
――夜明けを望むならば、君はただ、「青ざめた血」を求めれば良い。
遺志を継ぐ者END
評価とかお気に入り登録ありがとナス!!