大橋が使えないのなら、下水道を使うしかないのだ、という提言に従い、男はそちらの道を選んだ。
医療教会ならば、「青ざめた血」について知っている可能性が高く、また順当に考えて、この排他的な者ばかり住む住居区域では、大した情報は得られないだろう。男は、この薄暗い街の最奥へと進まねばならない。
その障害となる者は、獣は、取り除かねば。例え、目の前で獣に変貌したばかりの人間であっても。
――男は、かつては娘を持つ一人の父親だった獣を殺し、斧の血を振り払った。
獣が崩れ落ちる。すると、あの、脳に知恵の水が湧き出る奇妙な感覚が溢れる。まるで何事もなかったかのように灰となり消えた獣の下に、小さなランタンが見える。それに触れ、男は少女の逢瀬に期待しながら夢へと潜った。
男は人形と話し、男の殺した獣たちの血の、その遺志を力へと変える。人形は口ぶりからして、随分と夢に長く滞在しているらしい。ならば、と男が少女について尋ねると、ゲールマンとは異なり、目を伏せて滔々と語り始めた。
「あの方は、この狩人の夢に囚われているのです。千々に分けられ、飲み込まれ、食らわれて……。狩人様、あなたならば、或いは……どうか、あの方をお救い下さい」
人形が憂いを帯びた目を向けた先で、少女は変わらず、月を眺めて歌っていた。彼女は、”食らわれた“のだと人形は言う。それが何を意味するのか、完全な理解は及ばずとも、物言いからして、彼女の本意ではないことは明らかだった。まず間違いなく良い意味ではあるまい。
男は華奢な少女を無性に憐れみながら、彼女の前へと歩を進める。すると彼女は――男の足音が聞こえたかのように、振り返った。
「貴公、やはり狩人か……。少し、貴公の音が聞こえるようになったぞ。血潮を吐き出す心臓の音、流れる血の内の、遺志の声……」
少女は煌めく青い瞳を伏せ、リボンに絡んだ花飾りを指で弄っていた。
「今夜も獣が騒がしい。多くの狩人が、血を浴び、血に酔って、青ざめた血から遠ざかる。やがては、夢を見る資格さえ失い……私を置いて、私を忘れて、目覚めていく」
悲し気なその声は、男に深い同情を思い起こさせた。なんと可哀相な乙女なのだろうか。濡れた瞳に涙を浮かべただろう過去が、その声からは滲んでいた。
――自分ならば、彼女を見捨てたりしない。
彼女の言う「青ざめた血」とは、男の望む物であり、過去の自身との唯一の縁でもある。これら先、決して手放すことはないアイデンティティであるからして、自分だけは間違いなく、少女を悲しませるようなことにはならないだろう。
少女は男の声のする方を暫時眺めていたが、やがて諦めたように視線を逸らしてしまう。焦点の合わない様子から、まだ男のことが良く見えていないようだった。
であれば、するべきことは、やはり変わらない。男は再び武器を取り、獣狩りの夜へと戻った。
少女と、そして自身のために。
オドン教会の噎せ返る香の臭いから逃れるように、街を徘徊し続ける。そうする内に見つけた旧市街への入口は、張り紙で拒絶を示されていた。男は気にも留めずその道に足を進めた。
何故なら、今のところ開かれている道は、ここにしかない。もう一つの扉は、狩人の長が獣狩りを終わらせるまで、開かないものらしかった。遠目に見えた民家は無力な住宅街の証だ。男が偽証によって開くことは、許されざるべきことだろう。他方、獣を殺すことには、罪悪など感じる必要はない。何故なら奴らは、害悪な食人の病持ちなのだから。
扉を押し開いて行くと、煙に紛れるようにして、末期の獣病の患者たちが、男へ飢えて襲い掛かる。それらを殺す内――壮年の狩人の声が、時計塔から降り注ぐ。
彼は、男へと引き返すよう告げた。言葉から伺える獣への憐憫の情は、男にとって非常に不快なものであり、二度に渡る警告を聞こえぬものとして振舞った。獣を狩り尽くさねば、夜は明けぬ。そして、男の過去も「青ざめた血」と共に永遠に失われてしまうだろう。
前触れなく、ガトリングの弾が雨のように降り注ぐ。狩人は、宣言通りに男を攻撃し始めたようだった。その弾丸の幾つかを交わし切れず足を負傷したのが災いし、男はぐっと身を固めることしか出来なくなり、止まった体に集中砲火を浴びて、無数の穴を空けられた。
男は、自分がこの夜で何度目かの死を迎えるのを悟った。死の間際、見知らぬ狩人は男へと――まだ、夢を見るのだろう? と嘲るように諭した。彼自身は、もう夢を見ないということだろう。つまりは、彼女を見捨てた狩人の一人。彼女を忘れた狩人の一人である……。
目を覚まし、一度夢に戻ると、人形と少女が変わりなく存在していた。屋敷の中のゲールマンは、旧市街を目指すべく言い残し、何処ぞへと消えてしまっていたが……。細やかな風が吹く花畑では、現実の血生臭い生き地獄が際立って想起される。
あの少女は変わらず月を眺め続ており、男が近づこうが、何処かずれた視線が彷徨うのみである。少女の美しい瞳をじっと見つめていると、顔もまだ見ぬ狩人への強い怒りが沸き起こるのを感じた。
ああ、やはり自分だけは、自分くらいは、決して見捨てまいでいよう。この憐れな少女が、自分に救えるというのならば、何としてでも、救ってみせよう。
獣を狩ることに、何を憚ることがあろうか。元よりありもしなかった罪悪感が、寧ろ積極的殺意に傾くのを感じる。ああ、問題はないだろうとも。助言者ゲールマンの言葉によれば、男の目的――青ざめた血さえも、狩りのその先にあるのだから。
男の目的は、あの壮年の狩人の目的とは相克するというだけだ。彼にもしも、悲壮な決意があろうが、それは男が獣を殺さない理由にはなりはしない。
獣を殺しながら旧市街を進んだ先。いざ時計塔の梯子を前にして、男は立ち止まった。ガトリング銃を使うあの狩人は、敵意ある狩人ではあるが――そして、注意を無視した男に非があることは自覚している――人間である。ガスコイン神父のように、人から獣へと変貌した訳でもない。男は逡巡した。
――ここで、彼を殺す必要はあるのだろうか?
ここを通り過ぎ、奥へ向かえば良いのだ。ここへ来るまでも、ガトリングの弾を男は避けた。旧市街には、細々とした建物や遮蔽物が多い。この先へ進むのも、同じ要領で構わないだろう。わざわざ利もなく人間と殺し合う必要はない。男は静かに時計塔を通り過ぎ、旧市街の奥へと進んだ。
少し前に、下水までの道で出会った烏羽の狩人は、もはや人はみな獣だと言ったが――自身は獣などではなく、血に酔うつもりもないのだから、論理的に行動出来る『人間』だ。
あの壮年の狩人に、幾ばくかの怒りはあれど、敢えて労力を注ぎ、殺したいなどとは思わない。それは理性ある人間ならば当たり前のことで、これこそが血に酔っていない証左であるに違いない。
建物の陰となり、西日が遮られた旧市街の奥には、より一層、獰猛な羅患者たちがたむろしていた。獣は赤々と光る瞳で男を睨み、知性の名残もなく、形振り構わず襲い掛かって来る。彼ら彼女らは、以前は確かに人間だったはずの生き物だった。
だが今となっては、すっかり害獣と化してしまっている。彼らは既に人としての自我を忘れ、街中で死体を生産した後だ。つまるところ、殺人鬼だ――獣にそのような概念はなく、ただ血を求めているだけなのだろうが。
――そんな獣を守るために人間を殺すことを選んだ狩人と、その盟友が正しいはずがないのだ。
男は自身が善いことをしているような、いっそ安らかな気持ちで一匹一匹丁寧に獣を終わらせて、街を死の静寂で満たしていった。もう、あの狩人の視界からは外れたのだろうか。銃弾は飛んでこなかった。
旧市街の深奥。獣を焼く炎の照らす教会を見上げ、男は、自身の内から信仰心が沸き上がらないことを少し残念に思った。どうやら、記憶を失う前の男は、哀れなこの街に、十字を切る慈悲すら持たなかったらしい。
だが、その冷血こそが、この街では賢明なのだろう。何故なら、他ならぬ聖職者こそが、もっとも恐ろしい獣になるのだから。
信仰無き身が教会に踏み入る。背から剥がれた皮を布のように纏っている獣を目にした時、男の頭には揺らぐような感覚があった。脳が震える”あの感触“がする。不快感に堪らず震える手が、思わず武器を取り落とし、男はハッとした。しかし遅い。
――血に渇いた獣の腕が、振り上げられる。
獣の背から捲れ上がった皮が、ペトリと頬を掠める。毒の臭いが男を包み、痛みが全身を貫いた。呻き、崩れ折れ、男はまた死の先の悪夢へと落ちていく。
夢で目を覚ますと、人形は男を迎えて一礼し、彼を労わった。男は一度嘆息した後、青い瞳の少女の元へ向かうことにした。”あの感覚“があったのだから、男の存在を更に認識出来るようになったかもしれない。
男が話しかけると、少女は振り返る。流麗な眉を少し寄せ、彼女は残念そうに応えた。
「貴公よ、私に話しかけている……のだろうか。ごめんなさい、やはり、まだ聞こえない……」
期待を裏切られたからか、男は少しがっかりした。男の落胆を見て取り、人形は支えるように言葉を添える。
「あの方はとても……希薄になってしまわれているのです。狩人様が、あの方と真にまみえるには、まだ足りないものが多くあります……」
男は首を捻る。”あの感覚“が必要なのは確かだろうが、それだけではないということだろうか。
しばらく思考を巡らせるが、何も思い当たらない。知恵が足りない、知啓が……。そういえば、と街で一部の死体が懐に持っていた奇妙な頭蓋を思い出す。あれには、人の智慧が秘められているのだという。これさえあれば、考えも啓けるのだろうか。
男は頭蓋を砕き、その内を覗き込んだ。すると、男の脳裏に“何か”が輝き閃いた。頭蓋を割るという、目覚めたばかりでは思いつきもしなかった発想が出たことも、或いはこれまでの”あの感覚“――これは啓蒙なのだと、今の智慧で理解した――を重ねたおかげだろうか。
男は少女へ向き直る。彼女はやはり、眉根を寄せた。
「ン……。貴公、獣から遠ざかったようだ。それは血の酔いから醒めるに良い薬になる。……だが、私が貴公を感じるには、狩人を……いや、なんでもない。貴公は狩人で、普通の人間なのだから」
物憂げなため息と共に、彼女は月に向き直る。それ以上は何も教える気はなさそうだ。
今度は男が顔を顰める番だ。少女と話をしたい。人形は、男になら彼女を救えると言った。だが、狩人たる男に出来ることは、獣を狩り殺すことのみだ。そんな粗暴な男に、彼女を救うことが出来るというのならば、それは獣狩りと深く繋がっているはず。それでは、その手段とは、一体何だろうか……。少女曰く他の狩人では出来ない何か――普通の人間が眉を顰めるような、何か……。
聖職者の獣、ガスコイン神父。その共通点は、医療教会の関係者であり、獣と化しており――。
不意に、奥まった墓で出会った、処刑隊アルフレートの言葉が蘇る。医療教会が下賜するという血の救い。
医療教会の血の施し。血の加護。それが意味するところは、狩人がみな、恩恵に預かる輸血のことである。
男はこの手で、確かに殺した。かつて人であった獣たちを。狩人であった獣たちを。もしかすると、単なる輸血ではなく、特別な血を宿した者だけが……という可能性もあるが――男は目の前が開けたような心地で、自身が何をすべきかを理解したのだった。
狩人を、殺せばいいのだ。
今この時でさえ、理性的である男だったが、狩人を殺す理由が出来てしまったからには、その行動が血に酔った狩人と似通うのも仕方あるまい。
男にとって、少女と話すこと――そして、その延長線上にある、少女の救済の方が、敵意ある狩人などよりも重要だったのだ。
<●>15
ガスコイン神父と接敵+1
神父獣化+1
神父撃破+2
血に渇いた獣と接敵+1
狂人の智慧+3