マールムが手招いた。男は当然にそれに従い、彼女の傍へと跪く。
「貴公、随分と走り回っているな。長い夜を目いっぱい使って、そこまでして……何を望む?」
――無論、あなたの解放を。
答えに対し、彼女は目を細めた。疑っているのだろうか。無理もない、男は彼女のレンゲに神秘を見出し、それに魅了されてしまった。花を千切った際の少女の悲鳴が、まだ鼓膜に張り付いている。男の愚行は、決して許されるべきではない。
「貴公の愛は本物……かもしれない。エーブリエタースとの邂逅にさえ、貴公は揺れなかった。……ああ、不思議なものだ。人だったものが、ゆっくりと外れていくのを見るのは、妙な気分だ」
マールムは愁いにも似た視線で男をなぞると、労わるように頬を撫でた。その時の彼女の、複雑な表情が、何故か鮮明に脳裏に残っていた。
***
乳母を倒し夢に戻ると、辺りは一変していた。強い緊張感を抱きつつ、人形に話を聞けば、ゲールマンが男を待っている、と。
はたしてマールムは無事だろうか、階段を上り確認すると、彼女はそこに座っていた。美しい花々は、炎に巻かれることもなく咲き誇っていた。全ての狩人を殺したつもりであったが、マールムは未だ幼い姿のままである。男がそれを尋ねると、彼女は頷いた。
「少し、足りないものがある。貴公、どうだろう、私の願いを聞いてくれるか?」
男が是と答えると、彼女は水盆を指さした。
「そこの水盆の使者たちから、貴公の智慧と引き換えに得られるものがある。血の固まり、凝った岩。それを貰うことは出来るか?」
男はもちろんと、それを差し出した。受け取った血の岩を、彼女はガリ、とかみ砕き、飲み込んだ。花畑から光が失われてゆき、そこにはやがて枯れた花が残る。
「ありがとう。……さあ、ゲールマンが待っている。貴公の選択を、私にも見せてくれ。貴公の思うまま、誰に憚ることもない答えこそが、最も正しい選択だ」
少女は立ち上がり、男に手を伸ばした。
「ところで……その。足が、あまり動かないんだ。エスコートを頼んでも、良いだろうか」
頬を赤らめた少女の願いを、男が拒むはずがなかった。
庭を降りると、大樹が遠くへ見えた。少女はそこで手を組み、祈るような動作をした。彼女は小さく呟いた。
「どうかあなたが、あるべき未来を選べるように……」
ゲールマンが男を労わる。彼の言葉を受けていると、一夜の出来事が走馬灯のように過ぎっていった。
「君は死に、そして夢を忘れ、朝に目覚める。……解放されるのだ。この忌々しい、狩人の悪夢から……」
ゲールマンが告げる。朝が来るのだと。男の全てを失った頭のどこかから、朝日が浮かぶ。眩い光の中で、男が誰かに愛された記憶、慈しまれた記憶……人と、そして人との関係が、悪くないと思えた瞬間。そんな、男の人生でも少ない美しい記憶が、今になってどうしてか思い出された。
気が付けば、男は頷いていた。ゲールマンは鎌を手に取る。男は座り、それを待っている。
心中は穏やかな希望と、尋常ならざる焦りが同時にあった。今を逃せば終わりだというのに、どうしてこんなことをしているのか。そう責める自分が居るのは確かだが、一方で、微かな美しい記憶に溺れ、有象無象の人間と共に生きていたという願いへの、前向きな欲が抑えられなかった。
「……さらばだ、優秀な狩人。血を恐れたまえよ」
男の首に、何かが触れる感覚があった。その次の瞬間には、首が空を舞っていることを自覚した。
刹那の最後。祈っていたマールムが、男の選択を見つめて、涙を零しながらも微笑んでいたのが見えた――そんな気がした。
◆◆◆
騒がしい人ごみに紛れ、男は舗装された道を進む。目指すヤーナムという都市へは、山を一つと、谷を一つ越える必要がある。この先、とある貴族がヤーナムへ向かうとのことで、使用人の馬車を捕まえて、乗せてもらうつもりだった。
チップを渡すと、使用人たちは男を馬車へ乗せてくれた。他にも、顔色が悪い……いかにも病人らしい人間が数名居たが、断られる者も多かった。その判別は、黒装束の奇妙な壮年の男がしている。水を良く弾きそうな上等なコートだが、それとは不釣り合いな大きな口径の水銀銃が腰に下がっていた。獣でも仕留めるつもりだろうか。あれでは、人間など吹き飛んでしまう。
男を含んだ馬車の一行は想定通りの道程で、無事に山を越えることが出来た。馬車が途中の村で休憩を取り、一夜をそこで過ごす。
男が宿屋で眠っていると、遠くの方から湿った海の音のようなものが絶えず聞こえる、薄暗い夢を見た。悪夢に跳ね起き、外を出歩くと、美しい星空が見える。ロンドンとは違い、良い空気を感じた。とても綺麗に思えたが、どうしてだろう。あれよりも美しいものを自分は知っている、と陳腐に感じてしまった。
「お前は、何故再びヤーナムへ向かう」
谷を迂回する途中、あの黒装束の人間が、男へと話しかけてきた。彼は護衛兼道案内の役割をしていたようだが、昨日の夜から男を気にかけているようだった。だが、男は自分がヤーナムに一度行き、そしてイギリスに戻った人間だと言うことは、彼に話した記憶はなかった。
――……分からない。俺の病は、もう治った。だが、何かに呼ばれている気がする。
返答に対し、案内人の男は睨みつけるようにこちらを一瞥すると、厳しい口調で忠告した。
「お前はヤーナムに行くべきではない。お前は谷を過ぎたころから体が軽くなるのを感じ、蠢く虫の歓びか、或いはナメクジ共の声を聞くことになる。そして、逆らいがたい魅力に惹かれ……次に、一度でも血を受け入れれば、お終いだ」
男は最早その言葉を聞いていなかった。いや、聞いてはいたが、返答の余裕がなかった。囁き声のような水音が、脳を這い回るように響いていた。ぴちゃり、ぐちゃり。ぬとぬとと、耳の奥、体の最も深いところで、何かが瞬いているのを感じた。
「……。……狂人は夢から離れられない、か。古狩人共のように、悪夢を追うなよ。夜に戻るにせよ、せいぜい、狩人として街に貢献してくれると良いのだがな」
男は瞬く脳の感触に、息を乱し、胸元を抑えながら笑った。
――狩人、と聞くと、不思議と殺したくなる。どうしてだろう。……貴公に、分かるかね?
「分からんな、狂人め。街から出られたのなら、戻るべきではなかったのだ。……フン、囚われの身からすると、忌々しいものだな……」
案内人はそういうと、提げていた瓶から酒を飲んだ。今日まで何も感じていなかったそれの中身が、腐ったような血の臭いがする酒だと、どうしてか今は嗅ぎ取ることができた。
ガタン、と岩に車輪が跳ね上がる。窓の外を見ていた使用人の子供が叫んだ。
「見て! 街が見えてきたよ!」
街の入り口で降ろされると、案内人は貴族に呼ばれて去っていった。男は彼のもの言いたげな視線にも、我関せずと先に歩き出す。治療の間の記憶は一切なかったが、男は街のことを知り尽くしているかのように、道を歩くことが出来た。
宿を取り、男は街の散策に乗り出した。ここにはあれがある。ここにはあれがあった……。些か、記憶と異なり壊れたものなどもあったが、凡そは正しかった。オドン教会という場所は特に顕著で、大量の甘く苦い煙の敷き詰められていたはずのそこには、壺の一つもありはしなかった。
ひそひそとよそ者への噂話を囁かれる中、聖堂街を歩く。下層の住民街は広く開かれているが、上層には大聖堂内部からしか行けないらしい。男がそれを知れた理由というのも、言葉に出来ない強い欲求に駆られ、聖堂に走り込んでしまったからだ。男はまるで、目の前に蜜を垂らされた熊のように、一心不乱に上層へ行きたいと考えていた。その上に、何か自分にとって、途方もない良いものがあると直観が告げていた。
コツコツと壁を指で叩きながら、男は曖昧模糊とした記憶を辿る。どこか、他のルートはないか。これほどまでに必死で思考を巡らせたのは、幼少期に故郷から逃げ出した頃以来だろう……。
『オドン教会を上りたまえ』
不意に誰かの声が、記憶から浮かび上がった。それに従い、オドン教会へと戻ると、記憶とは違い、不自然に調度品で隠された扉があることに気づける。あの向こうには確か、上層へ行くためのエレベータがあったはずだ!
そこへ手を伸ばした男の肩を、誰かが叩く。咄嗟に振り返り、腰に手を伸ばした。そこには護身用の銃が忍ばせてあったが、知らぬ相手はそれを見越したように男の腕を押さえつけた。
「物騒な奴だ。今は昼間だぞ、そんなにビビるなよ……ヒッヒッヒッ」
――お前は狩人か? 俺のことを知っているのか。
「アンタのことを知ってる狩人なんていねえよ! あの夜みぃんな、アンタに殺されちまった! 全く、ヒッヒッヒ、最悪の夜だったもんなあ、エエ?」
――なら、お前は何だ?
「ヒッヒ……ま、詳しいことは俺ん家で話そうぜ。ここはちいっと、医療教会の奴らの目が痛ぇ。アンタ、さっきから睨まれてるぜ」
知らぬ男は、北欧系の顔立ちだった。恐らく美丈夫と言って差し支えない顔の持ち主であるが、顏中や腕に包帯を巻いている。
男にとってまったく覚えのない出で立ちだったが、どことなく嫌な感じがした。厭世的な笑みは人を小馬鹿にしているようであったし、訳知り顔なくせに、男を助けるという意思が、その表情からは一切読み取れなかった。
見知らぬ男に連れられ、聖堂街の下層へと降りていく。下水の臭いが薄く伸びて漂っており、快い空間とは言えなかった。ただ、どの家も鉄柵で囲われており、何か硬質で排他的な雰囲気を漂わせていた。住民の貧困とは不釣り合いな、がっしりとした造りだ。男の塒は、そういった暗い下層でも、奥まった一角にあった。
「アンタ、また戻ってきたんだなあ。本当に狂ってる、狂ってるよ、アンタもアイツらも……ヒッヒッヒ」
――話したいことがあるだろう。手短に済ませろ。
「ああ……。街から出て、最悪の気分だったろう? 血の中の虫がしんと鎮まっちまって、体が冷たくなるんだ……熱に浮かされて蕩けた頭が、戻っちまって……苦しくてたまんねえ……」
不気味な男は過去を思い出したかのように、頭を掻きむしり、呻きだす。
「ああ、ああ、ちくしょう……こんな街、最初から来るべきじゃなかったんだ。ううう……アンタなら分かるだろう? もう、離れられねえんだ。獣みてぇに、蕩けて暴れるのが、心底気持ち良いんだ。なんにも考えねえ、全て失うんだ……あああ……」
――いいや、俺には分からない。虫のざわめきよりも、瞬く脳の瞳を感じる。これは、この街の外でも、ずっと俺と共にある……。
今も、脳の奥で閃くような感覚が続いていた。これはヤーナムからイギリスに戻ってからも、時折、何かしら『奇妙』な場所に近寄ると起こる現象で、目が冴えるような、視界が啓けるような感覚に似ていた。男のいうものとは違うが、心地は良い。自分が何か素晴らしいものに、一歩近づけたという快感があった。
「なんだ、アンタは、気色の悪いナメクジの方か……。ヒッヒッヒ……じゃあ、ほら……。あああ……アンタに、俺の虫が見えるかい……虫が、虫が俺の体の中に居るんだよ……」
男はいよいよ狂人じみた様相で、部屋の隅へと蹲り、頭を抱え込んでしまった。
――話はそれで終わりか。
「いいや……。アンタ、上層を目指すんだろう。だけど、今のアンタじゃ無理だ。……だから、これをやろうと思ってさ……。ヒッヒッヒ……。もう、遺志も夢も、アンタには繋がってない……それでも行くなら、こいつを飲むと良いさ……」
男は懐から、ガラス瓶に入った輸血液を差し出した。それを受け取るや否や、「飲めよ」と言い募ってくる。ガラスに映る自分の姿は健康体だった。この街に訪れるために、かつて己は全てを捨てて、尋常ならざる手法で、無理やり体を動かしたと、過去の知人から聞いた。そして、男は帰ってきた、と。ヤーナムでの出来事の一切を忘れた状態で。
自分が手にするものを飲んだ結果として、過去の自分がそこまでして臨んだという、健康な体を壊す価値はあるのだろうか。自問し、悩んでいると、視界の端に、何か青い花弁が散るのが見えた。咄嗟に追うと、それは床をすり抜けて消える。……どうやら、幻覚だったようだ。
それを見たすぐ後、脳の揺れるような奇妙な感覚がして、その感覚は不思議と男に『飲むべきだ』という確信を抱かせた。
――……会わなければ。会って、謝らなければ。
輸血液を割り、中身を経口摂取する様子を、不気味な男はニタニタと眺めていた。甘く、濃く、人を狂わせる味がした。彼はこれに狂ったのだろう。
「美味かったか? そうかそうか……ヒッヒッヒ……。獣の血は美味いよなあ……ヒッヒッヒッヒ。……また必要になったら、分けてやっても良いぜ。アンタになら、良い……」
不気味な男はそういうと、意味ありげに腕の包帯を巻きなおした。
――いや、もうここに来ることは無い。
男はオドン教会へと向かい、今度こそ怪しい男の住処を去っていった。
「そうかい。ヒッヒッヒ……連盟の長、ヴァルトール……良かったなあ、同士よ。ヤァ、よくも、虫に食われつくす前に、死ねたもんだ……ヒッヒッヒッヒ……」
最後に家主が何事か呟く声が聞こえ、振り返った男は、それを見た。扉が閉まりきるまでのわずかな隙間、そこから見える家主の男の眼球が、どろりと溶けた獣の瞳であったことを。
<●>21
血の岩購入-60
下等(まっとう)な生活数年-10
ヤーナム&上位者から大きく離れた-10
上位者の先触れの目撃+2
夜明けルート、どうあがいてもえっちな展開を入れざるを得ないシナリオ構成になってしまい、これハーメルンで別枠で投稿するの…? これのためだけに…??? なんとかエロ削れない…?????
と頑張っていたのですが無理でした。どうしてもエロ入れたい…やっぱ人間って獣だからさ…妊娠までさせてフロム二次やん…。
ところで私事なのですが春コミインテ受かってたのです(延期決定したけど…)。諸々(エロとかインテとか)詳しくは活動報告で!