――ヘムウィックの墓地の老婆たちは、一見するとただの人間のように見えた。
だが、そのような安直な考えは間違いなのだと、すぐに分かった。彼女たちが尊重されるべき人間などでは、決してありえないことも。
村のあちこちに吊るされた死体は、すっかり乾燥しており、新鮮な血を垂らすものはない。彼女たちがいつ獣に堕ちたのかは分からないが、この夜が始まる前より、非人道的行為を働いていたことは明らかだった。
男が死体から得た狩人道具の内、骨髄の灰はここを産地としており、血の性質を高める効果があるという。奇妙な特質の灰は、何に端して生まれたのだろう。その特性は、医療教会とはまた違うベクトルを持つ目標のための研究に思えた。
壮大な橋が、半ばで崩れ落ちている。遠くに反対の橋の欠片が、辛うじて見えていた。
――もしかすると、この橋の向こうに、血質を高める作用を求めるような、何者かが居たのかもしれない。
辻を通り過ぎ、男は廃れた館へと足を踏み入れた。
荒れた洋館内部には、木箱が転がり、据えた臭いが何処からとなく漂っていた。軋んだ床材を踏みしめ、館の中核を担う部屋へと侵入する。人に生理的な嫌悪を与える不気味な部屋であった。
ぬるり、と黒い影のような神秘が立ち上がる。男のすぐ傍で、老婆の笑い声が響いていた。
ヘムウィックの魔女は姿を消すようだ。垣間見えた瞬間の、人の目玉を幾つも取り込んだ人外染みたその姿に、男はある種の真理を見る。
啓蒙を得、ぐらん、と世界が揺れた。”瞳“――その輝きにこそ、神秘の鍵があるのだと、脳裏で囁きが聞こえる。
この魔女の手によって生み出される神秘は、しかし子供じみたものだった。あれではまるで飯事だ。男は知っている。もっと圧倒的な、吸い込まれるような、脳が震えあがるような――そんな神秘が、あることを。
男は少女の、宇宙のような色合いの瞳を思い出していた。かつてあれほどまでに美しいものを見たことはなかった。人間如き矮小な身では抗えない、渦巻くような……狂気にも似た……。そんな存在――あれこそが神秘。あの濃度の神秘が、この世には他にある。その考えが、確信的に男の脳を貫いていた。
本体は所詮、矮小な老婆だ。首を落とすため斧を振り下ろし、男は火炎瓶を痛みに呻く躯に放った。死んだ魔女が灰になるのを眺め、警戒を解かずにいると、男はすっかり慣れた感覚を得る。
この老婆は、間違えていた。それが男に明確に理解出来た。これは、男の”求める“ものとは違うのだ、と直観的に感じる。
老婆が間違えていたというのなら、これ以上の成果はここにはないだろう。期待せず、男は奥の小部屋へ進んだ。
部屋の中央には、椅子に縛られ、痛めつけられた狩人の死体があった。ミイラ化していない、まだ新しいものだ。男は死体が持っている狩人の道具を剥ぎ取り、手にした。きっと男の役に立つだろう。
――できればこの手で殺したかったが……。問題はなかろう。
この狩人を殺したのが、あの魔女であれば、遺志はおそらく、この男から老婆へと宿っただろう。
できればこの狩人が、少女を救う何かしらの一因を持つ狩人であれば良いのだが。
男が夢に戻ると、花に満ちた世界は変わらぬ姿で以て、男を迎えた。微かな鼻歌が墓地を賑やかせる。近づいた男が声をかけると、少女は微笑み、ふわりと髪を靡かせながら、振り返った。
「フフフ……よくぞ帰ったな。ああ、貴公の顔が、よく見える。貴公は随分と、優秀な狩人なのだな。遺志を宿し、血に飲まれず……しかし、獣からも遠ざかる。フフッ……」
男は、少女に猛烈に惹かれる自分を抑え込み、ゆっくりと傅いた。そして、散策する内に考えた、名を呼ばれる至福について想像する。
この小さな唇に自分の名を呼んでもらえれば、どんなに心地よいだろうか。この夜において、温かな血を浴びる以上の悦びが得られるに違いない。記憶のない男は、自分には訪れ得ぬ未来に焦がれながら、ならばせめて、と彼女の名を聞いた。
「私の名か? 私の名は、マールム。貴公以外には、誰も呼ばぬ名となる。……もはやこの名は、カインハーストに連なることさえ叶わないのだから」
少女は――マールムは憂鬱そうに、自身の体を見つめる。
「血族は何より、流るる血こそを重んじる。だが、私のそれは、とうに枯れ果ててしまったよ。……それに、他の狩人に聞いたのだ。カインハーストは、それ自体が既に……滅んでしまったのだろう?」
男が肯定すると、マールムは小さく吐息を落とし、辛そうに呟いた。
「女王アンナリーゼ……どのような目に遭ったのだろう。せめて、死を知れぬ彼女が、小さな肉片となっていないことを、祈ろう……」
◆◆◆
男はいよいよ、大聖堂の扉へと手をかける。変わらぬ忌々しさがこみ上げるが、啓蒙を得た影響か、なんとか苦い嫌悪を抑制することが出来た。
大きな門を押し開ける。静謐な聖堂は、オドン教会とは違い獣避けの香が炊かれていない。聖体の祀られる上層にも、煙のようなものは見られず、血の臭いもない。ここではまだ、誰も死んでいないようだ。
最奥の壁に建てられた祭壇と、そこへ向かって祈る女性が見えた。男が足音を殺し、武器を構え近づくと――彼女は丁度、獣性に呑まれる時を迎えているようだった。
大切そうに抱えたペンダントは、彼女が人であった時の名残だろうか。男は改めて、獣が人間と同じ文脈に在ることを実感した。ぶわり、と邪魔なものを押し飛ばすようなプレッシャーが、頭にかかる。そうして啓けた啓蒙により、思考が冴える感覚と共に、男は新たな知見を得た。
人の内には、元より獣がいるのだ、と。
――聖職者の獣を、男は再び狩り殺す。断末魔の叫びと共に、獣は灰となり、その場には血痕だけが残った。
しかし……聖職者こそが最も恐ろしい獣と変貌してしまうとは、救い難い話だ。人という生き物はみな獣を宿しており、その中でも聖職者は、それを神への信仰によって強く自制し、留めることが出来るのだろう。
その自制の力が大きければ大きいほど、拮抗する獣性も高まり、やがて獣と成り果てた時にこそ、その者の信仰への敬虔さが現れる。即ち、獣性への嫌悪こそが重度の獣化を引き起こすということだ。
啓蒙により思考が閃き、視野が照らされていく感覚が、まだ残滓として脳に残っていた。これは深く心地良い感覚である。そしてその度に、聖職者でもない男の獣性は、表へ出なくなってゆく。これは一体、どういう訳だろう?
理性が強くなったのだとすれば、男は聖職者以上の力で、獣性を抑え込んでいるということだろうか? いや……男にそのような理性はない。男は今、月を眺める少女、マールムだけを我慢している。それだけだ。それ以外の全てを、思うままに行っていた。
考えられる可能性として……或いは、獣性自体が失われている、だとか。しかし、それはありえないことだ。何故なら、人は元より獣なのである。その獣性が失われている、ということは……。
それはつまり――人間から離れているということだ。人間でも、獣でもない何かに、近づいていることになる……。
これ以上は、今の男では理解出来ない。一度思考を断ち、獣が握りしめていたペンダントを拾い上げた。
それをポケットへと滑り込ませ、祀られた頭蓋へと気を惹かれ手を伸ばす。
奇妙なことに、獣の頭蓋に残る持ち主の記憶が、男を過去の時間へ導いた。
――かねて、血を恐れよ。
男は口内で呟き、体中に浴びた血を嗅いだ。心地良くはある。確かな快楽と、喜びがそこにはあるのだ。敵の臓腑を握り潰し、引きずりだした際の、あの痛みに痙攣する生き物の体は、とても暖かく愉快だ。
だが、それよりももっと、男を惹きつけるものがある。
男は恍惚として未来に思いを馳せ、少女の救済へと一歩近づいたことに悦んだ。
血の記憶が教えてくれる。あの獣――教区長エミーリアは、この血の医療に呑まれた街の聖職者である。それも高位の。きっと、多くの輸血を受けただろう。
――もっと、もっとだ。彼女の微笑みを、彼女の関心を、彼女からの寵愛を!
あの少女の、白く滑らかな皮膚に唇を落とす権利が欲しい。歩かないからこそ柔らかい足の裏を労わり、小さな体を抱き上げ、彼女の命に従い、何処へでも連れて行きたいのだ。
朝が来るまでに成し遂げなければならない。彼女と出会えるのは、夢の中だけだ。夢は、夜にしか見られない。
気が急いては事を仕損じる。分かってはいるのだが、一刻も早く、彼女を手に入れたい。彼女の心を、体を、全てを自分だけのものに。他の誰にも渡したくなかった。
彼女の寵愛は――彼女の“瞳”は、男にだけ与えられるべきものなのだ!
<●>24
魔女と接敵+1
魔女を撃破+2
エミたんと接敵+1
エミたんを撃破+3
幼年期の終わりオマージュ説スッキです。
人類はゆっくり進化して上位者になろうとしているから、進化前の旧人類ヤーナムの女王の血は、上位者エブたんの血で進化しようとしている医療教会の血の救済を汚すし侵すのか。
上位者の子供を産めることと、上位者になることとは全く違うことだし、苗床ヒューマンが上位者に肩を並べる みたいな感じなんだろうか。