或いは、あなたが共にあれば   作:ぱぱパパイヤー

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月知らぬ仔、マールムは大体14、5歳くらいの体です。


第五話 月-狂気

 エミーリアの遺した血痕を踏みにじり、男は悦に浸る。月光を曲げたステンドグラスの光が胸糞悪かったが、この場所は入り口が一つしかなく、隙が無い。その気の緩みが、男の本性を神の前に曝け出させた。

 

 本心では急ぎ夢へと戻りたいところだったが、大聖堂を出てすぐの場所、あれほど暴れていた大男たちが、まるで何かを悼むように項垂れていることに気づき、男は足の向きを変えた。何が理由のものかは分からなかったが、街に他の変化があってもおかしくないと考えたのだ。

 

 この辺りは既に一度踏破した場所ではあるが、もう一度、隅々まで見て回ることにした。夜も更け、視野も不明瞭である。月光が気まぐれな雲に遮られると、辺りは闇夜に包まれる。男は松明を手に、再び散策を始めた。

 

 大きな道を避け、迂遠なルートで街を回り、広場にまで至る。ここまでの道中もそうであったように、そこには大男たちが座り込んでいた。彼らは聖堂街の道の殆どを塞ぐように立っていたが、夜にはその役目を果たせないらしかった。大男らが祈るよう座り込むこの広場には、多くの墓――そして、彼らに殺されたと思しき、市民の死体――があった。

 

 墓地街であるヘムウィックではなく……この広場や、オドンの地下墓然り、丁重に葬られる人間とは、いったいどんな者たちだったのだろう。

 

 医療の発展は犠牲失くしてありえない。だが、医療教会に非道な目に遭わされたと実際に語る被害者を、この街の誰も聞いたことがない。……それこそが答えだろうか。被験者と、その秘密を暴こうとする者たち全ての口を封じるとなれば、その数は膨大だ。わざわざ、弔って等いられぬ程に多いに決まっていた。順当に考えれば、整然と見事な墓石を用意され、ここで安らかに眠るのは、権力者たちになるのだろう。

 

 男は次に、つま先を住宅街へ向けた。あちらは、聖堂街とは言いつつも、ヤーナム市街よりも下層にある。下水の臭いやスモッグが酷く、あまり長期に滞在したい場ではなかった。

 

――そのはずだったというのに。場にそぐわぬ甘い匂いが、ふわりと男の鼻腔をくすぐった。

 

 男は自身の脳が震えるのを感じ、歯を食いしばって眩暈を耐える。何だ、この匂いは。好奇心からか、匂いに寄せられてか、彼はふらふらと奥まった家屋へと近づく。

 

「あら、あなた、おかしな香り……」

 

 女の声が、聞こえる。それは蠱惑的な声で、姿も見えぬというのに、男を手招く娼婦の様子が脳裏に浮かんだ。

 

――同じ、だった。その香りは、マールムのものと、とてもよく似ていたのだ。

 

 マールムを思い起こさせる甘い匂いに、男は内ポケットの花飾りを確かめるように握りしめた。安全な場所を求める彼女に、気が付けば男は、オドン教会の名を挙げていた。

 

 

 

 男は速足で、もう一度大広場へと戻った。歩幅は広く、彼が平静でないことが誰の目にも見て取れただろう。その足は、大男の横を通り抜け、ビルゲンワースを守るという、合言葉の門番の元へ。

 

――あの娼婦の女性への己の行いが、燻り続けていた。

 

 彼は、心中でいつまでも引っかかる後ろめたさを感じていた。マールムとは何の関係もないはずだが、その感情はマールムに対する背信の罪悪感――いや、少女へ不義理を働いたような錯覚による、自身への不快感に近いか……。

 

 天に浮かぶ神秘の月に焦がれる身の上でありながら、地に咲く月下美人にそれを重ねるなど、不作法、無粋の極みである。あまりに、愚かな所業であった。

 

 自己嫌悪を催しながら階段を下りていくと、そこには数時間前にも会ったアルフレートが、変わらぬ様子で立っていた。彼は殉教したという師の話をし、穢れた血への隠しきれぬ殺意を滲ませていた。

 

 穢れた血……カインハーストの血統は、かつて少女マールムが連なったという一族だ。そのルーツはビルゲンワースにあるのだと彼が言う。男が学び舎へと行く理由が、また一つ増えた。

 元より、血の医療の原点だというビルゲンワースへは強い興味があったのだ。かの神秘の学舎であれば、「青ざめた血」のことも何か知ることが出来るだろう、と。

 

 男は頭蓋より盗み聞いた合言葉を告げると、崩れた塔へ足を踏み入れた。

 事切れた番人の守る関所は、すっかり苔に侵食されており、足を滑らせぬよう男は慎重に下った。ただでさえ、獣の血に塗れた体なのだ。全身が濡れそぼっていて、じっとりと鉄の異臭が纏わりついていた。しかし、アルフレートも男も、それが変だとは思わないのだった。

 

 螺旋階段を下り切ると、昏い森の切れ目から見える輝かしい月が、男を照らす。見惚れて立ち止まり、それを眺めた。

 

――嗚呼、美しい。

 

 あれは、決して手に届くことのない、人の身には遠すぎる女神だ。男は、森の中に見えた灯火を前にして、二の足を踏んだ。彼は今、自分が夢に戻るべきかどうかを、躊躇していたのだ。

 

――かねて、血を恐れよ。

 頭蓋の記憶だけでなく、マールムも一度、男に告げた言葉だった。

 男にとって血とは、そう中毒性の高いものではない。だが、中毒性、依存性という一点のみで言うのならば、男にとっての「恐れるべき血」とは、少女のことなのかもしれなかった。

 男は、自身が過剰に、盲目に、マールムへと傾倒していることに、自覚的だった。

 

――聖堂街にて再会した際の、烏羽の狩人アイリーンによる忠言が、男の中で刹那に蘇った。

 聖堂街で出会った烏そのもののような彼女は、狩人を何人も手にかけたような不吉な口ぶりだった。男はそれを聞き、たちまちの内に嫉妬と焦りの念に駆られたのだ。

 男はすぐに尋ねた。夢の中で、少女と出会ったことはあるか、と。

 

「ああ、もちろん会ったことはあるさ。話したことも、柄にもなく、物を贈り合ったこともね。……なんだい、何か意外なことでも、あったってのかい」

 

 彼女はす、と顔を逸らし、ペストマスクのような烏を、男から背けた。

 

「……一部の狩人の間では、有名さ。あたしも、昔先生に教えてもらったもんだ。恐らくは、あの子を解放するのは、”あたしたち“の誰かになるってね……」

 

 ――そんなことはありえない! 何故なら、彼女を救うのは、他ならぬ自分なのだから!

 

 男は自身が殺気立ったことを自覚すらしていなかった。それほどに、爆発的な怒りだった。だが、その殺意に、アイリーンは刃物を構えることも、睨み返すこともなかった。彼女は呆れたように首を振るだけだった。

 

「あの子に関わる――特に男は、いつもそうなる。何故だろうね……。なんにせよ、安心するといいさ。あたしは……もう、あの子とは会えないのさ。もうずっと長いこと、夢を見ちゃあいない」

 

 心配の芽が断たれたと分かると、途端に憎悪が引いていくのを感じる。いからせた肩を下ろし、体から力を抜くと、ほんの僅か前の自身の情動に、男は我がことながら目を見開き、驚いた。

 そうした動作からか、男が落ち着いたのを見て取り、アイリーンは変わらぬ平坦な声で続けた

 

「気持ちは分かるさね……だが、あんたも気を付けることさ。あの子を救おうとするあまり、血に溺れればお終いだ……あたしのように、夢に戻ることも出来なくなる」

 

 彼女はその烏のマスクを男に向け、男の持つ斧から滴る獣血を認め、数秒の沈黙を保った。

 

「あんたが獣を狩るのは構わないさ。狂った狩人を殺すのも、ね……。ただ、それが何の為かは考えな。よそ者の上、初めての獣狩りの夜がこんなだ。おかしくなるのを咎めはしないがね……」

 

 男は雨の下を外套も無しに歩いた時のように、ぐっしょりと全身が血に濡れていた。彼はそれを気にも留めていなかったが、確かにこれは、当たり前のことではなかった。尋常な者であれば、嫌悪すべきことだ。最初は男もそうだったはずだ。……だというのに、男は、いつから気にならなくなったのだろう。

 

「もしもそれが、あの子の為なら……あんたはあの子に狂わされちまっているのさ。何人も同じようなのを見てきたあたしからの、忠告さね。……ああはならない方が良い。奴ら、男の風上にも置けやしない。年端も行かない娘に魅了されて、みっともなく女狂いになって……。血に溺れて、無様に死ぬんだからね……」

 

 アイリーンの声色には、明らかな侮蔑が混ざっていた。

 確かに、マールムは少女だ。男は彼女に焦がれ、惹かれていたが、彼女は豊満な肉体など持たぬ、若木のような少女であった。それに欲情する男は、稚児愛を拗らせていると侮辱されようと、反論の余地などない程に、彼女は幼い。

 

 それでも、あの言い知れぬ色香を知る身としては、狂う者が居るというのも、あり得る話だった。自分は、燃えるような劣情を催した時、なんとか思い止まることが出来たが、止まらなかった者も、居たに違いない。

 その後、彼女に狂い、狩人を殺して回ったか。彼女を求め、自害を繰り返したか。どうなったのかは想像に過ぎないが、無残な破滅をした狩人が、多く居たのだろう。

 

 だが、男には、自分はそのような他の狩人とは違うという自負があった。彼がマールムに惹かれたのは、彼女が何かをしたからでも、彼女が美しいからでもない。その点で、男は全く、他の狩人とは一線を画しているのである。この恋は、これ以上ない程に純真なものなのだ。

 

――何故なら自分は、彼女の瞳にこそ、恋をしたのだから。

 

 彼女がどんなに醜くとも、どんなに悍ましくとも。

 手足が幾つあろうが、体が触手で埋め尽くされていようと、瞳が何対もあったとしても――いや、それは寧ろ素晴らしいことだ。男は悦びさえ覚えるだろう。

 

 どんな彼女であろうと、男は必ず、その瞳に恋をするのだから。

 男が断固とした口調で――自分にはそのような破滅はありえない、と言い切ると、アイリーンはそれを信じたか、信じなかったのか、言葉少なに、狂おうが越えてはならない一線は守ることだ、と述べた。

 

 男は憮然とした。何を言うのだ。まるで、人が狂った狩人であるかのよう。彼は、彼女の異常な香りに呑まれ、狂気的に抱き犯すこともしないし、血に酔うことも、獣性に病むこともない。

 だから男は、ただ――正気のまま、普通の人間がそうなるように、恋に堕ちただけである。

 

 今、目の前の強者に対して、相手はどんな武器か、隙を突けば勝てるか、今の自分では勝てないだろうか……と、相手を殺すことばかり考えているのも、恋した可愛い娘のため。単純な好意の発露に過ぎなかった。

――語弊のある表現かもしれないが、もしも男が聖歌隊の者に同じ熱量の恋をしてさえいれば、この夜彼は、メンシス学派を根絶やしにするための殺戮を、同じように行っていただろう。

 

 男は正気である。これは彼も重々自覚しているところであり、その一方で、人を殺すことも血に塗れることも、尋常ならざる行いであることは分かっていた。だが、そうした倫理に悖る行動をする以上、男は発狂こそしていないが、まともではない。だが、それも仕方がないことなのだ……。

 男の脳裏には、マールムの瞳が浮かんでいた。

 

 こちらを見つめる彼女のあの瞳。海よりも深い、深い、とても深い青をしている。藍にも見え、まさしく宇宙の写し絵である。

 

 真に、美しい。

 

――それだけだ。だが、それと「青ざめた血」しか持たない男には、それだけで十分だった。

 

 この恋がこれ以上、時と共に強まることを恐れ、男に夢へ戻ることを躊躇わせるに、十分過ぎるほどの美しさだったのだ。

 




<●>24

ウィレーム先生は、動物の自然な進化方法の延長で上位者になりたいので、「血をもって人を失う」のはご免なんですかね。

上位者の血を入れたら、上位者モドキ(しかも上位者ではない)であって人類じゃないし、人類として次のステージに行きたいのかも…。
アウストラロピテクスに現代人の血を入れても意味ない的な…。

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